まずはこちら、【名探偵コナン】のキャラクターたちが発した「名言」の数々を御覧いだたきたい。
「人が人を殺す動機なんて知ったこっちゃねぇが 人が人を助ける理由に論理的な思考は存在しねぇだろ」
(青山剛昌/小学館「名探偵コナン」35巻 354.FILE.4 「ゴールデンアップル5」より引用)
トリックなんて所詮人間が考えだしたパズル。
(青山剛昌/小学館「名探偵コナン」26巻 257.FILE.4「命懸けの復活」より引用)
人間が頭をひねればいつかは論理的な答えが 導きだせるけど、
情けねーが人が人を殺した理由だけはどんなに筋道を立てて説明されてもわからねーんだ。理解はできても納得できねーんだよ。
全くな・・・
だめだよレイ。たとえどんなに辛く悲しいことがあったとしても麻薬と殺人はやっちゃならねぇ反則、みっともねぇレッドカードだよ。
(青山剛昌/小学館「名探偵コナン」29巻 295.FILE.11「レッドカード」より引用)
「命に人のも自分のもあらへん!奪ったらアカン大事な物や!!それを絶つアホはみんな人殺しと同じやねんで!! なんぼそれが自分の物でもな!!!」
(青山剛昌/小学館「名探偵コナン」28巻 278.FILE.5「恐怖の女」より引用)
みなさまこれらの台詞を問題なく共感されるだろうか。もしそうなら、このコラムはあなたに必要ないことを延々と語る事となるので、早々にブラウザバックすることをお勧めする。
(もし興味がゆるせば、当ウェブサイトには他にも【名探偵コナン】にまつわるコンテンツがあるので、回覧いただければ感激の至りである…)
さて、このコラムは、幼少期より【名探偵コナン】という物語をエンターテイメントとして楽しんではいたが
こういう価値観が正義の押し付けっぽく感じる…
という感覚もどこか拭えなかった人間が、
ある条件を設定することで「不信の一時停止」を発動できるようになり、【名探偵コナン】をより楽しめるようになった。(ついでに言うと社会生活もうまく運びやすくなった)
という、その「ある条件の設定」について解説するコラムである。
その「ある条件の設定」ってのは、『有神論的世界観の採用』だって話がしたいみたいだよ。
不信の一時停止とは…不信の停止(ふしんのていし)または積極的な不信の停止(英語 willing suspension of disbelief)とは人が作り話を鑑賞するとき、懐疑心を抑制し、それが現実ではないことを忘れ、創作された世界に入り込む様子を指す。不信の宙づり、不信の休止、不信の念の停止、不信の自発的停止、懐疑の自主的中断、不信の中断とも。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 2022年6月16日日本時間16時36時点)
有神論とは…英語theism(ギリシア語theos〈神〉に由来)などの訳。一般に,神の存在を認める哲学上・宗教上の立場。無神論に対する。限定された意味では,理神論に対して,創造主にして永遠の支配者たる人格神の存在を主張する立場をいう。また汎神論に対して,神の超自然性・超越性を強調する立場をさす。神の属性や数(一神か多神か),また多神の場合の相互関係などについては,それぞれの立場や宗教によって異なる。
(出典:コトバンク 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて)
有神論的世界観なら、『善』や『正義』や『倫理』といったものをかなりラクに肯定できる。
(「よくわからんくても、在るもんは在る」として扱われても、『神』という真空に保留しておけるので)
筆者は有神論的世界観の採用によって【名探偵コナン】がより楽しめるようになった。
西欧では伝統的でありつつも、現代日本ではあまりフューチャーされないやり方なので、試してみる価値はあるはず。
ちなみに、察しの良い方ならばご理解いただけると思うが、ここで話している話は【名探偵コナン】だけではなく【鬼滅の刃】などにも適応できる話しではある。
どちらも広く認知されている作品だし、同じ時期くらいに社会現象を起こした作品だと認識している。筆者の食指が向くコンテンツが【名探偵コナン】だったのでコナンを中心として語った。
