目次
前置き:日本語圏において混乱する2つの原作者名~青空文庫の底本に従う主義が招いた混乱?~
「美女と野獣(La Belle et la Bête/ラ・ベル・エ・ラベット)」の物語を知らない日本人は少ないだろう。
しかし、この物語には原作があることを知る人となると、急に少なくなると思われる。(その奥にはさらに民間説話(昔話/民話)があると考えられるが、このコラムでは割愛する)
じゃあ「原作でも読んでみようか」と思ったとき、この平成~令和の日本語インターネットコンテンツの世界では、よくわからん事態が巻き起こっている。
この物語は、ざっくり言うと2つの原作があるのだが、この2つの作者名が混乱して表記されていたり…するのだ。
青空文庫に掲載されている「ラ・ベルとラ・ベート(美し姫と怪獣)」は「ヴィルヌーヴ版」として原作者の表記がされていますが、内容は「ボーモン版(後発:翻案)」とみられるモノです(「青空文庫」図書カードより)
原作者として「ガブリエル=シュザンヌ・ド・ヴィルヌーヴ」の名前が知られるのはいいことだとは思うけど、じっさいは彼女が書いた作品とは違うテキストの作品が「ヴィルヌーヴ版」だと認識されて日本語圏に出回ってるのは、けっこう複雑な気持ちになるな…
YouTubeとかで「ヴィルヌーヴ版のあらすじをまとめた動画ないかな?」と思って調べても、ボーモン版の朗読がヴィルヌーヴ版として出てきたりして、ちょっと困った…(と、このコラムのライターが言っています)
とはいえ、「美女と野獣」を世界に知らしめた功績はボーモン夫人版によるものだし…ぞれぞれの良さについて考えたいって人もいるよね
なので、ざっくりですが両者の違いを解説していきます。
【このコラム内での便宜的な表記】
ヴィルヌーヴ版(藤原真実 訳)→「美女と野獣」
ボーモン版(楠山正雄 訳)→「美し姫と怪獣」
2人の作者~ヴィルヌーヴ夫人(先発)とボーモン夫人(後発)
ガブリエル=シュザンヌ・ド・ヴィルヌーヴ(1695-1755)
ヴォルテールやプレヴォ―とほぼ同世代の小説家。未亡人となり、文学で生計を立てようとしていた時に、検閲官をしていたクレビヨン・フィスと出会い、生涯その世話になったといわれる。『美女と野獣』以外に少なくとも5編の小説を書いている。
(引用:藤原真実「怪物と阿呆ー美女と野獣の生成に関する一考察」p.49)
このコラムではヴィルヌーヴ夫人その人については深く触れません。
もう少し深く知りたい方は、
→18世紀フランス社会と作者 : 『美女と野獣』とヴィルヌーヴ夫人(藤原真実,2020年)
からPDFをダウンロードして読めますので、こちらをご覧ください。
ジャンヌ=マリー・ルプランス・ド・ボーモン(1711-1780)
画家ジャン=バティスト・ルプランスの姉。結婚に失敗した後、英国へ渡り再婚。貴族の家で家庭教師をつとめるかたわら、「マガジン」という名称を用いて青少年向けの教育書を数多く出版した。ほかにも、教訓的小説などをふくめ、全部で70冊ほど出版した。
(引用:藤原真実「怪物と阿呆ー美女と野獣の生成に関する一考察」p.49)
あらすじ
ヴィルヌーヴ版「美女と野獣」
…ここにヴィルヌーヴ夫人版のあらすじ動画なんかを掲載できたらデザインが決まるのになぁ…
…動画降ってこないかなぁ…
あらすじ…
あらすじ…
ボーモン版「美し姫と怪獣」
(引用:田中理紗「ルプランス・ド・ボーモン夫人「美女と野獣」の特質ー女子教育おとぎ話)
ある裕福な商人一家が没落をし、田舎で暮らすことになる。商人にはベルという美しく優しく聡明な娘がいた。ある日、一家に商人の商品を積んだ船が港に無事着いたという知らせが届く。町に向かう商人に姉たちがたくさんの土産をねだるなか、ベルはバラ一輪を頼む。町に向かったものの商人は財産を手に入れることはできないまま帰途につく。途中の森で道に迷った商人は不思議な城にたどり着く。そこで一晩を明かした商人は、城のバラを摘む。すると、城の主である醜く恐ろしい野獣が現れ、バラを盗んだ代償として命を差し出すか娘の命を身代わりとして差し出せと要求する。
