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【更新】[まとめた]エヴァンゲリオンとキリスト教の考察はどんなものがある?(2/1更新)

【まとめ】エヴァンゲリオンと聖書の考察7選。キリスト教をどう引用しているかガチで検証

こんにちは。人気マンガやアニメから聖書を解説していくWEBサイト【いつかみ聖書解説】ライター上坂かすがです。

 

エヴァンゲリオンは、90年代を代表するアニメ作品の一つです。様々なメディアミックスが行われ、社会現象を巻き起こしました。

2020年にはヱヴァンゲリヲン新劇場版の最新作が上映されると発表がありましたね。

このエヴァンゲリオン、「キリスト教と関連がある」とよく言われる作品でもあります。でも実際に見てみたら、どういうふうに関係しているのかイマイチわからない…という意見も耳にします。

 

私自身、大学生時代キリスト教のことを知りたいと思ったものの聖書がよくわからなくて、「オマージュされているらしい」と噂のエヴァについて調べてみようと思ったところ…さらによく分からなくなった記憶があります。

A牧師

私もなぜかよく聞かれて困ってしまいます

(A牧師が活躍する「教会HPを1時間、0円で作る!」もよろしくお願いします!)

 

クリスチャンになった今、エヴァのことを調べてみると改めて見えてくるものがありました。ということで今回は「エヴァと聖書・キリスト教関係の考察」をまとめてみました。

※当記事は、方向性上さまざまなコンテンツを引用して創られています。コンテンツ引用ポリシーは準備中です

 

目次

エヴァンゲリオンに聖書はどう引用されているのか考察7選

ベースは東洋思想。聖書はイメージとして使用されている

東洋思想のベースに聖書的イメージをちりばめる

・・・興味深いことに、アブラハム的宗教のヘビーな使用にもかかわらず、作品の文脈は完全に東洋思想なのだ。

主客未分離の「無」へ回帰したいという願望(主人公の碇シンジは生命のスープに溶け込んだり、サード・インパクトの後再度個体になるべきか迷ったりする)、そしてテクノアニミズムの特徴もある(エヴァには魂があるようだし、そうでないとしても、人間と一体化できる)

(引用:ポップカルチャーを哲学するp117より)

コラムでも紹介した書籍「ポップカルチャーを哲学する」の考察です。こちらも「エヴァで用いられている聖書的なモチーフはあくまでイメージ」であり、思想的には東洋思想に近いと考えられているようです。

 

聖書の要素はあくまで「仕掛け」にすぎない

・・・戦争、人類、家族、友情のストーリーに、どのようなキリスト教的なリンクが仕組まれているのだろうか。

解き明かそうとは思わないし、思ってはならない。そこに深い連携はないからだ。壮大な物語を仕掛けようとする時に、神話世界の構造やタームを拝借して大風呂敷を広げるのは定石のようなものだ。

視聴者はそれと気づかなくても不思議に安心して楽しめ、似ていると気づけばまた喜ぶという2段ロケット式の利点が生まれる。しかし『エヴァ』においては、伏線の先をいくら手繰って行っても実体は出てこない。

監督と脚本を担当した庵野秀明氏自身が「衒学的(げんがくてき)な」手法であったと述べている。つまり「まやかし」ということだろう。埋め込まれたキリスト教の言葉やイメージは、物語に神秘性、史的文脈、厚みを与えるためのギミック(仕掛け)に過ぎない。

(引用:クリスチャントゥデイ“マンガとアニメとキリスト教” クリスチャンが選ぶサブカルチャー(4)『新世紀エヴァンゲリオン』

「“マンガとアニメとキリスト教” クリスチャンが選ぶサブカルチャー(4)『新世紀エヴァンゲリオン』クリスチャントゥデイ」の記事からの引用です。

 

こちらは「エヴァのキリスト教モチーフはあくまで仕掛けに過ぎなくて、深い意味はない」ということを提唱しているようです。

 

 

エヴァ二次創作の在り方と聖書の聖典系譜の在り方

ある意味でグノーシス主義は二次創作の走りを生んだのだ。だが、なお正典となった福音書ですら一つの書物では福音、あるいはイエスの全体を描きだすことができなかったのであろう。マタイ、ルカ、そしてヨハネがマルコの後に続く。エヴァも、漫画版と新劇場版が公式から提供された。

