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【更新】空色勾玉と古事記の関係、荻原規子の神々とキリスト教の共通点(10/31更新)

【空色勾玉考察】古事記の研究から見えた勾玉三部作のメッセージと、少しの聖書解説

こんにちは。人気マンガやアニメから聖書を解説していくWEBサイト「いつかみ聖書解説」です。

今日はちょっと志向を変えてファンタジー児童文学のお話しです。

『空色勾玉』というファンタジー小説があります。


空色勾玉 (徳間文庫)

2018年8月で刊行30周年を迎えた、『古事記/日本書紀/風土記/延喜式代八巻祝詞をモチーフにした日本ファンタジー』と言われています。

▼#空色勾玉 についてのみんなのツイート

▼#勾玉三部作 についてのみんなのツイート

私は小5の時この小説に出会い、とてつもなくハマりました。

そして、勾玉三部作のモデルになった『古事記』に描かれている神々が「私が生きているこの国の神さまたちの姿」なのだと思い、そのカケラを拾い集めては自分なりに愛でてみたり考えてみたりしました。

しかし『古事記』を読んでも空色勾玉とは合わないことにも気づきはじめ…それがなぜなのかわからないまま月日がたちました。

荻原規子先生の「作品観」が出ているであろう『勾玉の世界』も読んだのですが、それでもいっこうにわからなかったのです。

時を経て、ちょっとした知識欲を満たすために図書館で「神道とはなにか」について調べていたとき、荻原規子先生が空色勾玉で描こうとしていたものが見えてきた気がしました。

そのうえで、荻原規子先生の描く「キリスト教」のイメージに対するちょっとしたギモンや、荻原先生の描く神々の姿に現れる「聖書の神(一神教の神)」との共通点などもお話ししてみたいと思います。

「現実を映し出す鏡」としてのファンタジー、そして空色勾玉の考察。

楽しんでいただけたら幸いです。

ネタバレ注意

この記事はネタバレを含んでいます。ネタバレが嫌な方は、原作を読んでからまた遊びに来て下さい!更新のお知らせを受け取りたい方は

をお願いします!

C.S.ルイスの「偉大な詩」についての説明。

 

『空色勾玉』は「日本史観ファンタジー」であって、「日本神話ファンタジー」ではないのかも

『空色勾玉』について知りたい方は
Wikipedia「空色勾玉」
ブックメーター「空色勾玉」
ホンシェルジュ「『空色勾玉』と「勾玉」シリーズの魅力を考察!恋愛小説としても面白い! 」

『空色勾玉』って、古事記がベースだから古事記の味方なんでしょ?

…と思っている読者さんも多いのではないでしょうか。

じっさいに、空色勾玉の感想を探してみるとこんな感じです。

このお話の下敷きには古事記や続日本紀にある神話があって、つまり、まほろばの都は奈良盆地のようであり、月代王はツクヨミノミコト、その双子の姉照日王はアマテラスです。「できそこないの弟」と言われ、のちに狭也の運命の人となる稚羽矢はスサノオで、後半には、こういったキャラクターの持つ神話的象徴性がストーリー展開とぴったりマッチして大スペクタクルを繰り広げ、何とも心地よい大団円を迎えます。

(引用:「HANNAのファンタジー気分」)

 

日本神話をモチーフにしているのが特徴で、イザナギやイザナミ、天照大神・月読命・須佐之男命の「三貴子」など、国の誕生に関わる神々をとりあげています。イザナギが、亡くなったイザナミを追って黄泉の国へ行き、変わり果てた姿に恐れをなして逃げ帰るというエピソードを知っている方も多いでしょう。


まだ神々が地上を歩いていたとされる古代の日本で、国家統一を図る「輝(かぐ)」の大御神と、それに抵抗する「闇(くら)」の一族との戦いのなかで、少年と少女が運命に翻弄されていきます。不老不死や輪廻転生など、死生観も盛り込みながら、壮大な物語が展開される作品です。

(引用: ホンシェルジュ「『空色勾玉』と「勾玉」シリーズの魅力を考察!恋愛小説としても面白い!」

 

登場する神々やストーリーは古事記、日本書紀がベースになっている。照日王や月代王は人格神ではあるものの人間とは違う論理の元で生きており、ギリシャ神話や天守物語に登場する神々と重なり興奮した。神はこうでなくては。

(引用:「空色勾玉」ブックメーター

 

 

でも実は、『空色勾玉』と『古事記』は違うところに着地しています。

『古事記』においては、天つ神が葦原中国に降臨し、国つ神は地上を譲り渡す。天つ神が地上に国を築くのである。しかし、『空色勾玉』では逆に、闇を選んだ狭也と稚羽矢が地上に国を築く。

(引用:並木勇樹「見出される闇、アイデンティティとしての縄文ー『空色勾玉』論

 

そう、『古事記』と『空色勾玉』にはこんなラストの違いがあるのです。

『古事記』→「輝(天照大神の末裔)」が日本をまとめていった

『空色勾玉』→「 輝 と闇(大国主、国つ神々)が習合したもの」が日本をまとめていった

 

つまり、荻原規子先生が描きたいのは「日本神話ファンタジー」というより「日本史観ファンタジー」なのだろうな、ということです。

 

日本の神話といえば、誰もが『古事記』『日本書紀』を思い起こす。しかし、本編にも述べたように「記紀」は奈良時代の始めに、多分に政治意図をもって編纂されたものである。

( 引用:瓜生中/渋谷申博著「日本神道のすべて[日本を日本たらしめるドグマなき宗教]を探求する!」 p.71)

 

巫女、審神者、祭を通して表出した神話は、部族内の人々の口から口へと語り継がれていった。そして、時代がたつとこれを専門に語る語部が登場し、彼らによって神話は口承されていったのである。彼らは始めのうちは、素朴な神話の真相を伝えていたかもしれない。しかし、これらの人々が語部としての職能をもつようになると、事情はしだいに変化してくる。

