2023年1月読み返したのですが「お前は何を言っているんだ」としか言えないような話を連発しているなと思いました(土下座)「RDG」を語ろうとして引き合いに出した『鬼の子小綱』の民話自体は面白いのでそれだけ試食してくださると嬉しいです…!続編どうなるんですかね、楽しみですッ!
こんにちは、人気マンガ・アニメからキリスト教・聖書を解説するWEBサイト「いつかみ聖書解説」です。本日は、

アニメ化もコミカライズもされた児童文学【RDGレッドデータガール】シリーズの感想と

日本人の深層意識から考える「泉水子や深行のこれまで」と、2人が幸せな大詰めを迎えるためには高柳一条を大事にするといい!…かも
というお話ししていきたいと思います。


▼「レッドデータガール」または「荻原規子」についてのみんなのツイート
目次
RDGレッドデータガールが「難しい」とされる理由を感想からひも解く
日本は「見えにくい強さを持っている」という想いが水脈のように流れる作品
当コラムライターは、この【RDGレッドデータガール】をアニメで見てから小説を読んだ派です。感想をことばにするのに5年くらいかかってしまったのですが、おかげで「アニメにも原作にも共通する、RDG感想」みたいなものをカタチにすることができました。【RDGレッドデータガール】は、

「女性の強さ」というのは『霊的な強さ』である、といった主張が水脈のように流れていて、

そのうえで、「日本」という国は『霊的な強さ』を持った国で、その強さは物質社会では形容しきれないものだけど、とにかくすごいものを秘めているんだよ
という主張の上に泉水子や深行といった少年少女のラブストーリーが乗っている物語…だと思うのです。
姫神がどうなるのかといったことが物語上で描き切られなかったこと、続エピソード【RDG 氷の靴 ガラスの靴】に収録されたエピソードも大きなストーリーの変化を描くものではなかったことからも、「そこに荻原規子のメッセージの力点はないのだ」ということがわかります。
この物語の本質は「近代的な合理主義や資本主義といった思想になじめない人間が、日本という国の伝統や強さ(日本の深層意識)再発見することで生きる気力をつないでほしいという願い」なのだと思います。
このコラムを書いていて見つけた「RDGレッドデータガールの深行が嫌いでしんどい」というNoteにも、「RDGレッドデータガールが日本的な作品であることがあらわれている」と感じました。
こいつ優等生の顔で裏で弱いものイジメするただのクズじゃねえか。
たぶん、深行がやったことよりもそれが本編できちんと制裁されてないのが一番のモヤモヤなんだと思う。
(Noteの書き手「もこもこ」さんは、『深行の行動に自分にとって許しがたい部分があるが、作者の文章はスキ』という立場で、ご自身の思考を整理するために書かれています)
あまり意識されませんが、厳密には「善悪」というのは一神教の神ありきで成り立つといわれています。
【RDGレッドデータガール】が「日本の深層意識の上に少年少女の恋愛が乗っている物語」であるなら、深行の泉水子に対する仕打ちが反省や断罪の対象にならないのはうなずけます。
「難しい」という声があがる理由
アニメが難しく感じる一因として、放送回数の問題で原作の内容を沢山端折っていることがあります。 なので原作をただ読むだけでも随分話の内容は分かりやすくなりますよ。 文章や表現的には荻原さんの物語は読みやすいので、難しい•分かりにくいとは感じないかと思います。 小説で難しいと感じるとすれば、山伏などに関連する日本史用語と専門用語のせいでしょう。でもこれは小説を後に読むのであればアニメのおかげで噛み砕きやすいと思います。画像的にイメージできますからね。 あまり身構えずに読んでも大丈夫な小説ですよ(^^)文字も大きめなので本当に読みやすかったです。
(引用:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12108729242)
いろいろな要素があってはっきりジャンル分けできない、ひと言で説明するのがなかなか難しい作品です。ファンタジックな要素もあるし、引っ込み思案の少女が意見を言えるようになるまでの物語でもあるし、各キャラクターの魅力でも楽しめる、不思議な作品だと思います。
(引用:
「善も悪もない、新たな学園ファンタジー『RDG レッドデータガール』 内山昂輝インタビュー」より)
私自身がこの感想を言語化するのに5年という時間がかかってしまったこともあり、【RDGレッドデータガール】が「わかりにくい物語」だと感じる人の気持ちもよくわかります。そこはやはり
・荻原規子先生自身が答えを出すようなエンディングを描かなかったこと(結末に主張があるのではく、設定に主張があった)
・日本思想の上に乗っかっている物語であり、日本思想は「ドグマがないことがドグマ」といった性格があること
ということで説明できるのではないかな、と思います。
(上記Yhoo知恵袋の回答とは少し違う答えの提示になりますが)
▼こんなのもあります


