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【更新】第14話「灰羽連盟」とキリスト教は同じ『求めよさらば与えられん』?『罪の輪』からの解放を聖書はこう語る(11/15更新)

コラム:「歪みの国のアリス」考察。愛する人の血と肉を食べる日本人は100万人 。 歪みに敏感な人ほどキリスト教のアレがオススメ

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こんにちは。「いつかみ聖書解説」ライター上坂かすがです。

【歪みの国のアリス】というノベルゲームがあります。私が初めてプレイしたのは大学生のときでした。当時はノベルゲームというものにあまり魅力を感じていなかったのですが、友人と姉との2人に全く別ルートから勧められ観念しました。

 

プレイしてみると、グラフィックも美麗でエンディングの分岐も豊富だしチェシャ猫は可愛いしで、大満足でした。

 

現在はスマホゲームとしてほとんど無料プレイできるようになっています。ぜひ遊んでみてください。

 

スマホの容量が厳しくてダウンロードできない…という方には小説版もありますよ!

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「ゲームの雰囲気を知りたい」という方のために実況動画も紹介しておきますね。こちらのきの@実況さんはサンソフトさんに許可をとって配信されているということです。

前置きが長くなりました。

なぜ歪アリの話をしようと思ったか、といいますと。

私はプロテスタントのキリスト教会に通っているクリスチャンですが、クリスチャンは礼拝で『ある儀式』を行います。その儀式をするたびに私は【歪みの国のアリス】のことを思い出すのです。

 

ということで、今日は「歪アリのシチュエーションにもだえる人はキリスト教のアレにも、もだえるハズ!」という話をしてみたいと思います。ジャムパンなどご用意してお茶とともにご覧いただけるといいのではないでしょうか…!

歪みの国のアリスとは

◆沿革◆

『歪みの国のアリス』とは、サンソフト内のGセクション部が製作した携帯電話向けホラーテキストアドベンチャーゲーム。不思議の国のアリスをベースとしたマルチエンディングサウンドノベル。登場人物についてもそれに則したものとなっている。主人公の少女・亜莉子が日常から非日常へと巻き込まれ、チェシャ猫と共にシロウサギを追いかけ、真実を知ることとなる。

◆ストーリー◆

放課後の自習室で目覚めた葛木亜莉子。目の前には、灰色のローブを被った男「チェシャ猫」がおり、亜莉子の事を「アリス」と呼ぶ。「さぁ、シロウサギを追いかけよう」。この一言から、亜莉子は歪んだ世界へと足を踏み入れることになる。

謎のシロウサギを追いかけるその先に待つ真実とは……?(引用:wikipedia 歪みの国のアリスより)

 

歪アリの魅力

最初に歪アリの魅力を挙げてみたいと思います。(私の言葉と感性に寄ってしまった表現で恐縮です…)

・ミステリアスさとファンタジーが融合した、非日常感(完全な異世界ものではなく、日常世界の少し違う路地裏に迷い込んでしまったかのような舞台設定)

 

・『食べられる/殺される』という行為が「愛情の一つの形」といった表現でなされ、醸し出される少し病んだ雰囲気

 

・社会的な要素はあまりなく、亜莉子の個人的な問題で収まるくらいの安心する規模感

 

・なんやこのチェシャ猫ってめっちゃアヤしいやん…あれ、でもなんかカワイイぞ…? え、尊くない?亜莉子との関係尊くない…? え、まってチェシャ猫かわっこよ(※「可愛くてカッコ良い」の略)…かわっこよ…

 

…という感じでしょうか。

 

キリスト教は「聖餐式 / 聖体拝受」で愛する存在の血と肉を食べる

 

さて、本題です。

「歪みの国のアリスにもだえる人はキリスト教のアレにも、もだえるのでは」の「アレ」とは何かと言いますと。

 

「聖餐式(せいさんしき)/  聖体拝受(せいたいはいじゅ)」のことす。

 

聖餐式(聖体拝受)とは

聖餐(せいさん)とはイエス・キリストの最後の晩餐に由来するキリスト教の儀式。「エウカリスト」(ユーカリスト)の日本語訳。「聖餐」はおもに西方の教派で使われる訳語だが、カトリック教会では「聖体祭儀」「聖体の秘跡」と呼ばれる。

日本の聖公会、プロテスタント教会などでは「聖餐式」とも呼ばれる。正教会における「聖体礼儀」「聖体機密」「領聖」に相当する。「主の晩餐」の語はいずれの教派でも使われる。(引用:wikipedia 聖餐より)

 

↑カトリックの聖体拝受(聖体拝領)。音楽がポップですね…。私が行ったカトリック教会はパイプオルガン演奏でしたが、こういうところもあるんですね。

 

↑プロテスタントの聖餐式。

 

カトリックとプロテスタントとで解釈に少し違いがある儀式ですが、どちらも「ぶどう酒をイエスの血として飲み、パンをイエスのからだとして食べる儀式」を指します。クリスチャンでない方の混乱を避けるため、このコラム内では同じものとして扱います。いつかみ本編では、ママレード・ボーイの回で聖餐式について触れました。

