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【更新】空色勾玉と古事記の関係、荻原規子の神々とキリスト教の共通点(10/31更新)

コラム:「鋼の錬金術師」エドとアルのその後は“宗教者”説を考察する。

 こんにちは。【いつかみ聖書解説】ライター上坂かすがです。このサイトは「人気マンガと聖書の共通点を探りながらキリスト教を解説する」というコンセプトのWEBメディアです。

 

今日は、【鋼の錬金術師】が『えっ…これキリスト教じゃね?』と言う意見をもとに、「エドとアルのその後」についてマジメな妄想を膨らませてみたいと思います。

『えっ…これキリスト教じゃね?』って誰が言ってんねん、という事が気になると思うので先にお伝えすると、これは2017年に出版された【ポップカルチャーを哲学する】という本の意見です。

エドはまだ現世の鉄の法則である「等価交換」に従って思考しているのだが、彼を愛するウィンリィは、愛が等価交換を超えることを示すのだ。それはすでに宗教の領域と言える。
(引用:「ポップカルチャーを哲学する」p178より)

【ポップカルチャーを哲学する】は、人気マンガやアニメに隠されたユダヤ・キリスト教的価値観を探っていくという本です。

コラム:【ポップカルチャーを哲学する】マンガに出てくる聖書の知識がほしい人に。 

私自身も、クリスチャンになって改めてハガレンを読んで、着地点が驚くほどキリスト教に近いと感じました。(ハガレンに親しんでいたのはキリスト教と縁ができる前だったので、よりハッキリと親和性を感じます)

 

ただ、ハガレンが好きな人の多くはキリスト教もしくは宗教に馴染みがないと思います。人によっては冒涜のように感じるかもしれません。あくまでマジメに「なぜエドとアルのその後を宗教者だと思うのか」について考察していきたいので、需要を感じない方はUターンお願い致します。

 

振り返りのために、主要キャラのラストシーンまとめから始めたいと思います。考察から読みたい方はこちらをクリックして飛ばしてください。

それぞれの教訓と新たな決意で大団円

まず、最終回のシーンから振り返りたいと思います。

「全員で力を合わせて【ホムンクルス(フラスコの中の小人)】を倒す」感じ。みんなの力を合わせてラスボスを倒すというのは王道ですが、ちゃんとエド(主人公)の見せ場として『錬金術すら用いずに素手で殴り倒す!』という演出でした。かなりニクいですね。めっちゃ胸熱展開なのでぜひ読んでください!

荒川弘「鋼の錬金術師」模写イラスト

「立てよド三流!格の違いってやつを見せてやる!」という一巻からのオマージュも胸熱です。芸が細かいというか、構成がキッチリしてるというか…とにかくしっかりした最終決戦という印象でした。

 

肉体がボロボロになったホムンクルスは『真理の扉』の前に行き

ホムンクルス

なぜ私のものにならぬ、【神】よ!!

と問いかけます。そして

ホムンクルス

私は完全な存在になりたかった
神を完全に理解したかった

とも言います。

 

そんなホムンクルスにむかって『真理』は

「《思い上がらぬよう正しい絶望を与えるのが真理という存在》ーーとお前は言ったな。だからお前のいう通り、お前にも正しい絶望を与えるのだよ」

と告げ、ホムンクルスを真理の扉の向こう側に引き込みます。

「思い上がった者に絶望を。ーーお前が望んだ結末だ」(「真理」の言葉)

エドとアルのその後

ホムンクスルを倒したエドは、アルの体を取り戻すために「真理の扉」のもとへ行きます。そして「錬金術を使う力」と交換にアルの身体を取り戻し、二人とも無事この世界に帰還します。

 

腕と身体を取り戻したエドとアルは、アルフォンスの衰えた筋肉に苦難しながらも、ウィンリィのところへ戻ります。

 

しばらく経ち、エドとアルは新たな旅を決意します。エドは西回り、アルは東回りで知識を持ちより、苦しむ人々を助けられる知識や経験を学んでいく…という決意がアルを通して描かれます。

かつて助けられなかったタッカーの娘・ニーナのことを胸に、「等価交換を否定する新しい法則」を証明するといいながらーーー。

詳しくは描写されませんが、最後の方にはエド・アル・ウィンリィ・メイ+赤子×2の家族写真のようなものがしれっと挿入されます。脳内補完必須ですがおかげさまで妄想が捗りますね!

