こんにちは。人気マンガやアニメから聖書を解説していくWEBサイト【いつかみ聖書解説】です。
「新世紀エヴァンゲリオン」は、90年代を代表するアニメ作品の一つです。様々なメディアミックスが行われ、社会現象を巻き起こしました。
この「新世紀エヴァンゲリオン」、『キリスト教と関連がある』とよく言われる作品でもあります。でも実際に見てみたら、どういうふうに関係しているのかイマイチわからない…という意見も耳にします。
私自身、大学生時代キリスト教のことを知りたいと思ったものの聖書がよくわからなくて、『オマージュされているらしい』と噂のエヴァについて調べてみようと思ったところ…さらによく分からなくなった記憶があります。
A牧師
クリスチャンになった今、エヴァのことを調べてみると改めて見えてくるものがありました。ということで今回は「エヴァと聖書・キリスト教関係の考察」をまとめてみました。
▼こんな記事もあります
【エヴァンゲリオン等】クリスチャンは意外と「リリス」を知らないって知ってた?
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目次
エヴァンゲリオンに聖書はどう引用されているのか考察~前半~
前半は、聖書・キリスト教にくわしかったり、自分自身がキリスト教徒であってその文脈に身を置いているとおぼしき方々の考察を中心に集めました。
ベースは東洋思想。聖書はイメージとして使用されている
東洋思想のベースに聖書的イメージをちりばめる
・・・興味深いことに、アブラハム的宗教のヘビーな使用にもかかわらず、作品の文脈は完全に東洋思想なのだ。
主客未分離の「無」へ回帰したいという願望(主人公の碇シンジは生命のスープに溶け込んだり、サード・インパクトの後再度個体になるべきか迷ったりする)、そしてテクノアニミズムの特徴もある(エヴァには魂があるようだし、そうでないとしても、人間と一体化できる)
(引用:ポップカルチャーを哲学するp117より)
コラムでも紹介した書籍「ポップカルチャーを哲学する」の考察です。こちらも「エヴァで用いられている聖書的なモチーフはあくまでイメージ」であり、思想的には東洋思想に近いと考えられているようです。
人は神になれるのか?
【見出し】
#「人類補完計画 ≒ 人間による主の再臨」という新(?)解釈
#人類補完計画(サードインパクト)と主の再臨の類似点
-①黙示録の天使の数と使徒の数18体
-②人類の罪に決着がつく
-③サードインパクトで「十字架」が登場する#碇ゲンドウ ー 「自らを神としようとする」のは人類が誰しも持つ欲動
#人は神になれるのかー人は「人」を創れるか?
#エヴァと聖書の「愛」 ー 碇シンジがたどり着いた「愛」
人類補完計画を「人間による主の再臨」だと考察したのがこちらのコラム。いつかみ聖書解説に寄稿していただきました。
庵野監督が「自分の世界観を表現するダシとして使いました」が適切じゃないか
成長発達主義的物語の中で、母性には、かつて生まれたての幼子だった自己への退行的欲望の辿り着く先としての由来が託される一方、恋人としての女性には将来でも由来でもない、今この瞬間の掛け替えのない個性が託される。既に古典的アニメとして不動の地位を獲得した『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』での、一切を胎内回帰的個我溶解の海の中に包み込んでいく「人類補完計画」のキーパーソンたるヒロイン綾波レイと、人類補完計画を拒絶した主人公碇シンジに「キモチワルイ」という、受容的な母性とは打って変わって冷ややかな一言を浴びせるもう一人のヒロイン、跳ねっ返り娘の惣流・アスカ・ラングレーは、この二つのタイプの女性像の相違を誇張的に表している。実際はレイとアスカの様に母性的存在と扱いづらい反発的な個我の持ち主が別々に役割分担して存在するというより、女性であれば一人物が両義的な期待を込めて男性から見られもすれば、彼女自身実際その様に差異をはらみながら存在してもいる、という方が近いだろう。
(引用:フェミニストとアンチフェミニスト両方向け、キリスト教の男女観、あるいは進化、保革左右、そしてキリスト教(前篇)l
こちらは「新世紀エヴァンゲリオンの考察」ではなくて『フェミニスト問題に興味のある思想家やサイコビジネス界隈の方々が、往々にして”キリスト教の人間観”を見誤っている』という主旨のnoteなのですが、ハナシの途中に新世紀エヴァンゲリオンへの言及があったので抜粋しました。
書き手のsagtmodさんは、キリスト信仰を持っていないことを自認されていますが”神学書や教導書や神学論文を、大した量ではないものの一般の日本人よりは多く読み漁った”とのことで、かなり読みごたえがあります。
人はしばしば、キリスト教やユダヤ教の様な父権的一神教は、この母性的な原風景から良くも悪くも人間を引き離し、個人として自立させ、大人としての規律や規範を叩き込む宗教だと思っている。
(引用:フェミニストとアンチフェミニスト両方向け、キリスト教の男女観、あるいは進化、保革左右、そしてキリスト教(前篇))