目次
前提:「名探偵コナン」前身作家たちも有神論を公言&筆者と「名探偵コナン」の歴史
前提①コナン・ドイルも、安彦良和も有神論者であることを公言している
現代を生きる日本人なら『神』という言葉を使われると鼻白む人も多いと思う。ので、一応伝えておきたいのが、シャーロック・ホームズシリーズ作者であるコナン・ドイルも、ガンダムの生みの親のひとりである安彦良和も自覚的な有神論者、ということだ。
シャーロック・ホームズは、〈工藤新一/江戸川コナン〉が憧れ・大いに影響を受けている人物として作中に描かれるし、「ガンダム」は、【名探偵コナン】作者:青山剛昌先生がかなり好きなアニメとして最近ではその要素が【名探偵コナン】中に多いに輸入されている…と認識している。
そのことを知ったうえで、興味が沸けば続けて読んでほしいし、興味がなければ読むのをやめてくれてかまわない。
【名探偵コナン】そのものも、特段『神』という存在に言及するわけではありませんが、そこでは有神論的世界観がいかんなく発揮されている…とこのコラムの筆者は言っているようです。
以下はその解説である。
前提②筆者と「名探偵コナン」の歴史(これは飛ばしてOK)
詳しい論を展開する前に、いちおう筆者がどのように【名探偵コナン】というコンテンツと付き合ってきたか(個人史)を述べてみたい。
この論に関係するので詳細を述べてみるが、読み飛ばしてもかまわないので本題に移りたい方は飛ばしてほしい。
筆者は、2万年ぶり(※)に【名探偵コナン】に再燃している人間である。
(※)…「非常に長い間ぶり」の比喩である。
この再燃は、おそらく【劇場版 名探偵コナン ハロウィンの花嫁】(以下【ハロ嫁】と略す)の公開に合わせて公式がYouTubeで提供し始めたプロモーションの成功例のひとつ(※)だろうと思われる。【ハロ嫁】も観に行った。ちなみにこのコラム内では【ハロ嫁】の話題は触れてないしネタバレもないのでそのあたりはご安心いただきたい。
(※)2022年5月~6月、こちらのYouTubeチャンネルには「安室透セレクション」や「高木♥佐藤 恋する刑事セレクション」というコンセプトで毎日過去回がアップロードされていた。その幕間には【ハロ嫁】CMが挿入され、また開放されたコメント欄には【名探偵コナン】に心を寄せる人たちの活発な意見が可視化されていた。筆者はひょんなことからこのYouTubeを閲覧するようになり、自身の中の【名探偵コナン】に関する興味が再燃していったこと記憶している。
1989年(平成元年)生まれの筆者(と、筆者の姉)は、【名探偵コナン】の初回放送をリアルタイムのテレビアニメ放送で視聴した。そして『ナニコレ面白い!』と思い、以降【名探偵コナン】は「発売次第購入するマンガリスト」に入るようになった。
映画も5作品くらいまでは劇場で観ていたし、コナン作品中でも屈指の人気を誇る〈怪盗キッド〉が主人公の青山剛昌先生の過去作【まじっく快斗】も既刊分購入して読んだ。
ちなみに、【名探偵コナン】の主人公である〈工藤新一/江戸川コナン〉が愛してやまない「シャーロック・ホームズ」もいくつか読んだ。
生活環境の変化+【名探偵コナン】プロットの主張が自分の人生観と合わないのではないかと感じ始めたことから、単行本の購入は自然と行わなくなってしまったが、
この【名探偵コナン】というコンテンツが知らず知らずのうちに「国民的アニメ」という立ち位置を不動のものにしていったこと、また人類の救済の技法の一つであるインターネットの普及のおかげで、単行本を購入せずとも物語の展開をなんとなく把握することができていた。
そうして、2018年ごろに社会現象的沸騰を見せた〈安室透/降谷零〉ブームにより、1万年と2千年ぶりに【名探偵コナン】を身近に感じることとなった筆者は、さらに8千年遅れの2022年春に〈京極真×鈴木園子〉(以下、〈京園〉と表記)や〈安室透/降谷零/バーボン〉に関する二次創作を閲覧するためにPixivの沼に深く身を沈め、そのまま【ハロ嫁】のプロモーションに乗っかった。
そして今にいたる…