マスタング大佐のその後

ホムンクルスを倒したのち、マルコーに賢者の石を渡されて視力を取り戻します。イシュヴァールの未来や、マルコーがそこで医者として暮らすことを認めることを条件に…。

 

リンのその後

戦いの中で体の中からグリードを失いましたが、賢者の石を手に入れました(つまり、次のシンの帝位はリンのものとなる)。ランファンと、フーじいさんの亡骸とともにシンに帰ろうとする様子がわかります。賢者の石が手に入れられずに泣きそうになるメイに対して「おまえの家はヤオ家が責任持って守ってやる」ということを約束して。

 

ホーエンハイムのその後

トリシャの墓の前で、幸せそうな表情で最期を迎えました(ピナコばあちゃんが気づいた)。この世界の重荷から解放され、ようやくトリシャのもとへ行けたんだな…と思うと感慨深さがひとしおですね。

 

スカーのその後

生き残り、アームストロング少将にかくまわれます。マイルズにイシュヴァール復興政策に携わって欲しいという打診があり(マスタングからの要請)、さらにマイルズがスカーをスカウトします。

スカーはイシュヴァール復興(イシュヴァラ復興)に力を貸しながら「生かされている意味」をもう少し探すことを決意する、という様子で描かれ、そのスカウトを受諾したようです。

 

こんなところでしょうか。(もっかい読みたくなってきましたね!)とても綺麗にまとまった「THE・エンディング」と思われた方も多かったのではないでしょうか。エドも「初心忘れず幼馴染にプロポーズする」のも素晴らしかったなぁと思いました。

 

ちなみにマンガ最終巻には外伝が1話収録されています。

 

この話は「アルの鎧をどうするか」の話しでした。目立つ話ではありませんが、エドとアルと共に旅路を辿ってきた読者の多くは、感慨深く思われたのではないでしょうか。

エドとアルのその後は「宗教者」説をくわしく

さて、ここから「エドとアルのその後は、宗教者」説について考えてみたいと思います。この説は、エドとアルが言う「等価交換を否定する新しい法則」は「愛の証明」ではないだろうか…という視点からの提言です。


ハガレンは、ハードな設定と展開でありながらも、エドやアル・ウィンリィたちをとりまく人間たちは愛情深さを持っている人物ばかりでした。(師匠しかりマスタング大佐しかりヒューズさんしかりピナコばぁちゃんしかり…)

 

読者が最後のエドたちの選択(※1をすんなり受け入れられるのも、それまでエドたちがハードにやってきた実績に対する信頼や愛着があるからだと思うのです。

 

(※1)…「錬金術を失っても仲間がいるさ」という選択や「等価交換を否定する新しい法則」といった言葉に現れている価値観。拍子抜けするくらい人情深い選択。

 

そして、エドたちの言う「等価交換を否定する新しい法則」というモノは、もはや自然法則や物理法則では説明しきれない領域の話しなのです。私たちの世界では、往々にしてこう言い表されます。

 

「愛」と。

 

彼らの探求しようとしているものはいわば「愛」の証明です。そして、リアルで「愛」を取り扱うとそれは「科学」ではなくなります。愛を伝えるという価値観は「思想」となりーーさらに言うなら「宗教」になっていくほかない、というのが私たちの世界のカテゴライズです。

 

ですから、その「愛」の証明をしようとする彼らのミッションはもはや科学者ではなく「宗教者」ではないか…これが【ポップカルチャーを哲学する】で述べられていた「エドとアルのその後は宗教者説」の流れです。

じゃあ、私たちの世界ではどうだろう①「愛」の定義

【鋼の錬金術師】の世界に「キリスト教」はありません(ですからあくまで「牧師」「神父」とは言わず『宗教者』にとどめて表現されているししているのですが)。作中でも「愛」という表現はさほど使われませんし(むしろ既存の宗教や一神教に対するアンチテーゼ的なものが入っていることもよくわかります)、現代の私たちの社会では愛という言葉が陳腐で安い表現として使われることがままあります。

 

ですから、エドやアルのその後が「愛の探求者」といった表現をされると不快になる方もいることと思います。

 

なので、ここでいったん「愛」という言葉の定義についておさらいしてみます。

 

「愛」の意味はギリシャ語(新約聖書が書かれた言葉の一つ)だともっと細かく3種類で使い分けられます。

エロス(相手に価値があるから、愛する)
フィリア(友人だから、愛する)
アガペー(相手に価値がなくても、愛する)
(参考文献:「はじめての聖書」橋爪大三郎著)

