マンガから聖書がわかる不思議なWebサイト

【更新】名探偵コナン祭り開催中(6/13更新)

イエス・キリストの奇跡一覧&福音書の信頼性への議論と弁証も紹介

人気マンガ・アニメから聖書を解説するWEBサイト「いつかみ聖書解説」です。

「奇蹟」って非科学的…

聖書って正直、イエスのことを好きな人たちが盛って書いてるとしか思えない。ファンクラブが作った会報みたい

バカバカしい。こんなこと言うから胡散臭いんだよ

と言われがちな、聖書にしるされた奇蹟の数々。

クリスチャンですら「奇跡がなければすんなり信じられたんだけど」「奇蹟は信じてないけどクリスチャンです」と言った感じに、意見が分かれるところでもあります。

また、これを書いている私自身も、教会に足を踏み入れて5年ほど聖書にしるされている摩訶不思議現象が信じられませんでした。

今日は、『キリスト教の不思議現象も、このあたりくらいまでの議論には耐える余地があるんだよ』ということも含めて、

「イエスの起こした奇蹟」【前半】

「奇蹟や福音書の信頼性についての弁証(※)」【後半】

を紹介してみたいと思います。キリスト教との付き合い方の参考になれば幸いです。

(※)弁証とは…ある事柄を論じて証明すること。また、弁別して証明すること。論証。キリスト教批難に対して弁証を行った教父・学者は「キリスト教弁証学者」「護教家とも呼ばれ、古代教父から中世、現代にいたるまで、さまざまな弁証論者がいる。(パスカル、カント、作家C.S.ルイスなどもそう呼ばれる)





イエスの奇蹟35選

※補足※
「奇蹟」「奇跡」とは
①常識では理解できないような出来事。 「 -の生還」
②主にキリスト教で、人々を信仰に導くため神によってなされたと信じられている超自然的現象。聖霊による受胎、病人の治癒、死者の復活など。神道や仏教では、同様の現象を「霊験れいげん」と呼んでいる。
(出展:コトバンク「奇跡・奇蹟」項より)

※この動画で取り上げられている「トマスによる福音書」は、伝統的に正典とされているものには含まれません。なので、一般教養としてはスルーしてOKだと思われます。

≪≪スマホの場合は横スクロールで全部読めます≫≫

マタイ福音書マルコ福音書ルカ福音書ヨハネ福音書
5000人が食物を与えられる14:15~216:35~449:12~176:5~14
嵐を静める8:234:35~418:22~25
悪霊たちが豚の中に送られる8:28~345:1~208:26~39
ヤイロの娘がよみがえる9:18~,23~265:22~24,35~438:41,42,49~56
病気の女性が癒される9:20~225:25~348:43
イエスが中風の人を癒す9:1~82:1~125:12
ゲネサレでツァラアトに冒された人が癒される8:1~41:40~455:12~15
ペテロのしゅうとめが癒される8:14~171:29~314:38,39
なえた手が治る12:9~133:1~56:6~10
汚れた霊につかれた少年が癒される17:14~219:14~299:37~42
イエスが水の上を歩く14:22~336:45~526:16~21
目の見えないバルテマイが見えるようになる20:29~3410:46~5218:35~43
少女が悪霊から解放される15:21~287:24~30
4000人が食物を与えられる15:32~388:1~9
いちじくの木を呪う21:18~2211:12~14,20~24
ローマの百人隊長のしもべが癒される8:5~137:1~10
汚れた霊が人から出て行かされる1:23~274:33~36
口のきけない悪霊につかれた人が癒される12:2211:14
目の不自由な二人が視力を得る9:27~31
イエスが口のきけない人を癒す9:32~33
魚の口の中の硬貨17:24~27
耳が聞こえず口のきけない人が癒される7:31~37
盲人がベツサイダで目が見えるようになる8:22~26
最初の奇蹟的な大漁5:1~11
やもめの息子がよみがえる7:11~16
腰を伸ばせない女が癒される13:10~17
イエスが病気の人を癒す14:1~6
10人のツァラアトに冒された人が癒される17:11~19
イエスが人の耳を元通りにする22:49~51
イエスが水をぶどう酒に変える2:1~11
カナで役人の息子が癒される4:46~54
足のなえた人が癒される5:1~16
イエスが生まれつきの盲人を癒す9:1~7
ラザロがよみがえる11:1~45
2度目の奇蹟的な大漁21:1~14
マタイ福音書マルコ福音書ルカ福音書ヨハネ福音書
(参考:「聖書新改訳解説・適用付 BIBLE navi」p.1781)

