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【更新】王ドロボウJING×ファンタジー論×聖書(10/4更新)

優れたファンタジー文学マンガ「王ドロボウJING-KING OF BANDIT JING-」を聖書で分析

こんにちは、人気マンガ・アニメから聖書を解説するWEBコラム「いつかみ聖書解説」です。

――【王ドロボウJING】――

またの名を

【KING OF BANDIT JING】

というマンガがあります。

「王ドロボウJING」について知りたい方は(外部リンク)
→Wikipedia「王ドロボウJING
→Wikipedia「KING OF BANDIT JING
隠れた名作「王ドロボウJING」の良さをひたすら語ってみたい。
コミックボンボンに現れた神作『王ドロボウJING』について語る

※「ファンタジー文学マンガ」って何やねん、と思われるかもしれません。上記『すべての人類を破壊する。それらは再生できない。』で表現されているように「文学」レベルのマンガだと思うのです。「ファンタジー」という表現が適切かどうかは、記事を読んでご判断下さい。

私はこの【王ドロボウJING】が深く好きでした。私だけではなく、私の兄も姉も兄弟みんなが好きな作品でした。

私の家の冷凍庫には大体ジンが入っていますが、それは紛れもなく王ドロボウの仕業です。大学時代の下宿にはカンパリが常備されていたのも、酒屋に行くたびベネディクティンを探しまわっていたのも王ドロボウのかけた魔法でした。

ちなみに当コラムでは「王ドロボウJING」と「KING OF BANDIT JING」を区別しませんので悪しからずです。

非常に印象深い作品のため、いつか語りたいような気はしていたモノの、当コラムのテーマ「マンガから聖書を語る」ことを考えたとき、この深い作品を【聖書】と結び付けて語るのはあまりにも身勝手な気がしてずっと心の棚にしまっていました。

(もちろん聖書は奥深いのですが、日本では”一神教は単純でよくないもの”というイメージを持たれている方が多い印象がありまして…。かつて私自身がそうだったので)

しかし、別件で「ファンタジー」について調べているうちに、その邂逅は起きました。

王ドロボウJINGはきわめてすぐれたファンタジー文学なのだと。

そして、ファンタジーとキリスト教は切っても切り離せないものであったと

 

では、「ファンタジーとは何なのか、ファンタジーは私たちに何をもたらすのか」…。

今日は、そんなところから「王ドロボウ ジン(KING OF BANDIT JING)」について語ってみたいと思います。

「ふざけた話やったらブチとばすぞ」という方は、このまま読み進めたうえでブチ飛ばしにいらしてください。

「宗教と絡めて語られたくない」という方は退出をお願いいたします。

\では参ります/

 

王ドロボウジンはきわめてすぐれたファンタジー

【王ドロボウJING (KING OF BANDIT JING)】 がどんなマンガか、人に説明しようとすると困る。そんな体験がありませんか?

 

「説明するより読んだほうが早いマンガランキング」があったら上位に入れたいマンガです。

なぜ説明しづらいのか、と考えたときにその理由は

「王ドロボウJINGはファンタジーで、ファンタジーは定義があいまいだから」

ではないかな、と思いました。

 

ということで「ファンタジー」をいちおう定義してみます。

ファンタジーを研究していると、おもしろいパラドックスがいくつもみつかる。一方では、はるか昔から逃避的文学だと軽んじられ、時に蔑まれてきたかと思えば、もう一方では現実の真の姿を映していると称えられ、いわゆる「リアリスティック」な小説よりはるかに人生の神秘を照らす力があると持ち上げられてきた。

(中略)


ファンタジーの果たす役割は広汎にわたり、単に教訓を与えることから、普遍的な道徳体系の創造にまで関わっている。作家はファンタジーを使って、社会への不満を表明したり、人間観を述べたり、見える世界と見えない世界の橋渡しをおこなってきた。

(引用:シーラ・イーゴフ著「物語る力 英語圏ファンタジー文学:中世から現代まで」pp.19~20)


確信を持って言えることは、ファンタジーとは意図的に自然の法則を大なり小なり破壊すること、または自然の法則を一歩乗り越えることで全編のおもしろさが生まれている物語だということだけである。