家に帰り商人が事情を話すと、ベルは自分が身代わりとなることを提案する。しかしベルは命を奪われるどころか野獣の城で暮らすことになる。ベルは毎晩、野獣と夕食の時間を共にして、野獣が才気はないが愚かである自覚をしていること、良識と優しさがあることが分かる。ただ、毎晩野獣からの求婚を断るたびに彼が悲しむ姿を見てベルは心を痛める。ある日、ベルは父親にもう一度会いに行きたいと野獣に申し出をし、野獣は承諾する。一週間の約束で実家に帰ったベルは姉たちにだまされ、野獣との約束を破って家に留まり続けてしまう。そうすると、ベルは死にかけている野獣の夢を見る。いくらハンサムで才気にあふれていても不実な姉の夫たちと比べ、自分は心の美しい野獣との結婚で幸せになれると確信したベルは、野獣の城へ戻る。戻った城で死にかけている野獣を見つけたベルは、野獣に彼の妻になることを告げる。すると、野獣が実の姿である美しい王子の姿に戻り、ベルを妃とする。二人は王子の国で結婚する。
概観・沿革
ヴィルヌーヴ夫人版「美女と野獣」の概観・沿革
『うら若きアメリカ娘と洋上ものがたり』(枠物語)
(あらすじ)超自然的な要素は含まない小説。血筋は良いが財産のない2人の青年貴族の友情、そのうち一人の青年の渡米、すでに入植していた実業家との出会い・成功・結婚・娘の誕生。フランスに留まったほうの青年への援助、その末に息子を引き取り、娘を彼の家に預けて教育をまかせ、両家の縁組が決まり、それぞれの青年たちの娘と息子は共にアメリカに渡ることとなる――
この航海の途上で、娘の小間使いである女性が昔語りをすることとなる。これを知った船長や乗船者全員が参加し、順に物語をしていくルールが決まり、次々と物語が語られることとなる…
『美女と野獣』
野獣の話
妖精の話
そのほか…
そのほか…
そのほか…
(参考:藤原真実「怪物と阿呆ー美女と野獣の生成に関する一考察」p.52)
ボーモン夫人版「美し姫と怪獣」の概観・沿革
上流階級の少女を対象に書いた『子どもの読本』に所収
13話あるお伽話の中の1話
「美し姫と怪獣」
ヴィルヌーヴ版を子ども向けに手直しし、大幅に縮約。
「スピリチュエル王子」
美女と野獣とペア的な立ち位置の物語。(興味深かったので言及してみただけで、ここでは詳細はふれません。これについて深めたい方は
→
…そのほかの御伽話…(計13話)
(参考:田中理紗「ルプランス・ド・ボーモン夫人「美女と野獣」の特質ー女子教育おとぎ話)
構成と内容の違い
「美女と野獣」「美し姫と怪獣」の違い(ざっくり図)
「美女と野獣」 ヴィルヌーヴ夫人版 (先発) | 「美し姫と怪獣」 ボーモン夫人版 (後発) |
---|---|
ボーモン夫人版の約9倍程度のボリューム | ヴィルヌーヴ夫人版の約1/9程度のボリューム |
複雑で過剰、文学性が高い | 素朴で民話的、ダイジェスト的 |
家族構成→父・息子6人娘6人(ラ・ベルを含む) | 家族構成→父・息子3人娘3人(ラ・ベルを含む) |
ベルは城で過ごしているあいだ、「醜いけれど素朴なやさしさが垣間見える野獣」と、「夢に出てくる美しい貴公子」の間で葛藤する | とくに描写なし。(ベルは、「愚鈍で朴訥としたベートからの求婚を受け入れられるかどうか」の葛藤にのみさらされる) |
野獣の城には鳥やオウム、猿などの様々な動物がいて、ベルを世話したりもてなしたりしてくれる | とくに描写なし |
妖精(ベルと王子の庇護者)が時々ベルの夢枕に立ち、謎めいたコトバでベルを励ます | とくに描写なし |
ベートが人間の姿になってから、後半、ベートが変身していた経緯(ある年おいた妖精の怒りに触れていた)やベルの素性(ベルは、ある妖精と人間の男との子ども)が明らかになる(妖精側のしかけ) | ざっくり割愛 |