マルコにはマルコの、マタイにはマタイの神学がある。なるほどマルコはわざわざ地の文で、弟子たちはパン種とはパリサイ人とサドカイ人のことだったと悟ったなどとは書いていないし、TV版の葛城ミサトは漫画版ほど説明口調ではなかった。あまりにも少ない最低限の情報しか提供していなかった最初の作品に、後発の作品が解説を入れる必要を感じるのは自然なことだ。

そして筆者は、新劇場版の荒れようを観てヨハネ福音書的なエネルギーを受けとった。このような対比が私たちに指し示すことは、一つの物語をそれぞれ読んでいくことの大事さ、そして、相互対応の限界である。

すなわち、「渚カヲルにシンジが当初どのくらい友好的だったか」という問いが無意味であるように、「イエスはあわれんで」というすべてに共通ではない描写を福音書間で照らし合わせて統合して理解しようとすることの危険性である。

(引用 : http://www.kirishin.com/2016/11/15/13831/

こちらはキリスト新聞社が発行しているMinistiryという季刊誌の中の「空想神学読本」というコラムからの引用です。

 

これはストーリーというよりも、メディアミックスへの言及ですね。エヴァが積み重ねてきた歴史と聖書が紡がれてきた歴史との相似的考察というか、ちょっとメタ視点でのお話しといいますか。(この回は特にクリスチャンの私から読んでも難しい話をしてる印象です)

 

人は神になれるのか?

人類補完計画を「人間による主の再臨」だと考察したのがこちらのコラム。(準備中)

【考察】エヴァンゲリオンとキリスト教。人は神になれないが、愛で成長することができる

 

エヴァを1.5倍楽しむシリーズ

 

こちらはカトリック信徒さんからご紹介いただいた考察動画です。「質が高くて自分で考察する気が失せる動画」とのこと。Part9まであります。

 

旧約聖書の基本設定が生きている(管理人からの補足あり)

以上のように、旧約聖書における

・ヒトは知恵の実(科学)を手にいれたが、それは罪であり、人類は楽園を追われたこと。

・ヒトが生命の木に近づく前に、神の使い(使徒)が現れて邪魔をすること。

・知恵の実と生命の実を合わせれば神と同等になれること

という3つの流れは、エヴァンゲリオンにおいてもほぼそのまま用いられていることがわかります。

(引用:http://anime-room.jp/modules/evangelion/eva-doc/chu1.htm

 

こちら「アニメの部屋」さん記事では「人間と神との関係を示す3つの基本設定が、エヴァの中でもそのまま生きている」という考察をされています。

これに関してはキリスト者から少々補足させていただきたい点がありましたのでちょっと補足してみます。

(※)これは過去の私のように「逆輸入的にエヴァからキリスト教を知ろうとした人間」のための補足とも言えます。「アニメの部屋」さんのエヴァ解釈への訂正ではありませんのでご理解ください。

①「ヒトは知恵の実(科学)を手にいれたが、それは罪であり、人類は楽園を追われた」についての補足

まず「知恵(の実)=科学」という表現なのですが、これは実際のとこは「知恵 ≧科学」かなぁと思うので一応補足を。聖書で「知恵」とは「善悪を知る木(の実)[口語訳]」「善悪の知識の木(の実)[新共同訳/新改訳]」と書かれています。英語とヘブライ語で見てみましょう。

“~ the tree of life also in the midst of the garden, and the tree of knowledge of good and evil.(KJV Genesis 2:9)”

2:9 “וְעֵץ הַֽחַיִּים בְּתֹוךְ הַגָּן וְעֵץ הַדַּעַת טֹוב וָרָֽע׃”

(ヘブライ語が分かる方からコメントをいただきましたので追記修正しました。管理人は読めません。なお、ヘブライ語のテキストコピーは Blue Letter Bible からいただきました。)

 

で、この「善悪の知識」というのは「善から悪に至るまでの全ての知識」という意味合いだそうですメリスムスという修辞技法で解釈すると)。なので「科学も含むすべての知識」という感じなんだとか。