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母に甘えれば多神教だが父に服せば一神教なのではない。母も父も、男も女も子供も、全ての在り方を変えてしまうのがキリスト教である。保革左右、殆どすべての立場の思想家が、この事を解っていない。 キリスト教の三位一体の神は人間を原風景から引き離すのではなく、原風景の内容を書き換えてしまう。
いや寧ろ、原風景として私達が母子癒着を思い描く時、その風景は、真の原風景を喪失した後のイリュージョンとして心を満たす、偽りの、まやかしの原風景にすぎない、と、私達の発見の順番と生じた事実の順番を逆に提示する。それがキリスト教の創造と堕落の物語なのである。
とはいえ、ご本人は「庵野監督が自分の世界観を表現するダシとしてキリスト教を使いました、という理解が適切」とされていますので、ご了承のうえで、
「新世紀エヴァンゲリオンを自ら考察していきたい!だから聖書知識を知りたい…」という本格派な方はどうぞ。
(基礎的な知識が必要とされますが、ある意味自分の聖書理解の度合い確認コンテンツのように読むこともできます)
→フェミニストとアンチフェミニスト両方向け、キリスト教の男女観、あるいは進化、保革左右、そしてキリスト教(前篇)
→後篇は現在執筆中とのことです
聖書では福音(エヴァンゲリオン)を告げ知らせる人達が「使徒」
キリストを信じる時、罪が赦され、救われるというこの「良い知らせ」が福音なのです。作中では、エヴァンゲリオンは人類を守る存在として描かれています。同様に人類を救うために戦うという意味で、エヴァンゲリオンと名付けられたのかもしれません。
(引用:https://mythpedia.jp/christianity/eva.html
「使徒」はギリシャ語では「アポクリプス」で、日本語では「遣わされた者」という意味になります。聖書ではキリストの弟子の中でも教会のリーダーとして選ばれた人達を指します。
(引用:l
かつて新約聖書が編纂された時、様々な文書の中で使徒が書いたものだけが聖書として認められたという背景があるぐらい、使徒は神に遣わされた者として尊敬されていました。
作中では使徒とエヴァンゲリオンは常に対立しているわけですが、聖書では福音(エヴァンゲリオン)を告げ知らせる人達が使徒です。つまり本来は対立するものではないのです。
エヴァンゲリオンはあまりに複雑すぎる作品であるため、この矛盾を説明できるエピソードが存在するかどうかもわかりません。
こちらは「MYTHPEDIAミスペディアー神話や伝説、ロマン溢れる情報をあなたへー」という、『現役牧師が解説する新世紀エヴァンゲリオンと聖書の関係』というコラムからの紹介です。
このほかにも
・ファーストインパクト、セカンドインパクト、サードインパクト
・人類補完計画
・「生命の実」と「知恵の実」
についても紹介・解説されてあります。
※あくまで「作中に登場する用語に含まれる聖書的な要素を発見し、元々の聖書での意味と作中で使われている意味を比較」とのことです。
エヴァにおける聖書ギミックをより詳細に解説している動画
「ギミック利用にすぎない」というのも味気なさすぎるので、エヴァンゲリオンに登場する聖書の用語をガッツリ解説した動画を紹介します。
グノーシス主義と「新世紀エヴァンゲリオン」について
「グノーシス主義と新世紀エヴァンゲリオンの関係が知りたい」という方も一定数いらっしゃるようで、それらにまつわる言及をいくつか紹介していきます。
「ユダヤ教がゼーレの神学、グノーシズムがゲンドウの神学、両者を拒絶するのがシンジの神学」宮台真司講演より
過去を背負う一神教と、未来を追求する一神教と言ってもいい。未来を追求する一神教という意味で、アメリカのエヴァンジェリカルズ(福音諸派)的な新教に似る面もあります。こうした二種類の一神教的な救済観に、これらを拒絶する主人公の救済観が対峙します。
グノーシズムを若干説明しますと、ルシファへの解釈が旧約正典と真逆です。ルシファは「光の人」という意味で、ギリシア神話のプロメテウス(火をもたらす者)に相当します。土俗のルーツにおいては「悪魔」という意味ではなかったのではないか、と推測されています。
しかし、ユダヤ教の正統神学やキリスト教の正統神学の立場では「悪魔」です。アダムとイブを唆して「禁断の実を食べさせたからです。それで人間に知恵がついたことが原罪で、原罪に向けて唆したのでルシファは悪魔だ、という話になっているわけですね。ところがグノーシズムでは──ちなみにキリスト教の異端派だとされますが由来はそれ以前からの流れがあります──人間を動物としてエデンの園につなぎ止めるヤーウェから解放し、全知の神ソフィアに近づくチャンスを与えたのがルシファだ、と善玉扱いなのです。
『エヴァンゲリオン』では、ルシファを悪玉扱いし、人間に原罪の償いを要求するユダヤ教に近い役割が、ゼーレの神学です。他方、ルシファを善玉扱いし、人間に全知への飛翔を要求するグノーシズムに近い役割が、ゲンドウの神学です。両者を拒絶するのがシンジの神学です。
(引用:「講演 『正しさ』の不可能性と現代宗教—現代における宗教の存在意義と宗教者の役割— 宮台真司」
宮台 真司(@miyadai)氏は日本の社会学者、映画批評家の方だそうです。(編集者があまり詳しくなくてすみません…)
内容はグノーシス主義との対比だけでなく「エヴァンゲリオンと救済の神学」「エヴァンゲリオンに見る神学構造」など盛りだくさんですので、じっくりお読みいただければと思います。