ということで、【RDGレッドデータガール】のメッセージは「楽しく生きてほしい」に集約されるハズなので、「むずかしかった」「わからなかった」と思われる方もそんなに気にせず、感性で読んでいいのではないかなーと思います。
『日本の強さ』からチーム姫神の未来を考察
日本人の深層意識~東北民話「鬼の子小綱」feat.河合隼雄~
さて、私自身が5年考えていた感想を今更カタチにできた理由なのですが、それは私の「河合隼雄」との邂逅にあります。
河合隼雄氏は、日本のユング派心理学の第一人者であり、日本でカウンセリングの勉強をしていたら「知らない間に知っていた」となる人物のひとりです。そんな河合隼雄氏は、『日本人の深層意識』を「物語」(とりわけ民話)から見出そうとする試みをしつづけた人でもあります。
→河合隼雄(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
→河合隼雄 その人と仕事(一般社団法人河合隼雄財団)
(河合隼雄氏は「民話」と「神話」を厳密に分けていたようで、神話に着手するまでにかなりの年月がかかったようです)
私自身は、ユング派のあいまいな感じがいかにも沼に思えて、知人の勧めもそこそこにしばらく敬遠していたのですが、時のめぐりあわせで、河合隼雄氏の著書を読むタイミングに恵まれました。
そこで考察されていた日本人の深層メンタリティのお話しが非常に興味深く、【RDGレッドデータガール】を考えるうえでの助けとなりました。
それは「鬼の子 小綱」というタイトルで語られることが多い、「逃竄譚」または「異類婚姻譚」にも分類される民話のお話しです。
木樵の男が仕事をしていると、鬼が出てきて、あんこ餅が好きかと聞く。男は女房と取り替えてもいいほど好きと答える。そこで、男は鬼のくれたあんこ餅をたらふく食べるが、帰宅すると妻がいないので驚く。
男は妻を探して、一〇年後に「鬼ヶ島」を訪ねる。そこに一〇歳くらいの男の子が居て、体の右半分が鬼、左半分が人間で、自分は「片子」と呼ばれ、父親は鬼の頭で母親は日本人だと告げる。片子の案内で鬼の家に行き、女房に会う。
男は女房を連れて帰ろうとするが、鬼は自分と勝負して勝つなら、と言って、餅食い競争、木切り競争、酒飲み競争をいどむ。すべて片子の助けによって男が勝ち、鬼が酒に酔いつぶれているうちに、三人は舟で逃げ出す。
気づいた鬼は海水を飲み、舟を吸い寄せようとする。このときも片子の知恵で鬼を笑わせ、水を吐き出させたので、三人は無事に日本に帰る。
片子はその後、「鬼子」と呼ばれ誰も相手にしてくれず、日本に居づらくなる。そこで両親に、自分が死ぬと、鬼の方の体を細かく切って串刺しにし、戸口に刺しておくと鬼が怖がって家の中にはいってこないだろう。それでも駄目だったら、目玉めがけて石をぶっつけるように、と言い残して、ケヤキの木のてっぺんから投身自殺をする。
母親は泣き泣き片子の言ったとおりにしておくと、鬼が来て「自分の子どもを串刺しにするとは、日本の女房はひどい奴だ」とくやしがる。そして、裏口にまわって、そこを壊してはいってくるが、片子の両親は石を投げ、鬼は逃げる。
それからというものは、節分には、片子の代わりに田作りを串刺しにして豆を撒くようになった。
(大塚信一著「河合隼雄 物語を生きる」pp.130~131)
→YouTubeで語られているのは、テキストとは違ったタイプの物語です。そのほかエピソードのバリエーションなどはWikipediaなどが参考になるかと思います。
そして、これらは民話よろしくさまざまな結末のバリエーションがあるのですが、いずれも
日本の
「異質なものを排除する姿勢」と
「親の受け身姿勢」によって片子が自殺をする
というスキーム(概型)からははみ出ておらず、しかもこれは他の文化圏の類話には見られない、ユニークなエンディングだというのです。
※半鬼半人間の物語ということだけをとりあげるなら、それは世界中に見られるそうです。
日本人の深層意識~「小綱を黙殺する強さ」と「母性のディストピア」