 

『善悪の知識=科学ってワケじゃなかったとしても、賢くなるのが罪って考え方に変わりないんでしょ?』というと、そこからが要補足なのですが「聖書を信じる人たちは、賢くなることが罪」と考えているわけではありません。

 

ここで罪と呼ばれているのは「神のようになりたいという動機」と「神さまとの約束を破ったことです。

 

かつ「罪を犯したから楽園を追われた」という表現も『神さまが怒ってアダムとイブを楽園から追いやった』という印象にもとれるので「ちょっと違うねん」ということを2つの視点から補足します。

a.神が怒っているのは「罪」や「悪」に対して

聖書

主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。

わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう。
(創世記3章14節〜
15節)

これは『プロトエヴァンゲリオン(プロトエヴァンジェリウム)』と言って「原福音」と呼ばれているものです。これは聖書中で一番最初の救世主預言であり、文章そのものからは神の怒りが人そのものに向けられているわけではないことが読み取れます。

(※この箇所がなぜイエスを指すのかという点については本論ではないのでここでは省きますが、すごく深いのでよければお近くの教会でお尋ねしてみてください)

b.人間には憐れみを持っていた

聖書

主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せた
(創世記
3章23節)

「追い出したものの、しっかりとした衣服を着せてやる」という描写があるため、「怒り心頭してで勘当した」という感じではないことがわかります。「皮の着物」ということは、ここで動物の犠牲が払われていることを示唆するものでもあり、それもまた人間への愛が読み取れます。

※そもそも「そんなに悲しかったなら追い出さなかったらいいのに」という疑問については「神は義でもあるから、約束を破れない」といった説明がなされることが多いです(福音派では)。いずれも「人間は神を完全に理解することはできない」という考え方は福音派に限らず諸キリスト教派のなかでは一般的かと思います。

皮の着物がどうやって作られたか」が気になる人もいるかもしれませんが(「神が自分で作ったのか?人間に知恵を与えて作ったのか?など)ここは解釈の幅があるようです。しかし、ここでの主題は「神がアダムとイブの即座に必要なものを与えた」という点であることは明白なので特に深くふれません。

A牧師

キリスト教は「知恵をつけること=罪」と考えてるワケではない、神は怒ってアダムとイブを追放したワケではない…ということをなんとなくで良いので知っていただけると幸いです

 

②「ヒトが生命の木に近づく前に、神の使い(使徒)が現れて邪魔をする」について

該当する聖書箇所はここですね。

聖書

そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。

(創世記3章23節24節)

【ケルビムとは】ケルビムは天的存在の象徴で、一般に手足を持つ有翼の像として表現された。

彼らは人間の理性と動物の威力を合わせ持つと考えられ、超人的な力を象徴している。創世記でケルビムはエデンの園にあるいのちの木を守るために置かれていた

(「新聖書辞典(いのちのことば社)」ケルビム項より)

 

I牧師

ここについては特に補足はありませんね

 

③「知恵の実と生命の実を合わせれば神と同等になれる」について補足

ここも大きくは補足はないのでちょっとだけ。「知恵の実と生命の実を合わせれば神と同等になれる」というのは、聖書を読む限りだと『可能性はある』くらいな感じのようです。

聖書

主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創世記‬ ‭2章16-17節)

【参考】
いのちの木と善悪の知識の木とは、本物の木だったのだろうか。そこには2つの見解がある 。

 (1) 「木は実在したが、象徴的なものだった」。いのちの木から食べることは、神とともに永遠を過ごすことを象徴していた。

 (2)「木は実在し、特別な性質を持っていた」。いのちの木から実を食べることで、アダムとエバは永遠いのちをのちを持つことができた。そして神の子として神との永久的な関係を楽しむことができたはすだった。

いずれにせよ、アダムとエバの罪は、いのちの木から彼らを遠ざけ、永遠のいのちを得ることはできなくなった。興味深いことに、いのちの木の記述は、人々が神と永遠の生活を楽しんでいる様子を示す黙示22章に再び現れる。

(「バイブルナビ新改訳解説・適用付」p .8)

 

A牧師

細かいことを言ってしまいましたが、いずれにせよ「アニメの部屋」さんも『人の傲慢が悲劇を生み出す』という旨のがおっしゃりたいのかなと思いますし、その点は聖書のメッセージと一致しています!