エヴァ二次創作の在り方と聖書の聖典系譜の在り方
ある意味でグノーシス主義は二次創作の走りを生んだのだ。だが、なお正典となった福音書ですら一つの書物では福音、あるいはイエスの全体を描きだすことができなかったのであろう。マタイ、ルカ、そしてヨハネがマルコの後に続く。エヴァも、漫画版と新劇場版が公式から提供された。
マルコにはマルコの、マタイにはマタイの神学がある。なるほどマルコはわざわざ地の文で、弟子たちはパン種とはパリサイ人とサドカイ人のことだったと悟ったなどとは書いていないし、TV版の葛城ミサトは漫画版ほど説明口調ではなかった。あまりにも少ない最低限の情報しか提供していなかった最初の作品に、後発の作品が解説を入れる必要を感じるのは自然なことだ。
(中略)
このような対比が私たちに指し示すことは、一つの物語をそれぞれ読んでいくことの大事さ、そして、相互対応の限界である。
すなわち、「渚カヲルにシンジが当初どのくらい友好的だったか」という問いが無意味であるように、「イエスはあわれんで」というすべてに共通ではない描写を福音書間で照らし合わせて統合して理解しようとすることの危険性である。
(引用 : http://www.kirishin.com/2016/11/15/13831/)
こちらはキリスト新聞社が発行しているMinistiryという季刊誌の中の「空想神学読本」というコラムからの引用です。
エヴァが日本社会に及ぼした「コンテンツとしての歴史」と聖書が紡いできた歴史との相似的考察というか、内容そのものではなくメタ視点でのお話しですね。
そのほか、牧師やキリスト教徒の「新世紀エヴァンゲリオン」のつぶやき
折り返し地点です!「5分でキリスト教のヤバさ」を頭に入れる動画
ここで「キリスト教そのものをなんとなく知れる動画」を紹介します。
これを観ると、エヴァがどういう風にキリスト教や聖書を利用しているのかより見えてくる…かもしれません。
エヴァンゲリオンに聖書はどう引用されているのか考察~後半~
ここからは、WEBで見つけた「新世紀エヴァンゲリオン」とキリスト教考察ですが、キリスト教描写に若干の訂正・補足があるものを紹介していきます。
旧約聖書の基本設定が生きている(管理人からの補足あり)
以上のように、旧約聖書における
・ヒトは知恵の実(科学)を手にいれたが、それは罪であり、人類は楽園を追われたこと。
・ヒトが生命の木に近づく前に、神の使い(使徒)が現れて邪魔をすること。
・知恵の実と生命の実を合わせれば神と同等になれること
という3つの流れは、エヴァンゲリオンにおいてもほぼそのまま用いられていることがわかります。
(引用:http://anime-room.jp/modules/evangelion/eva-doc/chu1.htm)
こちら「アニメの部屋」さん記事では「人間と神との関係を示す3つの基本設定が、エヴァの中でもそのまま生きている」という考察をされています。
これに関してはキリスト者から少々補足させていただきたい点がありましたのでちょっと補足してみます。
(※)これは過去の私のように「逆輸入的にエヴァからキリスト教を知ろうとした人間」のための補足とも言えます。「アニメの部屋」さんのエヴァ解釈への訂正ではありませんのでご理解ください。
①「ヒトは知恵の実(科学)を手にいれたが、それは罪であり、人類は楽園を追われた」についての補足
まず「知恵(の実)=科学」という表現なのですが、これは実際のとこは「知恵 ≧科学」かなぁと思うので一応補足を。聖書で「知恵」とは「善悪を知る木(の実)[口語訳]」「善悪の知識の木(の実)[新共同訳/新改訳]」と書かれています。英語とヘブライ語で見てみましょう。
“~ the tree of life also in the midst of the garden, and the tree of knowledge of good and evil.(KJV Genesis 2:9)”
2:9 “וְעֵץ הַֽחַיִּים בְּתֹוךְ הַגָּן וְעֵץ הַדַּעַת טֹוב וָרָֽע׃”
(ヘブライ語が分かる方からコメントをいただきましたので追記修正しました。管理人は読めません。なお、ヘブライ語のテキストコピーは Blue Letter Bible からいただきました。)
で、この「善悪の知識」というのは「善から悪に至るまでの全ての知識」という意味合いだそうです(メリスムスという修辞技法で解釈すると)。なので「科学も含むすべての知識」という感じなんだとか。
『善悪の知識=科学ってワケじゃなかったとしても、賢くなるのが罪って考え方に変わりないんでしょ?』というと、そこからが要補足なのですが「聖書を信じる人たちは、賢くなることが罪」と考えているわけではありません。
ここで罪と呼ばれているのは「神のようになりたいという動機」と「神さまとの約束を破ったこと」です。
かつ「罪を犯したから楽園を追われた」という表現も『神さまが怒ってアダムとイブを楽園から追いやった』という印象にもとれるので「ちょっと違うねん」ということを2つの視点から補足します。
長くなるので、興味のある方だけタップしてみてください。