彼らは在地の豪族の支配下におかれて、それぞれに伝持していた神話は支配者の都合のよいストーリーに書き換えられる。さらに時代が下ると豪族たちも天皇家に服従して、ついには神話は朝廷の神話に生まれ変わるのである。(中略)

そして、『古事記』『日本書紀』の編纂に至って、神話は大改造されることになるのである。

(引用:瓜生中/渋谷申博著「日本神道のすべて[日本を日本たらしめるドグマなき宗教]を探求する!」p.72)

 

もっとも当時、日本全国というか、文明化した日本全体を一つに統べる王朝など存在せず、各地に王(きみ)というべき存在があり、それらは次第に統一に向かいつつあっても、統治する領域が離れていたりして、ある場合は共存し、ある場合は戦いながら、その中に比較的優位にある王、大王(おおきみ)というべき君主が、統合の姿勢を見せたのであろう。

(引用:三浦朱門著「天皇 日本の性質」p.91)

 

日本文化の原型を探し求めて数千年の歴史をさかのぼってみたことのあるひとなら、おそらくはだれしも、本居(宣長)が『大御国の古意』をつたえる神典とみた『古事記』の神代の巻あたりの情景を、いかにも国際色ゆたかな文明開化の姿として受けとらざるをえないのではあるまいか。たとえば、そこには、水田があり、機織具があり、鉄鋼(金山の鉄)があり、刀剣があり、鏡があり、古墳らしきものさえあるではないか。これらは、いずれも、弥生時代以降に、大陸から渡来した文物にほかならない」

(上山春平著「神々の体系」)

 

…これらのことを踏まえると、『空色勾玉』は

 

闇(国つ神) 対 輝(天つ神)

「風土記」「古事記

「日本の土着信仰」 「日本の一神教」

「国民」「国」

「縄文」「弥生」

 

が描かれた作品であり、

「現人神天皇によって統治されている選ばれし国:大日本帝国日本」もしくは
「神の末裔・神武天皇とその子孫が力強く統治する選ばれし国:日本」
という幻想が敗れた日本において、新たに必要とされるであろうメンタリティを人々に伝えるために描かれた 温故知新ファンタジー

なのだと思います。

 

『空色勾玉』は「悪VS善」ではないが「闇VS輝」ではある

もう少し「物語」として『空色勾玉』を深めてみたいと思います。

例えば『風の谷のナウシカ』や『星の王子さま』は、「ケアの思想」対「管理の思想」という対立構造で構成されていると言われています。

 

中村圭志著「宗教で読み解くファンタジーの秘密Ⅰ」の、有名ファンタジーの対立構造の図

 

『空色勾玉』もまた「ケアの思想」対「管理の思想」と言える気がします。

「空色勾玉」に見る対立構造の図

 

もちろん、荻原先生の物語への想いなどを読むと「闇と光は対立構造ではないことが描きたかった」という主張は一貫していますが、以下のことから私は「対立構造には、なっている」と考えています。

 

① 空色勾玉の結末は闇の勝利だ、と考えられるから

「けっきょく狭也は闇をとった。空色勾玉の結末は闇の勝利だ」と論考している論文があります。

狭也と稚羽矢が地上の王となった際には、輝きの御子でちはやの姉と兄である照日王と月代王は豊葦原を去り、天に上る。地上に残る輝き一族は、闇に惹かれる輝の御子、 稚羽矢のみである。これは、闇の勝利と言えるだろう。その後、 狭也と稚羽矢は闇の勝利した地上で王となる。ふたりは輝と闇を調停してはおらず、闇を選んでいるのである。

(引用:並木勇樹「見出される闇、アイデンティティとしての縄文ー『空色勾玉』論)

 

②「闇=悪」「輝=善」ではないだけだから

『空色勾玉』が「悪vs善」という構造に収まらない作品のように感じるのは、「闇=悪」「光=善」ではなくて、闇と光それぞれが

「いわゆる『悪』とされているもの」
「いわゆる『善』とされているもの」

を含んでいる、というのが丁寧に描かれているからだと思います。

 

「宗教で読み解くファンタジーの秘密」で中村圭志氏はファンタジー作品にみられる「善悪」をこう因数分解しています。

「有名ファンタジーの対立構造」「善悪の定義」で考える『空色勾玉』

『空色勾玉』は「闇と光」それぞれが〈自己閉塞の悪循環〉も抱えているし〈共同性の好循環〉を好ましいと思っていて最終的にはそれを得ていく…という構図になっています。

 

いろいろまとめると、こんなかんじでしょうか。↓

荻原規子「空色勾玉」考察

それらのことから考えると、『空色勾玉』は確かに「悪vs善」ではないのですが、「闇vs輝」の物語ではあるのだと思っています。

 


 

さて…

続いて荻原先生が描いている「神観」「メッセージ性」を抽出していきたいと思います。

たとえば、令和の天皇即位の儀を見て「空色勾玉を思い出した」という方は少なくないようですが、荻原規子作品は現在の天皇制をどちらかというと擁護してない方だと感じます。

個人的には「日本人は『天皇制/皇族』みたいなシステマチックな管理体制に自分たちのスピリットを委ねなくても生きていけるんじゃないの?」くらいのカンジかと。

そこで、このコラムでは「天皇信仰」ー「そのほかの信仰」を比べるのではなく、
「日本人の信仰(荻原規子先生の考える)」ー「そのほかの信仰」とを比べる、

という試みをしていきたいと思っています。

そこで、まずは「日本人の信仰」について洗い出す作業を行っていきます。

 

「闇の女神/国つ神」~神道の定義・輪廻転生思想・汎神論~

「空色勾玉に出てくる神々」は、以下のように表現されています。

  • 輝の大御神(イザナギ)
  • 輝の三御子(天照大神、月詠御子、スサノオ)
  • 闇の女神(イザナミ)
  • 国つ神(八百万の神々)

 

