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【まとめた】『煉獄』があったらいいなと思うプロテスタントがカトリックと正教会の意見をまとめた

煉獄、カトリック、プロテスタント

こんにちは。「いつかみ聖書解説」ライター上坂かすがです。

第14話【灰羽連盟】にて『煉獄(れんごく)』というキーワードを扱いました。本編では説明しきれなかった部分を補足したいと思います。

すでにネット上にある記事をできるだけ見やすくまとめてみました。

※クリスチャンでない方がこの記事を読むと「キリスト教色々分派しててメンドクさそう…」とげんなりするかもですが、キリスト教の最重要点である「イエスを神と信じることで、その救いを受ける」というはおおむね一致してますし、経典も【聖書】で共通ですのでご安心(?)ください。

興味のある人が興味を持ったタイミングで読んでくれると嬉しいな

煉獄とは

煉獄(れんごく、ラテン語: Purgatorium)とは、カトリック教会の教義で、この世のいのちの終わりと天国との間に多くの人が経ると教えられる清めの期間。

『カトリック教会のカテキズム』では、「神の恵みと神との親しい交わりとを保ったまま死んで、永遠の救いは保証されているものの、天国の喜びにあずかるために必要な聖性を得るように浄化(清め)の苦しみを受ける人々の状態」と説明する。


正教会やプロテスタントなどキリスト教の他の教派では、後述するように煉獄の存在を認めていない。(引用元:Wikipedia 煉獄より)

義人の霊魂が死後に天国へ入る前に清めを受ける場所または状態。これらの霊魂は、この世において恩恵の助けによって行われた愛徳による痛悔の祈りによって小罪が浄化されるのと同じように、練獄において小罪が浄化される。

しかし、罪に対する悲しみは罰に影響を及ぼさない。というは来世では功績を積むことはできないからである。練獄の霊魂は、神から与えられた苦しみを喜んで受けることによって罪に対する有限の罰の償いをすることで確かに浄化される。

練獄での苦しみはすべての人にとって同じものではなく、各人の罪に応じたものである。さらに、練獄での苦しみの期間と厳しさは、地上の信者の祈りと善業とによって短縮・軽減される。

練獄の霊魂は神を心から愛していて、天国に到達できることが確実であるため、苦しみは心の平安と喜びを乱すものではない。「苦しむ教会」の一員として、練獄の霊魂は地上の人々のために、取り次ぐことができる。そのため、地上の信者は練獄の霊魂の取り次ぎを祈り求めるように勧められている。

公審判ののちに練獄は存在しなくなるが、個々の霊魂にとってはその罰から解放されるまで続くであろう。浄化が終わると霊魂はすぐに天国に引き上げられる。(引用:カトリック小辞典p.325 より)

【るろうに剣心】の志々雄真実の艦隊も『煉獄』って名前だったよね。仰々しいイメージだから怖いところかと思ってたけど けっこう救いがある場所な気もする

 

カトリックの意見(煉獄ある派)

人は死んでからどうなりますか。(「心のともしび」より)

人は死んでから、からだは土に帰り、霊魂は神の審判を受けます。
人が死ぬと、その霊魂は肉体から離れます。そうすると、肉体の方はすぐに腐敗してしまいますが、霊魂は物質ではないので、変化したり、腐敗したりすることがなく、従って滅びることなく生き続けます。


そのとき霊魂は神の審判を受け、天国か地獄あるいは煉獄へ行きます。


(中略)

死ぬ時に完全に神を愛している霊魂は、ただちに天国に入り、神から完全に離れているものはただちに地獄に落ちます。


しかし、なかには、信仰と愛がありながらも、まだその愛が不完全であったり、小罪の汚れのある霊魂もあるので、そのような霊魂はそのままの状態では地獄には入りませんが天国に入ることもゆるされません。従って、その霊魂は煉獄というところへ入って、そこで苦しみによって罪の汚れをきよめられ、その後天国に入ります。


煉獄の霊魂は積極的に自分を助けることはできませんが、私たちの祈りによってその苦しみがゆるされ、もっと早く天国に入ることができます。そのために、カトリック信者は、毎日、煉獄で苦しんでいる霊魂のために祈るのであります。(引用元:https://tomoshibi.or.jp/catechism/catechism-20.html

 

最終の清め・煉獄(「ラウダーテ」より)


よく、人は死んで、天国か地獄に行く、と言いますが、カトリック教会では、天国、地獄だけではなく、神との親しい交わりを保っていたとしても、完全に清められないままで死を迎えた人は、天国での喜びに入るために、ある浄化の苦しみを受けると教えています。教会は、この最終的浄化を「煉獄(れんごく)」と呼んでいます。
教会は、その初めから、死者の記念を重んじていました。死者のために祈り、ミサをささげていました。それは、死者が清められて、神の至福直観に至ることができるためです。教会は私たちに、死者のために、施し、免償、償いのわざをするように勧めています(引用元:https://www.pauline.or.jp/catechism/catechism056.php

