まほよめ×聖書
目次
チセのヒロイン像は、時代と逆行している
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ディズニーの【プリンセスと魔法のキス】【塔の上のラプンツェル】【アナと雪の女王】【ズートピア】【モアナと伝説の海】…これらには共通する現代的ヒロイン観があると言われています。
それは、「男性の庇護を必ずしも必要とせず、自分の力で幸せを勝ちとっていくヒロイン」といったものです。一方【魔法使いの嫁】のチセは真逆です。
見出しに「時代と逆行している」と書きましたが、正確には「時代のトレンドと逆行している」と思います。
チセは「不思議な力を持っているが故に 世界で愛されなかった」という設定がありますが、それはマンガとしてのおもしろみを優先してつけた設定なのではないかと思うのです。チセは精神的に虐待を受けていたと思いきや、そこまでひどいことをされたとも言いがたいバックグラウンドの持ち主です。
そういったことから、私はこんなことを想像しています。【まほよめ】は「なんの理由もないけど 世界に必要とされていない感覚を持っている人の救済物語」を描きたかったのではないかな、ということです。
(「なんの理由もない」と言い切ると誤解を招きそうですが、ようするに「本人なりの理由はあるけど他人に『そんなの大したことないよ』と言わがれち」といった人のことを思い浮かべています)
「世界に必要とされてない感覚を持っている人の救済物語」ーーリアルの世界では「自分で自分が必要とされるべく動き出せない人が救われる」ことそもののが「ありえないファンタジー」扱いされています。
「過去になにかあったとしても、自分で前向きになっていかないと誰も振り向いてくれないよ」
「自分が変化しいかなきゃ、誰も君を必要としてくれないよ」
私もそんな言葉をたくさん聞いてきたし、自分が動けているときはそういった言葉を人に投げそうになる自分がいることも知っているからです。
だからこそチセのように「必要とされる場所が見つかった」「エリアスのような絶対庇護者が現れて『キミが生まれてきてよかったと思えるようにしよう』という超至れり尽くせりな感じで自分の状況を変えてくれる」ということにうらやましさを感じる。
それでどこか反感を覚えてしまい、チセのことを手放しで好きになれないーーー
と言われるといかがでしょう。
思い当たるフシがあれば読み進めてくださると嬉しいですし、「それは違う」と思われる方はバックしてくださればと思います。余力のある方はコメント欄に「私はこういう理由でチセが好きになれない」といったことを書いてくださるのも嬉しいです。
とりあえず、この記事内では「うらやましい説」を仮定して話を進めていきます。
私もチセに羨ましさを感じながらも、応援したいとも思っています。なぜなら私は「自力で自分が変わるのは不可能」だと思う派であり、むしろチセのように 「受け身であるにもかかわらず 救われていく」体験をした人をもっと増やしたいと思っているからです。
この考え方は、あるものを通して与えられました。それが聖書ーー「キリスト教」なのです。
キリスト教は他力本願ならぬ「神力本願」
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キリスト教の大きな特徴は「信仰義認」です。
信仰義認とは
信じるだけでOKだし、「信じる」という気持ちすら人間のうちからはわいて来ず、神さまから与えられるという考え。自力で勝ち取ったと思うと傲慢のもとになり、そうなると「自分が神さま」になってしまうもとになるからそれを覚えておきましょうという感じ
チセは嫌い、でも魔法使いの嫁は好き。ならば愚かな提案があるのだがどうだろう
「チセのことを好きになれないのは、チセが受け身でも必要とされ始めることにうらやましさがあるからでは」 「キリスト教は受け身でOK努力不要な宗教」 ここまでこんなお話をしました。さて、何を提案されるかはなんとなくお分かりかと思います。私があなたに提案したいのは「一度キリスト教の門を叩いてみませんか」ということです。 私もそうですが、一般的な日本人は「神」という概念を「人間の作った空想上の存在」「たとえ存在していても、自分には関係ない」と思っている方が多いはずです。 そんな人ほど、キリスト教の神さまを信じるだけで状況が飛躍的に変わります。 「神という存在は実際にいて、しかも『私』という存在を愛しているし、苦しんでいるところを見たくないと思っている」…これれが聖書の前提です。これを信じると、信じた人間は全て「エリアス」ーー「絶対庇護者」を得たと同じような状況になります。必要ならば人間の形で与えられます。 (私個人の話をすると、私の場合は人間のカタチで伴侶として与えられたと思っています。私は弱くて1人では生きていけないから与えられたと。もちろんエリアスほど頼れるわけではありませんが、私にとっては十分な支えです) それだけでなく、聖書にはもっと細かく「キミは無理しなくていい」という約束がなされています。有名なところでいうと「神は超えられない試練は与えない」という箇所などが思い浮かびます。 このフレーズだけなら聞いたことがあると思います。この台詞のソースは新約聖書であり、「超えられない試練は与えない」と約束してくれているのは聖書の神です。 日本仏教では「自力救済」が王道なのでこういった考え方はないと思いますし(浄土真宗以外)、神道はそもそも「個人の救済」には目もくれていないと思います。 超えられない試練は与えないーーだから、その人に庇護者が必要なら庇護者を与えれくれるし、それことエリアスに匹敵するような存在も必要ならば与えてくれるだろうし、与えてくれないならそれは1人で生きていける強さを与えられているということの裏返しになる。 もちろん「1人」というのも、厳密にいうと「イエスが私たちの内側にともにいいてくださる」し、人間が完全に一人で生きるのはムリなので実際にはそれなりの共同体(仲間)が与えられるものだとは思いますが。まほよめについて考えてたら1期OPと2期OPが気になった。 わかるんだけど、 きっと私がもう少し若かったら 「自分が自分でしかないこと」や「自分を救うのは最後には自分自身」みたいなメッセージは しばらく理解したくないと思う。 pic.twitter.com/kvpRnwWXho
— いつかみ聖書解説 (@LampMate) 2018年4月26日