最終的に3つの視点(ベル・ベット[王子]・語り手)から物語が語られたことになる | 語り手視点のみから語られたことになる |
大人向けの近代小説、恋愛物語として | 子ども向けの読み物、教育読本として |
ためしにテキストの違いを見てみよう
▽ヴィルヌーヴ版
柱時計がベルの名前をメロディーに乗せて十二回呼び、正午を告げたので、ベルは仕方なく起き上がりました。最初に目に入ったのは、婦人用の必需品を完備した化粧台でした。ベルは自分でも理由のわからないある種の喜びを感じながら身支度をし、客間へ向かいますと、ちょうど昼食が出されたころでした。
「美女と野獣[オリジナル版]」ガブリエル=シュザンヌ・ド・ヴィルヌーヴ著/藤原真実訳(白水社,2016年)pp.43-44-
ひとりで食べる食事はすぐに済んでしまうものです。自室に戻り、ソファに身を投げ出すと、夢に見た青年が心に浮かんで来ました。
「私はおまえを幸せにすることができる、と彼は言っていたわ。たぶんあの恐ろしいベットはこの屋敷の主人で、あの人を牢屋に閉じ込めているのだわ。うわべを信用してはいけないと繰り返し言われたけど、何のことだからさっぱりわからない。ああ私ってなんて愚かなの!眠りから生まれて、目覚めると消えてしまう、ただの幻なのに、それを解明する理由探しにかまけるなんて!そんなものに気を取られている場合じゃないわ。自分の今の境遇のことだけ考えて、退屈に負けないための楽しみを見つけなくちゃ」
それから少しして、ベルはお城にあるたくさんの部屋を見物しはじめましたが、こんなに美しいものを見たことがなかったので、すっかり魅了されてしまいました。最初の部屋に入ると、そこは鏡張りの大きな書斎でした。あらゆる角度から自分の姿を見ることができます。まず目に留まったのは。飾り燭台にかけられたブレスレットでした。そのなかに、眠っているときに見たような気がしたあのハンサムな騎士そっくりの肖像画が入っています。どうして見間違えるはずがありましょうか…
さらに歩いて行くと、いろいろな楽器がたくさんある部屋に行き当たりました。楽器はだいたいなんでも弾けるので、試しにいくつか弾いてみましたが、クラヴサンが自分の声と合わせやすいので、いちばん気に入りました。この部屋を出ると、今度は絵画のとは別の回廊に入りました。そこには膨大な書物が収められていました。ベルは勉強好きでしたが、田舎に住むようになってからは、そういう楽しみがありませんでした。困窮した父親が仕方なく蔵書を打ってしまったからです、ここではんらベルの旺盛な読書欲も簡単に満足させられますし、ひとりぼっちの退屈を味わわなくて済みます。…
「美女と野獣[オリジナル版]」ガブリエル=シュザンヌ・ド・ヴィルヌーヴ著/藤原真実訳(白水社,2016年)p.44
▽ボーモン版
父親がしょんぼりかえって行ったあと、ラ・ベルも、さすがに目ぶたがおもたくなりましたが、むりに涙をはらいのけて、御殿の中じゅうあるきまわってみました。するうち、ふと、一枚のとびらに、「ラ・ベルのへや」と、かいてあるのをみつけておどろきました。あわててあけてみますと、中は小ぎれいにお飾りのできたへやで、本棚があって、ハープシコードがおいてあって音楽がたのしくきこえていました。
「ラ・ベルとラ・ベート(美し姫と怪獣)」ジャンヌ=マリー・ルプランス・ド・ボーモン著 楠山正雄訳
(まあ、どうしたというのでしょう。どうせ、きょう一日でいのちをとられるにきまっているわたしのために、こんなりっぱなおへやのしたくが、どうしてしてあるのでしょうね。)
こうおもいながら、ためしに、一冊の本をあけてみますと、金の文字で、「あなたがのぞんだり、いいつけたりすれば、すぐそのとおりになります。
あなたは、この御殿では、すべての上に立つ女王です。」
と、かいてありました。
(まあ、わたしののぞみといったら、おとうさまが、いまどうしていらっしゃるか、知ることですわ。)
…いかがだろう?