これらの神々にはこういった特質があると描かれます。

①輝の大御神光(「肉体」はない?)。
死や老いがない。純粋で残酷。
見ると目がつぶれる。許すという概念がない。
②輝の御子たち肉体あるが老いない。死なない。
純粋で残酷な性質がうかがえるが人情もある。許すという概念がない。
③闇の女神大地に遍在する。水/黄泉をつかさどる。
よみがえりをつかさどる。水に流すことができる。
④国つ神(八百万の神々)イザナギとイザナミの子ども。大地。荒ぶる神でもある。人間の生贄により怒りを鎮める(と、人間が考えている)。怒ったりする(自然災害的なことを起こす)。

輝の系統のもの(不老不死の力を相入れないものと判断し、怒る)に対しても怒る。

不老不死は穢れ。一面として「酷さ」を持つが、本来は慈愛に満ちた麗しい神々であるとされる。
大地に実りをもたらす。国つ神にはぐくまれない土地は生命の息吹を持たない。
人間の祈りは聞かない(叶えない)が、人間が祈ることには意味があるとされる。贄(ささげもの)は受ける。

 

そのほか、主人公の狭也が「輝の神々」「闇の女神」「自然の神」に対してこんなふうに形容する描写があります。

(輝について)光、若さ、美しさ、永遠の命をうらやみ、望ましいものに思っている

(輝について)あなたがた輝の御子は別の美しさをもっているわ。永遠で不変の。でもそれは天上のものであって、豊葦原にはむかないものなのよ

(闇の女神、国つ神について)豊葦原の美しさは、そういうところにあるの。生まれてはほろびて、いつもいつも移り変わっていくところに。どんなに名残惜しくても、とどめようと手を出してはならないのよ

 

そしてこれらは、こうとも言い換えることができます。

①と② →『天皇家の系譜の神々』一神教的(皇族神道)
③と④ →『日本の土着信仰の神々』多神教的(汎神論/神仏習合精神/シャーマニズム)

『天皇家の系譜の神々』は最終的に豊葦原を去っていくので、荻原先生の描きたい神々は 『日本の土着信仰の神々』 にあると考えてよいかと思います。

ですので、荻原先生の「日本の土着信仰の神々」の描写が「日本の神々像」としてどれくらい適切なのか、を考えてみましょう。

 

「神道」は日本の土着信仰か?

まず、一般的に「日本の神々観」を表していると考えられがちな「神道」の定義を見てみましょう。

神道とは、日本民族の神観念にもとづいてわが国に発生し、主として日本人の間に転回した伝統的な宗教的実践と、これを支えている生活態度および理念をいう。神道は、ニ、三の教派を別にすれば、教祖を持たない自然発生的宗教であり、主として日本人の間で行われている民族宗教である。(略)

(出典:「国史大辞典」)

 

神道とは日本民族固有の宗教であり、日本の列島がもつ風土環境と、そこに住みなした原始~古代人たちの生活習慣が織り成した歴史のなかに芽生え、はぐくまれた独自の、素朴な宗教的情操や霊的価値観を基盤として、不断に渡来する外来的文化をも摂取融合し、次第に成長をとげたものである

(引用:「原神道の世界」『講座日本の古代信仰』第1巻)

 

日本の風土に生まれ、民族の歴史とともに盛衰してきた宗教文化であるから、当たり前の日本人であれば、おのずからその生活の一部をなしてきたものであり、その生活感覚にはじめからなじみきった営みである点で、まさしく伝統文化の一端でしかない。(略)神道は、日本の風土と民族文化を抜きにして営まれた宗教独自の歴史や性格をもったことがない。現実の風土と社会がそのまま宗教の世界だという神道の本来的なあり方は、近代の見方からすれば、いわば宗教以前の宗教ということになる

(出典:薗田稔「日本宗教辞典」第二部 神道頁 弘文堂版)

 

神道とひとことで呼ばれてはいるものの、神道はひとつの秩序ある信仰体系ではなくて、むしろ、心霊、魂、霊魂などをめぐっての原始的な信仰とその実践の集成されたものなのである

(引用:ハルミ・ベフ著/栗田靖之訳「日本――文化人類学的入門」)

 

こうなってくると、最後は「日本人の信仰を神道と呼ぶ」という定義を出すしかないように思えてくる。

(引用:瓜生中/渋谷申博著「日本神道のすべて[日本を日本たらしめるドグマなき宗教]を探求する!」p.22)

いかがでしょうか?

 

つかみどころがない

ということは感じていただけたかと思います。

さすが〈ドグマなき宗教〉と呼ばれるだけあって、実にとらえどころがない定義です。

 

こうなってくると、最後は「日本人の信仰を神道と呼ぶ」という定義を出すしかないように思えてくる。

とあるように、荻原先生自身も「日本の信仰は『日本人の信仰』のこと」と考えているんだろうな、ということが読み取れるインタビューがあります。

〈勾玉三部作〉を書いた頃って、日本古代史の考え方があまり固まっていなくて、記紀神話はキリスト教文化に埋もれたケルト神話のように、仏教文化が入ってくる前の地層にある、というとらえ方をしていたんですよ。

書き終えた後に考えが変わってきて、それって違うなと。きっと「神仏習合」のほうが、日本人に根づいた本当の地層にあるものと近いんじゃないか、と思うようになりました。

(引用:荻原規子著/徳間文庫編集部編「〈勾玉〉の世界」pp.12~13)

 

熊野って猥雑な感じですね。なんでもありで、全部がご利益みたいな。混在してるのが当たり前で、神社は神社、寺は寺とかいわず渾然一体としてます。でも、一番そこに祈りにいきたくなるんじゃないかな、という気がして。

(引用:荻原規子著 徳間文庫編集部編「〈勾玉〉の世界」 pp.16~17)

 

つまり「ボクが考えたサイキョウのシュウキョウ!」 も日本にあっては信仰のカタチとして認められるはず、というのが荻原先生の考える日本の神観、と言えるのではないでしょうか。となるとそして、荻原先生の神々の描写もまた「日本の信仰のひとつ」と言えます。