※リンク先は「Wikisource口語訳聖書」です。

このほか

・処女懐胎(マリアの受胎告知)
・十字架刑のち復活

なども、「ふしぎな出来事」として奇蹟カテゴリに入れて話されること多いですが、ここでは「イエスが起こした奇蹟」について述べました。福音書の記述を信じるならば、イエスは福音書に記録されているよりも多くの奇蹟を起こしたそうです。

※聖書中だけでも、奇蹟を起こしているのはイエスだけではありません。旧約聖書の預言者やイエスの弟子たちもやっています。ここではイエスの奇蹟を紹介しました。

イエスの奇蹟や復活に対する疑念と反論など

こういうのって、比喩か何かなんだろ?イエスっていう賢者のありがたい教えからよさげなメッセージをくみ取って、それをよりどころにしてる宗教なんじゃないの?

という気持ちが第一に出てくる人も多いのではないでしょうか。これに関しては残念ながら今日のクリスチャンたちは「意外とマジで信じている」ことをお伝えさせていただきたいと思います。

しかし、それでも、クリスチャンの中にも、聖書の中の奇跡を、あっけらかんと「もちろん信じていますよ」と言うのをためらう人がいるのはなぜなのか。

そういう人は結構多いと思うし、実は私にもためらいがないわけでは無いのです。そのためらいは、神の全能への信仰が不足しているからではなくて、「人となった神がそんなことをしていいのか?と言う疑問ではないかと思います。俗な言い方をすると、それは神としての品がない気がすると言う感覚です。神は人となったとキリスト教は言う。人間であるということは死人を蘇らせることなどできないということではないのか。

ならば普通の人間にできないことは何もしなかったと言う話のほうがずっと分かりやすい(復活は普通の意味の奇跡ではありません)。病気は治せなかった、しかし、遺族がその悲しみに耐える力と希望を与えてくれた。そのほうがすっきりした話になります。

天地創造の神を信じているが、同時に科学的合理主義の影響も深く受けている現代のクリスチャンにとっては落ち着きがいいのだと思います。遠藤周作氏のキリスト論に人気があるのはそのせいでもあります。聖書の世界だけでなく現代でも奇跡はそれに関わった人を喜ばせると同時に戸惑わせるものでもあるからです。


つまり「あの人の癌は治ったのに、どうして私の子供の病気は治らないの?」という問いに直面せざるを得ないからです。誰の病気も治らないけれど、ただ、逆に「耐える力」をキリスト教から得ているという方が話としては、ずっとすっきりしているのです。

知恵のある人がこういうことを言いました。「昔の人は、奇跡のゆえに信じた。今のクリスチャンは、奇跡にもかかわらず信じる。」それは奇跡と言う話を持ち込むと、キリスト教をすっきり説明できなくなると言うことなのです。創造後はこの世界を上から自立させた方が、キリスト教の説明はすっきりするのです。しかしすっきりと説明できるということが、宗教にとっていちばん大事な課題ではありません。

(引用:来住英俊著「『ふしぎなキリスト教』と対話する」p.196〜198)

※著者はカトリックの神父さまです。これを書いている我々は、プロテスタントです。

※「奇蹟」と呼ばれるこの不思議現象などを信じないクリスチャンたちもいます。そういった神学は「自由主義神学(リベラル)」といったカテゴライズで語られることが多いです。

自由主義神学(Wikipedia)
《じっくり解説》自由主義神学とは?《じっくり解説》自由主義神学とは?(ワードオブライフ)
下世話なQ&A「リベラルって何ですか?」(イクトゥス・ラボ)

雑なカテゴリわけではありますが、当コラムの制作陣はこれらの立場をとらないため、このように小さい枠にての扱いとしました。また、新自由主義神学という立場のキリスト者たちは「自分たちはキリスト教のなかでマイノリティ」と自負している様子なので、数的には少数派と考えてよいのではないかと思います。
もし、既存の「キリスト教」にふれたことがあってそこに違和感を感じた方は、そういう方面に枝葉を伸ばすことを考えてみてください。

▼自由主義神学なキリスト教入門書

なぜ「奇蹟」などというありえなさそうなことを信じるのか、というと、そもそもの根幹には

聖書の言う『神』は全知全能

なんでもできる

だから奇蹟も起こせる

というロジックも根底にあるかと思います。奇跡はイエスの神性を担保するはたらきのひとつだと考えられています。

では、ここから「奇蹟にまつわる様々な疑念とその考察」について、私が知っているものだけでもお伝えしてみます。





「イエスの奇蹟」よくあるQ&A

テンプルトン(無神論者)
テンプルトン(無神論者)

説明がつかない事象を目の当たりにすると、昔の人は自分たちの限られた知識の範囲で考え、それを神々や悪霊のしわざということにしたんじゃないのか?

