このコラムは「SPY×FAMILY(スパイファミリー)」における〈ダミアン×アーニャ〉二次創作文脈について言及した記事です。具体的には
〈成長if/未来捏造〉文脈
〈おもしれ―女〉文化
『キリスト教/聖書』にまつわる言説
が含まれ、結果的にそれらに擁護的な立場に着地しています。ご了承いただける方のみご覧ください。
また、【SPY×FAMILY】の原作世界観の範囲内で語れることを書いたコラムもありますので、よろしければそちらも覗いてやってください。
ヨルさんが聖母マリアのミームを背負ってる説が俺の中で話題【SPY×FAMILYのキャラ造形とロマンスにおける処女の役割】
「アーニャを知ると世界が平和に」…SPY×FAMILY(スパイファミリー)のおもしろさは対義結合&逆説じゃないかって話とキリスト教
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ふとしたきっかけで【SPY×FAMILY(スパイファミリー)】の二次創作を覗いてみたところ、〈ダミアン×アーニャ〉(以下〈ダミアニャ〉と省略)の文脈を知りました。〈ダミアニャ〉自体は公式カップリングという認識でOKみたいです。
ダミアニャとは…『SPY×FAMILY』の登場人物、ダミアン・デズモンドとのアーニャ・フォージャーとの公式カップルである。
(ピクシブ百科事典2022年6月26日時点)
(季刊エスVol.69にて作者である遠藤本人からカップリングについて言及があった)
まだ付き合ってはいないが、早くもケンカップルの空気である。
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しかしながら、この〈ダミアニャ〉ジャンルにもそれなりの文脈があって、とくに人気が高いのが〈成長If/未来捏造〉というコンテンツのようです。
しかし、これらはいわゆる原作設定からはちょっと離れたコンテンツ。にも関わらず、Twitterの仕様によって住みわけが良好にならなかったことから、この文脈をめぐるファンたちの気持ちが沸騰してしまった場面があったようです。
私自身も〈ダミアニャ〉は好ましく思うタイプなのですが、個人的には「原作設定解釈可能延長線上の二次創作」が好きなタイプなので、〈成長if/未来捏造〉とはどの距離感で付き合おうか…というのをちょっとばかり悩みました。
そして悩んで考えた結果、このコラムの筆者は〈ダミアニャ成長if/未来捏造〉に擁護的な意見に落ち着いてしまったようです…。
このコラムの筆者はキリスト教徒だし、その世界観を前提とした思索には違いないので、それが現代日本の〈ダミアニャ〉好きのみなさんにどれくらい意味のある思索なのかはわからないけど…
ものの試しでもいいので、興味が沸けば読んでくださるとうれしいです、と言ってます。
※このコラムを書き始めたときは「〈ダミアン・デズモンド〉って〈道明寺司〉に似てるよね→ダミアンって「おもしれ―女」文脈だよね→「おもしれー女」と聖書はシンクロしますっていう記事書いたから見て」という話で終わる予定だったのですが、そのタイミングで〈成長If/未来捏造〉が苦手という意見が可視化される出来事があったので、そのことに言及する形に落ち着きました。
〈ダミアニャ〉が〈成長if/未来捏造文脈〉で語られがちなのは、
文化的な下敷き+人間アルアル
だからある意味仕方なし、という意見に落ち着く。
(ダミアンが道明寺司のキャラクターコード=おもしれ―女構造」を引き継いだ存在だから)
目次
ダミアン・デズモンドは道明寺司のキャラクターコードを引き継いでいる→ダミアニャにみる「おもしれ―女」構造
【SPY×FAMILY】の〈ダミアン・デズモンド〉は、【花より男子】の〈道明寺司〉に似ている、という見解は、もはや公式レベルだと考えていいみたい。
作者の遠藤達哉先生も追認
ちなみに『SPY×FAMILY 公式ファンブック EYES ONLY』では、ダミアンについて作者の遠藤達哉さんが「まんま『花より男子』(神尾葉子)の道明寺ですね(笑)」と
共通点だらけ!?『SPY×FAMILY』ダミアンが『花男』道明寺司すぎて最高。作者のコメントは…(エキサイトニュース)
ほかにもたくさんの人たちが既視感を感じている
→共通点だらけ!?『SPY×FAMILY』ダミアンが『花男』道明寺司すぎて最高。作者のコメントは…(エキサイトニュース)
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〈道明寺司〉は「おもしれ―女」文脈で挙げられることが多いキャラクターだもんね。
「おもしれ―女」は恋愛模様が物語の主軸となるコンテンツの下で生まれた構造だから…
〈ダミアニャ〉が、恋愛模様を主軸としたコンテンツとして盛り上がるのは、文化的な下敷きから考えるとさもありなんってカンジ…?
