これは、2万年ぶり(※)に【名探偵コナン】に再燃している人間が書くコラムである。
(※)…「非常に長い間ぶり」の比喩である。
この再燃は、おそらく【劇場版 名探偵コナン ハロウィンの花嫁】(以下【ハロ嫁】と略す)の公開に合わせて公式がYouTubeで提供し始めたプロモーションの成功例のひとつ(※)だろうと思われる。【ハロ嫁】も観に行った。ちなみにこのコラム内では【ハロ嫁】の話題は触れてないしネタバレもないのでそのあたりはご安心いただきたい。
(※)2022年5月~6月、こちらのYouTubeチャンネルには「安室透セレクション」や「高木♥佐藤 恋する刑事セレクション」というコンセプトで毎日過去回がアップロードされていた。その幕間には【ハロ嫁】CMが挿入され、また開放されたコメント欄には【名探偵コナン】に心を寄せる人たちの活発な意見が可視化されていた。筆者はひょんなことからこのYouTubeを閲覧するようになり、自身の中の【名探偵コナン】に関する興味が再燃していったこと記憶している。
筆者が以前【名探偵コナン】を熱心に読んだり観たりしていた時は、筆者はまだ「自分はごくごく一般的な日本人」という自己認識で生きていた時代だった。現在は、いわゆる『キリスト教徒』という、現代の日本においてはやや嫌厭される属性付きの人間になっ(てしまっ)た。
「特定の宗教の信者になる」ということと「特定の宗教を信じているわけではない」と自認しながら生きることとどのような違いがあるのか、というのは、信じた先の宗教によってややも変わってくるので一概には言えない話しだと思う。ただ、少なくとも「その宗教の提示する世界観や、それに準ずるものの見方で物事を解釈しようとするようになる」くらいの認識をしていただければ、このコラムを読むにあたっては問題ないはずだ。
そしてこのコラムでは『キリスト教の提示する世界観の一端』に触れることになるのだが、もう少し体系的に俯瞰した情報から『既存、伝統的なキリスト教の世界観』を知りたい方はこちらの動画など参考になるかもしれない。
ということで【名探偵コナン】は、筆者の以前の世界観~現在の世界観を貫いた作品であり、そのことについて色々と考えを巡らせていたら「以前の筆者なら言語化できなかったであろう」ことがいくつか言語化できそう、かつそれにいわゆる『キリスト教』なるものの存在が深く関わっていると感じたため、ここに書き記すこととする。
このコラムの結論をはじめにまとめておく。
キリスト教の世界観とその法則をこの世界に適応すれば、「創作キャラクター」の実在の可能性を考えてもよいし、「神」の祝福は、〈〇〇からしか摂取できない栄養がある〉と感じる人たちにとっての〇〇を包摂するだろう。
ーちなみにこれは、筆者自身が現時点で抱いている信念と信条を覆すものであるー
【名探偵コナン】については、このコラムのほかにも複数語ろうと思うので、気が向いたらご笑覧頂きたい。
→【名探偵コナン】と『アトムの命題』~この物語、この映画群たちとの付き合い方
→キリスト教と【名探偵コナン】をつなぐもの~ミステリー史とアニメ史~
→〈江戸川コナン/工藤新一〉〈毛利蘭〉の発言に見えたキリスト教の精髄~成人洗礼型キリスト教徒の価値観の変遷~
→〈安室透/降谷零/バーボン〉の担う「メシアのミーム」について~「僕の恋人はこの国さ」と同じ成分が摂取できる聖書の物語についての幾つかの考察~
→公安とキリスト教と「僕の恋人はこの国さ」~日本における特別高等警察と宗教弾圧~
→〈安室透〉非公式カップリング二次創作のコンテクストから摂取できる「死と復活」の物語~あむあずユーカタストロフ~
→警察学校組IFを補助線に~人類に膾炙する「予定説」の誤解について~
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目次
前提:ライターと【名探偵コナン】や二次創作作品との距離感について
さて、本題(〈新一×コナンあるいは安室の女〉祝福説の詳細)に触れるあたって、筆者と【名探偵コナン】というコンテンツの距離感(個人史)を語りたいと思う。本題と関わっているので一応詳細を書いてみるが、いきなり本題を読み進めたい方は次の見出しまでスキップしていただいてかまわない。
「キリスト教 〈新一×コナンあるいは安室の女〉祝福説」に飛ぶ
