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ヒメヒナ「ヒバリ」考察:潜む哲学とキリスト教要素解説。過去からつながれてきた「歌」に君は何を想う

こんにちは、人気マンガやアニメから聖書を解説するWEBコラム「いつかみ聖書解説」です。

ヒメヒナオリジナルソング第2弾【ヒバリ】出ましたね。エモい曲を申し分なくエモく歌い上げるヒメヒナたちの歌唱力と新デザインの衣装や軽やかな動きに語彙力を喪失してしまいますね。

さて、前回【ヒトガタ】から「生命の秘密を考察」と題して、ヒメヒナたちがずっと問いかけ続けている(と私は感じている)『ニンゲンとは何か』をキリスト教の視点から書いてみました。

バーチャルさんはみているEDヒメヒナ「ヒトガタ」から生命の秘密を考察
ヒメヒナ「琥珀の身体」考察集めたよ(もはや使命感)
【ヒメヒナ1stアルバムより】「藍の華」から考察する奇蹟と神と人間

私たちがやっているのは「ヒメヒナ物語の考察」ではないので、もしかしたら無粋な作業をしている連中だと思うジョジ民(ヒメヒナファン)たちもいらっしゃるかもしれません。

ただ、今回の【ヒバリ】は、よりいっそう哲学的な色を感じる曲に仕上がってきたのでどうしてもエモさが抑えきれなくなってしまい…

とりあえず【ヒバリ】に見え隠れするユダヤ・キリスト教(聖書的要素)について解説してみることにしました!あと哲学思想や哲学者もできる範囲で紹介!

考察の材料に使えそうだったら使ってください。

最初に、みんなの考察

▼「ヒメヒナ考察」「#ヒメヒナ考察」にまつわるみんなのツイート

▼「ヒバリ考察」「#ヒバリ考察」にまつわるみんなのツイート

▼「ヒメヒナ ヒバリ」にまつわるみんなのツイート

ヒバリに見え隠れするユダヤ・キリスト教要素/哲学思想を考察&解説

イブ ー「魂を一体どこへ隠した?神よ、科学よ、イブよ」

→これは【Lemon】や【ヒトガタ】からでモチーフになっていると言われてきたR.U.Rの「新たなアダムとイブ」なんでしょうが、じゃあ古いほうのアダムとイブの「イブ」ってなんじゃい、ということで書いてみます。

イブとは
イブとは 神が創造された人類の祖アダムの妻で、カイン、アベル、セツ(創世記4章1~2節,25節)らの母。この人名は旧約聖書では「生きる」を意味する動詞ハーヤー(ヘブル語)と結び付けられ、「すべて生きているものの母」と解説されている。(創世記3章20節)。一方、ミドラシュ(※)などはアラム語の「蛇」ヒウヤー(アラム語)に由来すると見る。(新聖書辞典「エヴァ」項p.194 より引用) 

私たちは、生まれたときはまだ何者でもありません。社会のなかに位置づけられることで、初めてほかの人とは区別された個人となります。それは個人として限定されることでもあります。
(中略)
しかし、心の奥底には限定がなかった頃のことが残っていて、なんの限定もない全知全能を目指してしまう。これが無限の欲望の正体です。

(中略)
じつはヘーゲルは、歴史というものは神がこの地上に実際に現れてくる過程であると考え、近代社会の出現をついにその完成とみたのです。

(中略)
人より大きな家に住みたいとか最新ファッションで自慢したいといった一見俗っぽい欲望も、いろいろと目移りしてしまうのも、その本質は私たちが神だと確信するための情熱なのです。(小川仁志監修「哲学図鑑」G.W.フリードリヒ・ヘーゲル項 p.88より)

ひとりでは生きていけないんだ(創世記)

→ヒメが「ひとりでも笑って生きるんだ」と歌い、ヒナが優しく打ち消すように「ひとりでは生きていけないんだ」と歌います。

これを最初に聞いて感じたのは【ヒトガタ】の「キミなしじゃ無理」という歌詞の言い換えなんだな、ということでした。あの歌詞はヒメとヒナたち同士が互いに言い合っている言葉でもあると同時にジョジ民にもかけている言葉だと私は受け止めています。

バーチャルの世界を生きるものは、人間はもちろんロボットともまた違い「干渉」や「鑑賞」をしてくれる存在がいないと実存不可能…。

バーチャルさんたちが人間を模して造られている以上、バーチャルさんが一人では生きていけないという説をさぐるためにはまず人間考察について深めなくてはなりません。人間が一人で生きていけるかどうかについては、聖書は創世記2章19節~で言及しています。