主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。
わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう。
(創世記3章14節〜15節)
これは『プロトエヴァンゲリオン(プロトエヴァンジェリウム)』と言って「原福音」と呼ばれているものです。これは聖書中で一番最初の救世主預言であり、文章そのものからは神の怒りが人そのものに向けられているわけではないことが読み取れます。
(※この箇所がなぜイエスを指すのかという点については本論ではないのでここでは省きますが、すごく深いのでよければお近くの教会でお尋ねしてみてください)
主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せた
(創世記3章23節)
「追い出したものの、しっかりとした衣服を着せてやる」という描写があるため、「怒り心頭してで勘当した」という感じではないことがわかります。「皮の着物」ということは、ここで動物の犠牲が払われていることを示唆するものでもあり、それもまた人間への愛が読み取れます。
※そもそも「そんなに悲しかったなら追い出さなかったらいいのに」という疑問については「神は義でもあるから、約束を破れない」といった説明がなされることが多いです(福音派では)。いずれも「人間は神を完全に理解することはできない」という考え方は福音派に限らず諸キリスト教派のなかでは一般的かと思います。
※「皮の着物がどうやって作られたか」が気になる人もいるかもしれませんが(「神が自分で作ったのか?人間に知恵を与えて作ったのか?など)ここは解釈の幅があるようです。しかし、ここでの主題は「神がアダムとイブの即座に必要なものを与えた」という点であることは明白なので特に深くふれません。
A牧師
②「ヒトが生命の木に近づく前に、神の使い(使徒)があらわれて邪魔をする」
該当する聖書箇所はここですね。
そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。
(創世記3章23節24節)
【ケルビムとは】ケルビムは天的存在の象徴で、一般に手足を持つ有翼の像として表現された。
彼らは人間の理性と動物の威力を合わせ持つと考えられ、超人的な力を象徴している。創世記でケルビムはエデンの園にあるいのちの木を守るために置かれていた
(「新聖書辞典(いのちのことば社)」ケルビム項より)
もちろん、聖書中の『ケルビム』と『使徒』は違うものなので、仮に「エヴァから逆輸入で聖書を知りたい」という場合はそこだけご注意くださればいいのかなーと思います。
※『使徒』については「ミスペディア」さんの項目で紹介しています。
I牧師
大きな補足は特にありませんね
③「知恵の実と生命の実を合わせれば神と同等になれる」について補足
ここも大きくは補足はないのでちょっとだけ。「知恵の実と生命の実を合わせれば神と同等になれる」というのは、聖書を読む限りだと『可能性はある』くらいな感じのようです。
主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創世記 2章16-17節)
【参考】
いのちの木と善悪の知識の木とは、本物の木だったのだろうか。そこには2つの見解がある 。(1) 「木は実在したが、象徴的なものだった」。いのちの木から食べることは、神とともに永遠を過ごすことを象徴していた。
(2)「木は実在し、特別な性質を持っていた」。いのちの木から実を食べることで、アダムとエバは永遠いのちをのちを持つことができた。そして神の子として神との永久的な関係を楽しむことができたはすだった。
いずれにせよ、アダムとエバの罪は、いのちの木から彼らを遠ざけ、永遠のいのちを得ることはできなくなった。興味深いことに、いのちの木の記述は、人々が神と永遠の生活を楽しんでいる様子を示す黙示22章に再び現れる。
(「バイブルナビ新改訳解説・適用付」p .8)
A牧師
「磔(はりつけ)は人類に対する能動的な救済行為である」というキリスト教の教義を念頭に置かなくてはならないシーンがある
十字架のかたちに羽根を広げ、槍をつきつけられた初号機の姿は、キリストの磔刑(たっけい)を象ったものである。
以下は常識に類する事だが、補足しておく。キリストが十字架にかけられて処刑されたのは、その教えがユダヤ教守旧派と為政者に脅威を与えたからだが、「奇跡」を売り物にしていた教祖が、なすすべもなく死刑に処せられたというのでは、残された弟子達は教団の維持に困るワケである。
そこでヒネリ出されたのが、キリストは処刑されたのではなく、人の罪を償うために、自らその身を犠牲にしたのだという理屈(教義)であった。
何が言いたいかというと、「キリストの磔(はりつけ)は受身の受刑ではなく、人類に対する能動的な救済行為である」というキリスト教の教義を念頭に置いて、このシーンを見なければならないという事である。
(引用:http://roz.my.coocan.jp/animeroom/eva_complt.htm)