生活に溶け込んだ「国民的アニメ」という認識から、二次創作を自発的に摂取しに行く立ち位置コンテンツになる変遷
1989年(平成元年)生まれの筆者(と、筆者の姉)は、【名探偵コナン】をリアルタイムのテレビアニメ放送で視聴した。そして『ナニコレ面白い!』と思い、以降【名探偵コナン】は「発売次第購入するマンガリスト」に入るようになった。
映画も5作品くらいまでは劇場で観ていたし、コナン作品中でも屈指の人気を誇る〈怪盗キッド〉が主人公の青山剛昌先生の過去作【まじっく快斗】も既刊分購入して読んだ。
ちなみに、【名探偵コナン】の主人公である〈工藤新一〉が愛してやまない「シャーロック・ホームズ」もいくつか読んだ。
生活環境の変化から単行本の購入は自然と行わなくなってしまったが、この【名探偵コナン】というコンテンツが知らず知らずのうちに「国民的アニメ」という立ち位置を不動のものにしていったこと、また人類の救済の技法の一つであるインターネットの普及のおかげで、単行本を購入せずとも物語の展開をなんとなく把握することができていた。
そうして、2018年ごろに社会現象的沸騰を見せた〈安室透/降谷零〉ブームにより、1万年と2千年ぶりに【名探偵コナン】を身近に感じることとなった筆者は、さらに8千年遅れの2022年春に〈京極真×鈴木園子〉(以下、〈京園〉と表記)や〈安室透/降谷零/バーボン〉に関する二次創作を閲覧するためにPixivの沼に深く身を沈めることとなった。
筆者自身は「原作設定の延長線上だと解釈可能」な二次創作を好む
筆者はこれまで【名探偵コナン】の二次創作を閲覧したいと思う、ということがなかった。
それというのも(もちろん【名探偵コナン】そのものが「国民的アニメ」的特色を有したコンテンツであることもあるだろうが)筆者にとって【名探偵コナン】はあくまで「推理・ミステリー エンターテイメント」として受け取るのが妥当なシロモノであり、筆者自身の好む二次創作の傾向が「原作設定の延長線上だと解釈可能な作品」であるため、だと理解している。
今回の筆者の【名探偵コナン】再燃も、【ハロウィンの花嫁】プロモーションの成功例ではあると認識してはいるが、そもそもの入り口は〈京園〉からの延焼である。この2名のキャラクターはいわゆる「公式カップル」だ。
(いっそ笑いに振り切っているものはそれはそれで好きだが)
この辺についての詳細は、別コラムにもまとめたいと思っているので、気になる方はお待ちいただきたい。
→名探偵コナンと「アトムの命題」のコラムのリンク挿入予定
→〈安室透/降谷零/バーボン〉の担う「メシアのミーム」について~「僕の恋人はこの国さ」と同じ成分が摂取できる聖書の物語についての幾つかの考察~
→〈安室透〉非公式カップリング二次創作のコンテクストから摂取できる「死と復活」の物語~あむあずユーカタストロフ~
筆者が過去唯一感想メールを送るまで心打たれた二次創作作品は夢小説であったのだが、
それは個人のウェブサイトであり、つまりそれに感想を送るということはそのためにメールアドレスを使ってあいさつ文や締めの文を自ら考えるということでありーPixivでコメントするより少々ハードルが高い所業であることをご理解いただければ幸いである。
その作品というのは夢小説のなかでもキャラクターの読み解きが丁寧に行われている部類で、かつ、原作コンテンツそのものが「ユーザー(「マイユニット」的立場)」という立場を想定してよいコンテンツだった。
そのコンテンツが忘れられなくてそのほか夢小説も色々とめぐってみたのだが、その後勉強したのは、「夢小説」というのはそもそも原作に登場しない人物が中心人物として据えられて展開し、主に恋愛ストーリーが展開するため、そもそも恋愛ストーリーが主題ではない原作作品の二次創作においては「原作設定の延長線上で解釈に無理のない夢小説」というのは稀有なシロモノだった、ということである。
そんな中見つけた〈新一×コナン〉というジャンル
そう、ここまで、筆者が好きな二次創作というのが「原作設定の延長線上であると解釈可能な作品」であることを述べた。
そんな中、筆者は〈新一×コナン〉(以下、〈新コ〉と表記)というものを見つけることとなる。正直『さすがに原作設定から遠すぎでは…?』と思った。違和感を抱かなかった、と言えばウソになる。
というのも―【名探偵コナン】を知っている人ならわかるかと思うが―これはつまり