ここで私が「つながった」と思ったのが、宇野常寛氏の提唱する「母性のディストピア」という概念です。
宮崎は間違いなく、自身が描き続けた世界が自由な空ではなく死の海であることに気付いていた。それが江藤淳から村上春樹まで戦後日本の想像力をつつみこむ、肥大した母胎であることに気付いていた。世界にとって無価値なものに、性的に閉じた関係性の中で承認を与えることでアイロニカルに救済すること。(中略)戦後民主主義が結果的に育んだこのいびつな重力に支配された文化空間を、宮崎駿は自由な空として描き続けた。それが矮小な父性をその胎内で飼いならす肥大した母胎に閉じた死の海であることを自覚しながらも、彼はそこが自由な空であるという嘘をつき続けたのだ。
(引用:宇野常寛「母性のディストピア」p.135~136)
そして、宮崎駿がアニメーションの描くべき「きれいな嘘」として、ユートピアとして提示したこの母権的なものに支配された世界を、富野は少年たちを呪縛し、殺していくディストピアとして描いたのだ。
(引用:宇野常寛「母性のディストピア」p.201)
(中略)
宮崎駿に代表される戦後サブカルチャーの想像力は、虚構の中で少女を所有することで「12歳の少年」のまま「父」になる回路として発展してきたものだった。しかし、富野の描く世界では所有されるはずの少女=「母」が逆に男たちを取り込むことで、「父」として成熟させることなく殺してしまう。このとき富野は肥大した母性のおぞましさとその魅力に作品世界を支配させていったのだ。
富野由悠季は偽りの歴史と偽りの身体による成熟の仮構を可能にする世界、戦後ロボットアニメの文法(が体現する戦後ロボットアニメ―ションの精神)に支配されたこの世界を、「母性のディストピア」として提示したのだ。
著者である宇野常寛氏は「母性のディストピア」という世界観を、戦後サブカルチャーの賜物だと理解しているようです。けれど、河合隼雄氏は
小綱(片子/鬼子)を見殺しにする強さ
↓
耐える強さ
だとしており、「耐える強さ」というのはいかにも日本的な強さであるといったことを主張しています。
そしてこの「耐える強さ」は、一般的に「母性的な強さ」だと表現されやすい感覚です。
「片子」の話で、日本人の父は、半人半鬼の息子が自殺しようとする時に「黙ってそれに耐える強さ」を持っていた。しかし、世間に対して「片子」のために戦う強さを全く持っていない。父は、片子が自分と妻を救い出してくれたことを知っている。それでも世間を向こうに回すことができないのだ。ここに日本人の父親像がある。
(引用:大塚信一著「河合隼雄 物語を生きる」p.136)
(一応、河合先生自身は「そもそも日本的な父親像」として、それを母性的だとか父性的だとか言いあらわすことはしていませんが)
とすると、「母性のディストピア」というのは、戦後サブカルチャーに顕著にあらわれていたとしても、その感覚そのものはずっと昔から語り継がれてきた日本人の深層メンタリティなのではないでしょうか。
つまり、片子という異分子の存在を許さない一様性を尊ぶ社会の在り方、世間の力には抗い難しとして、わが子の自殺を黙って見ている両親の態度、それらを日本人における母性の優位性と結びつけて考えられないだろうか。鬼の非難は、一個の女性に向けられているのではなく、男性も女性も含めて、日本人共通にはたらいている強い母性に対して向けられているように感じられる」
(引用:大塚信一著「河合隼雄 物語を生きる」pp.133~134)
RDGレッドデータガールにあらわれる日本人の深層意識と、未来への可能性
さて、【RDGレッドデータガール】が「日本文化・日本の深層意識」の上に成り立っている物語である以上、やはりこの物語も「母性のディストピア」のテーゼを背負っているのだと考えることができます。
RDGが母性のディストピア的な物語であると思う理由
- 冒頭で述べたように、これは「日本の文化や深層意識」に作者のメッセージがある小説だから。
- 基本的に泉水子がこちらから「力」を誇示するわけではなく、受動的に過ごすことでその強さに回りが気付いていく、というストーリーの運び方だから。