「荻原規子の神々」の神観をもう少し細かく見ていきます。荻原規子先生の描き出す日本の神々というのは

「輪廻転生思想のある汎神論」

に基づいているかな、と思います。

ですから『空色勾玉』を深堀りしたい or 次世代に読んでもらいたい、という方が次に考えたいのは

「汎神論とはなにか」

「輪廻転生(その死生観)とは何か」

「それらは私たちになにを要求し、なにをもたらすのか」

ではないでしょうか。

 

 

 

さて、ではここからはいよいよ「いつかみ聖書解説」沼に入ってみたいと思います。

【空色勾玉の神観から、聖書/キリスト教の神を解説】といったお話しと、『空色勾玉』を愛している私がクリスチャンになった個人的な考え方の移り変わりも少しお話ししてみたいと思います。

お時間よろしければ、もう少しお付き合いください。

 

前提~C.S.ルイスの他神話論~

「汎神論とは何か」「輪廻転生(その死生観)とは何か」「それらは私たちに何を要求し、何をもたらすのか」 に入るにあたって、荻原先生も愛する『ナルニア国ものがたり』作者C.S.ルイスの神話観についてお話ししておきたいと思います。

このたび私は『空色勾玉』を読み返していて「この『神』設定、聖書にもあるなぁ」という描写の多さに驚いたのです。以下、表の共通点にマーカーを引きました。

赤マーカー…おんなじカンジの設定
黄マーカー…補足アリだけどおんなじカンジの設定

①輝の大御神(「肉体」はない?)
死や老いがない。純粋で残酷。
直接見ることができない。許すという概念がない。
②輝の御子たち肉体はあるが老いない。死なない。
純粋で残酷な性質がうかがえるが人情もある。許すという概念がない。
③闇の女神大地に遍在する。水/黄泉をつかさどる。
よみがえりをつかさどる。 水に流すことができる。
④国つ神(八百万の神々)イザナギとイザナミの子ども。大地荒ぶる神でもある。人間の生贄により怒りを鎮める(と、人間が考えている)怒ったりする(自然災害的なことを起こす)

輝の系統のもの(不老不死の力を相入れないものと判断し、怒る)に対しても怒る。

不老不死は穢れ。一面として「酷さ」を持つが、本来は慈愛に満ちた麗しい神々であるとされる。
大地に実りをもたらす。国つ神にはぐくまれない土地は生命の息吹を持たない。
人間の祈りは聞かない(叶えない)が、人間が祈ることには意味があるとされる。贄(ささげもの)は受ける。

 

このように、『空色勾玉』と『聖書の神』とが重なる理由は、「荻原先生はC.S.ルイスの影響を知らず知らずに受けているからでは?」という想像もできます。(ルイスは聖公会のキリスト教徒で、ナルニア国物語はキリスト教を知ってもらうことを念頭に描かれたファンタジーです。)

しかし、荻原先生自身は「ナルニアに見え隠れするキリスト教のドグマはあまり好きになれず色々あって空色勾玉を思いついた」とおっしゃっているので、彼女の描く神々に聖書の神の特性があらわれてくる、というのは…なんというか、興味深いことだと思います。

 

もしルイスがこの話を聞いたら、こう言っていたかもしれません。

神話は物語として受け取っている時だけ、その原理を具体的に経験 することができるのである。いいかえれば抽象―というよりはむし ろ何十もの抽象―を得る。神話からあなた方に流れ込むものは真実 (truth)ではなく現実(reality)である(真実とは常に何かに関する もので、現実は真実が関しているものである)。それゆえ、あらゆる 神話は抽象の次元(abstract level)で無数の真実の父となる。神話は 山であり、この山から流れ出る多様な流れはこの抽象の谷間で真実 となるのである。さもなくば、神話は地峡で、半島のような思考の世界を我々が現実に属する大陸と結びつけるものである。

(引用:Lewis, “Myth Became Fact,” p. 141)

ルイスは神話に基づき、目的論的神の存在証明を 提示する。この方法はルイス独特のものと言える。 (中略) ルイスはここで、世界には、死んで蘇る神につい ての神話を含む宗教が数多くあると言うが、その神 話をキリストの受肉に関連付け神の存在証明を図る。

Now as myth transcends thought, Incarnation transcends myth. The heart of Christianity is a myth which is also a fact. The old myth of the Dying God, without ceasing to be myth, comes down from the heaven of legend and imagination to the earth of history. It happens—at a particular date, in a particular place, followed by definable historical consequences 8 .

キリスト教の核心は神の死と再生の神話であると し、その神話が神話であり続けながら、それが実際に、ある一定の時と場所で起こり、キリストの設立した教団は今日に至るまで存在すると言う。つまり異教の神話はキリストにあって成就した、とルイス は主張するのであり、それ自身がルイスの神話を用 いての神の存在証明になるのである。

(引用:髙橋清隆/竹野一雄指導「C.S.ルイスにおける神学的言説の諸相 」

 ルイスは 17 歳の時、「キリストもロキも同じだ」「宗教とは全て神話が 発展したものに過ぎない」と A. グリーヴス(Arthur Greeves, 1895–1966) 宛の書簡に残している。だが32 歳の時に J. R. R. トールキン(John Ronald Reuel Tolkien, 1892–1973)と H. ダイソン(Hugo Dyson; 本名 Henry Victor Dyson, 1896–1975)との対話により変化する。トールキンは「キリスト の物語は『真実の神話』である」「他の神話と同様に我々に働きかけるが、 ただ一つ違うのは、それが本当に起こったことなのだ」と述べた。(中略)

… R. ジョンストンは、神話群が果たす役割を「現実を理解 するためのもの」とルイスが見ていると判断している。ジョンストンの 説明によれば、「神話を立証する唯一のことは、その人がすでに知ってい たことよりもさらに大いなる現実を見るという想像的な経験ができたか ということ」である。つまり物事を客観的に見る時に、読むことによっ てそれに関しての何らかの新しい発見を提供してくれるものが神話群な のである。ルイスはさらにこうも述べる。

 偉大な神話を楽しんでいる時、我々は、それ以外の方法では、抽象 的にしか理解できないものを具体的に体験できる 。

(引用: 岡田理香 「真実の神話」 としてのキリスト教 ―C. S. ルイス 「神話は事実になった」 から』から)

家はすべて、だれかによって造られるものであるが、すべてのものを造られたかたは、神である。 (へブル人への手紙3章4節)

(プラトンの「イデア論」みたいですね!)