「本人同士」かつ「BL(ボーイズラブ)」
という、
二重三重の「原作設定からは遠い要素」
で構成されており、もはやここまでくると「これは【名探偵コナン】の二次創作なのか…?」と問うていい事柄ではないか、と思ったのだ。
原作では、江戸川コナンと工藤新一は同一人物であり、彼は異性愛者であり、現在の想い人/恋人は「毛利蘭」という作中キャラクターとして存在する。また、「名探偵コナン」の物語の世界観には、薬による幼児化現象はあっても同一人物の分裂といった現象はいまのところ観測されない。
が、それを【名探偵コナン】の二次創作としてなにかしらの形にして発表しているということは、この人にとっては〈新コ〉からしか摂取できない栄養素がある、からこれを作ったのだろう、とも思った。
そこで、キリスト教徒の私の思索はこんな方向に向かうことなる―――
天国には〈新コ〉が存在するのだろうな―
――という方向に。
2次元のキャラクターの“実在”を説くキリスト教徒の宗教研究者の存在
もう少し丁寧に言うと、
この世界の創造主たるの神の祝福は「〈新コ〉からしか摂取できない栄養がある」と感じている人にとっての〈新コ〉を包括した祝福である
ということである。
これは私の個人的な妄想の範囲ではあったが、ある宗教研究者が解説していた「聖霊論的反転による二次元のキャラクター実在説」がこれに通じると思ったため、以下引用してみる。
なんなら、このコラムはもう読むのをやめてこっちのNoteを読んでくれた方が50万倍くらいためになる、とは思うので、そちらに飛んでくれてもかまわない。
正直に、踏み込んで言おう。ぼくは、小説やアニメ、映画の中の登場人物の実在を認めたい。世界各地に残る神話のキャラクターたち、空想の産物とされてきた怪物や魑魅魍魎、妖精と妖怪たちの実在を認めたい。なぜなら彼らもまた人類の想像力の先にいるからだ。彼らはフィクションかもしれない。しかし、究極的な意味における「実在」とは何なのか。その語に人間は耐え得るのか。むしろ聖霊論的反転という歴史的基礎のゆえに、あらゆる存在が仮現的であるのではないか。
(引用:「ぼくの考えた最強のキリスト教」波勢邦生note)
たとえば事故で亡くなった彼が生き、代わりに自分が死んでいる世界の可能性、あの角を曲がらなければ会わなかった伴侶に出会わなかった人生である。ぼくは、キリスト教は、これらの可能性を含む世界をも包摂し祝福する宗教だと考える。
(同上)
福音はあらゆるものと混合し、変化し、分離し、分割される。福音がカルケドンの否定辞をポジティヴに反転して無限増殖する世界に、ぼくらは生きている。従って、教派が複数あることは全く正当であり、あらゆる混淆形態も容認される。
(同上)
裏返していえば、キリスト教の救いとは、聖霊論的反転による歴史的可能性への開きを意味している。誰もがキリストでないがゆえに、キリストとは違う在り方と方法で「キリストに似る」のだ。特異点の非特異点への全時空的適用―――教理用語でいえば、聖定論としての予定と贖いの契約、それは創造と摂理と呼ばれている―――こそ、聖霊論の内実である。従って、キリスト者か否かを問わず、全人類のあらゆる可能性が聖霊にかかっている。
要するに、
二次元キャラ実在論は、聖書にこそ明確な記述はなけれど、キリスト教の考え方とその法則をこの世界に適応すれば、その可能性を吟味してもよい事がらではないか――
ということ、である。
もうお分かりいただけると思うが、ここまでの論を踏まえると、いわゆる〈安室の女〉(※)も、ひとりひとりの〈安室の女〉が安室の女として祝福され得る世界線を望んでいいかもしれない―――わけだ。
※〈安室の女〉とは、『〈安室透/降谷零/バーボン〉”というキャラクターにとりわけ魅力を感じる人たち』のことを指している。ご理解いただけると思うが、この嗜好をもつ人が必ずしも生物学上の女であることや性自認が女であることを指しているわけではないし、それらの人たちが実際にどういった行動様式を持っていくのかはここから詳細に分類分けされることは周知のとおりである。
―――キリスト教の世界観というのは「この世界で迫害されるもの・取り沙汰されないもの価値が神により反転させられる(どういう仕組みかはさておいて)」という世界観を常に含んでいる―――
ことも踏まえ、