筆者は未成年時代、「自分はごくごく一般的な日本人」という自己認識で生きていた。それは、「少なくとも一神教教徒の世界観とおのれは無縁」という自己理解が(意識するしないば別として)いつも入っていた。
現在は、いわゆる『キリスト教徒』という、現代の日本においてはやや嫌厭される属性付きの人間になっ(てしまっ)た。
「特定の宗教の信者になる」ということと「特定の宗教を信じているわけではない」と自認しながら生きることとどのような違いがあるのか、というのは、信じた先の宗教によってややも変わってくるので一概には言えない話しだと思う。ただ、少なくとも「その宗教の提示する世界観や、それに準ずるものの見方で物事を解釈しようとするようになる」くらいの認識をしていただければ、このコラムを読むにあたっては問題ないはずだ。
そしてこのコラムでは『キリスト教の提示する世界観の一端』に触れることになるのだが、もう少し体系的に俯瞰した情報から『既存、伝統的なキリスト教の世界観』を知りたい方はこちらの動画など参考になるかもしれない。
しかし、意外や意外、それがかえって【名探偵コナン】プロットの主張とシンクロし、【名探偵コナン】をより楽しめる方向性に事を運んだのである。
【名探偵コナン】のプロットが肯定する定言命法
名探偵コナンが肯定する「善」の要請
【名探偵コナン】の世界は、私たちと同じ次元の倫理や道徳(モラル)が適応できるようですね。
そして、それは「無条件で従うのが好ましいもの」として描かれている…と思う。
それが、このコラムの筆者にとっては、マンガやアニメのデフォルメ(不信を一時停止しておける程度の)だと受け止められるラインを超えた…ってことみたい。
そのメッセージは〈工藤新一/江戸川コナン〉をはじめとした、物語の主導権を握る側のキャラクターたちから発せられるから、それが【名探偵コナン】のコードであることは了解可能なこと、として話を進めます。
(※)怪盗キッドについてはまた別件…怪盗キッドは「紳士怪盗アルセーヌ・ルパン」のコードを受け継いでいると一応認識する。これはこれで複雑に絡み合った文化が流れていると思う。
【名探偵コナン】はジャンルが「推理ミステリー(且つ恋愛モノ)」なので、(毎回の小さな物語として)事件が起こらなくては始まらないし、その解決が(あるいはキャラクター同士の恋物語/あるいは〈新一/コナン〉と黒の組織との対峙という大きな物語が)このコンテンツのキモなので、『殺人・盗み・破壊をそもそもやってはならない理由』みたいものへの目配せが少なくなるのは、わかる。
しかし、であれば、ホームズのように(※)「自分の知的好奇心に準ずる、ゆえに事件解決に邁進する」奇人的キャラクター造形にすれば筆者は何もひっかからなかったと思う。
(※)そんなホームズも有神論者のキャラクター造形であると読めるようだが。
あるいは、同時代の推理ミステリーマンガ【金田一少年の事件簿】主人公〈金田一一〉のように、「あくまで己の帰属するアイデンティティのために」(※)といったスローガンを発信させる、であるとかであれば。
(※)「じっちゃんの名にかけて」という台詞に著される、【金田一少年の事件簿】作中のスローガン。もちろん〈金田一一〉も「殺人はいけないこと」的メッセージを発することはあるが、【名探偵コナン】のコンテンツに比べれば仮言命法的な発し方に依っている印象がある。
まあ、それら既存推理ミステリー作品と差別化したかったゆえにつけた属性、あるいは連載雑誌の色的にそうしたほうが都合がよかったのかもしれないが、読者の感想として言わせていただくと〈新一/コナン〉他主人公側を肯定する側のキャラクターが、「一定の倫理というものが世界にはあり、それは有無を言わず従うべきもの(定言命法)」として発するという設定は、【名探偵コナン】の物語からいつもどこか浮いていた、と思う。
その「定言命法」的な表現に乗れなくなったこと、それによって作品にごちゃつきを感じたことで作品への心証が下がったこと…筆者が2万年(※)の間【名探偵コナン】というコンテンツをさほどフューチャーできなくなった理由の一端である。
(※)…「とても長い間」の比喩。