こちら「いまさらエヴァンゲリオン」というWEBサイトからの引用です。こちらもエヴァの理解のための考察なのですが、仮に「エヴァからキリスト教を知りたいと思った人」がいた時のために補足してみます。初号機が磔刑になるシーンの解説についてです。
「『キリストの磔(はりつけ)は受身の受刑ではなく、人類に対する能動的な救済行為である』というキリスト教の教義を念頭に置いて、このシーンを見なければならないという事である」という点は「そうですよね、そうなんですよ」という感じで完全に賛成です。
しかしながら「いまさらエヴァンゲリオン」さんのキリスト教に対する表現をそのまま受け流してしまうとキリスト者としてはあんまりにも立つ瀬がないので、こちらの言い分として補足させてください(泣)
「なすすべもなく磔刑にされた」という点は確かに一面としてあるのでおおむねその理解で良いかと思います。
ただ、一応「イエスは自ら十字架にかかりに行った」ととれる描写は多々あるので、それも知っといていただけるとうれしいかなぁと思います。それもあって、イエスの十字架刑とは「いまさらエヴァンゲリオン」さんがおっしゃる通り【能動的な救済】だと多くのキリスト者に解釈されているわけです。
それが『旧約聖書に書かれていた預言通りであること』がキリスト者にとっては大きなポイントなので知っていただけると幸いです。
ちなみに「十字架の磔、死、葬り、3日目の復活」のセットがキリスト教信者の信じている「大事な部分」であるため、「イエスの十字架」という言葉がが磔刑のことだけを指すわけではないことをご了承ください。
ここでいう「教団」がなんのことを指すのか実際のところはわかりませんが、この時は少なくとも「教団」の概念はないです。
弟子たちが教会を作ったのは「イエスが死んで復活してまた天に昇っていって、そのあと『聖霊』が信じる人たちに送られて、それが教会(この時3000人くらい信じてたと記述がある。のちに教団的な感じに)になった」ことを知っていただけるといいかなと思います。
仮にこの「教団」という言葉が「価値のあるコミュニティ」的な意味だったとしても、少なくともキリストの十字架刑・死・復活・昇天からしばらく、イエスを信じる人たちの集まりというのは既得権益のために守る価値のあるコミュニティではありませんでした。
イエスの直弟子も多くも「イエスは神だ」と主張したため殉教しました。
とにかくイエスが復活する以前の使徒たちはあまりにも情けない。イエスが夜中に祈っていてもみんな寝てしまったりする。師の言葉を理解できない彼らはついにはイエスを見捨ててしまう。
(引用:「キリスト十二使徒は、どんな最期だったのですか?信じる者は救われたのでしょうか?」)
しかしながらそんな十二使徒たちはイエスの復活そして昇天後に別人の如くに死をも厭わぬ勇敢な伝道者となる。ヨハネ以外の全ての使徒がイエス同様に無残な死を迎えるわけですが、彼らに悔いはなかったはずです。愛するイエスの言葉のために殉じて死を迎えたのですから。そして偉大な行為として語り継がれていった使徒たちの殉教は後のキリスト教の発展のために甚大なる影響を及ぼしました。殉教者は決して無駄には死ななかった。救われたはずです。
寝食を共にし、身近に師イエスの謦咳に接していながらも師を全く理解せず、ついには師を見捨てて逃げ出した弱い使徒たちがイエスの死後に強い信仰の人として殉教したことが「死んだはずのイエスが復活したのは本当だったのではないか」と全ての人に考えさせずにはいられないのです。何があったのか?復活とは何なのか?
イエスの直弟子ではないですが、有名どころでいうと「ステファノ」(使徒行伝6章)や、「パウロ(サウロ)」も投獄されて死にました。パウロはイエスの弟子達を迫害しまくったのちイエスを神だと信じた人なのですが、彼はユダヤ人のエリートでイエスを神だと信じなかった方が安定して生活できた人の代表みたいな感じです。
(↑パウロのエピソードを知ってるとクスッとなるネタですね)
教父たちが活躍し始めた時代、キリスト教はパレスティナというローマ帝国の一辺境から興った一民族宗教にしか過ぎず、思想的にも法律的にもなお弱体の状態に置かれていた。
(A.ラウス/水落健治訳「キリスト教神秘思想の源流 プラトンからディオニシオスまで」訳者あとがきp.354)
キリスト教は4世紀近くになってようやくローマで国教化されたので、既得権益を考える価値が出はじめたとしてもそれはイエスの十字架刑から何百年か後ということになります。
「イエスを神と信じる人たちの集まり」というのは、あくまで自発的な共同体だったと考えるのが歴史的に見て妥当かと思われます。
▼こちらでも少し解説
これもよく散見される意見なのですが、キリスト教の中心的教義「イエスの十字架での死・葬り・復活によって人間と神の和解がなった」は、信じている人たちの共同体から生まれたものであり、この表現は誤謬な気がします。
キリスト教の聖書とは、司教たちが山積みの書物を目の前にして座り、それぞれの長所を議論し、入れるもの外すものの山により分けた結果ではなかった。一連の書物が人気を得るにつれて、数世代きわたってゆっくり選別されていく、ゆるやかな作用だったのである。
(ロバート・ルイス・ウィルケン著/大谷哲・小坂俊介・津田拓郎・青柳寛俊訳/白水社「キリスト教一千年史 地域とテーマで読む 上」
p.74〜75)
