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【更新】牧師直伝・るろうに剣心とカインの共通点(4/26更新)

聖書の「あのエピソード」のホントのトコロ、「あの人物」のリアルを知りたい…

こんなことを考えたことがある方も
いらっしゃるのではないでしょうか。

聖書のあのエピソード、「ホントのトコロ」を知りたい。

 

聖書は世界で一番読まれている本ですし、
とくに創世神話の部分は「世界最古の神話」が
もとになっていると言われています。(

しかし「なぜこんな話がまかり通るのか」
といった不思議な(理不尽な)
エピソードも少なくありません。

 

「神が全知全能なら、人間が自分の言うことを聞くようにしなかったの?」

「なんで神はカインのささげものを受け入れなかったの?」

「ソドムとゴモラに住んでいた人たちが滅ぼされたのはなんで?」

「ユダは裏切り者として生きる運命だったの?そんなの理不尽じゃない?」

聖書の物語は、登場人物そのものを掘り下げて書くことにあまり関心がない。

関心の中心はドラマ的出来事にあり、登場人物はと言えば普通、彼らを超越するプロットの側面にすぎない。聖書の中で最も強烈な個性をもって描かれる登場人物であっても、プロットに従属している。

(引用:J.L.スカ/佐久間勤・石原良明訳「聖書の物語論的読み方―新たな解釈へのアプローチ」pp.159~160)

 

 ここまで読んで残念な気持ちになった方に

朗報です!

実は、信仰を持つと
「聖書に書かれたできごとのホントのトコロ」
を知ることができるのです。

なぜなら、「原作者に会える」から。

聖書の原作者に会えたら

『現代に残っていない、聖書のホントのトコロ』

を知ることができてしまいます!

一神教において、
聖書の原作者は「聖書の神」だとされています。(※1)

聖書の聖書たるゆえんはまったくこの一事にあります。

人が書いたものではありまするが、人が自分で書いたものではありません。神の霊が人の霊にくだって、人をして自由に書かせたものであります。

(内村鑑三)

(※1)1,600年以上にわたって、40人以上のさまざまな立場の著者が記したにもかかわらず、統一性があるため。

 

それってつまり、ユダヤ教徒かキリスト教徒かイスラム教徒(※2)になるってこと?

(※2)聖書を土台とするおもな宗教

いやいやいや、「一神教」って時点で日本人としてはありえないから…。

食事制限とか、厳しい戒律とかイヤだし。

家の宗教は仏教だし…いや、神棚もあるし神道かな?

ヘブライ語とかアラビア語を勉強しなきゃダメとかじゃないの?

 

いいえ、
ご安心ください!

キリスト教は

※当ページ中の指す「キリスト教」はプロテスタント福音派の特色を反映してします。

 

 


ご存じでしたか?

キリスト教は、日本では少数派ですが
世界では「信じる人が一番多い宗教」なのです!

 

社会的・経済的なグローバル化の現代では
キリスト教信仰に理解を深めることは
決して損なことではありません。

そして何より、聡いみなさんはお気づきのこととは思いますが「聖書のホントのトコロ」を知るには「聖書の神を信じる」しか道がありません。

 

【理由①】
無神論や唯物論ならば、自然科学で計測できない死後の世界は存在しないため、「聖書のホントのトコロ」を知るのは不可能。
(タイムマシンがあり、聖書の時代に行くことができる場合を除く)

【理由②】
もし「聖書の神は『この世界の創造主』ではなく、人間の生前・死後の魂に関与できる神は他にもいる」という考えの場合、聖書の記載内容の信頼度が下がり、個別エピソードの正確さが保証できないため。
(聖書では『天地の創り主、全能の父なる神』と書かれているため)

 

キリスト教信仰を持てば、
聖書の神に「聖書のあのエピソードのホントのトコロ」
を聞くことができちゃうし

キリスト教信仰を持たないならば、
聖書はそもそも「正しくない」ことを認めることになり
「聖書のエピソードのホントのトコロ」という考え方そのものが
あいまいになってしまいます。

 

 

「聖書に書かれてることが嘘か本当かわかるなら知りたいし、本当ならあのエピソードのホントのトコロが知りたい」
というモヤモヤした気持ちで過ごすよりも、「時が来ればわかるんだ!」という希望を持ってみるのはどうでしょうか?

 

 


※ 黒歴史もあります

そもそも、信じたら「聖書の神」に会えるの?

会えたとして、その聖書の神さまってやつが、私に「聖書のエピソードのホントのトコロ」を教えてくれる保証はあるの?