- 泉水子は《三つ編み》をはじめとして「母親の庇護と呪縛」を受けているのにもかかわらず、母親と「姫神」を共有したまま物語は幕を下ろすから。
- グローバル社会の代表のような「サンフランシスコ」で仕事をしているという父親・大成も、その性格は実に優しく、この人たちの庇護があることが前提として物語がすすみ、泉水子は究極的なピンチには陥らないことが読者にも伝わってくるから。
- 「うまくできた箱庭」「大人が奮闘する話」といった感想を持つ人が一定数いるから
- 「犬夜叉」的な、『フィクションの世界に居直るのではなくどこか現実の世界に接続したファンタジー』だと(少なくとも筆者は思う)から
でも、実際に描かれた『犬夜叉』は違う。かごめという、普通に進級して歳を取るヒロインが、戦国時代というけどまあ、事実上はファンタジーの世界にワープして桔梗の代わりに犬夜叉とパートナーになる。高橋留美子は自分がこれまで描いてきた世界の限界というものをよくわかっていて、だから桔梗を殺してかごめをヒロインにした。このかごめというのは、まあ、言ってみれば読者の分身だよね。
これまでの高橋留美子作品のヒロインとはだいぶ違っていて、彼女が描いてきた「終わりなき日常」のファンタジーを必要とする現代人の象徴でしょう? だから高校に通いながらときどき戦国時代で冒険する。まるでディズニーランドに行くようにね。要するにちょっとメタフィクションぽくなっている。
戦国時代というのは漫画の世界でありフィクションの虚構の世界であって、高橋留美子が描いてきたような時間の止まったユートピアだよね。その虚構と現実の世界を自由に往復するような現代的な主体がかごめだった。『犬夜叉』って一言で言うと、高橋留美子の長い反論なんだよ。押井守に告発されたように、自分の描いてきた世界は時間の止まったユートピアの絵空事で、そこを維持するためには数々の欺瞞というか暴力性、排除の論理が働いている動んだけど、そういったものがあるからこそ人間は生きられるだっていうメタフィクショナルな意識によって『犬夜叉』ってできていると思うんだよね。
(引用:宇野常寛が語る『母性のディストピア』vol.1 高橋留美子の母性と本音)
ただ、『犬夜叉』の問題というのは高橋留美子がそういったメタフィクショナルな意識を前面化することにためらいがあったこと。桔梗が序盤でとっとと死んで犬夜叉とかごめが新しい関係性をどう築いていくかということと奈落という抽象的な悪の打倒と結びついていくのが本来の構造のはずだけど、単行本が56巻あって桔梗が死ぬのは47巻でしょ? 高橋留美子は自分の過去の世界との決別できないんだよね。
桔梗を殺せないという問題が高橋留美子の本音、「母性のディストピア」で何が悪いんだという本音を表していると思う。人間というのは別に社会化しなくてもいいんだ、と。老いから目をそらしてこの私たちの肥大した母性と矮小な父性の結託で完成するんだったら、そこでパブリックなものが失われていっても、その裏で犠牲になる人がいたとしても私たちは幸福なんだからいいじゃないか、という。だってそれが私にとって必要な美しいファンタジーなんだからということをどこかで思っている。
ただやっぱり『犬夜叉』ってそのファンタジーの世界に居直るんじゃなくてどこか現実に接続したいという、何か今を生きる『少年サンデー』を読んでいるティーンエイジャーにとっての虚構の役割みたいなところに踏み込んで自分の作品を位置付け直すということをやりたかったんだと思うんだけどね。
(引用:宇野常寛が語る『母性のディストピア』vol.1 高橋留美子の母性と本音)
もちろん、「母性のディストピア」は悪いのか、というと、そういうわけではありません。
なぜ「母性」が悪いのかよくわからない。抑圧もあって初めて成立するのが社会である。
母親が強いこの日本において、父-母-子のオイディプス三角形の視点で断罪して、果たして意味があるのか?
(私は犬夜叉も好きです…)
ただ、私たち読者が仮に