なので、今から「汎神論とは何か」「輪廻転生(その死生観)とは何か」「それらは私たちに何を要求し、何をもたらすのか」のキリスト教との共通点をお話ししたり違う点をお話ししたりするのですが、ルイスに言わせるとさもありなん、ということかもしれません。

「いつかみ聖書解説」でお伝えできるのはあくまで軽い情報ですから、興味がわいたらぜひご自身で調べてみてください。

 

汎神論とは。一神論との共通点

闇の女神をはじめとする国つ神(八百万の神)は、いわゆる「汎神論」と表現される神概念です。

汎神論(はんしんろん、英: pantheism)とは、

神と宇宙、または神と自然とは同一であるとみなす哲学的・宗教的立場である。万有神論、汎神教とも。

古代インドのヴェーダとウパニシャッド哲学、ソクラテス以前のギリシア思想、近代においては、スピノザ、ゲーテ、シェリング等の思想がこれに属する。

汎神論においては、一切のものは神の顕現であるとされる[2]。あるいは世界における神の内在や遍在が強調される。一切のものと神とを一元論的に理解しようとする汎神論においては、理論上、神は非人格的原理としてのそれである場合が多いが、人格神を立てる有神論的宗教の理論的思弁や神秘主義、あるいは祭祀上の習合からも汎神論的傾向が生じる[3]

汎神論は歴史上それ自体として存立したものではなく、さまざまな宗教のなかにみられる一定の傾向であり[3]、汎神論的態度は古代・中世にもあったが、ヨーロッパで頻出するようになるのは16世紀以降である[1]

(引用:Wikipedia「汎神論」より)

汎神論と一神論って相容れないでしょ?

…と一般的には考えられがちですが、そうでもないということはルイスの論だけでなく上記のWikipediaからも読み取れます。

(私自身は「汎神論と一神論は相いれない」と考えていましたので、キリスト教を信じてから『空色勾玉』ほか勾玉三部作をやたらと遠ざけた時期があります…)

 

汎神論に関しては、C.S.ルイスの資料に言及がありましたので見てみましょう。

(C.S.ルイスは大学教授で且つファンタジー作家ですが、キリスト教弁証家としても様々な作品を残しています。宗教者ではなく信徒の立場からその活動を行っていました。)

 

汎神論者もキリスト教徒も神が遍在すると信じている。

汎神論者たち は「神は万物のうちに〈広がり〉、もしくは〈隠れて〉おり、したがって、具体的実体であるよりもむしろ普遍的媒体である」と考えている。

これに対して、キリスト教徒たちは「神は時空のすべての点に全的に存在するが、〈部分的に〉はどこにも存在しない」と主張するのである。

汎神論者もキリスト教徒も「みな神に依存しており、神と密接に関係していると考える点で一致している。

しかし、キリスト教徒はこのことを創造主と被造物との関係として規定するのに対して、通俗的な汎神論の信奉者は、私たちは神の〈部分〉あるいは神の内に包まれていると主張する点で、両者には違いが見られるということである。

汎神論者とキリスト教徒は、神は超人格的であると考える点でも一致している。…(略)」

(引用:竹野一雄「キリスト教弁証家としての C. S. ルイス 「〈まじりけのないキリスト教〉vs. 異なる諸見解」

…いかがでしょうか?

 

「汎神論」→ 神は万物のうちに〈広がり〉、もしくは〈隠れて〉おり、したがって、具体的実体であるよりもむ しろ普遍的媒体である。 私たちは神の〈部分〉あるいは神の内に包まれている 、という考え

「キリスト教などの一神論」→ 神は時空のすべての点に全的に存在するが、〈部分的に〉はどこにも存在しない、神(創造主)と人間や自然(被造物)との上下関係はゆるがない、という考え

という特徴があるとルイスは表現しています。しかし

この世界に存在するものはみんな神に依存していて、神と密接に関係している

という点は一致しているそうです。

 

日本人が大事にしているであろう「大いなるモノへの尊敬と畏怖」といった点ではどちらも満たしているように思えます。

次に、『空色勾玉』の死生観・輪廻転生についてみてみましょう。

 

輪廻転生とは。「死を恐れる必要はない」というメッセージ

『空色勾玉』で印象的な思想が「死は女神の下での憩い。魂は流転し、また産まれる。恐れることはない」という世界観です。

 

「地獄のない輪廻転生」という感じでしょうか。

転生輪廻(てんしょうりんね)とも言い、死んであの世に還った霊魂(魂)が、この世に何度も生まれ変わってくることを言う。

ヒンドゥー教や仏教などインド哲学・東洋思想において顕著だが、古代ギリシアの宗教思想(オルペウス教、ピタゴラス教団、プラトン)など世界の各地に見られる。

輪廻転生観が存在しないイスラム教においても、アラウィー派やドゥルーズ派等は輪廻転生の考え方を持つ。

「輪廻」と「転生」の二つの概念は重なるところも多く、「輪廻転生」の一語で語られる場合も多い。

この世に帰ってくる形態の範囲の違いによって使い分けられることが多く、輪廻は動物などの形で転生する場合も含み(六道など)、転生の一語のみの用法は人間の形に限った輪廻転生(スピリティズム、神智学など)を指すニュアンスで使われることが多いといえる

(引用:Wikipedia「輪廻転生」より)