 

この儀式の由来は、以下のように書かれています。

 

聖書

イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。

わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。

生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。 天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。

このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう。(ヨハネによる福音書6章53節〜58節)

 

聖書

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。

また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。 (マタイによる福音書26章26節〜28節) 

 

後半のマタイによる福音書の方は、有名な「最後の晩餐」のシーンですね。

こんなふうに、私たちクリスチャンは比喩とはいえ「愛し、愛されている存在の血と肉を食う」やつらなのですよ。

さながら歪みの国の住人が亜莉子の体を食べたがるように。

 

(画像引用:左マキキ聖城キリスト教会さんHPより/右宇山福音教会さんHPより)

 

(画像引用:カトリック聖ヴィアトール北白川教会さんHPより)

※ぶどう酒の代わりにブドウジュースを使用しているところが多いと思います。

※パンは「ホスチア(ホスティア)」といって、御煎餅みたいなもの使っているところもあります。普通のフワフワしたパンを使っているところもあります。

平日はフツーに学校に行ってる少年も、会社で働いてる人も、子育てに追われてるお母さんも、親の介護で疲れているおじさまも、おじいちゃんもおばあちゃんも、教会に集まって愛する存在の血と肉を食って感動を覚えてるわけですよ。

 

尊 く な い で す か?

 

厳密に言うとカトリックとプロテスタントとでは解釈が少し違いまして、カトリックはミサ(礼拝)=聖体拝受 と言えるくらい聖体拝受を大事にしています。細かく説明しても混乱すると思うので、興味のある方はこちらの知恵袋をご覧ください。カトリック信者さんが自分たちなりの言葉で書かれているので分かりやすいと思います。

参考 「聖体拝受と聖体拝領について、お詳しい方お教え下さい」Yahoo!知恵袋

この「パンとぶどう酒をイエスの肉と血として食べる儀式」は、日本でキリスト教が敬遠される要素の一つになったと言われています。

 

「あいつら耶蘇どもは人の血と肉を食う野蛮な怪しいやつらだ」…という感じですかね。しかし歪アリが好きな方なら「人の血と肉を食うのが野蛮とか言ってる方がナンセンス」という感覚を分かっていただけるのではないかなと思います。

 

そういったところから、歪アリの雰囲気が好きな人はもはや聖餐式(聖体拝受)への道のりが開かれていると思っています。これを読んで気になった方はぜひ、カトリックか聖公会、もしくはルーテル教会に行かれてみてくださいな。

 

カトリック / 聖公会 / ルーテル教会 を勧める理由

① 聖餐 / 聖体拝受を受けられるのは「洗礼を受けている人だけ」

基本的には多くの教会は「洗礼を受けている人たちが受けるもの」としています(リベラルな思想の教会では現時点での洗礼は問わない教会もあります)。信者でないと聖体拝受にあずかることはできませんが、カトリック・聖公会・ルーテル教会は未信者には神父さまから「祝福」といって頭にぽんと手を置いてお祈りしてもらうことができ、一緒に味わう雰囲気を体験できます。

②建物や礼拝の雰囲気

歪アリみたいな雰囲気が好きな方は、ちょいゴシック要素入ったものが好きな方も多いと思うんです。カトリックは荘厳な建物のところが多いですし、聖公会やルーテル教会もプロテスタントですが建物の雰囲気はカトリックに近いです。そっちの方がテンション上がるかな、という単純な理由で勧めました。

 

「神さま」なら私たちの歪みを吸い取っても歪まない(ほぼネタバレ注意)

 

さて、もう少し【歪みの国のアリス】のストーリーのお話しをしていきます。

白ウサギは亜莉子の「歪み」を吸い取って歪んでしまったことが明かされます。チェシャ猫もたまに亜莉子の歪みを吸い取ってくれてますね。歪アリが「優しい悪夢」と表現されるのは、登場人物がグロテスクな行動をしながらも彼らの行動原理は「アリスのために」というものだからですよね。

歪アリの世界に惹かれる人というのは、大なり小なり「自分の歪みに敏感な人」だと私は考えます。

ですから、ここで不安になるかもしれません。「こんな薄汚れてる自分が教会なんて行ったらやばくない?」と。神さまに自分の歪みを渡したら神さまが歪んでしまうんじゃないか、こんな薄汚れた自分が神聖な場所に行ってはいけないんじゃないか、など。

 

安 心 し て く だ さ い。

 

聖書
「丈夫な人に医者はいらない。いるのは病人である」(マタイによる福音書9章12節)

 

とあるように、キリスト教は『自分の歪みに敏感な人のための宗教』でもあるわけです。イエスは罪人とともに食事をし、罪人とされた人たちの家に泊まりました。当時ユダヤ教的な価値観では罪人や病人とともに生活を共にすることは「けがれること」だという風潮がありましたが、そこに一石を投じたのがイエスだったわけです。また、キリスト教的に神さまは「全知全能」です。全知全能の存在の前に不可能はない。神の御前に許されない罪はない。だから神の愛は深い、神は愛なのだと私たちは解釈します。