どうせ信じたい人たちがでっち上げたんでしょ?

信者を獲得するためのプロパガンダじゃね?

…といった意見が一般的な感覚だと思いますので(私もそうでしたし)、そのへんについての補足となりそうな弁証をいくつか紹介してみます。

そもそも「奇蹟」とは

科学が発達してなかった時代、理解できないことに「奇蹟」って表現したにすぎないと思うし、起きたとしても奇蹟は科学的じゃないから認められない

まず、「奇蹟」という言葉について再確認してみます。「奇蹟」という現象を否定的にとらえる時、それが『科学的ではないから』とする風潮は根強いです。

けれど、それは厳密にいうと成り立たないロジックである…ということは、もう少し知られていてほしいことなので、いま一度確認してみたいと思います。

『奇蹟』という言葉は、あまりにもでたらめに使われていると思います。奇蹟とは、『一定の時間と場所で有効かつ必然的理由の範囲内で、起き得るはずのない事象が起きること』です

・「リンゴが木から落ちて、それが地面に着く前にあなたがリンゴをキャッチしたら、それは『重力の法則を覆した』ことになるか?」→「ならない」
・イエスの奇蹟というものは「リンゴが木から落ちて、それが地面に着く前にあなたがリンゴをキャッチしたようなこと」を指すのではない。

・「私の信仰は、神と科学を同時に信じているというパラドックスに集約される。そして私はこれからも神と科学の双方の証人として歩んでいく」((原子物理学者/ヒュー・シーフケン)
・「科学が語ることと、宗教が語ることをナイーブに比較する人は、実は科学も宗教も両方ともわかっていない人ではないかと思います。」(数学者/結城浩)

クレイグ博士
クレイグ博士

もし神が実在するのなら、奇蹟の可能性を信じるのは理性的だから

・神(全知全能である)が存在するならば、神にできないことはないので「理性や現代解明されている理論やテクノロジー内におさまらない存在」であるため。

「有神論の弁証」については『神の実在についての弁証』

「キリスト教の弁証」については『イエスの復活についての弁証』

といったことにつながります。

『イエスの復活についての弁証』は、じつに膨大なので別のコラムにすることとします。

「福音書の信頼性」への弁証

「福音書」は、イエスのことを神だと思いたい信者たちが書いたファンブック

という印象で「福音書は信頼できない」と感じられている方も少なくないと思われますが(これを書いている私もそう思っていたので)、その主張への補足となる「福音書は信頼できる書物か」ということについての検証を少し紹介してみたいと思います。

クレイグ・プロンバーグ博士
クレイグ・プロンバーグ博士

福音書の書かれた時期は、非常に早く、その内容が伝説化するような時間的なギャップは存在しない。イエスの奇蹟、復活、神格等の基本的信条は実に、キリスト教黎明期にまで年代確定することができる。

・福音書には「できれば省略しておきたかったであろうことがら」などが書かれていることからも、「著者たちにはイエスに関する歴史的な事実を間違いなく残そうという意思」があったと考えることができる。
・福音書たちは、多少の相違点はあれど、内容がほぼ一致している。
・福音書は、記述にうそや誇張があれば周囲の人々が修正するのが十分可能だった時代に書かれた。(マルコ福音書は紀元70年代マタイ福音書ルカ福音書は紀元80年代、ヨハネ福音書が紀元90年代)

(参考:「ナザレのイエスは神の子か?」第1章第1部)

ブルース・メッガー博士
ブルース・メッガー博士

他の古代文献の写本と比較しても、福音書の写本の数は群を抜いている。しかも写本の年代は、原本が書かれた時代ときわめて近い時期である。

・現代手に入れられる新約聖書の写本は、99.5%は原本と一致する。誤記はあっても、それによってキリスト教の教義が覆されるものではない。

エドウィン・M/ヤマウチ博士(哲学博士)
エドウィン・M/ヤマウチ博士(哲学博士)

他宗教と比べた時、経典以外の歴史的な記録が最も多く残されているのはキリスト教、すなわちイエスの記録だ。聖書以外の文献を見ても、イエスが癒しの奇蹟を行う救い主であると認められていたこと、また十字架での屈辱的な死にもかかわらず、イエスの信奉者たちがイエスが生きていると信じ、神として崇めた事実がわかる。