これはもちろん超自然が関わってくる。つまり自然を超えた何かあるいは何者かが、実際にはない創造された世界(第二世界)となって現れるが、現実の世界に不自然な侵入をしたり影響を与えたり(第二認識)する。

(引用:シーラ・イーゴフ著「物語る力 英語圏ファンタジー文学:中世から現代まで」pp.47~48)

ファンタジーは、既定の事実を変えること、つまり、現実の変更、 退屈からの脱却、遊び、ヴィジョン、欠けているものに対するあこがれ、読者の言葉の砦を通り抜けてしまう比喩的イメージである。

さらに、ヒュームは「ファンタジーとは、どんなかたちであれ、世間一般が認める現実からはなれることである」 とも言う。

ファンタジーという文学は、「退屈逃れがしたい」「遊びたい」「ヴィジョ ンをもちたい」「自分にないものへの憧れの気持ち」「言葉が持たせてくれる常識ではない考えとか心象とか理想をもちたい」ひっくるめて、現実から抜け出したい気持ちが生み出す文学だということです。

(引用:平成16年国際子ども図書館児童文学連続講座講義録「ファンタジーの誕生と発展」

 

  • 見える世界と見えない世界の橋渡し
  • 自然の法則を一歩乗り越えることで全編のおもしろさが生まれている物語
  • 言葉の砦を通り抜けてしまう比喩的イメージ

 

これらに該当するものがファンタジーだとすると「王ドロボウJING」はファンタジーと定義してもよさそうに思えます。

(…ちなみに上記のツイートで「王ドロボウJING」を不思議の国のアリスに見立てたのは、その言葉遊びの巧みさなどのことを想って記述しました。)

では「王ドロボウJINGが”優れた”ファンタジー」かどうかを考えてみます。

したがって、妖精物語の定義ーーそれがどんなものであり、又どんなものであらねばならないかーーは、エルフや、フェアリーについての定義や、それを記述したものの歴史にたよるものではなく、妖精の国のもつ特性に基づくべきものであります。

(J.R.R.トールキン著「妖精物語とは何かーファンタジーの世界についてー 」p.9)

「妖精たち」、近代英語ではエルフ、とよばれる存在を扱うことをまず第一の目的としている物語は、比較的数が少なく、大体においてあまりおもしろくありません。おもしろい「妖精物語」の大部分は、この「危険な国」のなか、あるいは定かならぬその国境のあたりで人間のする冒険についての物語です。

( J.R.R.トールキン著「妖精物語とは何かーファンタジーの世界についてー 」p.18)

『指輪物語』の作者であるJ.R.R.トールキンは、自身のファンタジー論の本で”ファンタジー”を「妖精物語」と表現し、細かく定義しています。

この本は少々難しく、私もトールキンの意図を汲めているか自信はありません。そして読み込めば読み込むほど「王ドロボウJING」はトールキンの定義するファンタジーからは外れている気がします。

(トールキンに言わせると「動物がしゃべるからってファンタジーじゃない」「”夢”を扱うのも別にファンタジーじゃない」「良い妖精物語は劇じゃダメだ、言葉じゃないと!」などなど言っていますので、ここではあまり深くは言及しません…)

 

しかし、上記の引用にあるように「エルフとかゴブリンとか登場させたらファンタジーってワケじゃない」という意見ついては、何となくわかる気がします。

【王ドロボウJING】は、それこそエルフ・フェアリー・ゴブリンといった既存の”妖精像”がそのまま出るわけではありませんが、それらに頼らず『見える世界と見えない世界の橋渡し』をしているように感じます。

もう少し深めるために、C.S. ルイス(『ナルニア国物語』の著者)の研究者である竹野一雄氏の論を見ていきます。

ファンタジーの良し悪しを測る基準は何かということについてである。

私見では、ファンタジーの優劣を測る基準は少なくとも二つある。

一つは、ファンタジーという文学形式によって書かれた作品が読者に魔法をかけて、読者にいわゆる〈不信の一時停止〉(※1)を促し、別世界に読者を誘い、物語全体を通して脅威と不思議の雰囲気を持続させることに成功しているか否かという、作家の技術あるいは技法に関わることであり、