聖書

また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。 そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。

人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。  そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。

そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。  それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。(創世記2章19節~25節 口語訳

私たちは家族や友人など、身近な人との関係で自分になります。周囲の人に認めてもらって私は「私」だと自信を持って言えるのです。ですから周囲との関係が安定しているときはそんなことを問うこともないのに、関係がぎくしゃくすると不安になり「私」とは何かと問うようになります。
(中略)
ルターは、自分が自分であることの暗い側面に、いやおうなしに向き合わされていました。熱心なキリスト教徒だったルターはその暗い側面を「罪」と呼び、自分が自分であることは自分自身ではどうしようもないのだから、誰か自分以外のものに救われる必要があると考えていました。そして、当時のキリスト教とは異なる理解に到達します。これが宗教改革のはじまりです。(小川仁志監修「哲学図鑑」マルティン・ルター項 p.55~56より)

 

片喰(カタバミ/シャムロック)ー「ハレルヤ」

・カタバミの花言葉…『輝く心』『喜び』『母の優しさ』

カタバミは、真鍮の鏡や仏具を磨くために用いられていたことから、別名「鏡草」とも呼ばれています。このことから、「輝く心」という花言葉がつけられました。

また、スペインやフランスではカタバミを「ハレルヤ」と呼ぶことから、「喜び」という花言葉をもつようになりました。

(引用:HORTI より)

 

なぜハレルヤとよばれているか

復活祭(春分の日の後の最初の満月の次の日曜日に、十字架にかけられて死んだキリストが三日目に復活したことを記念・記憶するキリスト教で一番重要なお祭り)のハレルヤが唱えられる時期にカタバミの花も咲きだすことにちなみます。

(参考:花言葉-由来 より)

「ハレルヤ」とは

(前略)ヘブライ語由来の言葉で、「神をほめたたえよ」の意 (ヘブライ語で旧約聖書「詩篇」をテヒリームと呼び、テヒラーという名詞の複数形。

この単語は「讃える、賛美する」を意味する動詞ヒッレールからの派生名詞で、「賛美」を意味する。この動詞の複数命令形ハレルーに神の名ヤハウェを短縮したヤーを付した形がハレルヤ。「ヤハ(ヤハウェ)」を「ハレル(ほめたたえよ)」)。(中略)キリスト教に残る代表的なヘブライ語の祈りの一つでもある。

(引用:WIkipedhia「ハレルヤ」より)

バークリーは非物質論の推進者だった。彼の見解に従えば、事物は単純に存在せず、例えば椅子は知覚者の心のなかでひとつの観念となることによってのみ椅子となる。(「図説 世界を変えた50の哲学」p.35 より)

 

ヒメヒナの家紋ー三位一体

→「カタバミ(シャムロック)」のカタチから「カタバミ」のカタチで三位一体(さんみいったい)を例えて教えた司祭がいる(聖パトリックシャムロック)という話。

こうやってなにかに例えないとわからないレベルにわかりにくいキリスト教の中心教義。

三位一体とは

キリスト教の教義の一つ。 カトリック、プロテスタント、正教会、etc……数多くのキリスト教会が採用してる。

少数ながら、三位一体を採用していない派閥もあるけどね。 でも、超重要教義であることは、間違いない。

その三位一体。 読んで字の如く、「三つの存在が、一つにまとまっている」という意味だ。 構成要素は、この三つ。

• 父
• 子
• 聖霊

父というのは、「天の父」との名でお馴染みの、一神教の神様のこと。

子というのは、「油注がれたもの」との二つ名でも知られる、イエス・キリストのこと。

聖霊というのは……一言では難しいから、今は「不思議パワー」としておきます。

それで、この三つが「一つの体」として合一してる。というのが、三位一体のあらましだ。

(引用:まださなぎ(旧)より)

デカルトは、思考する実体である「精神」は身体とは異なる種類のものだと論じた。その結果として生じる問題が、彼以降の哲学者を悩ませてきた。「機械のなかの幽霊」である心は、どのように体と作用しあうのだろうか?(「図説 世界を変えた50の哲学」p.29より)

 

リリアン(ユリ)

リリアン(Lillian, Lilian)は西洋の人名。ラテン語で「ユリ」を意味するliliumに由来。主に女性名として使われるが、フランス語ではリリヤン(フランス語発音: [liljɑ̃])と発音し、男女どちらにも使われる傾向がある。

(引用:Wikipediaより)