―――たとえ原作者が嫌厭しようとも、この世界の創造者は、被造物のすべてを祝福するだろう―――
ということを、『聖書』にて『山上の垂訓』として有名な福音書の一部をオマージュしてこう表現しよう。
「〈新コ〉という極小ジャンルを愛する者は幸いである、天国は彼らのものである。」
「〈安室の女〉としての想像力の強さゆえにこの世で迫害されている者は幸いである。彼らは慰められるであろう。」
『マタイによる福音書』5章3から7章 27までに記されているイエスの山上での説教。『ルカによる福音書』6章 17に現れる「平地の説教」との類似から,両福音書の編者が共通の資料を有していたこと,山上の垂訓がイエスの説教の集成であることがわかる。旧約聖書の律法や預言を廃するためではなく成就するために来たものとしてイエスが説いた中心テーマは,神の国の義についてであった。
(引用:「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「山上の垂訓」の解説」コトバンク)
→マタイによる福音書5章~(新共同訳)
→マタイによる福音書5章3節~(口語訳)
…である、と。
筆者自身は、〈新コ〉といったカップリングの二次創作は好まない(※)し、筆者の〈安室の女〉としての想像力も、ごく凡庸なものである。
が、厳密に言うと、かつて筆者が感想を送った〈原作設定から逸脱しない夢小説〉に対する感情も、人間の想像力の賜物という点において〈新コ〉や、「ワイは降谷零(安室透/バーボン)にガチ恋しとんのや…」という感情と変わらないはずだ。
そして、筆者が今Pixivで好んで閲覧している〈京園〉だって、ましてや筆者が原作やそれに準ずる公式的コンテンツを「面白い」と思う気持ちも、それが人間の想像力の産物である以上、「被造物のすべて」を愛そうとしている創造者なる神の御前では誤差の範疇、かもしれないのだ。
一応補足したいのが、筆者が「原作で異性愛者として設定が行われているキャラクターたちが異性愛者として描かれるのを好む」&「公式カップリングを好む」のにキリスト教の影響はさほどない、ということである。ちなみに、キリスト教そのものが「とみに”同性愛”なるものを忌避する思想か?」という見解については、「現代日本人キリスト教徒は必ずしもその文脈を受け継いでいない。」と考える。(筆者の現状の『罪』とかいうことに関する見解は、こちらの動画の1:08:08~で語られているスタンスに共感する、とだけ添えておこうと思う。)
筆者は成人してから教会に通い始めたり聖書を読み始めたりしたタイプのキリスト教徒である。(ちなみに洗礼を受けたのは24歳の時であり、これは一般的にそれなりに趣味や嗜好がそれなりに固まっている年齢だと考えている)。親族にキリスト教徒を自認している人間はいない。家庭の思想はわりとリベラルでノンポリ的で、婚姻関係にない人間同士の性交渉というものに特段タブー感を持っていなかったし、現在もそれはさほど変わっていない。
(筆者はいわゆる「仏教」の寺院の子どもだったのだが、現代日本の仏教施設に勤める宗教者の思想というのはこれまた千姿万態で、その家族に対する教育方針というのも「人の数だけある」状態だと思われる。我が家は今思えば”リベラル”で”ノンポリ”という表現がしっくりくる家庭だったと認識している。)
(ただし、現在の筆者の個人的な意見は、現実世界での「婚姻関係にない人間同士の性交渉」のリスク管理の大変さには思うところがあるため、個人的には忌避すべき事柄だと思っており、それを忌避するためには確固たる意志の必要性を感じている。しかしながらそれは個人としての信念の話しであり、他人に適応する気はない)
思春期に読んでいたアニメ・マンガ雑誌「アニメージュ」や「ファンロード」には非公式カップリングのBL描写があふれかえっていたし(非公式GLもあったことは添えておくが、BLが圧倒的多数だった)、むしろ「非公式カップリングBLを楽しまなくてはオタクとは呼べない」くらいの空気感すらある界隈で生きていたと認識している。それらの期間を経て、インターネット上で「それらはオタクにとって必須事項ではなく、それらを好まないオタク界隈も存在する」と知ってから改めて己の好みを省みてみたときに、「私は公式設定が異性愛のカップルによるカップル描写が好き」という理解に至った。