・ユダヤ教(イエスを神とは認めない)のタルムードには、イエスが「癒し」「奇蹟」を行ったことが書かれている(タルムード内では魔術に起因する力によりそのわざを行ったとされている)。
・「イエスの神性を疑う派」というのがあらわれ始めたのは2世紀になってからで、福音書に記されていることの目撃者が存命していたような時代(初代教会時代)にもすでに「イエスは神なる存在」とされていた。

(参考:「ナザレのイエスは神の子か?」第1部第4章)

ジョン・マックレー博士(考古学者)
ジョン・マックレー博士(考古学者)

聖書の内容を覆すような考古学的発見は今のところない。どちらかというと、新約聖書の1/4を書いているルカは非常に正確な記録を残す歴史家だと証明されており、であるならば「ルカの記したイエスの記述だけ改ざんしている」というのは考えにくい。

・いまのところ、考古学的な発見は福音書の信用を高める結果となっている。

一番の奇蹟である「復活」が、伝説が発達して史実が塗り替えらえる時間がないほど短期間の間に福音書に記されており、それが歴史的証拠となっている

(それでも神は実在するのか?p.119)

・「イエス死と肉体ごとの復活」というのは、人間には決してなしえないことがらであるので、ある意味それさえ証明できれば演繹的にイエスの奇蹟の信頼性を証明できると言える。
・「イエスの死と肉体ごとの復活」の弁証については、膨大になるので別コラムを設けることとする。

そのほか「ナザレのイエスは神の子か?」では、

  • 歴史のイエスと福音書のイエスは同一人物か
  • イエスは自分が神の子だと確信していたのか
  • イエスは正気だったのか

といったトピックも扱われています。

「信者獲得のための活動」?

福音書に書かれていることは、信者を獲得するためのプロパガンダ

これもよく言われることですが、これについては歴史を知っているか知らないかで大きく印象が変わることなのだと思います。

クレイグ・L・プロンバーグ(哲学博士)
クレイグ・L・プロンバーグ(哲学博士)

キリスト教はその黎明期、大変脆弱で迫害の対象であったことがはっきりしています

新約聖書に編纂される書簡の多くを残した「パウロ」も良い例ですが、彼はユダヤ教の超エリートで、イエスの弟子たちを迫害する側でした。

『使徒行伝』の6章~7章で述べられている「ステパノ」は、最初の殉教者だったと言われていますが、

パウロ(このときは「サウロ」)は、迫害する側としてこの場にいました。

そんなサウロは、ステパノの死後も、キリスト教徒への迫害と弾圧に熱意を持っていました。けれどある日、神の声を聞き、3日間目が見えなくなってしまいます。
 アナニアというキリスト教徒が、サウロのためを思って、祈りを捧げたところ、ふたたび目が見えるようになりました。以後、サウロはパウロと名乗り、キリスト教の布教につとめるようになります。

パウロは晩年、ローマで2年間軟禁状態に置かれ、最期はローマ皇帝ネロの迫害のもと、殉教したと言われています。

…ということで、ここまで「キリスト教徒の多くが信じているアホらしい言い伝えが意外とそうアホでもない」というお話しでした。

信じることにもメリットはある

くり返しますが、イエスが行った奇蹟や復活を信じることと、イエスを自分の神とすることはイコールではありませんので、ご安心ください。

信じることにもメリットがありますので、メリットとデメリットを天秤にかけてお考え下さい。

こちらの動画では、無神論者の方々の言葉がさまざまに紹介されているので、興味があればご覧ください。
【泣きたくなるような優しい音】〜炭治郎や煉獄さんのようになるには 「聖書は作り話か」とか「カインとアベルの話、神が悪い」「ユダは本当に裏切り者だったのか」とかの真実を知るには

おまけ:「奇蹟」に関する偉人とか色んな人のコトバ

人が復活して永遠に生きるようにさせる事は神にとって不可能であろうか。それとも、それは悪しきことであり、神にとって取るに足らないことであるから、神がそれをなされるであろうと信じてはならないのであろうか。しかし神があれほど多くの、あれほど偉大な不思議をなすことにおいて示される神の全能について、私たちはすでに多くのことを述べたのであった。それゆえ、彼らがもしも全能者のなしえないことを見つけようとするならば、私は優が、神は人を欺くことができない、と言うことのみをもつであろう。それ故、私たちは、神はなしえないことをなすと信ずることを退けることによって、神はただなしうることをなすと信ずべきである。

