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【コラム更新】声に出して読みたい仏教とキリスト教withDKの日常(8/16)

コラム:「鋼の錬金術師」エドとアルのその後は“宗教者”説を考察する。

 こんにちは。【いつかみ】ライター上坂かすがです。このサイトは「マンガと聖書の共通点を探りながらキリスト教を解説する」というコンセプトのWEBメディアです。

 

今日は、本編でも取り上げた【鋼の錬金術師】の「エドとアルのその後」についてマジメに妄想を膨らませてみたいと思います。

というのも、以前紹介した【ポップカルチャーを哲学する】のこんな一言が興味深かったからです。

 

エドはまだ現世の鉄の法則である「等価交換」に従って思考しているのだが、彼を愛するウィンリィは、愛が等価交換を超えることを示すのだ。それはすでに宗教の領域と言える。
(引用:「ポップカルチャーを哲学する」p178より)

【ポップカルチャーを哲学する】は、人気マンガやアニメに隠されたユダヤ・キリスト教的価値観を探っていくという本です。

コラム:【ポップカルチャーを哲学する】マンガに出てくる聖書の知識がほしい人に。 

私はその説に「なるほど…それはあるかも知れない」と感じました。というのも、私がクリスチャンになって改めてハガレンを読んだ時、ハガレンに流れる思想が驚くほどキリスト教的だと感じたからです。

 

ただ、ハガレンが好きな人の多くはキリスト教もしくは宗教に馴染みがないと思います。人によってはとんでもない冒涜だと感じるかもしれません。

ですから、今日は「なぜエドとアルのその後は、宗教者だと思うのか」についてマジメに考えてみたいと思います。

 

振り返りのために、主要キャラのラストシーンまとめから始めたいと思います。考察から読みたい方はこちらをクリックして飛ばしてください。

 

それぞれの教訓と新たな決意で大団円

まず、最終回のシーンから振り返りたいと思います。

エドとアルのその後

エドはアルの体を取り戻すために「真理の扉」のもとへ行き、「錬金術を使う力」と交換にアルの身体を取り戻します。

腕と身体を取り戻したエドとアル。衰えた筋肉に苦難しながらも、ウィンリィのところへ戻ります。

しばらく経ち、エドとアルは新たな旅を決意します。エドは西回り、アルは東回りで知識を持ちより、苦しむ人々を助けられる知識や経験を学んでいく…というシーンが描かれました。

かつて助けられなかったタッカーの娘・ニーナのことを胸に、「等価交換を否定する新しい法則」を証明するという話しです。

 

マスタング大佐のその後

マルコーに賢者の石を渡されて視力を取り戻します。イシュヴァールの未来や、マルコーがそこで医者として暮らすことを認めることを条件に…。

 

リンのその後

体の中からグリードを失いましたが、賢者の石を手に入れました(つまり、次のシンの帝位はリンのものとなる)。

ただしランファンに「おまえの家はヤオ家が責任持って守ってやる」ということを約束して。

 

ホーエンハイムのその後

トリシャの墓の前で、幸せそうな表情で最期を迎えました(ピナコばあちゃんが気づいた)。

 

スカーのその後

生き残り、アームストロング少将にかくまわれます。イシュヴァール政策にマイルズを出すことをマスタングに要請され、マイルズがスカーをスカウトしました。

スカーはイシュヴァール復興(イシュヴァラ復興)に力を貸しながら「生かされている意味」をもう少し探すことを決意します。

 

こんなところでしょうか。(もっかい読みたくなってきましたね!)とても綺麗にまとまった「THE・エンディング」と思われた方も多かったのではないでしょうか。エドも「初心忘れず幼馴染にプロポーズする」のも素晴らしかったなぁと思いました。

ちなみにマンガ最終巻には外伝が1話収録されています。

 

この話は「アルの鎧をどうするか」の話しでした。目立つ話ではありませんが、エドとアルと共に旅路を辿ってきた読者の多くは、感慨深く思われたのではないでしょうか。

エドとアルのその後は「宗教者」説

さて、ここから「エドとアルのその後は、宗教者」説について考えてみたいと思います。この説は、エドとアルが言う「等価交換を否定する新しい法則」は「“愛”の証明」ではないだろうか…という視点からの提言です。

 

ハガレンは全体的に「ハードな展開をしつつ、人情深さでオトす」というストーリーでした。むしろハードな展開にすることで、人情や倫理観を際立たせていたと言えます。

 

読者がラストのエドたちの選択(※1をすんなり受け入れられるのも、それまでエドたちがハードにやってきた実績があるからだと思うのです。

 

(※1)…「錬金術を失っても仲間がいるさ」という選択や「等価交換を否定する新しい法則」といった言葉に現れている価値観。

 

そして、エドたちの言う「等価交換を否定する新しい法則」というモノは、実は自然法則や物理法則では説明しきれない領域の話しなのです。私たちの世界では、こう言い表されることが多いです。