 

「磔(はりつけ)は人類に対する能動的な救済行為である」というキリスト教の教義を念頭に置かなくてはならないシーンがある

十字架のかたちに羽根を広げ、槍をつきつけられた初号機の姿は、キリストの磔刑(たっけい)を象ったものである。

以下は常識に類する事だが、補足しておく。キリストが十字架にかけられて処刑されたのは、その教えがユダヤ教守旧派と為政者に脅威を与えたからだが、「奇跡」を売り物にしていた教祖が、なすすべもなく死刑に処せられたというのでは、残された弟子達は教団の維持に困るワケである。

そこでヒネリ出されたのが、キリストは処刑されたのではなく、人の罪を償うために、自らその身を犠牲にしたのだという理屈(教義)であった。

何が言いたいかというと、「キリストの磔(はりつけ)は受身の受刑ではなく、人類に対する能動的な救済行為である」というキリスト教の教義を念頭に置いて、このシーンを見なければならないという事である。(引用:http://roz.my.coocan.jp/animeroom/eva_complt.htm)

こちら「いまさらエヴァンゲリオン」というWEBサイトからの引用です。こちらもエヴァの理解のための考察なのですが、仮に「エヴァからキリスト教を知りたいと思った人」がいた時のために補足してみます。初号機が磔刑になるシーンの解説についてです。

 

「『キリストの磔(はりつけ)は受身の受刑ではなく、人類に対する能動的な救済行為である』というキリスト教の教義を念頭に置いて、このシーンを見なければならないという事である」という点は「そうですよね、そうなんですよ」という感じで完全に賛成です。

 

しかしながら「いまさらエヴァンゲリオン」さんのキリスト教に対する表現をそのまま受け流してしまうとキリスト者としてはあんまりにも立つ瀬がないので、こちらの言い分として補足させてください(泣)

 

(1)「なすすべもなく磔刑にされた」について補足

→「なすすべもなく磔刑にされた」という点は確かに一面としてあるのでおおむねその理解で良いかと思います。一応「イエスは自ら十字架にかかりに行った」ととれる描写は多々あるので、それも知っといていただけるとうれしいかなぁと思います。「いまさらエヴァンゲリオン」さんがおっしゃるように【能動的な救済】だと多くのキリスト者は解釈しているわけです。

それが『旧約聖書に書かれていた預言通りであること』がキリスト者にとっては大きなポイントなので知っていただけると幸いです。

→ちなみに「十字架の磔、死、葬り、3日目の復活」のセットがキリスト教信者の信じている「大事な部分」であるため、「イエスの十字架」という言葉がが磔刑のことだけを指すわけではないことをご了承ください。

 

(2)「(前略)残された弟子達は教団の維持に困る」

→ここでいう「教団」がなんのことを指すのか実際のところはわかりませんが、この時は少なくとも「教団」の概念はないです。弟子たちが教会を作ったのは「イエスが死んで復活してまた天に昇っていって、そのあと『聖霊』が信じる人たちに送られてそれが教会(この時3000人くらい信じてたと記述がある。のちに教団的な感じに)になった」ことを知っていただけるといいかなと思います。

仮にこの「教団」という言葉が「価値のあるコミュニティ」的な意味だったとしても、少なくともキリストの十字架刑・死・復活・昇天からしばらくは『イエスを信じる人たちの集まりというのは既得権益のために守る価値のあるコミュニティではなかった』んです。

イエスの直弟子も多くも「イエスは神だ」と主張したため殉教しました。有名どころでいうと「ステファノ」(使徒行伝6章)や、「パウロ」も投獄されて死にました。

パウロはイエスの弟子達を迫害しまくったのちイエスを神だと信じた人なのですが、彼はユダヤ人のエリートでイエスを神だと信じなかった方が安定して生活できた人の代表みたいな感じです。

4世紀近くになってようやくローマで国教化されたので、既得権益を考える価値が出はじめたとしてもそれはイエスの十字架刑から何百年か後ということになります。

 