もう一つは、ファンタジーの世界をそれ自体独自の法則を有した堅固な別世界として、読者に実在感を与えることができるように構築する作家の想像力の質に関わることである。

(※1)…人が作り話を鑑賞するとき、懐疑心を抑制し、それが現実ではないことを忘れ、創作された世界に入り込む様子



( 竹野一雄著「C・Sルイス歓びの扉 信仰と想像力の文学世界」pp.28~29)

 王ドロボウJINGの場合はどうか、竹野氏の意見も合わせて考えてみると

「別世界に読者を誘い、物語全体を通して脅威と不思議の雰囲気を持続させることに成功しているお話し」でもあるし

独自の法則を有した堅固な別世界として、読者に実在感を与えることができるように構築されたお話し」にも当てはまっていると思います。

これらのことから「王ドロボウJINGはきわめてすぐれたファンタジー文学」なマンガと言っても良いのではないかな、と思います。

▼参考書


物語る力―英語圏のファンタジー文学:中世から現代まで


妖精物語について―ファンタジーの世界

C.S.ルイス 歓びの扉――信仰と想像力の文学世界

「欠落の回復する異類譚」KING OF BANDIT JING

しかし、実は【王ドロボウJING】のプロット(筋)は、物語論の構造で見るとシンプルなものです。

物語には大きく2つの文法(基礎的な構造)がある、と言われています。

①欠落したものが回復する物語

②行って帰る物語

そして、②行って帰る物語 には『この世の者ではない異性が主人公のもとにやってきて、そして主人公と結婚した後、再び去っていく』という「訪問される側」を描いたものも含まれると言います。

これは、民俗学では「異類譚(いるいたん)」と呼ばれているものだそうです。

『王ドロボウJING』は、ジン(この世の者ではない存在)が、異性(ジンガール・その世界の宿命を代表した存在)のもとを訪れて回復をもたらして、去っていく…という①も②も満たしたプロットなのだと思います。

(1話2話は「異類譚」のみのような気がしますが、3話あたりから「回復」の要素が強くなっていると感じます)

では、王ドロボウJINGを唯一のものにしている要素は何でしょうか。

絵柄、ギミック、引用など…さまざまな要素が立体的に絡み合っていて、これらこそが熊倉祐一先生の技巧なのだ…とは思うのですが、

それらの基礎を支えているモノがあるのではないか、と考えていたところ思い当たるフシが出てきたのでそのお話しをしていきたいと思います。

▼参考書


ストーリーメーカー 創作のための物語論 (星海社新書)

 

「盗みから生まれる回復」というコペルニクス的転回

王ドロボウJINGの魅力を支ているのは「ドロボウ」と「回復」というイメージのギャップから生み出される心地よい裏切りかな、というのが私の考察です。

「盗み」は一般的には悪です。

しかしそこからもたらされるものは「回復」である、というコペルニクス的転回…それが、王ドロボウJINGの魅力の基盤ではないでしょうか。

※ここから、いつかみ聖書解説のターンに入っていくので、苦手な方はUターンしていただければと※

そして、その「一般的に悪」とされることをもってして、世界を回復し秩序を再生させた有名人が現実にもいることをご存知でしょうか。

おそらく、その人がいなければ「王ドロボウJING」も生まれていなかった、と思うのです。

なぜなら、この世界のファンタジーの祖の多くは「その人」のことを伝えようとその創造の力や再構築の力をいかんなく発揮したのですから。

それが、「イエス・キリスト」…キリスト教徒が「神」と称える存在です。

 #王ドロボウJING のみんなのツイート(一定期間を過ぎたもの&画像は表示されません)

キリスト教とファンタジーの関係

私は、生まれ育った家族のなかでは一人きりのクリスチャンであり、王ドロボウJINGとの出会いの方がキリスト教よりもずっと先でした。

だから、日本人のなかで一神教がどんなイメージを持たれているか、知っているつもりです。

そのためこういった話題を不快に思う方もいらっしゃるかと思いますが、それでもあえて話すのは、「『ファンタジー』はイエス・キリストの福音と切っても切れない関係」と知ったからです。