2018年に公開された劇場版【名探偵コナン ゼロの執行人】(以下【ゼロ執】と略す)では、その構成やテーマソングの印象から既存作品と比べると
「主人公側が提示する善(物語そのものの主張)だけを主張したいわけではない、ちゃんとこの作品も、作品内で価値観を相対化している」
少なくともそうとってくれ…という制作者側の、そういう層への目配せのようなものも見えた気がする。
しかし、じゃあまあその成功の可否をあえて言わせて頂くと、「勝負します的な風を見せかけて勝負しなかった」とは思う。
これはフィクションにおけるプロットの特権でもあるとは思うが
結果的に主人公であるコナン側と〈安室透/降谷零〉(公安)側の目的と行動を一致させるプロットにしたことで、物語的なテンポやまとまりとって、イデオロギー的な問題は実のところボカしている。
そういう試みは物語のテンポと喧嘩するのがわかるし、本当の意味で成功はしない。というか、コンテンツの目的が違うのでそこにそんなに労力を割く必要性がない。
そう、「国民的」マンガやアニメというのはそれでいいと思う。【鬼滅の刃】だってその辺はソレでキレよく構成して非常に快いテンポを生み出していた。
ちなみに、もっと言うと【名探偵コナン】について「ありえない状況が多すぎてそれだけで見る気にならない」という人は探せばいくらでもいると思う。(基本的に子供向けアニメであるし…)
〈毛利小五郎〉をことごとく麻酔銃で眠らせたり、キック力増強シューズの仕組みは作者の青山剛昌先生自身もセルフ突っ込みの対象である。
ただ、その辺に関しては、筆者は第一段階の不信の一時停止は問題なく発動させている。
というのも、筆者は物語の本筋がそこにないと判断できれば、それを受け入れることに特に問題を感じないのである。
作中で目暮警部やそのほかキャラクターたちに心の中で「また君たちかね」などの台詞を言わせるだけで「メタ的にはわかってんのね」ということが了解できれば、不信を一時停止させておくことができる。
しかし、この「倫理観」については、どーにもうまく一時停止しないのである。
筆者にとっては、「善も悪も相対的なもの」として考えるのが人間にとって誠実な態度だと思っていたし、
マンガやアニメといったサブカルチャーは、そういう世界を丁寧に描いてくれるのが魅力で、それが現代の「正義」なのだと思っていた。
(今思うと、世代的、時代的な影響がモロにある考え方だと思うが。ポストロマン主義なのだろう)
しかし、定言命法は有神論的世界観に立つとあっさり成り立つ+「現実とは奇妙である」と知った→コナンのコードも受け入れることに問題がなくなった
定言命法は「神が存在する」と設定すればあっさり成り立つ(実践できるかは別として、不信の一時停止くらいには十分)
もし首尾一貫して道徳的にものを考えようとするなら、この[神が存在する]という命題を自らの実践理性の格率の土台に据えることを受け入れなければならない。
と、カントが言っているのは有名な話だそうだ。まあ「カントが言ってるならアリかな」と思える場合はここで終わってくれてかまわない。
筆者自身は、カントの精神的マッチョみたいな考え方にめちゃくちゃ共感するというわけではないが、なにせ日本では人気の思想家らしい&共感しない筆者のような人間でも「こういう部分をこう採用すると、こうなる」という価値観を提示している、という話がしたいのである。
定言命法…〈新一/コナン〉たちが発するメッセージは「神」の存在を認める立場に立てば比較的すんなり受け入れられる話なのである。
神を信じなければ、倫理的生活が送れないということではありません。問題は、『神が存在しないときに、この世に客観的倫理観が存在しうるか』ということであり、その答えは『神が存在しないときに、この世に客観的倫理観は存在しえない』です」
「何でダメなのですか」
「もし神がいないなら、倫理観とは単なる社会的進化の産物に終わってしまいます。実際、無神論者は大体がそう思っていますけれどね。哲学者のマイケル・ルーズは『倫理とは生物学的適応にすぎず、しれは手や足、歯の生物学的適応と何ら変わらない』そして倫理とは『生存・生殖の補助的役割を果たすためにだけ存在するものであり……そこに深淵な意味があると思うのは、錯覚である』と言っています。」