泉水子には幸せになってほしい!
幸せな未来の二次創作を妄想したい…!
と思うのであれば、このまま「母性のディストピアを内破する方法に無自覚」だと、知らず知らずのうちに「片子の黙殺にクソデカ感情を抱いて終わるメリーバッドエンドルート」を選ばせてしまう可能性Isるのでは…?と思いました。

少なくとも「深行が泉水子にした仕打ちへ謝罪を求める道理」はなくなると思う
メリバにはメリバの良さがありますので、お好きな方はそのままで大丈夫ですが、荻原規子先生自身は幸せな大詰め(ハッピーエンド)を志向していること、
「…(前略)でも、私は、死に向かう物語ではなく、生きているといろいろと大変だけども、それでもたまにはいいこともあるかもしれないから、もうちょっと生きてみようと思ってもらえるような話を書きたい。そして、生きていくためには、現実に絡め取られない何かがすぐ隣にあるということを想定したほうが、世界のすべてに絶望した時にも、まだ残るもの何かを抱えていられると思うのです。人間同士のコミュニケーションがうまくいかなくても、神霊や人間外のものが周りにいると考えれば、世界の見え方に別の抜け穴があるってことに気づけるかもしれません。(後略)…」
(引用:5年ぶり! ファン待望のシリーズ6巻その後の物語『RDG 氷の靴 ガラスの靴』 宗田真響の視点で描く、新たなRDGの世界とは?荻原規子インタビューより)
▼「幸せな大詰め」についてはこちらでも


そして心理士である河合隼雄氏も「日本はこのまま片子を自殺させる社会でありつづけてはならない」としていること、
現代の日本に生きるわれわれとしては、西洋文化との接触が増したことや、歴史全体の流れということもあって、これまで日本民族にとってあまりなじみのない、牧畜型の父性をとり入れることを試みねばならない。われわれの取りあげた昔話に即して言えば、片子を自殺させてはならないのである。
(引用:大塚信一「河合隼雄 物語を生きる」p.136)
これらを考えると、やはり私たちは泉水子たちに「小綱を黙殺しないルート(母性のディストピアの内破)」を選ばせる方法を知っておいたほうがよいのではないかなー、と思います。
そして、その方法のカギとなるのが「高柳一条」だと私は考えています。
なぜ高柳一条がハッピーエンドのカギを握ると考えるか
「小綱を死なせないルート」が選べるとしたら、それは『異質なものとの出会い』が一歩だから
河合隼雄先生や、それに追随する心理学者の方は「小綱を死なせないルート」は『異質なものとの接触』『牧畜民族的な父性の獲得』によって拓かれていくと考えているようです。
だが、人間が自分自身を知るには自分と根本的に異なる「他者」を必要とする事からも、人間は鬼や鬼畜にしか見えない鬼や片子の鬼の部
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/139728/1/eda57_167.pdf
やその残虐な行為から眼を背けずに対峙し続け、相手の眼には自分がどのように体験されているかを意識する必要がある。
最近日本において、父親の復権とか強い父性像の必要性が説かれることが多いが、その場合の父親像とはあくまで農耕民族的なそれである。しかし、現代の日本人が必要とするのは、牧畜民族的な父親なのではないか。それは「父親の復権などということではなく、そのような父親像をかつての日本文化のなかで見出すのは、困難であり、あたらしい創造的な姿勢を必要とするものと言うべきである。
(引用:大塚信一「河合隼雄 物語を生きる」p.135)
この肥大した「母性のディストピア」を破壊するためには、私たちの「父」への欲望を他のかたちに置き換えることが、新しい成熟のかたちを示すことが必要だ。
それを思うと、チーム姫神の「多文化交流と異質さの取入れ」を担っているのは、あの憎めない憎まれ役「高柳一条」です。
高柳 一条 (タカヤナギ イチジョウ)
(引用:マンガペディア「RDG レッドデータガール項」)
鳳城学園高等部1年A組に所属する男子。前髪を目の上で切りそろえ、段をつけて切って顎の下まで伸ばしたボブヘアにしている。なぜか容姿の雰囲気が和宮さとるによく似ている。陰陽師の御曹司で、式神を操る力を持つ。非常に優秀でプライドが高く、鳳城学園高等部を支配したいと考えており、式神を用いて校内で暗躍している。そのため、宗田真響とは敵対関係にある。 一方で危機に陥ると急に臆病になる一面がある。配下の式神には、リカルドなどがいる。
高柳一条は日本の伝統呪術の使い手でありながら、「キリスト教」といった新しい異質なものををかけあわせたハイブリッド呪術を行使する存在として描かれます。最初のライバルという立ち位置からいじられ役というトリックスターに身を転じながらも、彼は確かに「チーム姫神」なのです。
そもそもキリスト教は「父権的」か?~泉水子のモノローグから~