そう、「ファンタジー」の発展は、先人たちに『イエス・キリストの福音』に対する想いがあるからなのです。

さらに、帰納的に言って、すべての偉大な詩は、詩よりもはるかに何か別のものに価値を置く人たちによって作られたものであるということを主張することは、難しいことではない。

たといその何か別のものが、家畜を略奪して敵をやっつけるとか、女の子をベッドに倒すとかいうことだけであってもである。

真の軽薄さ、厳粛な愚鈍さはすべて、文学をそれ自体のために重要視される自己存在的なものにするような人たちのものである。

(C.S.ルイス「キリスト教と文学」pp.434~435)

 

▼▼キリスト教ファンタジーの紹介▼▼

また、日本でファンタジーを翻訳し文化として根付かせてきたのはキリスト者たちだという意見もあります。

(※参考… 国土社「日本のキリスト教児童文学」)

では、多くのファンタジー作家たちを作品作りに向かわせてきた「イエス・キリストの福音」とは何なのでしょうか。

「うっすらは知ってるけどちゃんとは知らない」という方も多いと思いますので、イエス・キリストについての予備知識に自信のない方はこちらのブログをどうぞ。

それでは、私たちの心に深い感動をもたらすジンのコペルニクス的回復(※)に通じるエピソードを、聖書のなかから見つけてみたいと思います。

(※)「コペルニクス的転回」と「欠けの回復」を合わせた造語です

時計はなくても日は昇る…マスター・ギアとパリサイ人

4th SHOT~「時計仕掛けのぶどう」アドニスのお話しです。

時間という悪魔に支配された町アドニス。

「時計じかけのブドウ」と呼ばれる名物を食べに来たジン達。遅刻罪で処刑されそうだったミラベルを助けたことによって、町を支配するヴァン・ムスーに目を付けられてしまう。

(引用:Wikipedia「王ドロボウJING」より)

本来私たちは「時計は無くても日は昇る」ことを知っているハズですが、ヴァン・ムスー(マスター・ギア)に支配されたこの街では、人々はその呪縛にのまれ大事なことを見失っています。

そんな世界に降り立ったジンは、彼らに「時計は無くても日は昇る」ことを思い出させました。

―「時計はなくても日はのぼる」―

言い換えるとしたらこうでしょうか。

「時計のために『時』あるのではなく、『時』のために時計がある」

あるいは、

「時計のために『人間の営み』があるのではなく、『人間の営み』のために時計がある」

 

それを思い出させてくれたのがジンだった。

おそらくジンは、大きな花時計となったこの町で賛美とともに語り継がれるのだろう、と想像します。

そして、聖書にもそういったお話しがあるのです。たとえばマルコによる福音書2章23節~27節です。

ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが、歩きながら穂をつみはじめた。

すると、パリサイ人たちがイエスに言った、「いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」。

そこで彼らに言われた、

「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか。すなわち、大祭司アビアタルの時、神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。

また彼らに言われた、

「安息日は人のためにあるもので、
人が安息日のためにあるのではない。」

(マルコによる福音書 2章23節~27節)

パリサイ人』とは律法学者のことで、いわば「社会的影響力があって、厳格に法律を守ろうとする人たち」のことです。

神は、私たち(人間)のために安息日造られた。私たちは、休息し、神に集中するとき、肉体的にも霊的にも回復する。
パリサイ人たちにとっては、安息日の規則が安息日の休息によりも重要になってしまっていた。ダビデもイエスも、神の律法の意義は、神や人に対する愛を促進することであることを理解していた。
(引用:バイブルナビp.1591)

本末転倒に陥っている人たちに対して、イエスはコペルニクス的転回により「安息日は人のためにある」ということを思い出させます。

このように、聖書には「人間の目から見たら悪いことにみえる出来事を用いて、もっと大きなことをやってける」というエピソードがいくつもあります。

(旧約聖書創世記50章の『ヨセフのお話し』なんかもそれをほうふつとさせますし、新約聖書の各福音書で語られる『イエス・キリストが十字架にかかったことが人間の救いにつながる』という聖書の中心的なメッセージに多くの人が胸打たれることとも親和性を感じます)