※「恋愛模様」を主軸とするためには、原作の年齢設定ではちょっと幼すぎるだろう、という前提が入っています。
「ダミアンが〈道明寺司〉コードを受け継いでいる以上、〈ダミアニャ〉が青年の恋愛模様コンテンツとして活発化するのは一理ある論」を補足してしまう先人たちの言葉
ここからは、帰納的に「〈ダミアニャ成長If〉弁証論」を展開していくので、直接的な【SPY×FAMILY】の話からちょっと迂回します。
人間社会の文化は、認識していない伝承などで条件づけられているってフライは言った
「俺たち人間社会の文化って、認識してなくても色んな伝承に条件づけられてるよな」って話があってだな…
人間は動物のように自然の中に直接、もしくは裸のまま生きているのではなく、神話的宇宙、つまり生存上の関心から発展した前提や信念の集合体の中に生きているのである。
(ノースロップ・フライ著/伊藤誓訳「大いなる体系 聖書と文学」序論XVII)
これらのものをわれわれは無意識裡にいだいているのである。だから、それが芸術や文学で提示された場合、われわれがそこに認めたものが何であるのかを意識的に理解していなくても、われわれの想像力がそれらの諸要素を認めることがあるのである。
この関心の集合体にわれわれが認めることのできるものは、事実上すべての社会的に条件づけられ、文化的に伝承されたものなのである。文化的伝承の下には共有される心理的伝承が存在しているに違いない。
さもなくば、われわれの伝統の外に存在する文化的想像的諸形態はわれわれには理解不能なものとなるだろう。われわれに固有の文化に存在する際立った諸特質を迂回して、直接にこの共有される伝承に達することができるかどうかは疑わしい。
文化的伝統の意識的組織化という意味での批評がもつ実践的機能のひとつは、神話的条件づけに対してわれわれをより深く自覚的にさせるということだと私は思う。
このコラムの筆者は
「おもしれー女」の文脈は聖書レベルから受け継がれている様式美ぞ
みたいな論も展開しました。それが人類においてどれくらい普遍的な認識だと考えていいのか、西欧文化を引き継ぐ必要のないこの日本でこの話がどれくらいの力持ってくるのか、というのはまだ別の話になってくることは添えておきます。
今まとめた記事作ってるので気になる方はしばしお待ちを!さしあたって「ノースロップ・フライ」の紹介を掲載しておきます。
1957年プリンストン大学出版局から刊行された『批評の解剖』(Anatomy of Criticism) は各国語に翻訳され, ノースロップ・フライの名前は一躍文学批評・理論の分野で広く知られるようになり, 英語圏の文学研究においてそれまでややもすると軽視されていたロマン主義文学の復権の契機になった。フライは以後文学ばかりでなく, あらゆる文化現象を神話論によって解明し, 注目されるようになった。しかし生涯, カナダ・トロント大学の英文学教授として学研生活を続けるとともに, カナダ文学・文化の独自性を説き続けた。彼の文学理論はダンテなどの西欧文学全般を包含するものであり, 『批評の解剖』は百科事典的知識に基づく壮大な体系である。
https://cir.nii.ac.jp/crid/1050564289102586880
もし文学研究者にもノーベル文学賞が与えられるなら、まずノースロップ・フライに与えられるべきであろう。フライは、文学作品の価値定めを行うのは研究ではない、逆に言えば、学問的手続きによって文学にせよ美術にせよ、価値を決めることはできないという立場にたつ。かつ、文学の理論化において、過度の抽象化を行わず、これまで世にあらわれた文学作品に基づいて、分類を行う。…
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R21FS7RONGNQD5/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=458809971X