個人の好みなるものが、宇宙に“純粋”に存在するものではなく周囲の影響や様々な要因がまじりあって形成するものである以上、「人間の本来の好み」であるとか「純粋な好み」といった表現は陳腐なものではあると思うが、一応、「私の好きな食べ物は桃とたこ焼きと餃子で、苦手な食べ物はレーズンとグリーンピース」という、小学生のときから特段変わらない嗜好としてあるものと同レベルで、「私は公式設定が異性愛のカップルによるカップル描写が好き」だと思う。
また、「サブカルチャーにおけるBL・GL表現を好む人たちは、この世界に生きるホモセクシュアルやレズビアンのよき理解者である」という主張もあるのは知っているが、『別にそうは思わない』派である。しかし本論とズレるためここでは深く話さない。
―キリスト教は、これらの可能性を含む世界をも包摂し祝福する宗教だと考える。―
つまり、
―キリスト教は、〈新コ〉からしか摂取できない栄養素を愛してやまない人たちにとっての〈新コ〉を包摂し、祝福する宗教だ―
あるいは
―キリスト教は、〈安室の女〉としての想像力からしか摂取できない栄養素を愛してやまない人たちが〈安室の女〉としての想像力を発揮している世界線を包摂し、祝福する宗教だ―
そしてそれは、
―キリスト教は、あらゆるフィクションやキャラクターやそれらにまつわる想像力の産物を、“それからしか摂取できない栄養がある”と感じてそれを愛する人たちを包摂し、祝福する宗教だ―
つまりは
―あらゆる喜びを包摂し、祝福する場所、それが「天国(神の国/神の支配の及ぶところ)」である―
と言うところにまで及ぶ、と筆者は思う。
『天国』というものが一体なにであるか、というのは、キリスト教徒の中でも「自分たちが何を信じていると思っているのかわかっていない」トピックである。それが、この世界において行われることなのか、別の次元みたいなところでなされるのか、死後の世界の話なのか――しかしながら、それらをもっとも抽象化して言語化したポイントを『天国とは、神の支配の及ぶ場所である』…くらいに抽象化した表現であればかなりの数のキリスト教徒と合意がとれるのではないだろうか。このへんについては鋭意学び中であるのでご容赦願いたい。
当然ながら、ここで〈新コ〉〈安室の女〉という語を中心にこの論を展開しているのは、例えとして限りなく適切だと感じたから用いたのであり、この話はなにも〈新コ〉〈安室の女〉現象に限ったことではない。
「〈赤井秀一×安室透〉からしか摂取できない栄養素を愛してやまない人にとっての赤安」
でもかまわないわけだし、
「〈世良真純×灰原哀〉からしか~」
とかでもかまわないし、
もっと言うと【名探偵コナン】に限ったことでもなく、それは【鬼滅の刃】というコンテンツを中心に展開される想像力の産物でもかまわないわけだ。
私は、キリスト教に関する思索によってクソデカ感情が芳醇になる体験をしてしまった
多くの方々が、とくにサブカルチャーに造詣の深い方々は『一神教』というシロモノが自分たちの内面を豊かにしうるものであると考えられないと思う。
たしかに、『禁欲的な生活態度をとることがキリスト教徒としてのつとめ』だと主張するキリスト教というのもある。しかしキリスト教は言っても2000年程度の歴史があり、文化的に混淆しては分離してまざりあって増えて今日に至る宗教なので、ひとことで『キリスト教』といっても、かなり幅があるのが実際である。
というか、それはこの国における仏教と呼ばれる宗教も神道と呼ばれるものもそうなのだろうが。つまりは誰かが『キリスト教』という言葉を使ったとしてもそれは千姿万態であり、同じものを指しているつもりでも全く別のものを思い浮かべている可能性を考えつつコミュニケーションをとらなければかなり大幅なすれ違いを起こす事がらであるということを認識しておいたほうが誠実な分類のやっかいな単語である、という認識を共有しておきたくてこの一文を記した。
そして、日本人は、西欧で発展した既存のキリスト教に必ずしも接続されていない立ち位置にあるので、変えて良い部分に関しては無理に受け継がなくてよい、という論に筆者は同調する。
(そこの見極めはそんなに容易ではないことを痛感しながらニーバーの祈りなどをかみしめている身ではあるが)
クソデカ感情!
〇〇からしか摂取できない栄養is尊い!!
語彙力()!!!