今なお、多くの人々はーー良質の教育を受けたキリスト教徒たちですらーー、キリスト教の教説の発展を非歴史的な現象とみなしている。すなわち彼らは自動的に、キリスト教の教義は歴史上一度きり、不変なものとしてイエスの説教によって啓示されたのだ、という考えから出発している。女神アテナがゼウスの頭から生まれたように、それは、ちゃんと装備を身に帯びた形で一時に生まれたというわけである。これと全く対立する、同様に非歴史的な見方によれば、キリスト教の教説は、司教冠を戴き、自分たちの考えを専制的な手段でこの世に押しつけた、そのような権力亡者たちがでっち上げたものなのだ、となる。実際には、キリスト教の教説は、しばしば非常に高いレベルで行われた、何世紀にも及ぶ論争の結果であり、三二五年のニカイア信条の確定をその暫定的な終点とするところのものである。
(J.ファン・デル・フリート著/戸田聡訳「解読 ユダの福音書」p.271)
従来、キリスト教の歴史は、原始教会において成立した「純粋な福音」が様々な宗教・哲学思想との葛藤の中で次第に異質なものを排除し、自己を確立して行く過程として理解されてきた。「正統教会」はすでに原始の中に存在しており、「異端」はこれに矛盾する宗教の形態である、と単純に考えられてきたのである。しかし、本書(「キリスト教神秘思想の源流 プラトンからディオニシオスまで」)の記述を読めば、事態がそれほど単純なものでないことが分かるだろう。すでにキリスト教神学形成の最初の段階においてアレクサンドリアのフィロンのようなユダヤ教思想家が重要な役割を果たしていたし、後に異端とされたオリゲネスがキリスト教神学の形成に果たした役割もきわめて大きい。さらに、修道院やディオニシオス・アレオパキタに関する本書の記述(第六章、第八章)を読めば、「正統」と「異端」とが歴史的に極めて複雑に関わっており、キリスト教はむしろ両者の錯綜した絡み合いの中で発展していったことが明らかとなるのである。
(A.ラウス/水落健治訳「キリスト教神秘思想の源流 プラトンからディオニシオスまで」訳者あとがきp.359)
作家で、キリスト教弁証的な書物を書いたC.S.ルイスなども、
人間が考えた設定だったらもうちょっとマシにする(意訳)
と言っており、少なくとも「キリスト教は権力者が作った宗教」的な言い方をしてしまうのはあまりおススメではありません。
(日本人の多くはキリスト教にくわしくないのでもしかしたら気づかれないのかもしれませんが)
…で、まぁ、となると「じゃあなんでそんな意味不明なことで人類の救済がなされたって信じられるの?」というところにギモンが続く方もいらっしゃるかもしれませんが、ここではあまり触れません。
すごくカンタンに言うと「神さまがそういう約束をしたから」「それが預言通りだから」などなど、それなりにしかるべきロジックがあってクリスチャンはそう信じている…というような要素が複合的にからみあっている、とご理解をいただけると助かります。
▼「イエスの預言」についてのまとめ
A牧師
「この壁は決して崩れる事の無いジェリコの壁」の『ジェリコ』も聖書から
第7使徒を倒すためのユニゾン特訓中で、生活を共にしているアスカとシンジ。決戦前夜にシンジが部屋に入って来ないようにと、アスカがふすまを閉める際に言い放つ言葉です。
「この壁は決して崩れる事の無いジェリコの壁!」
ん?は、はい。えーと、まずジェリコの壁って何ですか?
(中略)
ジェリコ(イェリコ、エリコとも呼ばれることがありますが、混乱するのでこの記事ではジェリコで統一します)は町の名前です。場所は中東のパレスチナ国。
(中略)
話は旧約聖書の時代になり、ヨシュア記にこのジェリコの壁が出てきます。
(中略)
十戒で有名なモーゼの後継者であるヨシュアは、神から約束の地カナンを与えると告げられます。約束に従いジェリコの街を占領しようとするヨシュア軍に対して、城門を固く閉ざすジェリコの街の人々。
(中略)
アスカの宣言通りに、決して崩れない鉄壁のジェリコの壁。しかし主(神)の言葉に従い、契約の箱を担ぎ7日間壁の周りを廻り、角笛を吹くと、あっさりとジェリコの壁は崩れ去りました。
あれっ?ジェリコの壁って、決して崩れることがないんじゃなかったの?
神の前には鉄壁の壁も意味をなしませんでした。占領されたジェリコの人々は、手助けをした宿屋の女主人ラフバ(娼婦という説もあり)以外家畜も含めて全員殺されました。神の名において、約束の地を得る為に、すべて全員惨殺です。
歴史は常に残酷です。どんなに残酷でも勝ったものが正義となります。残酷な天使のテーゼ。
(引用:https://facesandnemes.com/entertainment/movie/eva-jericho/2020年11月23日現在)
こちらは「ばいばいアマリリス」というブログの記事を引用させていただきました。『ジェリコの壁』というアスカのセリフから丁寧に解説してくださってますね。本記事は手描きイラスト付きでかなりわかりやすく書いてくださってますので、ぜひご覧ください。
こちらの「ばいばいアマリリス」さんの記事では、このアスカのセリフ自体は1934年のアメリカ映画からの引用ではないかという結論に至っているので、聖書は元ネタの元ネタというのが実際のところでしょうか。(詳細は「ばいばいアマリリス」さんへ)
「遊女ラフバ」はラハブのこと…かな?