(3)「ヒネリ出されたのが、キリストは処刑されたのではなく、人の罪を償うために、自らその身を犠牲にしたのだという理屈(教義)であった」についての補足

→さっき言った通り「なんでそんな意味不明なことで人類の救済がなされたって考えるの?」という疑問があると思うのですが、ざっくり説明すると「神さまがそういう約束をしたから」「それが預言通りだから」というご理解をいただけるといいんじゃないかなと思います。

 

A牧師

くり返しになりますが「『キリストの磔は人類に対する能動的な救済行為』ということを念頭に置いておくとエヴァの理解がより深まる」という主旨には同意です

 

「この壁は決して崩れる事の無いジェリコの壁」の『ジェリコ』も聖書から

第7使徒を倒すためのユニゾン特訓中で、生活を共にしているアスカとシンジ。決戦前夜にシンジが部屋に入って来ないようにと、アスカがふすまを閉める際に言い放つ言葉です。

「この壁は決して崩れる事の無いジェリコの壁!」

ん?は、はい。えーと、まずジェリコの壁って何ですか?

(中略)

ジェリコ(イェリコ、エリコとも呼ばれることがありますが、混乱するのでこの記事ではジェリコで統一します)は町の名前です。場所は中東パレスチナ国。

(中略)

話は旧約聖書の時代になり、ヨシュア記にこのジェリコの壁が出てきます。

このヨシュア記に記載されている年代なのですが、もちろん諸説たくさんありますが、紀元前1500年前後の頃だとおもわれます。

おさらいです。紀元前8000年頃は洪水を防ぐための壁でした。それから時が経ち、紀元前1500年前後には壁は強固となり、さらに街の外側にはさらに高い周壁が建設されたと考えられています。

十戒で有名なモーゼの後継者であるヨシュアは、神から約束の地カナンを与えると告げられます。

約束に従いジェリコの街を占領しようとするヨシュア軍に対して、城門を固く閉ざすジェリコの街の人々。

当たり前ですよね、ジェリコの人たちにとっては、信仰していない神の言葉なんて知ったこっちゃありませんよね。

アスカの宣言通りに、決して崩れない鉄壁のジェリコの壁。

しかし主(神)の言葉に従い、契約の箱を担ぎ7日間壁の周りを廻り、角笛を吹くと、あっさりとジェリコの壁は崩れ去りました。

あれっ?ジェリコの壁って、決して崩れることがないんじゃなかったの?

神の前には鉄壁の壁も意味をなしませんでした。占領されたジェリコの人々は、手助けをした宿屋の女主人ラフバ(娼婦という説もあり)以外家畜も含めて全員殺されました。

神の名において、約束の地を得る為に、すべて全員惨殺です。

歴史は常に残酷です。どんなに残酷でも勝ったものが正義となります。残酷な天使のテーゼ。(引用:https://facesandnemes.com/entertainment/movie/eva-jericho)

こちらは「ばいばいアマリリス」というブログの記事です。『ジェリコの壁』というアスカのセリフから丁寧に解説してくださってますね。本記事は手描きイラスト付きでわかりやすいです、ぜひご覧ください。

 

まあこのアスカのセリフ自体はセリフ1934年のアメリカ映画「或る夜の出来事」からの引用ではないかという結論に至っているので、聖書は元ネタの元ネタというのが実際のところでしょうか。

 

「遊女ラフバ」はラハブのこと…かな?

ちょっと補足させていただくと、「占領されたジェリコの人々は、手助けをした宿屋の女主人ラフバ(娼婦という説もあり)以外家畜も含めて全員殺されました。」の『ラフバ』は『ラハブ(Rahab)』ですね。別読みでそういう発音もあるのかな?と思って調べてみたのですがなさそうなので一応。

あと、「娼婦という説もあり」と気を使って書いてくださってるかもなのですが、聖書にも思いっきり娼婦(遊女)って書いてるのでOKです。

聖書

ヌンの子ヨシュアは、シッテムから、ひそかにふたりの斥候をつかわして彼らに言った、「行って、その地、特にエリコを探りなさい」。彼らは行って、名をラハブという遊女の家にはいり、そこに泊まったが、(ヨシュア記2章1節口語訳)