『空色勾玉』と『古事記』はそれぞれ違うエンディングに着地しますが、世界観の土台である『古事記』でも、「死は穢れかもしれないが、豊穣性をはらんでいる」というメッセージを抽出することは可能です。(黄泉の穢れを洗ってそこから天照大神が生まれた、等の記述から)

 

キリスト教では「死」は悪いこととして捉えられているような気がするけど。

…と印象があるかもしれませんが、なんというか「その表現では足りない」と私は感じます。

たとえば、超有名ファンタジー『ハリー・ポッター』シリーズでは、ハリーの両親の墓碑銘は「最後の敵なる死もまた亡ぼされん」(コリント信徒への手紙1、15章26節)とあります。

これに対して宗教学者の中村圭志氏は「宗教で読み解くファンタジーの秘密Ⅱ」でこのように表現しています。

この言葉の意味は、神が死を最後に滅ぼしてくれるということだ。死は神のものだ。今ここにいる人間にとって、手の届かないところにあるのが、死なのである。

(「宗教で読み解くファンタジーの秘密Ⅱ」 p.227)

そう、どのみちキリスト者も「死」というものは『人間の知識を越えている』ものであると考えているのです。

 

そして、「死への恐れを取り除こうとする態度」は、どんな信仰の通底するファンタジーでも持ちうるテーマです。

「もし人間が死とは何かを知ったら、こわいとは思わなくなるだろうにね。そして死を恐れないようになれば、生きる時間を人間からぬすむようなことは、だれにもできなくなるはずだ。」

(ミヒャエル・エンデ「モモ」マイスター・ホラの言葉)

 

死と生とは同じひとつのもの。手の両面、手のひらと手の甲みたいなものなんだ。同じひとつのものだけれど、それでもやっぱり、手の甲と手のひらはおなじじゃない。……切り離すこともできないが、かといって、いっしょくたにすることもできない」

(ル=グウィン「さいはての島へ」第5章)

 

ミヒャエル・エンデ作品は「心の哲学」「禅の思想」が通底し、ル=グウィン作品は「タオイズム」が通底していると考えられています。(参考:中村圭志著「宗教で読み解くファンタジーの秘密Ⅱ」)

 

ほかにも有名ファンタジーでは「死」について以下のように描いています。

そして、いずれも「恐れることはない」「死の心配をするより、善く生きよ」というメッセージを発しているとのことです。

その枠で考えると、『空色勾玉』もまた「死の恐怖の緩和」を内包するファンタジーです。

しかし、「善く生きよ」というメッセージとも少し違う気もするので、「死の心配をするより、生命の移り変わりを愛でて生きよ」と言ったニュアンスかなと思うのですがいかがでしょうか。

 

では、「輪廻転生のある汎神論」で僕らは生きられるのか

ここまで、「空色勾玉の神々」と「聖書の神」との意外な共通点を見てきました。

ここからは、「違い」に着目して、私が空色勾玉ほか勾玉三部作を愛しながらもクリスチャンとなった思考の変遷をまとめてみたいと思います。

結論から言うと、「私は個人的な救いがほしかった」「女神の下での憩う、という考え方では死が怖かった」のです。

※現代の日本の宗教で一番マジョリティなのは「仏教」なので、なぜ仏教を飛ばしてその極端な2つの宗教を比べなければならなかったのか、とギモンに思われるかもしれません。
その理由は、私の実家が真言宗の寺であり、父親が僧侶であることと関係しています。

例えば、父親は仏教のことを「魂を扱う仕事」だとは思っていなかったことや(要するに職業僧侶的な感覚)、仏教の”救い”は女性にはさしてひらかれていないこと、またそれなりの修行を必要とする教義であることなどの様々な要素があわさり、少なくとも私は仏教の救いからは漏れている存在だと思っていたので、別のものを模索する必要があったのです。

 

①「汎神論」はアイドル推しのようなもの。良さと欠点

汎神論について、日本人が大事にしているであろうメンタリティ(大いなるモノへの畏怖など)は一神論と共通していると先述しました。

しかし、大きく違う部分もあります。それは、

……汎神論の魅力は汎神論の神がなにもせず、なにも要求しないという点である。

(引用:竹野一雄「キリスト教弁証家としての C.S.ルイス「〈まじりけのないキリスト教〉vs. 異なる諸見解」)

人間の祈りは聞かない(叶えない)が、人間が祈ることには意味があるとされる。贄(ささげもの)は受ける。

(荻原作品のページ調べ中…)

…という部分です。

 

空色勾玉でも「汎神の神は何も要求せず、何もしない」という思想が如実に表れています。

先日Twitterで「日本の信仰はアイドル推しのようなもの」という投稿を見たのですが、なんとも言い得た表現だな、と思いました。「気持ちがあれば貢ぐし、その見返りは自分への利益よりかは『推しの幸せ』」。それは汎神論の信仰の方法をうまく表現していると思いました。(…もちろん、ご利益のために賽銭箱に投入するという意見も、感謝の念からお賽銭をする意見もどちらもあることは分かります。)

ここがキリスト教と大きく違うところで、キリスト教の神というのは「すべての人間に普遍的救済意志」を示している、とクリスチャンは考えています。

キリスト教の神は、たしかに「ただひとりの神への信仰」は求めます(それが日本人にとって狭量に感じるポイントなのも知っているつもりです)。

また、(新約以降の)神は捧げものや修行は求めませんし、なぜだか分からないが人間のことを愛し、幸せにしたいと願い、「信仰義認」(信じることで神と人間の関係が修復される、という神学用語)というルールを人間に与えているのだ、と私たちキリスト者は聖書から読み取ります。

 

私は『空色勾玉』をはじめとする勾玉三部作にハマってから3年後、持病のアトピー性皮膚炎が悪化しました。モロに生活に支障が出て、痒さや不快感で不安に押しつぶされそうになり、私は人生ではじめて「死にたい」と思うようになったのです。

私は、「どうしようもなく死を望む」ようになりました。同時に「でも怖くて死ねない」というジレンマを体験します。そのジレンマのなかにあって、私は「『すべてに遍在する神』は、人間の祈りは聞かない。全てを受け入れて、そして生き残ったものだけが『選ばれた』とされていくんだ」という考え方を持ちつづけていました。