過度な空想も「人間アルアルっちゃ人間アルアル」ってトールキンは言った
たとえばだけど、J・R・R・トールキンは「過度な空想も、人間社会ではありうること。」と言って逆説的に人間の妄想力を擁護していたことがあるみたい。
「空想」が過度になることは、もちろんありうることだ。不出来ということもありえる。よこしまな目的のために用いられ、それを創り出した精神さえもだますことすらもあるだろう。しかし、この堕落した世界のうちにあって、人間がかかわりあいをもつものはみな、そういうものなのではないだろうか。そうでないものが果たしてあるだろうか?人間は妖精を創り出したのみならず、神々をも創造した。そして、その神々を礼拝した。創りて自身の悪によって、はなはだしくゆがめられた神々ですら、礼拝したのである。しかし人間は、ほかの素材からも、にせの神々を創り出した。もろもろの観念、主張、富などからも、科学や社会学、経済学などの学説さえもが、人間の犠牲を要求してきたのだ。
(J.R.R.トールキン/猪熊葉子訳「妖精物語について ファンタジーの世界」pp.113~114/評論社
「濫用は使用を排斥せず」という。「空想」は依然人間の権利のひとつである。我々はその能力に応じて、周囲の世界から観念をうる方法に従って創造行為をなす。それは私たち自身が創られたものだからである。そして、創られたばかりでなく、創造主の姿に似せて創られているから、なのである。
かなり意識的に『偶像崇拝』を禁止されていたにも関わらず偶像崇拝を繰り返したイスラエルの民の行動様式すら逆手にとった論だねぇ…。
もちろん、ひとりの作家の評価もその歴史的影響力というのも解釈によって別れると思います。筆者はトールキンの現代日本のサブカルチャー文脈への影響力を注視する立場に立ちます。
驚異的な売れ行きを見せる「ハリー・ポッター」シリーズを旗頭とする、現在のファンタジー作品群の隆盛は、さかのぼれば、ルイスとトールキンの功績に行きつくはずだ。第二次世界大戦の世界に、ファンタジーを趣味人の書物ではなく、一般の多くの人に愛される作品として提示できたのは、まずをもってこの二人なのだ。その後に書かれたファンタジーは、多かれ少なかれ彼らの作品の影響をこうむっている。
(引用:荻原規子著「ファンタジーのDNA」pp.208~209)
そう考えると、〈ダミアニャ〉文脈で〈成長if/未来捏造〉が盛況になるのも「The★ 人の営み」という感じすらしてくるような…。
「ちゃうねん、ダミアニャ成長ifそのものはエエんやけど、アーニャの口調が解釈違いやねん」
色んな方の意見を眺めていると
〈ダミアニャ成長if〉そのもの問題ない。でも、成長したアーニャの口調が今の幼いアーニャのままなのが多すぎて白ける
…といった意見も一定数目に入ってきました。確かに、アーニャを成長させるとなると、現状のアーニャの特徴の一つである
アーニャ ぴーなっつが好き
ちち と はは うそつき
…といった口調は、ちょうど変えても変えなくてもどちらも「解釈が分かれる部分」に位置している事がら、だなと感じます。
これについては、私自身はどっちでも問題ないのですが、「幼い口調のままでも問題なく読める」側として、ちょっとだけ言い分をしたためてみたいと思います。
まず第一に、私たち人間というのは「その物語に説得力を感じるかどうかを、非常に多くの情報を認識しながら”許容できるラインとできないラインを処理”しながら判断している」…ようです。
いまでも僕たちは、実話には要求しないタイプの説得力を、フィクション──とりわけ、娯楽小説やアクション映画など、「お約束」を重視する型の虚構コンテンツ──に求めてしまうことが、ままあるようです。