(リー ストロベル (著), Lee Strobel (原著), 峯岸 麻子 (翻訳)「それでも神は実在するのか」より)
もちろん、カントの言うこの『神』という概念を解体しつつ受け入れる方法はないのか…と模索する人もいる。
カントの「神」が、道徳的行為の成立する背後に必ず同時に想定されてしまっているはずの根源的了解を表現した概念である.…
(なぜ神が存在すると想定しなければならないか:)
カントの哲学は日本で人気だし、しかし一般的に考えられている『一神教の神概念』なるものは現代日本人にとって受け入れ難いので、そういう営みが生まれるのだろう。
それは非常にわかるし、良い事だと思う。ただ、そういう小難しい模索は研究・学問として掘り下げる使命を持った人がやればいいのであって、我々のような一般人は「どうやったら自分の役に立てられるのか」という方が優先であるはずだ。その時に気づくのが
「一神教的な神の存在を世界観の基盤に据える」という、現代日本人なら最高峰に吐き気を催しそうな愚かしい選択が、かえって一番合理的にそれを成功させるのではないか――、
ということだ。温故知新の精神、とも呼べるかもしれない。
「現実とは奇妙である」と知った(そういう解釈で生きるようになった)
また、筆者は「現実とは往々にして奇妙である」という立場に立つようになった。それは筆者がキリスト教信仰を持つようになった理由のひとつでもある(ルイスの言ってることに同調する)
この辺に関して納得できない方は、千野帽子「人はなぜ物語を求めるのか」(ウェブちくま)あたりを読んでいただいて、そのうえで納得できなければこの話のことを忘れていただいてかまわない。
つまり、今までは【名探偵コナン】を「物語」として受け取ろうとするがゆえに「奇妙」に思えて納得しきれなかった部分が、
現実って往々にして奇妙でどこかつじつまがあわないから、「アリ」だよね
と思えるようになった、のである。
さて、ではそれを実践するにあたっての入門書としておススメしたいのがC・S・ルイスの著した『キリスト教の精髄』という書籍なのである…という話を続ける。
〈キリスト教の精髄〉は、いわゆるカントの言った定言命法を発するその源泉についての認識の共有、その話から始まるのである。
C・S・ルイス著「キリスト教の精髄」第一章
C・S・ルイスは「ナルニア国ものがたり」「悪魔の手紙」などで有名な作家・大学教授である。
『キリスト教の精髄』の初っ端がその『有神論的世界観と道徳法則』についての解説であって、けっこうな分量がその話しに割かれているのである。
『キリスト教の精髄(せいずい)』は、 C.S.ルイスが書いたキリスト教の入門書です。 この本はクリスチャン、ノンクリスチャンを問わず、世界中の人々に読まれてきました。 この本を通して、どのような教派の人であっても、 本質的なキリスト教神学の基礎を理解できるようになっています。
(引用:『キリスト教の精髄』ガイドBob(原文・編)、結城浩(訳・編))
まあせっかくここまで読んだのにウェブで完結しない話に持っていかれるのは残念な気持ちになると思うので、内容をちょっとだけ紹介してみたい。
…第一に、地上に住むすべての人間はある特定の仕方で行動すべきであるという奇妙な考え方をもっており、この考え方を全く取り除いてしまうことはできないということ。第二に、彼らは、実際には、そのように行動していないということ。つまり、自然の法則を知ってはいるが、これを破っているということ。この二つの事実こそ、われわれが自分自身と、われわれがその中に住む宇宙とについて透徹した思考を展開するための、唯一の土台となるものなのである。
()
- 人間性の法則
- いくつかの反論
- 法則の実在性
- 法則の背後にあるもの
- 不安を感ずるのは当然
人間性の法則 けんかや やり合いをするとき、 人間は、絶対的に正しい基準というものに訴える傾向がある、とC. S. ルイスは書いています。 ルイスはこの基準のことを「自然の法則」または「道徳的法則」と呼んでいます。
(引用:『キリスト教の精髄』ガイドBob(原文・編)、結城浩(訳・編))