さながら、「時計がなくては夜明けは来ない」という呪縛に囚われていた人々に解放をもたらしたジンに、私たちが胸打たれるように。

ちなみに、アドニス編のジン・ガール「ミラベル」の登場シーンの台詞はカトリック・聖公会で聖人とされているトマス・モア卿のオマージュと言われていますね。

愛は法を完成させるー恋愛税とへセド חֶסֶד

もう一つ例を挙げてみたいと思います。「恋愛税」の街、哀しみのムーラン・ルージュのお話しです。

一組のカップルを引き裂いた火災から24年。

葬礼特区ムーラン・ルージュを訪れたジンは、入口の検問で審査官の女性・アニゼットから恋愛税を納めるよう要求される。

24年前の大火で恋人を亡くした特区長・ボルスは、区内のすべての恋人たちに恋愛税を課し、恋人の死を悼む墓標・完全なる愛(パルフェ・タムール)を築いていた。

ジンは税務官から脱税犯として追われる中、監視の目をかいくぐって密かに恋愛を楽しむ人々の姿を見る。

(引用:Wkipedia 「KING OF BANDIT JING」より)

「愛」(ここでは「恋愛」のこと)を監視下に置き、管理しようとするリーダーたちの目を盗んで、人々は恋愛を楽しみます。それも区長が作り出している霧を利用して。

「恋愛税」とは、市民たちを悲しみ製造機である”恋愛”というやっかいなものから守るためのボルスの思慮でもあるのですが、市民らはもっと自由に恋愛を楽しむことをよしとします。

『愛は法で縛れない』ということを暗に感じさせるエピソードとなっています。

このストーリーでは最終的に恋愛税は廃止になり、ジンは「恋愛税の廃止に一役買った=法の廃止に一役買った」ようにも見えますが、もっと詳しく言うとそれは廃止ではなく『完成』だと思います。

イエス・キリストもまた「法の完成」のために来た人だと言われます。

先に挙げた『安息日を守らない人を責めた律法学者たちに怒った話し』のように、”法を廃止しようとした革命家”のようにも見えるイエスですが、彼自身は「自分は律法を廃止するためではなく完成させるためにきた」と言います。

イエスが十字架刑に処されてしまうのは、『法を厳格に守れる人のためではなく、守れない人こそ神の国に入れる』といったことを言ってまわったから、でもあります。

イエスは律法を否定したかったのではなく、律法の本質である「へセド」(神の愛、恵み、恩寵などの意)をあらわしたかったのです。

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
(マタイによる福音書5章17節)

すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終わった」と言われ、首をたれて息を引き取られた。
(ヨハネによる福音書19章30節)

何によって律法が成就するのか――それは「イエスの十字架の死と復活」といった深遠な話しになってくるので、ここでは詳細はお話ししません。

気になる方はみなさま自身の感覚で確かめていただきたいのですが、あえて表現するならそれは、キリスト者が「愛」と呼んでいる”何か”によっての完成なのです。

愛はすべてを完全に結ぶ帯である。
(コロサイ人への手紙3章14節)

たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。

***

このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。
(コリント人への手紙13章13節)

…ちなみに「好きな人がそばに居なけりゃ そばにいる人を好きになればいいさ」という言い回しが出てきますが、これも実に聖書の「善きサマリア人のたとえ」を彷彿とさせる一文ですね。

「盗む」という引き算によって、逆に完成させてしまう…。だからジンの物語は陳腐にならず、じわじわとした感動を私たちにもたらすのではないでしょうか。

 

見える世界と見えない世界の橋渡しーセブンスヘブンと黙示録

警官に尻尾を捕まれ、第七監獄に入所してしまったジン達だったが、この刑務所にあるお宝を手に入れるための演技だった。その昔、カンパリという名の奇術師が、眠った時に見る夢を結晶化した「夢玉」を発明したが、それを悪用したことによってこの監獄に入っているという。「夢玉」を手に入れようとカンパリの元へ向かうが、周りで不可思議なことが起き始める。カンパリに会うことができたものの、突然巨大なネズミに襲われそうになるが、謎の少女・ベネディクティンにより助けられる。しかし、その時はすでにカンパリにハメられ、第七監獄より千倍脱出不可能な「夢の牢獄」に閉じ込められていたことを知る。