日本語には「アガペー」に最適な言葉がなく、一番近しいのが「愛」という言葉だったため愛と訳したが、日本語の「愛」はエロスもフィリアの区別がない言葉だ…とのことです。そのため少々誤解が生じていると言われています。

キリスト教は愛の宗教だといいます。隣人を愛せとか、敵を愛せとか、確かにイエスも言っています。

そうすると、「敵を愛するなんて不可能だ!」という反応が返ってきそうです。キリスト信者の中にも「あの人だけは許せない、愛するなんて無理!」なんて言ってる人が(けっこう)います。きっとひどいことされたんでしょうね。

理想と現実の違いと言ってしまえばそれまでですが、問題は「愛」という言葉にあるのではないかと考えます。

現代において、「愛」という言葉は恋愛のイメージに引っ張られていて、「好き」とほとんど同義語のように使われています。「愛してます」は「好きです」という意味、「愛するなんて無理!」というのは「好きになるなんて無理!」という意味でしょう。

しかし、イエスの言う「愛」は、「好き」の意味ではないのです。

「愛」は、新約聖書の原語であるギリシア語で「アガペー」という言葉の和訳ですが、明治の開国以前は「御大切」と訳されていました。イエスの言う「愛」の本来の意味がよく分かる訳です。愛するとは大切にすることであって、好きになることとは次元が違うのです。  (引用:カトリックメディア協議会WEBマガジンAMOR~陽だまりの丘~)           

こういったことから、エドやアルたちが求めているのは、「アガペー」に近いモノのことを指すことがわかります。つまり「等価交換を超える新しい法則」というのは、「人を御大切できる方法」と言えそうです。

 

ハガレンのマンガでは、ウィンリィ(もしくはロックベル夫妻)が最初の「等価交換を超える新しい法則(御大切/愛)の実践者」として描かれます。

 

この世界にキリスト教はないし、登場キャラクターというのは「作者の考える人間のシミュラークル(※)」です。なので【鋼の錬金術師】の世界の住人は「等価交換を超える法則を実践することで世界はよりよくなっていく」ことが証明さえさえできれば、誰もがそれを実行できるようになるかもしれません。

(※)…フランス語で「虚像」「イメージ」「模造品」「仮像」などを意味する言葉。

 

しかし、我々の世界ではそれは「実現できない理想」と位置付けている人が多いように見えます。上記カトリックメディア協議会WEBマガジンAMORコラムにもあるように「人に親切にしたくてもできない」という体験はかなりの数の人が持っているのです。私も痛いほど覚えがあります。

じっさい、ハガレンの最後は

痛みを伴わない教訓には意義がない。人は何かの犠牲なしに何も得ることはできない

というモノローグでしめくくられます。物語のまとめ部分に使われている以上、ハガレンのメッセージの重要な部分であることがわかります。

 

しかしながらアルの仮説(等価交換を超える法則)やウィンリィの行動(「半分どころか全部あげるわよ」という考え)から考えると、このモノローグの主張は「やがて超えられるものになる」はずです。

 

(例えば「10もらったら1上乗せして返す」という法則で動いていたら、その”1”はなんの犠牲もなしに得た1とも考えられます。ウィンリィの「半分どころか全部あげるわよ」も、何の見返りも必要とせずあげると言っているからエドが笑い出してしまったわけです)

 

エドやアルたち自身は等価交換を超える法則を体験しつつあるが、誰でもそれが使えるように方程式化していく作業はこれから――そんなところでしょうか。

 

さて、ではここでこれを読んでいるあなたに質問してみたいと思います。

 

もし「等価交換を超える法則が私たちのリアルにはすでに提示されている」と言われたら――何を想いますか、と。

じゃあ、私たちの世界ではどうだろう②等価交換を超える支払いは、神がすでにしているというのがキリスト教

ここからは「私たちの世界に提示されている等価交換を超える法則」についてお話ししていきます。

 

結論から言うと、キリスト教についてのお話しになっていくことを予めご了承ください(冒頭でも言ってるのでお分かりかと思いますがw)。キリスト教は、言ってしまえば「等価交換を超える法則を受け入れるところからはじまる宗教」なのです。

 

誤解されがちですが、キリスト教では「人間に愛はない」と考えます。アルの仮説もウィンリィの行動も、私たちの世界の人間にはできない(一時できたとしてもそれを維持しつづけることができない)というのがキリスト教的人間観です。そこには、真の愛を持つのは『創造主なる神』ただ一人であるという考えと、人間の持つ『原罪』の認識があります。