ちなみに、↑は数学者結城浩氏が『キリスト教の精髄』に関して公開されているガイドである。眺めているとなんとなく『キリスト教の精髄』に書かれていることが見えるので、買いたくない場合はこちらを活用される良いと思う。
(結城氏が提示している方法で活用するのは、「物語の読み解き」を超えて、もう少し自分に引き寄せて『有神論的世界観』を考えてみたい、という場合でいいと思う。)
筆者は、個人的な葛藤を経たが、且つうまく説明はできないのだが、この主張にのっかることで、【名探偵コナン】の発する物語のコードに乗りやすくなった。それによって楽しむ幅が広がった。
もしくは「それでも神は実在するのか」(リー・ストロベル)の方が推理ミステリ好きとの相性はいいか…
書いていて気づいたのだが、【名探偵コナン】との相性がいいのはこっちの本かもしれない…。追って紹介記事を書いてみたい。
ごくごく簡単に言うと、無神論者のジャーナリストが神学者やら科学者やらに「イエスは神とは信じられない」とか「神など実在しない」などのトピックを取材していったドキュメンタリー的書籍である。(記者は最終的にキリスト教信仰を持ったとか持ってないとか。まあ他人の事はどうでもいい)。
推理小説みたいな書かれ方で、読んでいて一種の痛快さがある。冗長でイギリス的ユーモア満載の「キリスト教の精髄」よりこっちの方が歯切れはいいかも…?(まあ、C・S・ルイスは米国でも人気なのだが)
▽そのあたりをまとめた
「不可能な物を除外していって残った物が例えどんなに信じられなくても、それが真相なんだ」コナンの名言と『永遠の不在証明』
「作品のコードに乗りすぎでは?」問題もあるとは思うが…
ってか、作品に合わせて自分の世界観を変える必要、ある…?
という感じもするが、なんというか、それはもう【名探偵コナン】というコンテンツの強さと存在感への賛辞だと思ってくれてかまわない。また、冒頭でも触れたようにこれは【鬼滅の刃】などにも適応可能な話だと思っている。
つまり、広く親しまれるマンガ・アニメを楽しむ手段が増えるワケである。
大衆の感性に乗りたくはない、というのであればそれはそれでかまわないのだが、筆者が「不信の一時停止」という言葉を使っている意味も一応理解いただいたうえで採用するか不採用にするか考えてみてほしくはある。
あと考えられる批判(自己批判でもあるが)としては、最近の【名探偵コナン】が、名実共に「国民的マンガ・アニメ」の地位をほしいままにしている中、サブカルチャーの方程式を用いながら、比較的単純なナショナリズム精神の醸造に一役買っている感がある中(※)、
脱コード化の試みではなく自らコードに乗っかっていくというのもそれはそれでどうなの…と思わなくはない。
まあそれは別問題として今後の課題として考えたい。
一応、無自覚でコードに乗れるよりも自覚的にコードに乗るという選択をしている限りは、そのへんはまぁとりあえずは大丈夫なのではないかと思ってはいる。
ネット上でひととおり完結する「有神論的世界観とモラルの関係性」についての解説も紹介
一応、ネット上でひととおり完結するコンテンツも紹介してみる。
コメント欄でもけっこう熱い議論が酌み交わされていて面白いので、興味が向けばのぞいてみると楽しいかもしれない。筆者はすでに有神論的世界観で世界を解釈する事を己に許しているが、そうでなかった時代にこのような動画を観たら何を思っただろう?みたいなことを考える。
筆者自身は有神論的世界観+イエスがメシア(キリストであり、神の位格のひとつを有している)であるということも信じているキリスト教徒なので、有神論的世界観のみが筆者の宗教観を十分に説明するものではないのだが、【名探偵コナン】と化学反応を起こした部分に関してはこの有神論的世界観の部分だが主だろう、と思ったのでこのコラムではここまでの言及にしておく。
筆者にとって、一神教(キリスト教)の世界観は、物語の読みを芳醇にしてくれ、また、社会生活の支えにもなっていると日々実感する。
もし、これを読んでいるあなたが、何か現状を変えたいと願いつつ有神論的世界観についてまだ考えたことがないなら、人生の変化の一歩として選択肢に入れてくだされば幸いである。