…といった感情と『神の祝福』がつながっている
となれば、キリスト教という補助線を用いた思索は、我々オタクの内的愉悦をより豊かにしてくれるはずだ。
恐れを退けて言わせて頂くと、筆者自身は、自分のうちのそういった面がキリスト教との邂逅によってより芳醇になってしてしまった人間である。
それらについて書いている(つもりな)のがこの「いつかみ聖書解説」というウェブサイト全体なのだが、とりわけ【名探偵コナン】に接続して筆者なりに言語化したコラムがこちらである。
→新一/コナン(時々 蘭&平次の母)の名言から「キリスト教の精髄」第1章が抽出できた件【名探偵コナンの世界観にみる有神論的側面】
→〈安室透〉非公式カップリング二次創作のコンテクストから摂取できる「死と復活」の物語~あむあずユーカタストロフ~
もちろん、一神教など日本においては弱小ジャンルであり、現代日本人には抵抗感のほうが強いと思う。
こんなインターネットの海の片隅で偶然出会ったどこの馬の骨とも知れない人間がどれほど言葉を紡いでも目障り耳障りだと思うので、ここはひとつ試しにファンタジーの二大巨頭の言説から「この世界の喜びと神の祝福はつながっている」といった解釈ができるものを紹介し、
もうひとつアーサー・コナン・ドイルの態度からその論が補強できそうな話をしてみたい。
ファンタジーというのは、ロマン主義の孫ともよべる文化運動であること、現代日本のサブカルチャーはポストロマン主義としての特色が色濃いこと(※1)、ファンタジーの文脈の源流にはJ・R・R・トールキン/C・S・ルイスという作家を挙げて差し支えないこと(※2)、などから、トールキンやルイスの言は我々オタクにとって一種の説得力を持つと思ったため。
ちなみに、C・S・ルイスの愛読書にはアーサー・コナン・ドイルの作品群があったようだし、【名探偵コナン】スピンオフ作品【ゼロの日常(通称:ゼロティ)】【名探偵コナン 警察学校篇】の制作の筆頭に立たれている新井隆広先生の過去のお仕事には【ダレン・シャン】(ファンタジー小説)のコミカライズもある。
ダレン・シャン(1) (少年サンデーコミックス)
(※1)「私たちはみなポスト・ロマン派である。これは私たちがロマン派を超えたとうぬぼれているのではなく、私たち自身、ロマン派の時代を経ることなくして存在しえなかったという認識に立ってのことである。」(「文学とは何か」テリー・イーグルトン)
→少なくとも現代日本のオタク文脈を生きる人間はほぼポストロマン派だと筆者は考える。(少なくともファンタジーになじみ深い人間はそう)。だから、アニメ・マンガカルチャーの流れに身を置く人間は、例えば聖書の登場人物で言うと「カイン」や「イスカリオテのユダ」あるいは「悪魔(ルシフェルなど)」といったに存在に心を寄せるほうが通常。筆者自身、教会に通い始めて聖書を読み始めたばかりの時、余ったキャンバスに「美形のルシファー」の絵を描き始めたことがある。自分の中に生まれつつあるキリスト教のアイデンティティを表すのになんの苦も無くその造形を形に起こせたということは「自分は知らん間にロマン派の影響を受けまくってた」んだと思う。
新版 文学とは何か―現代批評理論への招待
(※2)「驚異的な売れ行きを見せる「ハリー・ポッター」シリーズを旗頭とする、現在のファンタジー作品群の隆盛は、さかのぼれば、ルイスとトールキンの功績に行きつくはずだ。第二次世界大戦の世界に、ファンタジーを趣味人の書物ではなく、一般の多くの人に愛される作品として提示できたのは、まずをもってこの二人なのだ。その後に書かれたファンタジーは、多かれ少なかれ彼らの作品の影響をこうむっている。」(引用:荻原規子著「ファンタジーのDNA」pp.208~209)
ファンタジーのDNA
そこで、成功した「空想」のうちに見出せる「喜び」のもつ独自の性質とは、根もとにある真実、あるいは真理を、突然のぞき見ること、と説明できるだろう。それは、この世の悲しみに対する「慰め」であるばかりでなく、「それ、本当?」というあの問いを満足させる答えでもあるのだ。
ファンタジーの世界ー妖精物語についてーJ. R.Rトールキン pp.143~144
物語や空想は依然続くし、続かなくてはならない。福音は伝説を排除してはこなかった。むしろそれを、とくに「幸せな大詰め」を大切にしてきたのである。キリスト者はあいかわらず、肉体と同様に精神をもって働き、悩み、希望し、死ななくてはならない。しかし今では、その性向や能力はひとつの目的をもち、あがなわれうるものであることを知覚しているのである。これまでもキリスト者は、寛大に扱われてきたのだから、多分次のような推測をあえてすることを許されるだろう。「空想」のなかで、人間は実際に「創造」の葉をひろげ、その豊かさを増すことを手伝うことができるのだ、と。あらゆる物語が真実のものになりえるだろう。しかしそれでもなお、最後にあがなわれ、人間がつくったとおりのもののかたちでいるものもあるだろうし、そうでなくなるものもあるかもしれない。それは、人間が究極においてあがなわれても、我々の知っている堕ちた人間のままのかたちでいるかもしれず、あるいはそうではなくなるかもしれないのと同様なのである。