ラビ―ちゃん
ラビ―ちゃん

ご安心ください!

キリスト教信仰には、人間は最終的に「神の国(神の支配が行き届いた時間や時空を超えたところ)に入る」という考え方があります。

(※自由主義神学を除く)

キリスト教信仰には、
この世界でのメリットもありますが
それらは「添えて与えられるもの」です。

その根幹は、あくまで宗教的なもの。
「神の国に入る」のも聖書の神を信じた結果
として与えられるとされています。

 

神の御国は福音書に頻繁に出てきます。(例えば、マルコ1:15;10:15;15:43;ルカ17:20)新約聖書のほかの箇所にも。(使徒伝28:31;ローマ14:17;1コリント15:50)神の御国は天の御国と類義語です。神の御国の考えには様々な聖書箇所で違った色合いの意味になります。

(引用:Got Questions「神の御国とは何?」より)

つまり現代を生きる私たちがとても信じられないようなことが起こると考えているのがキリスト教であるわけです。

聖書

わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。

(口語訳/コリント人への第一の手紙 13章12節)

 

神の国は(肉体の死後も)、聖書では
「神の支配が行き届いたところ」と考えられます。

神の支配が行き届いているのですから、
「聖書のあのエピソードのリアル」
を知れない道理はないはずです。

また、キリスト教では現在の
「ふしぎなできごと」も否定されていません。

ファティマの聖母は、ポルトガルの小さな町ファティマで起きた、カトリック教会が公認している、聖母の出現の一つ。ローマ教皇庁は奇跡として公に認めたが、第三の予言は長年にわたり秘匿した。何万もの群衆を前に太陽が狂ったように回転して見えたり、水源のないところから水が湧き、飲む者に奇跡的な治癒があったりしたことから、1930年10月13日現地管区レイリア司教によってこの出現は公認され、同年教皇ピオ12世は同地に巡礼する者への贖宥(免償)を宣言した。1967年には教皇庁により最初の聖母の出現のあった5月13日がファティマの記念日に制定され、歴代ローマ教皇が巡礼に訪れたり、この出現のメッセージに基づき世界の奉献を行った。

(出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)『ファティマの聖母』項

世界には、イエス・キリストの夢を見て信仰を持つ人が多くいる。エジプトでは、キリスト教を憎むあまり、キリスト教に改宗したいとこを殺す計画を立てていた、あるイスラム教徒の男性が、イエスの夢を見たことで、自身もキリストを信じる者に変えられた。

キリスト教迫害監視団体「米国オープン・ドアーズ」(英語)によると、元イスラム教徒のモスタファさんは、キリスト教に改宗したいとこのモハンマドさんを殺すつもりで、首都カイロに向かった。

(引用:クリスチャントゥデイ「イエスの夢を見て救われる人々」 親戚の殺害考えていたイスラム教徒、中国のシャーマン、IS戦闘員)

 

望むならば、私たちが生きている間に
「聖書のあのエピソードのホントのトコロ」が
啓示される可能性もあるワケです。

 

聖書

わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

(口語訳/ローマ人への手紙 8章38節)

 

食事制限とか、厳しい戒律とか守らなきゃいけないイメージだし、そういうの家の宗教が違うから心配。

ラビ―ちゃん
ラビ―ちゃん

ご安心ください!

①キリスト教は「信仰義認」です。
②日本は「日本国憲法第20条」で信教の自由を規定している国です。

 

キリスト教の特徴のひとつが
「人は信仰によってのみ救われる」
という教義です。(※)

(※)当ページ中の指す「キリスト教」はプロテスタント福音派の特色を反映してします。

 

聖書

あなたがたが救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。

(口語訳/エペソ人への手紙 2章8節)

聖書

そこでイエスは言われた、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」

(口語訳/ルカによる福音書 18章42節)

聖書

わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。(中略)御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。(中略)すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。

(口語訳/ガラテヤ人への手紙 3章2節〜5節)

そこでイエスは言われた。「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。(マルコによる福音書 10章52節)

しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心していきなさい」。(ルカによる福音書 7章50節)

イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心していきなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。(マルコによる福音書 5章34節)

あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。(ガラテヤ人への手紙 3章26節)

いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら「信仰による義人は生きる」からである。律法は信仰に基づいているものではない。(ガラテヤ人への手紙 3章10節〜12節)

わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。(ガラテヤ人への手紙 5章5〜6節)

 