・ユリの花言葉
「純粋」「無垢」
「純潔」「威厳」(白)
「華麗 」(オレンジ)
「虚栄心 」(ピンク)
「陽気」(黄色)(参考:百合の花言葉|種類、特徴、色別の花言葉

聖書にもたくさんでてくる花ですし、キリスト教と縁深いイメージがあるので言及してしまいました。(ジャンヌ・ダルクとか)

あとは、エルフェンリートのテーマ曲として作られた「LILIUM」という曲がガチで賛美歌として歌われだしたという話も有名ですね。

プラトンは、すべてのものが「イデア界」につながっているという見解を発達させた。私達が地球上で見るもの、知るものは、それが犬でも、色でも、正義のような概念でも、すべては完璧なイデアの不完全なコピーにすぎない。(「図説 世界を変えた50の哲学」p.15より)

 

カントー哲学者

哲学者イマヌエル・カントかと。ここでカントの名前が出されているのは2通りの解釈があります。

・経験主義や啓蒙主義(カントの考え方)の批判
・「哲学者」の代名詞(カントはもっとも偉大な啓蒙主義の哲学者として広く認められている)

カントはジョン・ロックの流れをつぐ哲学者。

「純粋性理性批判」の中でこれを事物そのものの世界である「叡智界」と人間が経験する世界である「現象界」を区別し、叡智界にある物事の本質は「私たちには全く未知のまま」だが現象界については何かを知ることができると論じた。

カントによれば、経験は私たちの頭の中で空間と時間の概念に従って、また因果関係や実体のような、さらなる理解のための分類に従って整理される。

空間を例にあげれば、世界それ自体、すなわち叡智界は、空間的な関係を持たない。その代わりに現象界の空間的特性が私たちの心の働きによって感覚的な経験の生のデータとして記録される。そのため私たちは世界を空間的なものとして把握するのである。

(引用:「図説 世界を変えた50の哲学」p.38)

カントが考えた自由とは、私たちが素朴に考える自由とはだいぶ異なっています。私たちはふつう自分の欲望が好きなように叶えられることを「自由」と呼びます。しかし、自由とは本来ほかのものに縛られず、自分自身で決めることです。
(中略)
つまり、カントの問いはソクラテス以来の「本当の自由とはなにか」という問いを継承したものなのです。現代の私たちは、多くの誘惑にさらされています。これを買えばあなたはもっと幸せになれるーーテレビを見ていても雑誌を読んでいても、広告はいつも私たちにこうささやきかけます。
(中略)
そんな誘いをはねのけて本当に自分に必要なものはなにかを考えること、自分で自分のルールを作ってそれに従うこと、それこそが真の自由なのだと、カントは教えているのです。

(引用:「哲学図鑑」監修:小川仁志 p102)

ということで、ほかにもカントについてわかりやすいおすすめ動画やWEBサイトを紹介してみます。

▼こちらもよろしく

聖書からの名言引用は悪手?代わりにキリスト教世界観作家とか哲学者たちをまとめる~力尽きた、ここからたぐって~

カントの考えた道徳とは、人はつねに自分の義務を果たすべきだが、その義務がなにであるかは自分で決めるということでした。これは欲望のままに決めた自分が本当の自分なのではなく、義務を決める自分が本当の自分だということです。

このカントの考えには宗教的背景もあります。新約聖書のパウロの手紙には、自分は自分が本来選ぶべきでないことを選択してしまうという嘆きが出てきます。

自分が自分の敵になるという考えは、ルターにも受け継がれました。

(引用:「哲学図鑑」監修:小川仁志 p.73)

 

…すみません限界です。なんかあったらまた書き足していきます。

 

「歌だけは世界に残したいと思った」ーー『音楽』の起源

Liner Notes‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ ​

いつか世界が廃となり 人の文明も鉄の王国も電照の谷さえもが失われ 揺るぎない大地がヒトの欲にまみれ枯れ果てたとしても 詩だけは、歌だけは、未来へ遺したいと願った

これまたさらにメタな話の寄り道なんですが、「ヒメヒナ」の特性は【音楽】【歌】にもありますよね。

現在の私たちがあたりまえのように感じている【音楽】はキリスト教文化が大きくかかわっていることはご存知ですか?