(同上)
(マーカーは筆者によるもの)
妖精物語について―ファンタジーの世界
▽J・R・R・トールキンに関してはこちらでも
クリスチャンはこう言う、「人間がさまざまな欲求をもって生まれてきたのは、それらの欲求を満足させるものが存在しているからだ。赤ん坊は空腹を感ずる、よろしい、たべものというものがちゃんとある。あひるは泳ぐことを欲する、よろしい、水というもながある。人びとは性欲を感ずる、よろしい、セックスというものがあるーーと言った次第だ。
もしわたしが自己の内部に、この世のいかなる経験も満たしえない欲求があるのを自覚しているとするなら、それを最もよく説明してくれるのは、わたしはもう一つの世界のために造られたのだ、という考え方である。地上のいかなる快楽もこの欲求を満足させることができないとしても、だからと言って、この宇宙が食わせ物だという証拠にはならない。おそらくこの世の快楽は、その欲求を満足させるためにあるのではなく、ただそれを喚起せしめ、かつ本物のありかを暗示するために、あるのであろう。
(引用:C・S・ルイス著 柳生直行訳「キリスト教の精髄」p.213)
もしそうだとしたら、わたしはこの世のさまざまな祝福を軽蔑したり、それに対して感謝を忘れたりすることのないように注意すると同時に、他方、それらの祝福を他の物(つまり本物)と取り違えないように注意しなければならないーーなぜなら、この世の祝福は、本物に対する一種の写し、反響、蜃気楼にすぎないのだから。わたしは自分の心の内に、わたしのほんとうの国ーーそれは死んでから見出すのだがーーに対する欲求を生かしつづけなければならない。それを窒息させたり、わきへ押しやったりしてはならない。
そのほんとうの国を目ざして押し進み、他者もそうするように助けてあげるということが、わたしの人生の第一の目的とならなければならない。」
(マーカーは筆者によるもの)
▽『キリスト教の精髄』についてはコチラでも解説している
キリスト教の精髄 (C.S.ルイス宗教著作集4)
このコーナーは『内的愉悦と神の祝福のつながり』という論からは少し距離ができるが、より【名探偵コナン】という物語に近い【シャーロック・ホームズ物語】及びアーサー・コナン・ドイルの軌跡を用いて、『内的世界の広がりと、神への思索の関係』について提示してみたい。
アーサー・コナン・ドイルの宗教観についてはこちらでもまとめた。
今から話すことの出典などは上記リンク先にまかせることとして、ここでは簡易的に筆者の説を述べていく。
コナン・ドイルは「カトリックを批判し棄教したと宣言して、晩年は心霊主義に傾倒した」といわれている。しかし、自身は『キリスト教/聖書』ひいては『神』と言うものを憎んだわけでも否定したわけでもなかった。
シャーロック・ホームズの物語において、『聖書』や『キリスト教』の文化の反映はもちろん、それらが提示し主張する世界観を援用しているものが多数見受けられること、
また、心霊主義で培ってきた世界観をもってして聖書の出来事を弁証する論を発言しているということなどからそれがわかる。
筆者は、コナン・ドイルは、『神』や『霊』といった存在への思索『我と汝/己と神』というものを、ともすれば一般的にキリスト教徒を公言する人よりも深く突き詰めていた、ということと受け止める。
そして、現代日本のキリスト教文脈においては、それは充分『キリスト教』の範疇におさまる価値観なのである。(筆者がプロテスタントとしての立場に立つ人間だから、ということは添えておくが)
現代日本で我々があたりまえのように楽しんでいるミステリーも、アニメ・マンガも、
『神(大いなる存在/霊的なものを含んだ存在/場合によっては”存在”という属性からすら解放されているかもしれない存在)との対峙』によって培われてきた想像力の延長線上にある賜物なのである。
→(制作予定)ミステリー史とアニメ・マンガ史
作り手の想像力の源泉であるということと、受け手がコンテンツを楽しむ心の源泉であるということは必ずしも一致しないが、今日の日本において「作り手と受け手」の境界は日を追うごとにあいまいになっている。
過去にさかのぼれば、もともとは曖昧だったところに(多少変化を加えながらも)回帰している可能性もある。ならば、より『内的世界の広がりと、神への思索の関係』は、われわれひとりひとりにとって説得力をもって迫ってくるだろう。アーサー・コナン・ドイルの態度から、筆者はそういったことを感じている。
さて、それでは【名探偵コナン】の話に戻って、『これは筆者自身にとっての慰めでもある』ことを話してこのコラムを閉じたいと思う。
公式的安室像と〈あむあず〉での間で揺れる私にとっての福音でもある―あるいは〈警察組生存ルートIf〉勢に向けて