たしかに西部劇ではもめごとはなんでも暴力でカタがついてしまい、異世界ファンタジーでは魔法がザラに使用され、謎解きミステリ小説では異様に凝った方法で殺人が実行され、ある種のライトノベルでは取り柄のない男の子が女の子(たち)にいきなりモテてしまいますが、そういった「ほんとうらしくない」ことが起こるジャンルであっても、そのジャンル内で要求されるべつの「違和感のなさ」「納得感」が要求されます。
ツヴェタン・トドロフも示唆しているように、人は、言説やコンテンツがどういうジャンルに属するかを判断したうえで、そのジャンルの「お約束」に合致しているかどうかを気にしながら、その言説やコンテンツを受信・解読していくもののようです。
そして、説得力の基準は、作品が属するジャンルによって、ときには大きく異なります。謎解きミステリ小説では「違和感のない」筋でも、それを時代劇に移植したら、そこだけ浮いてしまうかもしれません(逆にそれが新鮮な魅力になることもあるでしょう)。
(人生につける薬 人間は物語る動物である 第5回「作り話がほんとうらしいってどういうこと?」千野 帽子)
【SPY×FAMILY】という作品は、遠藤達哉先生の今までの作風からちょっと変わったコンテンツであるということも有名な話しで、それは一種のわかりやすいデフォルメ・テンポ・コード(お約束)に振り切った作品である事も特徴のひとつ…だと認識しています。
【SPY×FAMILY】という作品を楽しめている時点で、その層は「物語の享受の仕方」については一定のラインが共有できている、はずです。
そのうえで、【SPY×FAMILY】全体のコードを考えると、アーニャの口調を「アーニャというキャラクターの記号」(※)だと認識することはそこまで困難ではない、と個人的には思います。
原作及びアニメでも、ヨルさんが如何なるときもカチューシャを外さないであるとか、アーニャも髪飾りを外さないであるとか、そういう事があってもそのへん我々は了解しながら観ているはずですし、そういう前提で進んでいるコンテンツですから。
(う~ん、まあそれが「解釈違い」云々という話なんでしょうけど…)
(※)今後ヨルさんのカチューシャやアーニャの髪飾りに「〇〇な理由があった」と描かれたとしても、それは「マンガのキャラクターデザインは、ある種の記号である」という文脈が先行していて、それに対する後付けで生まれるものであることは間違いないと思います。とはいえこれらは、私が個人的に手塚治虫が自身の「まんが」を規定した「まんが記号説」みたいな思想が好きなタイプなのでそういう論を擁護しがちなことはお伝えしておきたいと思い…ます…。
え、何の話だっけ…?
もともとこのコラムは
「〈ダミアン・デズモンド〉って〈道明寺司〉に似てるよね→ダミアンって「おもしれ―女」文脈だよね→「おもしれー女」と聖書はシンクロしますっていう記事書いたから見て」
という話で終わる予定だったんだよね…
勝手に話題に乗って勝手に力尽きてちゃあ世話ないね
最後にこれだけ言わせてくれ…
このコラムの筆者は、キリスト教の神(つまりキリスト教徒にとっては『この世界を作った存在』)は、「〇〇からしか摂取できない人にとっての〇〇」を包摂して祝福する、と思っています。
ダミアンとアーニャの恋物語が作中でどう描かれるのか
ーダミアンが認めたがらない「アーニャに対する胸の動悸」をどう表現していく展開になるのか、アーニャはそれをどのように受け取るのか、それは物語においてどういう位置につけられるのかー
…は、まだ未知数ですが、現在の【SPY×FAMILY】の物語から受ける印象で言えば、ダミアンのアーニャへのツンデレ具合はイイ感じの『秩序の反転による回復・祝福』を起こしてくれそうな予感がして、とっても楽しみです。
みなさまと、私たちの想像力の営みの上に祝福がありますよう。
ヨルさんが聖母マリアのミームを背負ってる説が俺の中で話題【SPY×FAMILYのキャラ造形とロマンスにおける処女の役割】
「アーニャを知ると世界が平和に」…SPY×FAMILY(スパイファミリー)のおもしろさは対義結合&逆説じゃないかって話とキリスト教