『聖書に書かれている神(父なる神、聖霊なる神、そしてイエス・キリスト)』と出会うまで約6年ほど 、その考え方が日本人のメンタリティで愛すべき誠実さであり柔軟さなのだと言い聞かせていました。

しかし、私の心にはどうしても埋められない空洞がありました。

日本人の多くは汎神論を”自由で優れた神観”だと考えていると思います。けれど、その”自由で優れた大人さ”は、私のような弱い人間には届きませんでした。

繰り返しますが、『すべてに遍在する神』は人間に何も望まず、何もしない、それが汎神であり、空色勾玉に描かれている神々もまたそうなのです。

 

C.S.ルイスは「汎神論が大人の宗教である」という意見に対してこんなことを述べています。

汎神論者たちの主張するところによれば、汎神論は大人の宗教概念であり、それに比してキリスト教はあまりにも単純である。(中略)

人々は汎神論を洗練された大人の宗教であるとみていることについて、ルイスは次のように言う――これは、彼らが汎神論についての大人の知識と彼らが幼年時代に得たキリスト教についての知識を無意識 に比較していることによるのである。かくて、彼らは、キリスト教は神について明白な説明を与えるにすぎないのに対し、汎神論は神について崇高で深いなにかを提供すると結論づける。

だが、ルイスは、事の真相は逆で、キリスト教は複雑であるほかに、私たちが想像もできそうにない実在を提供するので、キリスト教は汎神論者の神観念に対する自然の期待を修正しなければならないのである、と言う。

(引用:竹野一雄「キリスト教弁証家としての C.S.ルイス「〈まじりけのないキリスト教〉vs. 異なる諸見解」)

 

C.S.ルイスの言い方はちょっとどうかと思う部分もありますが、ようするに

https://itukami.lampmate.jp/wp-content/uploads/2019/10/039416-1.jpg
C.S.ルイス

「汎神論は大人の宗教観」だという考え方は、「大人の時に知った汎神論の知識」と「子どもの時に知ったキリスト教の知識」を比べてるからじゃないか?

https://itukami.lampmate.jp/wp-content/uploads/2019/10/039416-1.jpg
C.S.ルイス

汎神論者にとって、神とは「崇高で深いなにか」と捉え、一方でキリスト教の神に対する視点はシンプルすぎるという印象があるのかもしれない。

しかし、聖書・キリスト教の視点の神に対する視点は、「人間の創造をはるかに越えた存在」と考え、複雑なもの。その点を踏まえてから比較してほしい。

と、いうことです。

「君の考えが足りず弱いからその真理がわからなかったんだよ」という意見があったら、少しムッとするかもしれませんが、私はそれを受け入れざるをえません。馬鹿で弱い私の空虚の輪郭に触れてきたのは、聖書に描かれているイエスの姿だったのです。

 

②死についてー宗教でないと立ち入れないこの領域

「空色勾玉を子どもに読ませている」という方は意外と多いようです。しかし、

このファンタジーに出会って〈死〉への考え方が変わりました。娘にも『万物はめぐり、死は女神のもとでの休息。だから怖がらなくていい』と伝えてきたいと思います。

…といった感想はまだ見たことがありません。それはおそらく、こういうことかと思います。

その話題はあくまで「宗教」の領域であり、ファンタジーである空色勾玉のメッセージに身をゆだね切るにはまだ確信が持てないから、だと。

 

ファンタジー作品の多くが「死」の恐怖の緩和、という共通のテーマを負っているとはいえ、違いもあります。

それぞれの宗教観を内包したファンタジーにおける相違点、それは「死をおそれないために何をすることを勧めているか」という点だと考えられます。それぞれの違いを表にしてみました。

「死」に対するメッセージ作品例
仏教系ファンタジー「修行/読経」などによる悟り、輪廻転生(作品によってはそこからの解脱)。手塚治虫「ブッダ」/宮沢賢治「銀河鉄道の夜」 /ミヒャエル・エンデ「モモ」/ル=グウィン「はてしない物語」
キリスト教系ファンタジー「神の存在と人間の罪」と「その赦し」を信じること。J.R.R.トールキン「指輪物語」/C.S.ルイス「ナルニア国物語」
神仏習合系ファンタジー肉体は朽ちて土を富ませ、魂は流転し、また生まれる。それを受け入れて生きること。荻原規子「空色勾玉」

「悟り」「信じる」「受け入れる」って、何がちがうの?と思われたかもしれません。私も以前はそれらの違いがよく分かりませんでした。けれども今では違うものだと考えるようになりました。
この繊細な問題は、それぞれの道の先人たちの助けを得てご自身が感じることだと思っています。気になる方はご自身で調べ、味わい、確かめていただければと思っています。

 

先に少し話しましたが、私はどうにも「死」が怖かったのです。空色勾玉のメッセージを受け入れるならば、「死は憩い。万物はまた流転する、自分は壮大な自然の中の一つなのだから死んでも良いし、それを悲しむ必要もない。」と思って実行してもよかったはずです。

しかし、どうしても「死」が怖かった。

私が自死を試みようとしたのは主にお風呂でした。今考えると、痒みや不快感から解放されるのがお風呂だったからだと思います。そこからなかなかあがることができなかったのでいろんな考えを巡らせていたのです。

私は風呂の湯船に顔をつけては「このまま黄泉に行って憩えないだろうか」と思いました。でも、湯船に顔をつけてその息を止めて暗闇を味わうたび、言いようのない恐怖が私を襲うのでした。

私は「死が憩いである」ことをこれ以上ないほど知っているつもりなのに、どうしても飛び越えられない一線があることを知ったのです。


…こういった体験をしながら、私は20歳で初めてキリスト教会に足を踏み入れ聖書を自分で読んでみて、25歳の時に洗礼を受けることとなりました。

その間には「神」や「死」の考え方について様々な変化がありました。これ以上ここで細かい聖書の話しをしても、と思ったのでカンタンに違いをまとめてみたいと思います。

空色勾玉の神々と聖書の神の違い、それは「実存への問い」に答えるかどうか、だと思います。

 

