マンガから聖書がわかる不思議なWebサイト

【更新】名探偵コナン祭り開催中(6/13更新)

キリスト教を批判するために効果的っぽい構造の覚え書き【未整理で公開】

「キリスト教の精髄」(山上の垂訓)で批判する

一番やりやすいのは『おたくらはおたくら自身が掲げてる理念に反してますやん』って提示することだと思う。

イエス・キリスト自身がやったこと。

ここで言ってる『キリスト教の精髄』はC・S・ルイスの著作のことではなくって、比喩である。ここで言いたい「キリスト教の精髄」とは、「山上の垂訓」と呼ばれるものを指した。

山上の垂訓は、トーラーを高度に抽象化して黄金律を出して提示する、という営為なので、キリスト教徒に

「どーしても、どーしても、あえて『キリスト教の精髄』と呼べそうなものを”あえて”でいいので抽出するとしたら、何だと思いますか」と聞いたら、この部分を提示するキリスト教徒は多いのでは…ないだろうか。

ただこれは「キリスト教徒批判」「キリスト教文化批判」にはなってもキリスト教批判にはならないのでそこはご了承くだされ…という感じ。

「秩序の反転による祝福」で感動させない

『秩序の反転による慰め・回復・祝福』がキリスト教の救済の技法の顕著な特徴だと思うので、

(不完全であることが救済の根拠になるという神学)

それによる感動ではない感動を呼び起こす構造を目指すと良いのでは?

詩という手法…?(「少なくとも文学という出来事」の延長で勝負しない…?)

どこまで効果的かはわからないけれど、物語形式にするとキリスト教の俎上に乗りやすいので「物語構造」を持つものをできるだけ排除した土俵でやるほうがいいかも?

物語の強調、そして聖書全体が物語の枠組みの中に囲いこまれていると言う事実は、聖書と他の多くの聖典との違いである。仏教の経典が物語叙述を用いる事は比較的に少ないし、「コーラン」はモハメットの死後に集められ、長さの順序で配列されたお告げから成り立っている。その系列にそれとわかるような物語原理が働いていない。聖書の物語的枠組みは、歴史の形態の強調と、現世の動きとの特定の衝突の強調を一部形成している。聖書の黙示はそのような強調の仕方をしていると考えられる。

(ノースロップ・フライ著/伊藤誓訳「大いなる体系 聖書と文学」pp.289-290)

らしいので…?

「言葉を使わない」手法は求めてみてもいいと思う(ちょっと一休さんみたいになりそうだけど…)

極論を言うと、芸術とかを排除した政治の場で無視し続けるとかは現実的な気はする。新しいマルクス主義…?目的によりそう

「人間は真にいいものである」という事に説得力を持たせて感動させる

『人間が悪(※)に傾く指向性を持つ』という世界観は東方・西方キリスト教会問わずある…はず。

(それを『原罪』という神学で教理に組み込んで運用可能にしたのは西方教会の伝統、と考えると整理しやすい)

(※)…「悪」ー誰かの涙や悲しみを生み出す出来事…?)

「人間は徹頭徹尾いい存在、この世界で世界平和は実現できる」ということを説得力持たせて受け手に提示することができればいいと思う。日常系は強いかも

「人間の思い上がり」的なものをどこまで昇華できるか…とか?

https://twitter.com/abou_yuto/status/1536289299867799552?s=20&t=UfSgds8PlECqeaAV_CxGFA

仮に「文学」とかマンガ・アニメの文脈に親しんでいる人がこのページを観ていると仮定して、そういったコンテンツが発するメッセージには「人間の思い上がりを戒める」というものが大なり小なり含まれて今日に至っていると思う。

そういう世界観は一神教のみならずありとあらゆる宗教とどうしても相性がよくなってしまうので、逆にそのへんをガーンと覆しつつ受け手に感動を与えることができればいいのでは…?

カントがなんとか言ってたって…ねぇ?