おそらく楠山正雄氏の訳は特に子ども向けになっているのではないかと思うのでだが(ほかのボーモン版の訳を読んだことがないので知らないのだけれど…)、それにしても雰囲気違うなぁ、という感じが…しないだろうか。
下のほうに当コラムライターがとくにツボった違いを述べてみるコーナーも設けてみたので、興味あったらごらんくだされ。
剥き出しの醜さに打ち克てたワケではない現実的なヴィルヌーヴ版のベル、新たな時代のプシュケ的なボーモン版ベル
ヴィルヌーヴ版のベルは、実は醜くて愚かな野獣をありのまま愛せていたわけではなく、野獣が王子の姿をとりもどすまでずっっっと煩悶している。これについて藤原真実氏は
「ヴィルヌーヴ版のヒロインは(中略)結局は目に見えるものの圧倒的な支配力に打ち克つことができない。」
として、ヴィルヌーヴ版が近代小説的な様相を呈していることを述べる。対してボーモン版のベルは、「美女と野獣」の奥にある『アモルとプシュケ』の神話の転生として、理想化された神話的な展開になっていることを述べる。
(参考:藤原真実「怪物と阿呆ー「美女と野獣」の生成に関する一考察」p.87)
当コラムライターによる雑な感想のターン
個人的にツボったところ
この段落では、当コラムライターの個人的にツボったところを紹介してみる。場面は、ベルが父親の身代わりに野獣の城に来て、怯えるなか歓待されて、はじめて夕食をともにすることになったシーンである。
どちらも同じ箇所ではあるのだけれど、それぞれ思わずツッコミが声に出てしまったので、それを述べていく。
▽ボーモン版
ラ・ベルちゃん、あなた、わたしのおよめになってくれますか。
いきなりではあるし軟禁状態でこれを言ってくるのに思うところがないわけではないけど、かわいいかよ
夜になったとき、怪獣は出てきて、いっしょに夕食をしようといい出しました。ラ・ベルは、あたまのてっぺんから、足の爪さきまで、ぶるぶるふるわせながら、それでもいやということはできません。それを、怪獣がみて、自分をずいぶんみにくいとはおもわないかといって、たずねました。
「ラ・ベルとラ・ベート(美し姫と怪獣)」ジャンヌ=マリー・ルプランス・ド・ボーモン著 楠山正雄訳
「はい、おっしゃるとおりです。」と、むすめはこたえました。「だって、わたくし、心にもないことは申せませんもの。でも、とてもいい方だとおもっております。」
そんなことで、だんだんうちとけて、たのしく食事がすみました。すると、とつぜん、怪獣が
「ラ・ベルちゃん、あなた、わたしのおよめになってくれますか。」と、いいだしたので、むすめは、びっくりしてしまいました。びっくりしながら、それでも一生けんめい、
「わたし、いやでございます。」とこたえました。
怪獣は、うちじゅうふるえるほど、大きなためいきをつきました。そして、かなしそうな声で、
「お休み、ラ・ベル。」といいのこして、へやを出て行きました。むすめは、ほっとしながら、やはり、人のいい心から、きのどくにおもっていました。
▽ヴィルヌーヴ版
一緒に寝させてくれませんか
いきなり同衾の要請~~⁉大人向けってこういうコト~⁉⁉
…ベルはベットの気配を感じ取りました。まだひとりでベットと会ったことがなく、会ったらどうなるのかもわからず、ベットが自分を喰いにくるおそれさえあるわけですから、怖がらずにいられるはずもありません。
(中略)
「こんばんは、ベル」
ベルは物柔らかに、けれども少し震えながら同じ挨拶を返しました。怪物は色々と質問し、どんなふうに過ごしたのかと尋ねたので、ベルは言いました。
(中略)「あなたはここの暮らしになじめると思いますか?」