前半で、筆者は「原作設定上解釈可能な二次創作を好む」と言った。しかし、自身がよく閲覧しているジャンルには〈安室透×榎本梓/降谷零×榎本梓/バーボン×榎本梓〉(以下〈あむあず/ふるあず/バボあず〉と表記)もある。
これらは非公式カップリングなので筆者の基本的な好みからは外れるのだが、特例的に好きな要素を含んでいるジャンルなのである。それにはまた『キリスト教』が大きく関わっており…話すと長くなるのでここでは自重したい。以下のコラムにまとめたので触れたので、ご興味があればご笑覧頂きたい。
→安室透/降谷零の背負う「メシア」のミーム
→〈安室透〉非公式カップリング二次創作のコンテクストから摂取できる「死と復活」の物語~あむあずユーカタストロフ~
とにかく。
Pixivの海(沼)には、数限りない作品が転がっている。好むもの好まないもの、好まないが素晴らしいと感じるもの、好ましいが評価が分かれるであろうもの、本当にさまざまだ。
〈あむあず/ふるあず/バボあず〉が公式的に否定されていても、そこで得た捨てがたい喜びと慰めの存在は誰にも否定されうるものではない…はずだ。
そうなってくると、〈警察組生存if〉という世界線への祝福も期待してよいのではないか。Pixivの海には、降谷零の警察学校での同期(今は殉職した、というストーリーに従属している〈松田陣平〉〈萩原研二〉〈諸伏景光〉〈伊達航〉ら4人のキャラクターたち)が「彼らがもし生きていたら…」という、降谷零への祈りのごとく紡がれている作品が数多ある。
もちろん、「悲しみを胸の底に沈め、殉職した友人たちを心の中で生かしながら己の使命に奔走する降谷零」という公式的キャラクター像が好きな人にとっては、それにふさわしい宇宙が現在ここに存在している事、それに安寧を覚えている方は、無理にこういった論に共感しなくてもよいことは添えておきたい。筆者自身も、〈警察学校組〉に対する想像力というのは公式見解に沿うことを好しとする身である。あなたに主の豊かな祝福がありますよう。
もちろん、こういった論を主張する人が増えれば増えるほど「秩序」という事の規定が難しくなるだろうし、
「じゃあキャラクターの人権問題は?」などが始まるとそれは「内面の規制」などに繋がっていくことも想像に難くないので、手放しで良いモノとは言い難いだろう。
また、すでに非公式カップリング二次創作界隈の「マナー違反」(と呼ぶべきが適切がわからないのだが、便宜上そのように表現する)を問題視する動きもあり、場合によってはそういった層の信条を増長させる言であることも、認める。
現時点では杞憂であるが、一応言わせて頂くと、こういった『博愛的な神』イメージを持つ属性の人間が起こしうるこの世界の上での問題も出てくるだろう。
人間が悪に傾く志向を有していると考える限り、この地上での人の営みには誰かの悲しみがいつも付きまとうだろう。(だから筆者は『神の国』に期待するのだが)
まあ、そういった議論は今後に期待して、研究者ではない人間の戯言コラムはこの辺で閉じたいと思う。
筆者自身は公式設定が好きで、筆者自身は使徒信条を告白することに何のためらいもない保守的なキリスト教徒である。つまりこのコラムでは、筆者自身の信念と信条が反転され消滅させられうる世界線の話をした。しかし、そこには常に『神の祝福』がある―――それが筆者にとってはプロテスタンティズムであり、ひいては『キリスト教の精髄』なのである―――という信仰に基づく祈りのコラム、である。
これを『いびつな万民救済論者』(※)と表現する人もいるかもしれない。でも言葉ーというか人間はー不完全な存在である、という理解はおおよそのキリスト教と呼ばれる世界観には通底しているはずだ。
「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。
また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。
では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。
(ローマ人への手紙10章)
同じく、これを書いている筆者の救いに関しても、キリスト教徒を自認する方々におかれましては、「神と貴方の関係」において対処して頂きたいと願う。
であるならば、『不完全であるがゆえに、欠けがあるゆえに救われる』という世界観の宗教を信じる者として、この身の限界をそれなりに実感しながら生きていたいと思う。
ここまで話してきたことにおいて、意見を持つ方があれば、自メディアに言語化してくださればこのコラムの巻末に追記していきたいと思う。
その際はこちらの問い合わせフォームよりご連絡頂きたい。
栄光在主
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コラム中に紹介した他コンテンツや参考文献
▽「キリスト教を信じる」ということがどういうことかを俯瞰して整理したい方にお勧めの動画
▽C・S・ルイス著「キリスト教の精髄」について