ちょっと補足させていただくと、「占領されたジェリコの人々は、手助けをした宿屋の女主人ラフバ(娼婦という説もあり)以外家畜も含めて全員殺されました。」の『ラフバ』は『ラハブ(Rahab)』ですね。別読みでそういう発音もあるのかな?と思って調べてみたのですがなさそうなので一応。
あと、「娼婦という説もあり」と気を使って書いてくださってるかもなのですが、聖書にも思いっきり娼婦(遊女)って書いてるのでOKです。
ヌンの子ヨシュアは、シッテムから、ひそかにふたりの斥候をつかわして彼らに言った、「行って、その地、特にエリコを探りなさい」。彼らは行って、名をラハブという遊女の家にはいり、そこに泊まったが、(ヨシュア記2章1節口語訳)
ヌンの子ヨシュアは二人の斥候をシティムからひそかに送り出し、「行って、エリコとその周辺を探れ」と命じた。二人は行って、ラハブという遊女の家に入り、そこに泊まった。(ヨシュア記2章1節新共同訳)
これもかなり余談なんですが個人的にすごく好きなので語らせてください。この遊女ラハブ、イエス・キリストのご先祖の一人なんです。
アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、アラムはアミナダブの父、アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、エッサイはダビデ王の父であった。ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、ソロモンはレハベアムの父、レハベアムはアビヤの父、アビヤはアサの父、
(中略)
エリウデはエレアザルの父、エレアザルはマタンの父、マタンはヤコブの父、ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。(マタイによる福音書1章1節〜16節)
遊女は当時の文化から考えると社会的な地位が高くはなかったと推測されます。にもかかわらず、神は時に社会的に蔑まれている立場の人を用いるのだということを感じる…という側面もけっこう語られている話であります。ですので娼婦(遊女)で全然OKです。
こういう話はイエス・キリストの誕生が「羊飼い」に最初に告げられた話ともリンクするように思います。(羊飼いは当時身分の低い人の仕事だった)
ラハブの話しに関しては個人的な思い入れが強過ぎて、もしかしたらへんなフィルターかかってるかもしれないんですけど続く『ルツ記』まで読んでくださったら本当にこの展開の胸熱さがわかっていただけるんではないでしょうか…『ルツ記』ではラハブの子供「ボアズ」が登場するんですけど、ルツ記の主人公はどっちかっていうとルツで、ボアズはルツを紳士的に助ける人として登場するんですよ…わかる!?この感じわかる!?(語彙力の低下)
▼「ルツ記」はこっちでも解説してます
ということで、いよいよエヴァと関係ない話で語ってしまいましたが、ラハブさんが登場する旧約聖書:ヨシュア記〜ルツ記はおすすめなんでよかったら読んでみてください。
ジェリコで起きた「虐殺」と「歴史は残酷」についてちょっとだけ
あと気になるトコかと思うんですが、ジェリコの城壁が崩れて虐殺が起きたことを「神の名において、約束の地を得る為に、すべて全員惨殺です。」と書かれている部分については(おそらく良い感情で書かれたことばではないだろうことを前提として)『本当にそうですよね、なんかすみません…』という感じです。
私も理解に苦しみますし、祈とう会(聖書を読んだりお祈りしたりする集まり)で諸先輩がたのご意見を聞いても、みなさんやはり苦しく思いながら読み進められてるようす。クリスチャンも多くが「神はなぜこんなことをするのか」と思っています。
一応、キリスト者としての解釈をいくつかお伝えします。
・キリスト教は「神は人間には理解できない」という立場に立っているため、これらの行為を人間が理解できるワケではないと考えている(諸派でわりと底流している考え方だと思われる)。
・神は愛であるが「義」でもあると考えている。
・ジェリコの町の繁栄は、神の目に不正と映ることによる繁栄だった(福音派)。
などなどの説があります。
なんか奥歯にものが詰まったような話だったりご都合主義的な解釈に感じられてしっくりこないかもしれませんが、このへんは「わからないことはわからないままで耐える」というのもキリスト教の特徴の一つだと個人的に感じています。ちなみに
「歴史は常に残酷です。どんなに残酷でも勝ったものが正義となります。残酷な天使のテーゼ。」
とまとめていらっしゃいますが、それを言うならイスラエルの民はのちにめったんめったん惨敗を繰り返しており、なんなら今日にいたるまで負け続けていると称してもいいのではないかなと言う感じですし、
(ユダヤ民族が歴史的に迫害されていることは、ごく最近あったホロコーストなどの出来事からもご存じかと思います。また、キリスト教徒のなかにも反ユダヤ主義はおり、ユダヤ民族に対する思いはかなり複雑で千差万別です。かなり根源的なキリスト教のことにさかのぼれば、イエスを十字架にかけることを望んだのはユダヤの人々です。負け続けているけれど生き残っている、というところに妙味があるのですね)