とベットが聞きますと、こんなにすてきな場所で暮らすのはわけもないことです、と娘は礼儀正しく答えました。
(中略)ベットはストレートに、一緒に寝させてくれませんか、と聞いてきました。
思いがけない質問に恐怖がよみがえったベルは、思わず悲鳴を上げて「ああ、もうおしまいだわ」と叫びました。…
「美女と野獣[オリジナル版]」ガブリエル=シュザンヌ・ド・ヴィルヌーヴ著/藤原真実訳(白水社,2016年)p.48
「異類婚姻譚」として見た時、異類婿と異類嫁が反転する
「異類婚姻譚」という民間説話の分析用語を柳田國男が創出したそのはじめには、「美女と野獣/ラベルエラベット」があった。
(柳田は代表的な物語名が話型名として用いられていたヨーロッパの研究を抽象化してこの用語を創り出した。(石井正巳,廣田龍平)
しかし、ヴィルヌーヴ版においてはベット(野獣)は魔法をかけられていた人間」であったことが明かされ、さらにはベル(美女)は「妖精と人間の子ども」であることが明かされる。
異類婿譚として広く認識されているこのお話が、後半では異類嫁譚として展開するという反転が起きる。
これについてシロウトのライターからこれ以上言えることはないが、現在ディズニー作品(アニメ・実写版)においても、フランス映画版においてもベルが半妖精半人間である設定は取り扱われていない。
何度もあらゆるメディアで語りなおされてきたこの物語、この先、後半部分がリバイバルされることはあるとしたら、それは見てみたい気もするし、取り扱われない場合にはそれはそれで読み取れる時代の要請があるだろうので、それも知りたいと思うところではある。
ヴィルヌーヴ版の復権としてのディズニー版「美女と野獣(Beauty and the Beast)」
ヴィルヌーヴ版のテキストを読んでいると、ボーモン版のものよりディズニー版(アニメ版や実写版ともに)の映像が頭に浮かんでくるような気持ちになった。
それくらい、ディズニー版「美女と野獣」はそもそもヴィルヌーヴ版の意志を引き継ごうとしている感じがある。
(これには色んな背景があるらしいので、気になった方はぜひ白川理恵氏の「二つの『美女と野獣』ー妖精物語とその驚異(メルヴェイユ)」(「西洋文学にみる異類婚姻譚」収録)を読んでいただきたい。
そして、それだけではなく、「恋愛文学」としての意志も引き継ごうとしているのでは?とも思えた。
オリジナル版は、むしろきわめて意識的に恋愛心理を追究した、真摯な恋愛論として見直されるべきでしょう
(藤原真実,訳者あとがきp.72)
として考えた時、2017年に実写化されたディズニー版の「美女と野獣」は、その延長線上の解釈にあると感じる。
(とくに「アラジン」がフェミニズム的な描写を多く加えたことや、「リトルマーメイド」がアニメ版とさほど変わらないような構成になったこと、クリストフ・ガンズ監督「美女と野獣」(2014年)」の構成と比べ、そのように感じる。主観による雑語りなので読まれている方が取り扱う義理はない意見であることは断っておく。)
時代の要請に応じているだけではなく、その作品それぞれに施策をめぐらせているのでは…と思う。
そしてこの「美女と野獣」を恋愛論として観るとき、私は現代日本人キリスト教徒として、私が解釈している「キリスト教的な聖書解釈、および信仰の実践の意志」の志向と重なりを感じる部分がある。
それが私の世界観へのどのように影響しているか…など、それはまた別のコラムでまとめてみたいと思う。
参考文献
→ラ・ベルとラ・ベート(美し姫と怪獣)楠山正雄訳[青空文庫/入力年月:1950(昭和25)年5月1日]