聖書は隣人愛の実践を解く箇所(善きサマリア人のたとえ)や、『右の頬を打たれたら左も出しなさい』『上着を取る者には下着も与えなさい』(マタイ5章39節~40節)といった描写がたしかにありますが、それは『困っている人をがんばって助けなさい』という話ではありません。

 

「神は先に人間を愛して、人間がなんの犠牲も払わずに得ることができるようにしてくれたーーそれを受け入れたら、愛を隣人に受け渡すことが自然にできるようになるはずだから、まずは神があなたのために犠牲をはらったことを知って信じなさい」ーーというのがキリスト教的な隣人愛です(ウェスレアン・ホーリネス的な表現ではありますが)。

 

クリスチャンはキリスト教の教えのことを「福音(Good News/グッドニュース)」と表現することがありますが、それは「神は人間からは何の対価も払わずに、その魂を贖う(救済する)ことを約束している」という性質のものだからです。

 

本当になんの犠牲も払わずに得ることができるのかーーという話しになると、実は神は「ある犠牲」を支払っているとされています。

 

それがキリスト教では『贖罪論(しょくざいろん)』と呼ばれているもののことです。イエスを十字架刑(当時のローマで最も重い刑罰)に処してまで人間の救済を選んだ――それがキリスト教のコアなのです。

聖書

神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3章16節)

新約聖書は旧約聖書の持っているイメージや待望によりながら、キリストの十字架上での死を犠牲と捉えている。この行き方は、特にヘブライ人への手紙とかかわりの深いもので、キリストの犠牲の捧げ物を効力のある完全な犠牲とし、この犠牲は旧約聖書の犠牲がただ模倣するだけでなし遂げられなかったことを達成し得たとする。特にパウロが用いるギリシア語 hilasterion(ロマ三・二五)はキリストの死を犠牲として解釈したものである。

 この思想は、その後のキリスト教の伝統において発展させられることになる。人類が神の許へと回復されるために、仲保者は自らを犠牲としなければならなかった。この犠牲なしには、そのような回復は不可能であった。(引用:アリスター・E.マクグラス[神代真砂実訳]『キリスト教神学入門』教文館、2002年、561頁

▼イエス・キリストの十字架の贖いについてはこちらでも言及
【まとめ】エヴァンゲリオンと聖書の考察7選。キリスト教をどう引用しているかガチで検証

どのみち、キリスト教の神は人間側からの犠牲や功徳といったもの要求しません。

 

ただ神が犠牲を払い人間を買い取る。その「人間には理解できない懐の深さ」ゆえ、「受けとる価値がないと自分が思えても与えられる」ことから、キリスト者はそれを「福音」と呼びます

 

改めて【鋼の錬金術師】エドやアルは宗教者説の話しにもどります。もしエドやアルの世界にキリスト教があったとしたら、彼らはきっと興味を持つと思います。

 

なぜなら、キリスト教が提示しているのは「等価交換を超える法則」の方程式化どころか「神は等価交換を超えてあなたを愛している」というメッセージであり、

 

それは、「等価交換の法則を超える法則」を求めたときおそらくぶち当たってしまうであろう「だれから与えはじめるべきか」という問題などもすべて解決してしまう、魔法のような解決策だからです。

 

さて、そろそろコラムを閉じるので最後に提案です。

 

もしあなたがこの先「自分では背負いきれない罪の重さ」に疲れてしまったら。「与えられるには与えなくてはならないんだ」という気持ちに圧迫されたら。「自分の尻ぬぐいは自分でしなくてはいけないんだ」という気持ちに耐えきれなくなったら。

 

どうか、「等価交換を超える法則は現実にもあるかもしれない」ということを思い出してみてくれませんか。つらくなったとき取り出せるように、ちょっとだけあなたの心の引き出しに「キリスト教」への可能性を入れておいてくれませんか。

【鋼の錬金術師】を読んでみたい方は

マンガ紹介

【鋼の錬金術師】は、紙でじっくり読むのに向いているマンガだと思いますが、スマホの方が読みやすい方もいらっしゃると思います。スマホから読めるところを探しておきました。管理人は単行本で読んでました。

「鋼の錬金術師」をスマホで読む(Renta!にとびます)

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ハガレンのアニメには2種類あります。2002年~2003年に放映されたものと、2009年~2010年の【鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST】です。

個人的には2002年のものは原作と大きくかけ離れており、特筆して面白いとも感じなかったので2009年版のでよいかなと思っています.…。dアニメストアには2009年【鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST】が取り扱われています!