 

私が個人的なイメージとして持っているのは「中和」です。中和ってすごいですよね。アルカリ性と酸性がまじって水みたいな無害なものになって問題なくなっちゃうみたいなかんじ。あれと似た印象を持ってます。

 

ということで、歪みを負担に思う方こそイエス・キリストに頼って欲しいと思いますし、神さまはあなたの歪みを吸い取っても負担になることはありません。安心してご自身の歪みを神さまに差し出していただきたいと思うのです。

(「歪み」がアイデンティティのように感じられている方もいらっしゃると思います。そういう方はとりあえず「キリスト教の神さまはどんな歪みも吸い取れる」ということだけ頭の片隅に置いてくださればと思います。ご自身のが歪みに耐えられなくなった時に思い出してみてください。)

「私、歪んでるって程でもないんだけど…」

もしくは「私は別に歪んでるってほどでもないし、吸い取ってもらうほどでもないかな…」的な引け目を感じている人もいらっしゃるかもしれません。

 

安 心 し て く だ さ い。

聖書
「義人はいない、ひとりもいない。(ローマ人への手紙3章10節)
 

キリスト教では、人間はすべからく「原罪」を持っていると考えます。人間みんな罪人、みんなそれなりに歪んでて、だれにでもどこかダメなところがある、という設定で話しが進んでいきます。

にも関わらず、神さまはとるにたらない私たちを愛してくれています。歪みが大きかろうが小さかろうが、神さまにとっては関係なく愛する対象、尊い存在。白うさぎのごとくチェシャ猫のごとく歪みの国の住人が亜莉子を好きでたまらないかのごとく、神さまはあなたのことを愛しているんです。それをぜひご自身で確かめてみてください。

 

教会に行かなくてもよし

もっと言っちゃうと「教会に行かなくても神さまとお話しできる」のもキリスト教です。

教会は神を祀っているところではなくて「神さまを礼拝したり賛美したりするところ」なので、教会に行かないと神さまに会えない、ということはありません。

神さまに向かって心を開く、それだけで神さまの存在が感じられ、歪みが吸い取られるのを感じられるかもしれません。

神さまに向かって心を開くのに一番いいのは「お祈り」です。気が向いたらでかまいませんので、こちらを参考にチャレンジしてみてください。

参考 祈りの心がけ結城浩

 

考察:歪みの国は「イマジナリーフレンドの世界」っぽい

考察…というほどでもないですが、亜莉子にとっての「歪みの国の住人」は「イマジナリーフレンド」に近いと思います。それは「不思議の国のアリス」でも同じことだと思いますが。

(亜莉子の現実世界にも影響を及ぼしているし、登場人物は亜莉子の想像を超えた思考パターンや行動をしているので厳密に断定するわけではありませんが…)

イマジナリーフレンドとは

「空想の友人」のことであり、心理学、精神医学における現象名の1つである。イマジナリーコンパニオンと呼ばれることや、IFと略されることもある。(引用:wikipedia イマジナリーフレンドより)

人間が耐え難い状況に直面するともう一つの人格を作ったりすると言われていますよね。それと似ているかもしれません。

キリスト教は「イマジナリーフレンド」の存在を否定しませんが、イマジナリーフレンドを自ら封印したクリスチャンがいることも知っています。

「フレンドくんそのものが自分のなかで神さまになってしまいそうだったから、話すのをやめた」という理由だそうです。一方で成人してからも時々フレンドくんとお話しするクリスチャンがいることも知っています。

聖書の神を信じたい人は「私の他に神があってはならない」ということを守っていきたいわけですが、我々クリスチャンは「聖書に書かれてない部分は(神の道に従っているかを基準に)個人の裁量によって判断してよし」とも解釈しています。

イマジナリーフレンドとどういう関係を築いているかは個人差があると思いますので、もしすでに「自分にもチェシャ猫みたいなお友だちがいる」という方は「クリスチャンになる=お友達とお別れしなくちゃいけない」といった心配はしなくて良いです。

また「イマジナリーフレンド」についてもっと知りたい方はこちらのブログがおすすめです。

参考 子どもにしか見えない空想の友達? イマジナリーフレンドの7つの特徴に関する日本の研究いつも空が見えるから

ちなみに、私自身はチェシャ猫のような友人を持ったことはありません。ただイエスを神さまだと信じてからは、イエス・キリストがそういった役割を負ってくれていると感じています。信仰とは目に見えるものではなくて見えないものを信じることでもあります。ご自分だけに見えるご友人をすでにお持ちの方は、神さまから肩を叩かれているのではないかと思います。

神さまはあなたを待っている

 

というかんじに、歪みの国の住民がアリスの血と肉を食べたがる描写からキリスト教の聖餐式のことを語ったり、歪みを吸い取ってくれる神さまのお話をしてみました。歪アリ尊いですよね。ぜひみなさんも、あなたの歪みを吸い取りたいと願っている神さまとお話ししてみてください。

 

 

 

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