引用:Wikipedia「王ドロボウJING」より)

「コペルニクス的回復」のお話しからは少しズレますが、ファンタジーの特性『目に見える世界と見えない世界の橋渡し』に着目した時、『第7監獄(セブンスヘヴン編)』にとくに親和性を感じます。

実は聖書というのは「目に見える世界と見えない世界の橋渡し」をしている書物です。とくに顕著なのが黙示文学形式で書かれている「ダニエル書」や「ヨハネの黙示録」です。

それらは歴史書(過去を述べる)でもあると同時に、人間の内面にせまることがら(今を述べる)をしるし、まだみぬ神の国(未来を述べる)を示すようになっています。

…そして、私が「神の国(天国)」について想いを馳せるとき、いつもあたまの片隅でカンパリとベネディクティンのことを想うのです。

「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
(ヨハネの黙示録21章3節~4節)

私たちのような一神教の土台を持たないサブカルに親しんできた層は、「神の国(天国)」というと『ユートピアにみえるディストピア』『ネガティブなことがない逆に不健全な世界』という印象を持ちがちです。

しかし、聖書が示す「神の国」とは「私たちの想像―時間・空間・次元・概念ーをはるかにこえる世界」だといいます。

それはもしかして『カンパリとべネディクティンが幸せに過ごしているところ』なんじゃないだろうかーーと、そんなことを考えるのです。

時間も空間も悲しみも超えた場所で行われたカンパリとベネディクティンの結婚式。これが「今のわたしたちの概念で理解できないできごと」だからといって『存在しない』と一蹴することができないように。

王ドロボウの帰還―喜びのおとずれ

この画像は、35th SHOT「黒天鵞絨の底編」のジンのモノローグです。とても趣のある言葉ですよね。これを聞いて、ジン好きの皆さまはどういった感想を抱かれましたか?

(実は私は、ジンのことは好きでしたがこの言葉にはイマイチ賛同できませんでした。私にとって『世界』とは、なにか危険を犯してまで手に入れる価値のあるものとは感じられなかったのです。)

『もしかしたら、ジンの渡り歩く世界は美しいのかもしれない。だからそこまでする価値があるのかもしれない……』

そのように思いとどめていました。

私は「現実は美しいところもあるけれど、つらいことや汚いこともたくさんあって、少なくとも自分はそれを賛美できないように生まれてしまった。かろうじて王ドロボウJINGというマンガに展開されている得も言われぬ情緒のことは好きだ」

そんなことを考えながら10代20代を過ごしました。

時をへて、私は「世界を創った神」という考え方に出会います。そしてその神は、人間を自分の姿に似せて創り、人間を愛しているのだと言う話しを聞きます。

この世界は『神』が「よいもの」として作った。そのなかでもとりわけ『人間』を「はなはだよい」とされた(創世記1章)。

その考え方で生きてもいいのかもしれない、そう感じたとき、私は「王ドロボウ」と本当に出会えたような気がしたのです。

ー「この世界が賛美に値する限り 王ドロボウは盗みつづけるよ」ー

ファンタジーの祖、トールキンは福音のことを「幸せな大詰め」と言い、C.S.ルイスは「喜びのおとずれ」と表現しました。

偉大なファンタジー文学の祖である彼らが、そのように言わしめたのは『イエスの福音』であった…。そのこと知ったとき、私は自分の心に起こった変化を心からの喜びでかみしめることができました。

 

このコラムでは聖書の基本的な考え方については省きましたが、もし「『幸せな大詰め』って何か知りたい」「私も喜びのおとずれの足音が聞いてみたい」と思われる方がいらっしゃいましたら…

王ドロボウの次なる帰還を待つ間の読み物として、「聖書」をひも解いてみることをオススメしてみたいと思うのです。





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