たとえば「楽譜」。「楽譜」というのは私も生まれたときからあったので当たり前のように思っていましたが、よくよく考えたらすごい文化で、なければ今のような音楽の発展はありえないよな、と気づいたのはごく最近です。

楽譜って最初から五線だったのでしょうか。

実は違うんですね。最初の楽譜は、なんと、線なんかなかったんですよ。

(中略)実は、最初の楽譜って、今わたしたちが習うドレミ……という絶対的な音の高さは表していなかったんです。

じゃ、どうやって音を覚えたの、ということですが、これが全部耳で聞いて覚えたんですね。

(中略)最初の楽譜は、音楽のニュアンス=少し早く歌いましょうとか、前の音と同じ音で歌いますよというようなものだけを表すものだったんです。

(引用:「楽譜の発展」WEBマガジンAMOR~陽だまりの丘より)

…最初の楽譜は、音は耳で覚えていて、その音を相対的に表したり、早く歌ったり、ていねいに歌ったりする記号、今でいう「表情記号」が書かれているにすぎませんでした。実は、それが約100年続きます。

しかし、グレゴリオ聖歌もレパートリーが増えてきたからでしょうか、音の高さがわからないと困るようになったのでしょう。初めて音の高さを表す方法が開発されました。それが「一本の線を引く」ことだったのです。

今まで何もなかったところに「一本の線を引き」、それによって特定の音を表した。わたくしは、これは、音楽史上、最大の発案だと思います。これを考案したのは「ドレミ」を考案したアレッツォのグイド(11世紀初めの音楽理論家、修道士)だとも言われています。

(引用:「楽譜の発展 2」WEBマガジンAMOR~陽だまりの丘より)

2世紀後半、パリのノートルダム聖堂(聖母大聖堂)で活躍したレオニヌスという教役者の作曲家が記したとされる『オルガヌム大全』には五線譜が用いられており、線が引かれてから約100年後には現代と同じ五線譜が使われていたことがわかっています(とは言え音符はまだ現代のものとは違っていました)。

音の高さを表すのにたった一本の線を引く、という発明。現代のわたくしたちの視点から見れば、至極当然であり、あまりにも当たり前すぎて、気にも留めないかもしれませんが、先ほども書いたように、まさに線がないところからの「無からの創造」と言っても過言ではないと思います。

(中略)

一本の線を引くこと。これがなければ現代の音楽もなかったでしょう。でも、それは必然だったのか偶然だったのか。まさに「神のみぞ知る」ところです。

(引用:「典礼音楽の転換点 1 線」WEBマガジンAMOR~陽だまりの丘より)

極論ですが、教会という文化がなければ私たちは【ヒトガタ】も【ヒバリ】もない世界に生きていたのかもしれません。

また、典礼音楽としてはぐくまれなければヒメヒナの美しいハモリも存在しない世界だった…かも。

(そんなことを言いだしたら「産業革命がなければ~」「あのときの戦争があったりなかったりしたら~」とかでキリがないですが)

それくらい、セカイは誰かの仕事でできているし、それらを「偶然」で片づけるよりも「奇跡の集合体」だと感じながら生きると尊さとエモさが深い人生になるんじゃないかな、と思ったのでした。

 

「心ってモンを量って切って売れば幸せですか」「魂を一体どこに隠した」という叫びに、君は何を想う?

多くの人がエモさを感じているのは、やはりこの「叫び」のような箇所だと思います。みなさんがヒメヒナたちにエモさを感じるのは、ヒメヒナ物語を想像するからでしょうか。

それだけではなく、この問いが自分自身に問いかけられていると感じているからではないかーーと言われたら、どう思いますか?

ヒメヒナたちを通して「Vtuberは人間なのか」「では人間とは何なのか」という問いに至る人もいらっしゃることと思います。

その命題をさぐってみたいと思ったとき、すでに思索している諸先輩がたの資料を参考にして追体験してみたり、違うと自分でも思ったら自分で仮説を立ててみたりすると、もっと深くVの世界を楽しめるかもしれません。

信じることについて、哲学的に本格的な考察をはじめたのはアウグスティヌスでした。哲学では、ソクラテス以来知ることを求めてきました。しかし知るためには、まだ知らないものを探し求めなくてはなりません。そのようにして探し求めるという態度こそが信じるということです。
(中略)
信じることとは知ることにいたるための道筋であると言えます。信じることには、確かに危険がつきまといます。しかしその危険をおかさないかぎり、私たちはいつまでも進歩しないことになります。もしも私たちがなにも新しく知る必要がないならば、なにも信じる必要はありません。

(「哲学図鑑」監修:小川仁志 p.38より)

ヒメヒナたち、田中工務店のみなさま、Vの文化、親愛なるジョジ民たちへの祝福を祈りつつーー

 


▼新人Vtuber「みいろチャンネル」も楽しいよ!

▼参考本