聖書は「勝者の歴史が書かれている書物ではない」ことは頭の片隅に置いていただけると良いのかなぁと思います。
→【新世紀エヴァンゲリオン】の【ジェリコの壁】ってなんだろう?元ネタは古典的名作映画から?(ばいばいアマリリス)
「エヴァにおける罪の贖い方」と「キリスト教における罪の贖い方」は実はほぼ一緒なのでは
…このように、いろんな考察があることが分かりました。が、こちょこちょまとめていると一つ、気づいたことがあります。
それは「『エヴァにおける罪の贖い方』と『キリスト教における罪の贖い方』は、トリガーがほぼ一緒で、かつリアルキリスト教のほうが実現性が高いのでは」ということです。
(※ 両者の同列比較に意味があるのかは、「母性のディストピア(宇野常寛 著)」に見る〈虚構から真剣に考えた事柄で、自分の目に映る世界を再構築する〉人間にとって必要不可避な価値を持つとご理解ください)
※贖い(あがない):贖いとは、「罪のつぐないをする / あるものを代償にして手に入れる、買い求める(大辞泉)」という意味です。
「SEELEの人類補完計画は、人類の原罪からの解放が目的」という点はどのシリーズも同じかと思います。
「エヴァにおける罪の贖い方」は、人類補完計画を読み解くと…裏死海文書、胎児化したアダム、ロンギヌスの槍、4体の使徒など、様々な準備が必要でした。
そして人類補完計画を完成させる最後のカギ…「神の子の処刑(十字架刑)」がトリガーとなります。最後のトリガー「神の子の処刑」は、初号機の磔によって完成されました。
一方「キリスト教における罪の贖い」は、何をしたら良いと教えているのか?
実は、死海文書やロンギヌスの槍などを……もういちど準備する必要はない、すべきことは一つだけ、と考えます。
なぜなら「その準備と、最後のトリガーである神の子の十字架刑は2,000年前、現実にすでに行われていた」と考えるからです。
それが、先述した「プロトエヴァンゲリオン(原福音)」が完遂されるシーンです。
アダムとエバが(エデンの園で)罪を犯した時、神はサタンにこう言いました。
わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう。
(創世記3章15節)
この伏線の回収が…長い分厚い聖書のクライマックスが、2,000年前の「イエス・キリストの十字架刑」なのです。
リアルのクリスチャンは、キリストの十字架刑を踏まえて「自分の罪の贖いを受け入れる」ことで、キリスト教徒になります。
そのため「もういちどロンギヌスの槍を準備する必要はなくて、神の子による血の贖いを受け入れるだけでOK」となるのです。…カンタンですね。
イエス・キリストは、十字架上で最後に「完成した」と言って絶命します。
何が完成したのか…ひとことで言うと「長い長い神の計画」なのですが、このコラムが長くなるので割愛します…Twitterとかにいるクリスチャンに聞けば教えてくれます、たぶん。
ということで、エヴァ 的な罪の贖い方に触れて「自分自身の罪の贖いがなされるにはどうしたらいいんだろう」とふと考えてみたくなった方に「キリスト教だったらもっとカンタンですよ」とお伝えしておきます。
「罪の贖い」については他にも【ストーリー本編:灰羽連盟】の回や【コラム:歪みの国のアリス】でも解説してるので、興味あれば読んでみてください。
ということで、ここまで「エヴァとキリスト教にまつわる考察のまとめ & 補足」でした。誰かの役に立てば幸いです。
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余談ーいつかみ管理人②の考える共通点
ちなみに、管理人②上坂栄太がクリスチャンになってから感じた「エヴァとキリスト教の共通点」は…「処女懐胎のシーン」だそうです。
処女が妊娠する、というのは当時のユダヤ社会でいうと「社会的な死」あるいは肉体的にも死(死罪)にかねない出来事。それを踏まえた上で、御使の「おめでとう(喜びなさい)」に「お言葉通りにこの身に成りますように」と答えたマリアさんのことを考えると色々と考えさせられます。
— いつかみ聖書解説 (@LampMate) 2018年11月29日
婚約中で処女であったマリアが結婚前に妊娠したということは、「別の男と寝た」と考えられてもおかしくない出来事です。2000年前の当時では、石打ちの刑に処される出来事でした。
にもかかわらず、マリアに現れて「喜びなさい(おめでとう)」と告げる御使い…(;▽;)
「TV版エヴァのシンジくんを囲んで『おめでとう』『おめでとう』と言うシーンにあるような『シンジくんの覚悟と世の理不尽さ』が、マリアのそれとシンクロした」…とのことでした。
(こんな理不尽な状態にもかかわらず御使いのお告げを受け止めたからこそ、マリアの信仰は褒められてカトリックでは率先して崇敬される存在になっているのですけれど)
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