この神様の驚くべき目的とご計画の中で、神の永遠の御国の中に入れられるために神様が罪人たちに良い行いをお求めになる様子がどこにあるでしょうか。罪人がその罪の代価を支払うために教会で奉仕をしたり、教会にお金を支払ったりする様子がどこにあるでしょうか。そしてさらに、罪人が自らの力で、神の御前に自分の地位を高めるような姿があるでしょうか。もし皆さんが、あなたの救い主であるイエス・キリストの血によって贖われた神の子どもであるなら、これらの答えを既に知っているはずです。皆さんは、かつては罪の中に死んでいた者たちですが、ただ神の恵みによってのみ、神のものとなったのです。神の御国に入るために、皆さんが何かを支払ったのではなく、神様がその代価をあなたのために支払ってくださったのです。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのだ」からです。

(引用:「恵みによってのみ救われる」説教者: チャールズ・W・リーチ牧師)

 

「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」とあります。「ユダヤ人にもギリシア人にも」ということですが、これはユダヤ人は旧約以来の神の民ですが、ギリシャ人は聖書の言葉で言えば「異邦人」です。旧約においては決して救われることのない人々です。しかし、福音はユダヤ人もギリシャ人も区別しない。その人が信じるなら、信じる者すべてを救う神の力なのです。福音は神の力です。思想や哲学や教えといったものではない。神の力なのです。
 神の力とは、実際にそのようにすることが出来るし、そうするということです。ユダヤ人もギリシャ人も関係ない。律法を知っているかどうか、律法を守っているかどうか、そんなことも関係ない。つまり、良い行いを為しているかどうかは、自分が救われるということには何の関係もないのだ。ただ信じることによって、ただ信仰によって救われるのだ。ルターは、自分が神様の力によって、天と地のすべてを造られた全能の神様の力によって、救われることになっている。救われている。そのことを歓喜をもって受け取ることが出来たのです。罪人さえも救う神の力。それこそが、愛する独り子を十字架に架けてまで罪人を救おうとされた絶対的救いの力、絶対の愛なのです。この神様の、絶対的救いの力、絶対の救いの意志、絶対的な愛の前には、その人間がどんな者であるかなどということは五十歩百歩の違いであって、全く意味がないのです。大切なのは、神様の愛を、力を、受け取る信仰だけです。

(引用:「ただ信仰によって救われる」日本キリスト教団富山鹿島町教会礼拝説教小堀 康彦牧師 要旨)

ここまで「キリスト教は信仰義認である」ことの論証

つまり、キリスト教信仰を持つことは
「なにか具体的な行為」と必ずしも結びつかないので、
文化的な摩擦も少なくてすむことが期待できます。

 

日本国憲法には「第二十条信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」と書かれてあります。

第二十条信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

(引用:「日本国憲法第20条」電子政府の総合窓口得e-gov

解釈
「信教の自由」には、以下の点が挙げられる。
内心における宗教上の信仰の自由 – 特定の宗教を信じる自由、信仰を変える自由、宗教を信じない自由。
宗教的行為の自由 – 礼拝、祈祷、その他の宗教上の行為、祝典、儀式または行事を行い、参加し、もしくはこうした行為を行わない自由、布教の自由。
宗教上の結社の自由 – 宗教団体を設立し、加入する自由、活動する自由、または加入せず活動しない自由[1][2]

(引用:Wikipedia「日本国憲法第20条」頁より)

もし、これを読まれているあなたが「憲法20条改憲こそ日本の是だ」と考えている方でしたら申し訳ありません。現状の話しをしていることをご了承ください。

確かに、日本のキリスト教は
「明治に禁教令が説かれたと思ったら、
第二次世界大戦中また弾圧された」
という不遇の歴史を持っています。

日本は「公的な決まり事うんぬんよりも”空気”を大事にする」といった国民性が強い(とよく言われている気がする)ため、

ほんのつい最近まで弾圧対象だったキリスト教が、”空気”を大事にする日本で盛況でないのは別段おかしなことではありません。

ですので、時代が逆行しない以上は、
日本において信教の自由は問題ないはずです。

余談ですが、この記事のライターの実家はお寺で、父親と兄は僧侶です。

無宗教だった俺がクリスチャンになるまで(wattleとひろびろの交換日記)

無宗教からキリスト教へ(北本福音キリスト教会 遠藤 浩範)

ここまでゆかいな仲間たちの紹介

もちろん、現在の日本人の多くが
「公的な決まり事よりも空気を大事にする」
以上、あなたの身内の方が
「公的な決まり事よりも空気を大事にする」
可能性もあります。

そういった場合には、
あなたがキリスト教信仰を持つことで
精神的に責められたりすることもあるかもしれません。

当初の目的を思い出して、あなたの中にある「聖書のエピソードのホントのところを知りたい」という願いとの天秤にかけて考えてくださればと思います。

 


なんか壮大なハナシになってきたぞ?