ヌンの子ヨシュアは二人の斥候をシティムからひそかに送り出し、「行って、エリコとその周辺を探れ」と命じた。二人は行って、ラハブという遊女の家に入り、そこに泊まった。(ヨシュア記2章1節新共同訳)

これもかなり余談なんですが個人的にすごく好きなので語らせてください。この遊女ラハブ、イエス・キリストのご先祖の一人なんです。

MEMO
アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。

アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、アラムはアミナダブの父、アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、エッサイはダビデ王の父であった。ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、ソロモンはレハベアムの父、レハベアムはアビヤの父、アビヤはアサの父、

(中略)

エリウデはエレアザルの父、エレアザルはマタンの父、マタンはヤコブの父、ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった(マタイによる福音書1章1節〜16節)

遊女は当時の文化から考えると社会的な地位が高くはなかったと推測されます。にもかかわらず、神は時に社会的に蔑まれている立場の人を用いるのだということを感じる…という側面もけっこう語られている話であります。ですので娼婦(遊女)で全然OKです。

 

こういう話はイエス・キリストの誕生が「羊飼い」に最初に告げられた話ともリンクするように思います。(羊飼いは当時身分の低い人の仕事だった)

 

ラハブの話しに関しては個人的な思い入れが強過ぎて、もしかしたらへんなフィルターかかってるかもしれないんですけど続く『ルツ記』まで読んでくださったら本当にこの展開の胸熱さがわかっていただけるんではないでしょうか…『ルツ記』ではラハブの子供「ボアズ」が登場するんですけど、ルツ記の主人公はどっちかっていうとルツで、ボアズはルツを紳士的に助ける人として登場するんですよ…わかる!?この感じわかる!?(語彙力の低下)

 

ということで、いよいよエヴァと関係ない話で語ってしまいましたが、ラハブさんが登場する旧約聖書:ヨシュア記〜ルツ記はおすすめなんでよかったら読んでみてください。

 

ジェリコで起きた「虐殺」と「歴史は残酷」についてちょっとだけ

あと気になるとこかと思うんですが、ジェリコの城壁が崩れて虐殺が起きたことを「神の名において、約束の地を得る為に、すべて全員惨殺です。」と書かれている部分については、おそらく良い感情で書かれたことばではないだろうことを前提としますが『本当にそうですよね、なんかすみません…』という感じです。

 

私も理解に苦しみますし、祈とう会(聖書を読んだりお祈りしたりする集まり)で諸先輩がたのご意見を聞いても、みなさんやはり苦しく思いながら読み進められてるようす。クリスチャンも多くが「神はなぜこんなことをするのか」と思っています。

 

一応、キリスト者としての解釈をいくつかお伝えします。

・キリスト教は「神は人間には理解できない」という立場に立っているため、これらの行為を人間が理解できるワケではないと考えている(諸派でわりと底流している考え方だと思われる)

・神は愛であるが「義」でもあると考えている。

・ジェリコの町の繁栄は、神の目に不正と映ることによる繁栄だった(福音派)

などなどの説があります。

 

なんか奥歯にものが詰まったような話だったりご都合主義的な解釈に感じられてしっくりこないかもしれませんが、このへんは「わからないことはわからないままで耐える」というのもキリスト教の特徴の一つだと個人的に感じています。

 

ちなみに「歴史は常に残酷です。どんなに残酷でも勝ったものが正義となります。残酷な天使のテーゼ。」とまとめていらっしゃいますが、それをいうならイスラエルの民はのちにめったんめったん惨敗した民族なので(これらの出来事を「バビロン捕囚」と言います)、「勝ったものが正義」だったとしてもイスラエルの民は別段正義ではないし、聖書は勝者の歴史が書かれている書物ではないことを知っていただけると良いのかなぁと思います。

 

「エヴァにおける罪の贖い方」と「キリスト教における罪の贖い方」は実はほぼ一緒なのでは

…このように、いろんな考察があることが分かりました。が、こちょこちょまとめていると一つ、気づいたことがあります。

それは「『エヴァにおける罪の贖い方』と『キリスト教における罪の贖い方』は、トリガーがほぼ一緒で、かつリアルキリスト教のほうが実現性が高いのでは」ということです。

(※ 両者の同列比較に意味があるのかは、「母性のディストピア(宇野常寛 著)」に見る〈虚構から真剣に考えた事柄で、自分の目に映る世界を再構築する〉人間にとって必要不可避な価値を持つとご理解ください)