 

「愛」と。

 

彼らの探求しようとしているものは「愛」の証明です。そして、リアルで「愛」を取り扱うとそれは「科学」ではなくなります。愛を伝えるという価値観は「思想」となり、さらに言うなら「宗教」になっていくのです。

 

ですからその「愛」の証明をしようとする彼らはもはや「宗教者」になっていくほかない…これが「ポップカルチャーを哲学する」で述べられていた「エドとアルのその後は宗教者説」の流れです。私もそうだと思いました。

 

じゃあ「愛」とはなんだろう…

【鋼の錬金術師】の世界に「キリスト教」はありません。作中でも「愛」という表現はあまり使われませんし、そういったところからエドとアルの選択を非物理的視点やキリスト教に結び付けられると不快に思われる方もいらっしゃるかと思います。

 

ですが、「等価交換を超える新しい法則」というのはキリスト教の「愛の実践」とほぼ同義だという見方があります。

 

では「愛の実践」とは何か…。ここで、いま私の使っている「愛」の定義をはっきりさせておく必要があると思います。

 

一言で言えば、キリスト教では「愛」の正体は『神』であり、『神』の正体は「愛」だとされます。人間が「愛」を表せたとしてもそれは「人間(被造物)の内側にはなく、神(創造者)から与えられることで生まれてくる」と考えます。

 

「人間の考えや努力だけで、本質的な意味で人を愛することはできない」。これがキリスト教の「愛」の考え方です。

 

では神が与える「愛」とは何か?

 

少し話が逸れますが、補足なしに進めると誤解が生じるのでいったん説明させてください。

 

「『愛』という言葉が日本に入ってきた時、良い訳が見つからなかった」という話しは聞いたことがある方も多くいらっしゃるかと思います。

 

「LOVE」や「愛」の意味は、ギリシャ語には3つの種類があり、日本はこの3種が区別なく「愛」と訳されてしまったところから誤解が生じていると言われています。

エロス(相手に価値があるから、愛する)

フィリア(友人だから、愛する)

アガペー(相手に価値がなくても、愛する)


(参考文献:「はじめての聖書」橋爪大三郎著)

では、エドたちが証明しようとしている「愛」とは、どれにあたるのでしょうか。

 

「相手の価値に関係なく、多く与えることで世界を良くしていくことができる」…無償の愛「アガペー」なのではないでしょうか。

 

彼らは「アガペーを実践していくことで世界がよりよくなる」という仮説を証明する旅に出たのです。

「等価交換をこえる法則」はリアルにある。体験してみたくはないだろうか。

実は私は、ハガレンのラストを初めて読んだ時「錬金術が使える能力とアルの体が取り戻せること」がなぜイコールなのかよく分かりませんでした。

鋼の錬金術師、真理、エド、ラスト

ただ、「真理」と対話したエドと同じように「一つのポイントに気づくことで全ての縄目がほどけた」という経験はありました。それは「イエスの十字架の贖い(あがない)」を受け入れたことで起こりました。

 

「イエスの十字架の贖い」について語り出すと際限がなくなってしまうので、割愛します。(許されればいつかみ内でも説明していきたいけれど)

 

この「ポイントを押さえると、ありとあらゆる人生の疑問がほどけていく」という体験をした私は、それはまるで「錬金術とひきかえに体を取り戻した」ーーいや、むしろ「錬金術も失わずに体と腕も取り戻した」に近い体験でした。

 

自分は何も失わずに、得ることができるーーその「人間には理解できない懐の深さ」が「神は愛」といわれるゆえんであり、「それを受けとる価値が自分にはないにもかかわらず自分にも与えられる」ことから、キリスト者はそれを「福音」と呼びます

 

ハガレンの最後には

痛みを伴わない教訓には意義がない。人は何かの犠牲なしに何も得ることはできないのだから

とあります。

 

こういった言葉でシメられているのを見ると、やはり「等価交換」がこの世界のルールとしては扱われてるのかなと思いました。特に現代の日本ではそれが「常識」と言われる場面もたくさんあります。

ただし、そのルールが適応されない法則や等価交換でない法則のコミュニティも、この世界には存在しているのです。

そういった法則やコミュニティは、様々な文化・慣習の中に残っています。中でもキリスト教の神が「愛」であり、シンプルに答えを提示していることは、世界の約1/3の人々が信じる世界三大宗教となった理由の一つだと思います。

 

私の言っていることが1ミリでも気になる人は、ぜひご自身の目で確かめてほしいと思います。

 

「キリスト教会の門を叩いてみる」とか「このウェブサイトをブックマークする」とかでもいいです。もちろん他の方法でもいいです。でも、なにかしら「キリスト教と接点」を持ち続けてみてほしいのです。

 

心の片隅でいいから置いておいて、あなたが人生の重さに耐えられなくなった時に取り出してみてくださいませんか。