ラビ―ちゃん
ラビ―ちゃん

ご安心ください!

「すぐ信じた」人もけっこういます。信じる信じないはあなたの意志ひとつ(※)なので、今すぐ信じることも不可能ではありません。

(※)このページは「神人協同説」に立つ信仰の人間が書いています。

 

聖書

すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。

(口語訳/ローマ人への手紙10:9)

 

「神は存在するか、しないか。きみはどちらに賭ける?
― いや、どちらかを選べということがまちがっている。正しいのは賭けないことだ。
― そう。だが、賭けなければならない。君は船に乗り込んでいるのだから。」

(「パスカルの賭け」)

これを書いている人間は、
確かに「教会に足を踏み入れて5年くらい」
信じることができませんでした。
これを編集している人間は、
およそ27年信じることができませんでした。

しかし、日本人クリスチャンのなかには、
イエスの福音を聞いてすぐに信じた人も少なくありません。
時間は問題ではなさそうです。

また、今紹介した「パスカルの賭け」であるとおり、
神を信じることは『おりることはできないが、損のない賭け』なのです。

パスカルの賭けは、フランスの哲学者ブレーズ・パスカルが提案したもので、理性によって神の実在を決定できないとしても、神が実在することに賭けても失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増す、という考え方である。

(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

信じるのみでOK、かつ信じる損もないので、

すぐ信じても大丈夫!

もっと詳しく/

そんなことを考えてしまうあなたは、なかなかストイックな性格であるとお見受けします。これを書いている私のような生ぬるい人間の提案ではヤキモキしてしまうかもしれませんが、いくつか提案があります。

①当初の目的を思い出してみる→あくまで「聖書エピソードのホントのトコロを知りたい」が目的であるという点において話をすすめます。上述しましたが、『聖書の神を信じない』ならば、『聖書のエピソードはそもそも信頼できない』ので、「聖書エピソードのホントのトコロ」という考え方そのものが怪しくなります。「聖書エピソードは、そもそも意味のない虚構」という考え方をする場合にも同じことが言えます。

②一番ハードルが低いものからチャレンジしていく→キリスト教は「信じるのみでOKかつ信じる損もない宗教」なので、まず最初にトライしてみるものとして悪くないチョイスだと思います。

神の国では「後のものが先になる」そうです。つまり、「もう遅い」と感じているあなたほど優遇されてしまうのです。これを書いている私は、おそらく神の国ではあなたよりも後の者になります。正直うらやましくてくやしくて、夜しか寝れません。


 

J.R.R.トールキン

英国の文献学者・作家・詩人・イギリス陸軍軍人
代表作:「指輪物語」「ホビットの冒険」

「キリストの誕生」は、「人間」の歴史の「幸せな大詰め」でした。

「復活」は「神のキリストにおける顕現」の物語の「幸せな大詰め」でした。

この物語は喜びに始まり、喜びに終わります。

その「真実(リアリティ)の内部の調和」は傑出しています。

この物語よりも真実である、と人に考えられる物語はほかにありませんし、かくも多くの懐疑主義者が、その物語の価値によって、真実のものとして受け入れた物語もほかにありません。

(出典:「ファンタジーの世界ー妖精物語とは何かー」p.142)

 

C.S.ルイス

作家・キリスト教弁証論者・大学教授
代表作:「悪魔の手紙」「ナルニア国ものがたりシリーズ」

あなたが自分自身を求めるなら、あなたは結局、憎悪と孤独と絶望と怒りと破滅と腐朽とを見出すだけであろう。

しかし、あなたがキリストを求めるなら、あなたはキリストを見出し、そのおまけとして、万物をも見出すのである。

(出典:新教出版社/柳生直行訳/キリスト教の精髄pp.399~340)

 

H.C.アンデルセン

デンマークの代表的な童話作家・詩人
代表作:「人魚姫」「みにくいアヒルの子」「マッチ売りの少女」「雪の女王」他多数

私の生涯の物語は、『すべてを最善に導く、愛なる神がいまし給う』と私に語りかけている世界と言えよう

引用:「日本児童文学学会編集 アンデルセン研究 『人間として、童話詩人としてのH・C・アンデルセン』」ゲオルグ・ブランデス/鈴木徹郎訳 pp.299~300)