※贖い(あがない):贖いとは、「罪のつぐないをする / あるものを代償にして手に入れる、買い求める(大辞泉)」という意味です。

SEELEの人類補完計画は、人類の原罪からの解放が目的」という点はどのシリーズも同じかと思います。

「エヴァにおける罪の贖い方」は、人類補完計画を読み解くと…裏死海文書、胎児化したアダム、ロンギヌスの槍、4体の使徒など、様々な準備が必要でした。

そして人類補完計画を完成させる最後のカギ…「神の子の処刑(十字架刑)」がトリガーとなります。最後のトリガー「神の子の処刑」は、初号機の磔によって完成されました。


一方「キリスト教における罪の贖い」は、何をしたら良いと教えているのか?

実は、死海文書やロンギヌスの槍などを……もういちど準備する必要はない、すべきことは一つだけ、と考えます。

 

なぜなら「その準備と、最後のトリガーである神の子の十字架刑は2,000年前、現実にすでに行われていた」と考えるからです。

それが、先述した「プロトエヴァンゲリオン(原福音)」が完遂されるシーンです。

 

アダムとエバが(エデンの園で)罪を犯した時、神はサタンにこう言いました。

聖書

わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう。
(創世記3章
15節)

 

この伏線の回収が…長い分厚い聖書のクライマックスが、2,000年前の「イエス・キリストの十字架刑」なのです。

リアルのクリスチャンは、キリストの十字架刑を踏まえて「自分の罪の贖いを受け入れる」ことで、キリスト教徒になります。

そのため「もういちどロンギヌスの槍を準備する必要はなくて、神の子による血の贖いを受け入れるだけでOK」となるのです。…カンタンですね。

 

イエス・キリストは、十字架上で最後に「完成した」と言って絶命します。

 

何が完成したのか…ひとことで言うと「長い長い神の計画」なのですが、このコラムが長くなるので割愛します…Twitterとかにいるクリスチャンに聞けば教えてくれます、たぶん。

 

ということで、エヴァ 的な罪の贖い方に触れて「自分自身の罪の贖いがなされるにはどうしたらいいんだろう」とふと考えてみたくなった方に「キリスト教だったらもっとカンタンですよ」とお伝えしておきます。

 

「罪の贖い」については他にも【ストーリー本編:灰羽連盟】の回や【コラム:歪みの国のアリス】でも解説してるので、興味あれば読んでみてください。

 

ということで、ここまで「エヴァとキリスト教にまつわる考察のまとめ & 補足」でした。誰かの役に立てば幸いです。

 

余談ーいつかみ管理人②の考える共通点

ちなみに、管理人②上坂栄太がクリスチャンになってから感じた「エヴァとキリスト教の共通点」は…「処女懐胎のシーン」だそうです。

 

 

婚約中で処女であったマリアが結婚前に妊娠したということは、「別の男と寝た」と考えられてもおかしくない出来事です。2000年前の当時では、石打ちの刑に処される出来事でした。

にもかかわらず、マリアに現れて「喜びなさい(おめでとう)」と告げる御使い…(;▽;)

「TV版エヴァのシンジくんを囲んで『おめでとう』『おめでとう』と言うシーンにあるような『シンジくんの覚悟と世の理不尽さ』が、マリアのそれとシンクロした」…とのことでした。

(こんな理不尽な状態にもかかわらず御使いのお告げを受け止めたからこそ、マリアの信仰は褒められてカトリックでは率先して崇敬される存在になっているのですけれど)

 

お知らせ

当ページについては、「エヴァとキリスト教の考察」についての情報をどんどん継ぎ足していきたいと考えています。

コメント欄などに寄せられたご意見は、本記事内の趣旨に沿うものである限り記事内に書き加えていきます。考察記事を書かれたブログ記事の紹介などもさせていただきます。

「エヴァとキリスト教」についてご意見をお持ちの方はお寄せ下さい。

 

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