 

第32回 真の文化・煉獄について(「尾崎明夫神父の「みなさんちょっと聞きなはれ」– 中学3年生のための哲学入門 –」より)

それではカトリックはどうして煉獄の存在を主張するのでしょうか。まず、聖書には、確かに「煉獄」という言葉はありませんが、次のようなカ所があります。まず、イエス様の言葉に「聖霊に反する罪は、この世でもあの世でも赦されない」(マテオ、12 、32)というのがあります。これに基づけば、「あの世で罪が赦される」ことがあるわけですよね。ところで天国には罪のない人が行くし地獄に行けば罪は赦されない、ということは天国でも地獄でもなく、死んでから罪が赦されるところがあるやんか、ってわけ。もう一つは、「彼自身は、火を通るようにして救われる」(コリント前、3 、15)という文。これも天国なら火はないし地獄なら救われない、じゃからして火で浄化されて救われるところがある、って結論を引き出すのです。

また、もう一つの論拠は、キリスト信者は昔から死者のために祈る習慣があったことです。というのは、もし天国と地獄しかなければ、亡くなった人のために祈るのは無駄でしょう。なぜって、天国に行った人のためには祈る必要はないし、地獄に落ちた人のために祈っても役に立たないから。だから、もしキリスト信者が最初からそういう習慣があったなら、聖書には載っていないけれども、イエス様か使徒たちから口頭でそのように教えられたと考えられるわけです。

(中略)

煉獄の火は厳しくても、そこで苦しむ霊魂は喜びにあふれていると考えられます。なぜならば、ここには希望があるからです。その火は罪の汚れを落とすのに役に立つし、その後で神様に会うことを知っているからです。(引用元:http://www1.cncm.ne.jp/~toguchi/ozaki_philosophy/32.htm

 

煉獄はなくなったのか?(「神父の放言」より)

「神父様、煉獄はもうなくなったのですか?」と不安そうに年配のご婦人。こういう経験はいっぱいあったなあ。みんな、第2バチカン公会議後の変化で混乱しとるんじゃなあ、とつくづく思う。

煉獄はなくなってませんよ!ちゃんとカトリック教会の公の教えとして残ってるし、教えてますよ。神父たちはあまり言わなくなったかもしれませんが。

それからある日また、「煉獄の教えはやめるってバチカンが言ってたってカトリック新聞に出てましたね」とシスター。シスターが言うからびっくり。7,8年前のことだったかな? 確かわたしの記憶によれば、「神学委員会が、リンボ(※1)について司牧の場であまり言わないように、バチカンに進言」という感じだった。

煉獄とリンボは違いますよ! やめるのと進言するのは違う。神学委員会と教理省も違う。教義が変わったんじゃなくて、司牧的配慮のためにあえて言わないということだ。

煉獄というのは地獄に落ちるほどには悪くない、天国に行くほどは善くない、という人のためのもの。煉獄は清めの場であって、清められた人は天国に行く。簡単に言うとそういうことだ。神学的な難しい言葉を使うと、小罪による有限の罰をまだ償っていない霊魂の行く所、かな?

(中略)

この教えに救われる人は案外多い。

(中略)

プロテスタントには煉獄の教えはない。むしろカトリック信者がのほほんと生きている原因になっているような教えだと思っているんじゃなかろうか。

煉獄は聖書的でないかといえば、そうとも限らん。一番の典拠になるのは旧約聖書のマカバイ書だ。しかしプロテスタントはこれを正典と認めていないから、根っこからしてカトリックと違う。だから議論は難しいんじゃなかろうか。

確かに煉獄の考えは安心の元だが、天国に直行する生き方、神だけを取る生き方の方がいいと思うし、そういう人を見ると羨ましく思う。のほほんは確かに聖書的ではないぞ。黙示録にも「熱いか冷たいかであって欲しい。あなたたちが生ぬるいので、私は吐き出そうとしている」とある。熱い生き方、しかし神への信頼に関しては「のほほん」で行ければいいがなあ(引用元:https://blog.goo.ne.jp/hougensinpu321/e/99b6f9bf9951e41e51bfd3f94fa30cd6

(※1)…【リンボ】とは

辺獄(へんごく、リンボ、ラテン語: Limbus、英: Limbo)は、カトリック教会において「原罪のうちに(すなわち洗礼の恵みを受けないまま)死んだが、永遠の地獄に定められてはいない人間が、死後に行き着く」と伝統的に考えられてきた場所のこと。(中略)イエス・キリストが死後復活までの間にとどまった場所(父祖の辺獄)、および洗礼を受ける前に死亡した幼児が行く場所(幼児の辺獄)と考えられてきた。(中略)カトリック教会の公式教義ではなく「神学上の考えられる仮説」として残されている。(引用元:wikipedia 辺獄より)

『煉獄』は教義的には「ある」けど、最近は公の場で言わなくなった…ということかな?