持たざる者を救う神—―「羽柴の巫女」に想いを寄せて

「自分がこの物語に登場するなら、誰だろうか。」

少女なら誰しもそんな想像を巡らせるものかと思っていますが、たわいもなく私も考えていました。

ここまで『空色勾玉』を語っておいてなんですが、実は勾玉三部作で一番好きなのが『薄紅天女』なので(ツンデレが好きなんですよね…)苑上だったらいいな、とかリサトも悪くないな、とか、そんなことを考える幼い時代を過ごしていたのです。

けれども、自分のなかの「死にたい」という気持ちを自覚してからは、自分は「日本の神々の姿を見い出して委ねる」ということができない人間なのだと痛感し、私は自分が「月代王に見出してもらえなくて嫉妬に狂ってしまう羽柴の巫女」のようなものだと思うようになりました。

それはつまり「持たざる者」です。

私が聖書の神を慕うのは――イエスが「持たざる者を救う神」として人間に手を差し伸べている神だと思ったから、なのです。

 

もしこの先、ご自身やお子さんが「なぜ自分は生きなくてはならないのか」「私たちはどこへ行くのか」という問いにブチ当たってしまったとき、そしてそれらの問題を乗り越える力はどうにも自分にはないようだと絶望に陥ったとき――

もしかしたら、「キリスト教の神」というやつが『あなたを切望している神である』ということを、このバカげたオタクがほざいていた、ということを思いだしてくれませんか。

困ったときにいつでも引き出せるように、あなたの心の片隅にその可能性を置いてみてくれませんか。

 

オマケ:荻原規子ファンは現代の天皇制を喜ばなくてよいのでは?


 

おまけ話しです。

私たち『空色勾玉』及び『勾玉三部作』を愛でる人間は、令和の天皇即位の儀で「やっぱり天皇家は神の末裔だったんだ」というムードに必ずしもノらなくて良いと思っています。

荻原規子先生の物語を黙想するときーーとくに「白鳥異伝」「薄紅天女」でも顕著ですが、『幸福』を手にするのはいずれもすめらぎを捨てた者たちです。

勾玉作品からは、「すめらぎ」は人間には重すぎる十字架であることが読み取れます。

『空色勾玉』では、輝の神たちは「天」に帰っていき、私たちはその消息を知ることはできません。

『白鳥異伝』では、大王も悲しみを背負い禁忌を犯しましたし、宿禰もタケルの名とともに短命のさだめを背負いました。

『薄紅天女』でも、「薬子の変」の顛末を知れば安殿皇子と賀美野が天皇の歴史の中でもかなりキツめの悲しい殺し合いをしたと想像できます。

 

そして荻原作品で「人間らしい幸せ」を手にするのは、皇を捨てた側の人たちでした。

確かに、「天皇制は日本の文化だから守らなくては」と言う声もあります。

(それは近代に作られた虚像の史観だと言う声もありますが、もちろんそれに対する反論もあります。天皇制をなくしたら外交もうまくいかなくなる、さまざまな伝統文化を失ってしまう、といった懸念もあるようです。反面、ここまで税金を投入する必要があるのか、厳密に言うと憲法違反ではないか、といった考えも聞きます。そして、どの考えを採用するかは私たち個人に委ねられています。)

天皇家への崇敬は「自分を超えた存在への尊敬と畏怖」から生まれる想い…なのではないでしょうか。しかし、その畏怖のために誰かを犠牲にすることがあるとしたら、「それは本当によいことなのだろうか…」と、そんなことを考えてしまうのも、現代を生きる私たちの宿命かと思うのです。

天皇家が「神の末裔だから、先例が守られるような形で存続させなければならない」という人は、以下のように言います。「愛子内親王と悠仁親王が結婚し、男子を産めば良い」「旧皇族を皇族に復活させ、眞子さまや佳子さまたちが皇族内で結婚し、男子を産めば良い」そうすれば天皇家の伝統が守られる、と。

そう「皇族に人権があると考える方がおかしい」のだと。(参考:倉山満著「日本一優しい天皇制入門」「チャンネルくらら」)

 

昭和天皇の代、八紘一宇のスローガンのもと戦争に進み、戦時中には皇室神道以外の宗教を弾圧し、最後には原爆投下という幕切れを味わった「日本」に生きる私たちは、歴史からなにを学ぶのか。

勾玉三部作を愛する私たちは、「天皇制は日本の伝統だから守らなくては」の、もう少し先に行けるのではないかと思うのは、私が考えすぎなのでしょうか。

 

 

▼参考にした本たち


空色勾玉 (徳間文庫)

 


〈勾玉〉の世界 荻原規子読本

 


日本神道のすべて―「日本を日本たらしめるドグマなき宗教」を探究する! (知の探究シリーズ)

 


キリスト教の精髄 (C.S.ルイス宗教著作集4)

 


宗教で読み解く ファンタジーの秘密 I

 


宗教で読み解く ファンタジーの秘密 II

 


悪党的思考 (平凡社ライブラリー)

 


異形の王権 (平凡社ライブラリー)

 


日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

 


歴史としての戦後史学 ある歴史家の証言 (角川ソフィア文庫)

 


日本一やさしい天皇の講座 (扶桑社新書)

 


なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか 最強11神社―八幡・天神・稲荷・伊勢・出雲・春日・熊野・祗園・諏訪・白山・住吉の信仰系統 (幻冬舎新書)

 


本当はすごい神道 (宝島社新書)

 


アマテラスの正体: 伊勢神宮はいつ創られたか

 


女性天皇論 象徴天皇制とニッポンの未来 (朝日選書)

 


皇位の正統性について―「万世一系の皇祚」理解のために

 


天皇―日本の体質

 

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