高柳一条が聖書から詠唱を用いるくだりで、泉水子は「キリスト教の神」についてぼんやりと考えます。
もし私が、20歳までのキリスト教に縁がなかった時代にこれを読んでいたら賛同していたと思います。一神教の神さまというものは、こういう〈遠くて怖い、父権的な存在〉」だと受け入れていたと思います。
ただ、時を経て、自分が教会に行って話を聞いたり聖書を読むようになると、こういったイメージはじっさいのこととズレがあるように感じました。
(私は、家族のなかでただひとりのクリスチャンであり、20歳を超えるまでキリスト教にほとんで縁がありませんでした。また、実家が仏教のお寺でしたが、そのかんじにもあまり興味が持てず、それよりかは荻原先生の作品の描く神観念のほうがずっと身近でしたし、そっちのほうが賢くて深くて尊い、と思っていました。)
というのは、やはり、一神教のなかでもキリスト教がキリスト教たらしめる中心である「イエス・キリスト」のせいだと思います。
「子なる神イエス」というのは、神の位格のひとつであるとキリスト教は考えているわけですが、それは「父なる神と人間との仲介役」として、限りなく母性的な役割を担っている存在でもあるのです。
![[キリストだけが神への道]](https://www.hyuki.com/four/law3.png)
かつ、彼は牧畜業に就いたことは一度もないにもかかわらず、「羊飼いと自らを表現し、こんにちまでそのイメージで語り継がれています。



また、「甘えの構造」という有名な日本人論の本がありますが、その著者である土居健郎は、キリスト教は「甘えることを肯定している宗教である」といったことを言っています。
土居健郎はカトリックの信仰者です。若いころの信仰の遍歴は、『信仰と「甘え」(増補版)』に詳しいです。土居健郎は、「祈り」とはすなわち「神への甘え」であることを見抜いています。いくつか土居健郎が挙げている例を出しますと、例えば「求めなさい。そうすれば与えられる」というイエスの言葉は、神様には、欲しいものをなんでもねだってよいのだ、ということ、すなわち神様に甘えるべきことを、イエスがすすめている、と土居健郎は読んでいます。
(中略)
(引用:「日本でキリスト教が衰退している本当の理由」でれすけnote)
そして、イエス自身の神への甘え。ゲツセマネの祈りも、かなり、神への甘えが出ています。(いまちょっと私が思ったんですけど、このときイエスは、ペトロたち弟子にもちょっと甘えていますよね?) そして十字架上のイエスの言葉。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。イエスは神に甘えています。これは土居健郎の指摘でもあり、奥田知志牧師の指摘でもあります。
再び土居健郎の指摘に戻りますと、このように、甘える心がなければ、祈ることもできない。私たち、あれこれお祈りしますけど、これらって、土居が指摘するように、すべて、神への甘えであることに、お気づきになりませんでしょうか?そして、土居健郎は、決して悪い意味で「甘え」という言葉を使う人ではないのです。「絶えず祈りなさい」というくらいですから、「絶えず神様に甘えましょう」なのです。
(参考文献:土居健郎著「信仰と「甘え」増補版p.154~168)
イエスの姿には、河合隼雄氏の言う「牧畜民族的父権」のヒントがあるし、なにより【RDGレッドデータガール】の物語そのものが、最後の巻になってややも唐突に「クリスマス」を描いたり、クラウスにキリスト教について語らせたりしたところからも、荻原規子先生自身が「泉水子たちが『異質な』一神教と出会うことの重要さ」を感じていたのではないでしょうか。
泉水子や深行の未来を思い描くことは、私たち一人ひとりの想像力の仕事
この日本において、「宗教」はあまりにも異質なモノとして扱われるようになりました。
けれど、泉水子や深行たちの物語を通して「見えるモノと見えないモノのはざまの大切さ」を知った私たちは、私たち自身がたましいの喜びをもとめていくことや、次世代にもそれの大事さを語りついでいくこと、そんな使命を持っているのではないかな、と思います。
いちおう、「キリスト教に触れる」ということは意外と合理的なメリットもある、ということをカンタンに口添えさせていただいて、


見えなモノについて思いを馳せることそのものが、私たち一人ひとりの辛い夜の助けとなることを、祈りつつ。
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▼いつかみ聖書解説~石本伝道師編~