 

ウォルト・ディズニー

アニメーター・プロデューサー・映画監督・脚本家・漫画家・声優・実業家エンターテイナー

私は、宗教の有益性や人の生き方に持つ強力な影響力を堅く信じています。

人生の嵐やストレスに呑(の)み込まれそうなとき、それは計り知れないほどの助けを与え、神の思いに導いてくれます。神の思いなしには、私たちは滅びるでしょう。

(引用:CHRISTIANITY TODAY ミッキーマウスを創った男 ウォルト・ディズニーの信仰と祈り前編)

 

ウォルト・ディズニー

アニメーター・プロデューサー・映画監督・脚本家・漫画家・声優・実業家エンターテイナー

私がまだ幼い頃から、神に信頼してインスピレーションが与えられることを祈るように、両親は教えてくれました。

そのことに私は感謝しています。宗教が日常生活で果たすべき役割について、言葉ではなく行動で示すことを私は心がけています。

(元が寓話であれ実話であれ)それぞれの作品において、最高の道徳観や価値観を表現することを常に意識してきました。

…聖句についての学びから、そして私の子ども向けエンターテイメント業界でのキャリアを通して、私はその重要性を教えられたのです。

私がこれまで、すべての年齢層の観客に対して、スクリーンで深みのあるエンターテイメントを提供することができた秘訣の大部分は、会衆派信徒としての生い立ち、そして祈る習慣を続けてきたことによります。

(引用:CHRISTIANITY TODAY ミッキーマウスを創った男 ウォルト・ディズニーの信仰と祈り後編)

 

内村鑑三

日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者

私たちは神から万を受けて一を返上することもできない。

神は与えるもので、私は受けるものである。

神は恵むもので、私は恵まれるものである。

神は愛するもので、私は愛されるものである。

(引用:内村鑑三ボット

 

加藤一二三

将棋棋士

…「世の中の人の役に立つ人間にしてください」という祈りでした。神さまはすべてご存じだから、「名人にならせてください」とか「ずっと勝たせてください」とかではなく、そういうお願いをしました。

今改めて思ったんですが、お願いしていてよかったと思いますよ。

そのお願いが今実現しつつあると思っていますから。

(出典:【イースター特別対談】 加藤一二三九段×片柳弘史神父 棋士として信仰者として 2018年4月1日

 

結城浩

プログラマ・数学者
代表作「数学ガール」

私たちがこの世での命を失うとき…それはきっと孤独なときかもしれません。

自分がこの世で築いた家庭、財産、地位、知識、経験、…をいったんすべて 手から離さなければならないからです。

つまり、自分の死に際し、この世のものは何一つ、 自分を助けてはくれないのです。 その孤独の一瞬。

強い御手であなたを死から命へ引き上げてくださるのは、誰ですか。

そのようなことができるのは、神さまだけなのです。

(引用:「イエスさまを信じたいが、どうしたらいいかわからない人のために」)

 

山本芳久

哲学者倫理学者・東京大学大学院総合文化研究科准教授

「死者の復活」といういかにもありえそうにないことが基盤になっているところに、キリスト教のキリスト教らしさがあります。

旧約聖書以来、「神」は、常に、いかにも希望がありえそうにないところに、ぎりぎりのところで希望をもたらす、計り知れない力を持った存在として描き続けられてきたからです。

(引用:山本芳久Twitterより

 

横田早紀江

北朝鮮による拉致被害者の家族

私は裸で母の胎からでた。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。(旧約聖書 ヨブ記1章21節)

人の生も死も、必然的に訪れるものである奇しさを日ごろから考えていましたが、この言葉は何と深いのでしょう。

私は、真面目に育てられたことを良しとしていましたが、そこには神の、それも八百万の神ではなく見えない真実の神の存在が、関わっていることを知ったのでした。

始めて深呼吸ができ、久しぶりに空気がおいしく思えました。

(出典:「20年にわたる主の試みと恵み」中野島キリスト教会ホームページ)

 


人の心のよろこびや幸せ、といったことが
おいてけぼりにされがちなこの現代日本で、
「聖書」というマイノリティな書物を読み、
それに「何か」を感じ取っている時点で、
あなたは神さまから選ばれている存在であるのだと、
私はそう思います。

この「損のない賭け」に賭けてみませんか。