(引用:岩波文庫 /アウグスティヌス (著), 服部 英次郎 (翻訳) 「神の国」5 p.467 )

イエス・キリストは奇跡を行われた。ついでに使徒たちも初代の聖徒たちも多数の奇跡を行った。それは預言がまだ成就せず、彼らによって成就されつつあったので、奇跡のほかに証拠になるものがなかったからである。メシアが諸国民を回心させるであろうということは預言されていた。(1)この預言は、諸国民の回心ということなしに、どうして成就されうるであろうか。また諸国民は、メシアを証明する預言のこの最後の結果を見ないで、どうしてメシアに心を向けうるであろうか。だから、メシアが死に、復活し、そして諸国民を回心させるまでは、預言はすべて成就したとはいえなかった。しこで、この時期のあいだは奇跡の必要があったのだ。今やユダヤ人に対してその必要はない。成就した預言は一つの永続的な奇跡だからである。

(1)『イザヤ書』2の三

(引用:中央公論新社/パスカル(著)「パンセⅡ」八二八/ラ180/前田陽一・由木康訳p.218)

神は葡萄を創り、根を使って水を汲み上げ、太陽の助けでその水を果汁に変え、果汁が発酵して或る質を帯びるように、その樹に教えました。そのようにして、ノアの時代からわれわれの時代に至るまで、毎年、神は水をワインに変えています。それが、人間には見えないのです。

C.S.ルイス

今もしキリストが世にあらわれたまいまして死者をよみがえらせたもうといたしますれば、これを目撃せし医学者らは、その奇跡なることは認めずして、ただちにその天然的理由の発見に着手するに相違ありません。すなわち神を信ぜざる者の眼には奇跡なるものはありません。

内村鑑三

つまり聖書にはいろいろ不思議なことが書いてある。イエスが手を触れると癩病が癒されたり、またイエスが水の上を歩いたりされる。しかしそんなことが本当にあったのだろうか。そんなことはまるでお伽噺のようでおかしいじゃないか。そういうご質問であったと思います。これについては、私も今申しました神さまに対する服従、謙遜ということと関連して、ちょっと申し上げてみたいと思います。
 先ず第一に、私は皆さんがそういう疑問をもたれるのはもっともなことだと思います。そういう疑問は皆さんだけでなく、聖書を読む者が誰しも抱く疑問です。昔から学者と言われるような人たちが、聖書にあるそういう理屈に合わない点を取り除けてしまおうとして、いろいろ工夫したり努力したりして来たのです。しかし私が思いますのに、そういうことは、つまり聖書というものを、何か私ども人間の寸法に合ったものに直して仕舞おうとすることです。例えば人間は水の上を歩けない。これが人間の常識です。しかしそれだからイエスも水の上を歩かれたはずはないというのは、そういう人間の常識に、聖書に書いてあることを合わせようとすることです。聖書を人間の常識に辻褄の合うように直そうとする態度だと思います。それは私どもが誰しも多かれ少なかれもっている態度ですが、しかし私どもはそういう態度をもっている限り、父の家に帰ることはできないのです。神さまの許に帰ることはできない。放蕩息子がここで『私はもうお父さんに対して何も要求する資格はありません。雇人のようにお父さんからいただくもので満足して生きてゆきます』と言おうと決心したということは、つまり私どもの場合で言えば、私どもは聖書の言葉を神さまの言葉として、素直に、子どものように受け容れよう、そこにどんな不思議なことが書いてあっても、人間の常識とは辻褄の合わないことが書いてあっても、それを神さまの言葉として受け容れようと決心することです。イエスはある時、『お前たちが幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない」と言われていますが、それもやはり同じことです。もし私どもが幼な子のようになって、与えられたものを素直に受けずに、これは常識に合わない、これは辻褄に合わないといって撥ね付けるとしますと、それはその場合、私どもの方が聖書を撥ね付けているのではなくて、実は聖書の方で私どもを撥ね付けるのです。私どもは自分の方で戸を閉めて聖書を閉め出しているつもりかも知れませんが、実はその場合、聖書の方が私どもを閉め出しているのです。聖書の方が私どもを中に入れてくれないのです。私どもが聖書の中に入ろうと思えば、いつでもこの放蕩息子がしたように謙遜と服従の誓いをしなければならないのです。身を低くしなければならないのです。そういう狭い道を通ってだけ、私どもは聖書の世界の中に入ってゆくことができるのです。

(引用:井上良雄著「放蕩息子の帰郷」『時の徴』153/2019/1所収p.51-