まほよめ×聖書
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チセのヒロイン像は、時代と逆行している

キリスト教は他力本願ならぬ「神力本願」
キリスト教の大きな特徴は「信仰義認」です。 信仰義認とは
信じるだけでOKだし、「信じる」という気持ちすら人間のうちからはわいて来ず、神さまから与えられるという考え。自力で勝ち取ったと思うと傲慢のもとになり、そうなると「自分が神さま」になってしまうもとになるからそれを覚えておきましょうという感じ
チセは嫌い、でも魔法使いの嫁は好き。ならば愚かな提案があるのだがどうだろう
「チセのことを好きになれないのは、チセが受け身でも必要とされ始めることにうらやましさがあるからでは」 「キリスト教は受け身でOK努力不要な宗教」 ここまでこんなお話をしました。さて、何を提案されるかはなんとなくお分かりかと思います。私があなたに提案したいのは「一度キリスト教の門を叩いてみませんか」ということです。 私もそうですが、一般的な日本人は「神」という概念を「人間の作った空想上の存在」「たとえ存在していても、自分には関係ない」と思っている方が多いはずです。 そんな人ほど、キリスト教の神さまを信じるだけで状況が飛躍的に変わります。 「神という存在は実際にいて、しかも『私』という存在を愛しているし、苦しんでいるところを見たくないと思っている」…これれが聖書の前提です。これを信じると、信じた人間は全て「エリアス」ーー「絶対庇護者」を得たと同じような状況になります。必要ならば人間の形で与えられます。 (私個人の話をすると、私の場合は人間のカタチで伴侶として与えられたと思っています。私は弱くて1人では生きていけないから与えられたと。もちろんエリアスほど頼れるわけではありませんが、私にとっては十分な支えです) それだけでなく、聖書にはもっと細かく「キミは無理しなくていい」という約束がなされています。有名なところでいうと「神は超えられない試練は与えない」という箇所などが思い浮かびます。 このフレーズだけなら聞いたことがあると思います。この台詞のソースは新約聖書であり、「超えられない試練は与えない」と約束してくれているのは聖書の神です。 日本仏教では「自力救済」が王道なのでこういった考え方はないと思いますし(浄土真宗以外)、神道はそもそも「個人の救済」には目もくれていないと思います。 超えられない試練は与えないーーだから、その人に庇護者が必要なら庇護者を与えれくれるし、それことエリアスに匹敵するような存在も必要ならば与えてくれるだろうし、与えてくれないならそれは1人で生きていける強さを与えられているということの裏返しになる。 もちろん「1人」というのも、厳密にいうと「イエスが私たちの内側にともにいいてくださる」し、人間が完全に一人で生きるのはムリなので実際にはそれなりの共同体(仲間)が与えられるものだとは思いますが。まほよめについて考えてたら1期OPと2期OPが気になった。 わかるんだけど、 きっと私がもう少し若かったら 「自分が自分でしかないこと」や「自分を救うのは最後には自分自身」みたいなメッセージは しばらく理解したくないと思う。 pic.twitter.com/kvpRnwWXho
— いつかみ聖書解説 (@LampMate) 2018年4月26日
さいごに