 

プロテスタントの意見(煉獄ない派)

カトリックとプロテスタント(「カナイノゾム研究室」より)

4.聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ


ローマ・カトリック教会の煉獄と贖宥の教えは、旧約外典・偽典を根拠としています。プロテスタントは、ユダヤ教が正典とする39巻のみを、旧約正典としています。プロテスタントが教理の基準とするのは、旧約39巻、新約27巻、計66巻の聖書正典のみです。


聖書正典の教えに従って、プロテスタントは、イエス・キリストにあって与えられた神の恵みのみが、人の罪を完全に贖う、と信じています。罪を赦され、神と和解して、永遠の命が与えられ、天国の民に加えられるのは、信仰を通してのみです。


「聖書のみ」「恵みのみ」「信仰のみ」。この三つの「のみ」は、「キリストのみ」で救われるという 、シンプルで誰にでも可能な救いの道を表しています。


(参照)ルカ24:27,44、ヨハネ5:39、エペソ2:8(引用:http://kanai.hatenablog.jp/entry/2015/12/26/カトリックとプロテスタントより)

 

「正典」の範囲がちょっと違うんだね

正教会の意見(煉獄ない派)

正教会と他教派-カトリック(「名古屋正教会HP」より)

正教の見解「ラザロと金持ちの物語」

正教会では一貫して人は生きている間に悔い改めない限り天国へは行けないと教えてきました。
 金持ちとラザロの物語(ルカ16:19~31)を思い出してください。遊蕩に明け暮れ悔い改めずに死んだ金持ちは、地獄に落ちました。その苦しさに、天国にいる、生前は貧しい病人だったラザロに助けを求めた時、天国のアブラハムは「わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えてくることもできない」(ルカ16:26)と断りました。
 まさに、天国と地獄の間にあるのは越えがたい「大きな淵」のみであり、「煉獄」という「人工的な橋」は架かっていないのです。

「十字架の主の隣で悔改めた犯罪人」

 また、正教会は、その人の罪の大小に応じた「償い」がなければ天国に行けないとも教えません。必要なのは悔い改めて神の愛を信じ、委ねることです。イイススの隣で十字架につけられた犯罪者のひとりが、主の姿に悔い改め「天国で私を思いだしてください」と願った時、主は「よく言っておく。おまえは今日、私と一緒にパラダイスにいる」と救いを約束されました(ルカ23:39~43)。彼は罪の償いなど何も求められず、またそれを行う事もできなかったはずです。正教会で善い行いが勧められるのは、罪の償いのためではなく、神への信仰・主ハリストスへの愛の「果実」としてです。(引用:http://nagoya-orthodox.com/ja/正教会と他教派_カトリック.html

ルカによる福音書16章

ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。 ところが、ラザロという貧乏人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。

この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。 そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。

そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。

アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。

そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。

そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。

アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。(16章19節〜31節)

ルカによる福音書23章

十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。(23章39節〜43節)

この聖書箇所を中心に「ない」って考えてるんだね

さいごに

この記事を公開しようか保留にしている間に、私は大きく2つの死の報せを受けました。1人は私の祖母と、もう1人は職場の元同僚です。私はそれぞれ生前共にお祈りしたことがあり、それぞれの人生の幕引きの時には安寧を覚えていて欲しいと願っていました。祖母は老衰でしたし本人は生前「死は怖くない」と言っていたので私が彼女の気持ちを推察するつもりはありませんが、元同僚は自死だったので、安らかな最期だったわけではないだろうと想像しています。

 

今、私はこんなことを考えています。この世界を創った全知全能だという神が、人間を愛しているという神が、私たちすべての人間の魂の行く末に責任を持ってくれるならば、それを本当にお願いしたいと。それがどんな形なのか、私にはわからなくてよいと思っています。「理解できないもの」は「理解できないもの置き場」に置いておくことが必要な時もあると思っています。今、この記事を発信することにどんな意味が生まれてくるのかは私の理解を超えています。

 

私が身を置いているコミュニティ(プロテスタント)では、煉獄の教理はありません。「いつかみ聖書解説」制作陣は主にプロテスタントであり、基本的には自分の身を置いているコミュニティの考え方に沿うという制作方針のため、作中では解説役である石本伝道師に「煉獄はないと考えている」という表現をとらせました。

 

しかし、同じ神を信じるコミュニティの中にもこういった考えが存在していることは、今わたしの心を支えているという事実は存在します。

 

さらに詳しく調べてみたい方は、引用元のブログやHPなどをご覧ください。灰羽連盟では「グリの街」が『いわゆる〚煉獄〛なのでは』と考察されていた方がいらっしゃったのでちょっとまとめてみました。