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【更新】天草四郎伝説の沼に足つっこみはじめた(2月更新)

「聖書は作り話か」とか「カインとアベルの話、神が悪い」「ユダは本当に裏切り者だったのか」とかの真実を知るには

聖書の神って、全知全能とかいう設定のくせにいきなりバグ発生させるし、理不尽なこと多くない?

…という想いを抱いたことがある方も
少なくないのではないでしょうか。

 

そう、聖書は世界で一番読まれている本ですし、
とくに創世神話の部分は「世界最古の神話」が
もとになっていると言われています。(

しかし「なぜこんな話がまかり通るのか」
といった不思議な(理不尽な)
エピソードも少なくありません。

 

「神が全知全能なら、人間が自分の言うことを聞くようにしなかったの?」

「なんで神はカインのささげものを受け入れなかったの?神、悪くない?」

「『リリス』は本当に存在しなかったの?

「ソドムとゴモラに住んでいた人たちが滅ぼされたのはなんで?」

「ユダは裏切り者として生きる運命だったの?そんなの理不尽じゃない?」

聖書の物語は、登場人物そのものを掘り下げて書くことにあまり関心がない。

関心の中心はドラマ的出来事にあり、登場人物はと言えば普通、彼らを超越するプロットの側面にすぎない。聖書の中で最も強烈な個性をもって描かれる登場人物であっても、プロットに従属している。

(引用:J.L.スカ/佐久間勤・石原良明訳「聖書の物語論的読み方―新たな解釈へのアプローチ」pp.159~160)

 

 ここまで読んで残念な気持ちになった方に

朗報です!

実は、聖書の神を信じると、
「聖書に書かれたできごとのホントのトコロ」
を知ることができる…のです!

なぜなら、「原作者に会える」と信じるのがキリスト教信仰(一神教)の世界観だから。

聖書の原作者に会えたなら、

『現代に残っていない、聖書のホントのトコロ』

『なぜ神はこんなに理不尽なのか?』

『なぜ神はあのタイミングでこんなことをおこしたのか?』

といったモヤモヤに決着をつけることができる率がグンと上がります。

一神教において、
聖書の原作者は「聖書の神」だとされています。(※1)

聖書の聖書たるゆえんはまったくこの一事にあります。

人が書いたものではありまするが、人が自分で書いたものではありません。神の霊が人の霊にくだって、人をして自由に書かせたものであります。

(内村鑑三)

(※1)1,600年以上にわたって、40人以上のさまざまな立場の著者が記したにもかかわらず、統一性があるため。

 

それってつまり、ユダヤ教徒かキリスト教徒かイスラム教徒(※2)になるってこと?

(※2)聖書を土台とするおもな宗教

いやいやいや、神なんて「人間が作りだした観念」でしょ?

聖書に書かれてあることが人間の創作だったら、信じたら会えるっていうのも作り話じゃん。

ってか「一神教」って時点で日本人としてはありえないし…。

食事制限とか、厳しい戒律とかイヤだし。

家の宗教は仏教だし…いや、神棚もあるし神道かな?

ヘブライ語とかアラビア語を勉強しなきゃダメとかじゃないの?

っていうか、その前に色々話がかみ合ってない気がするんだけど…

 

そうかもしれません。でも、
もう少し話を聞いてください!

キリスト教は

※当ページ中の指す「キリスト教」はプロテスタント福音派の特色を反映してします。

 

ですので、もしあなたが「の既存の世界観で生きることよりも、未知の世界を知りたい」と願われるのでしたら…

「聖書の神を信じてみる」ということは、決して悪くない選択肢を私たちに与えてくれる…ハズです。

 


ご存じでしたか?

キリスト教は、日本では少数派ですが
世界では「信じる人が一番多い宗教」なのです。

画像:港区「世界の宗教」より

 

昨今では、信者数でいうとイスラム教に人数が抜かれているとかいないとかだそうですが、
どのみちアブラハム宗教ですので、
イスラム教を知る過程でもキリスト教のことは
目配せしておいて損はならないと思われます。

そう、社会的・経済的なグローバル化の現代では
キリスト教信仰に理解を深めることは
決して損なことではありません。

そして何より、聡いみなさんはお気づきのこととは思いますが「聖書のホントのトコロ」を知るには「聖書に記述されている神を、自身の魂のよりどころとして信じる」しか道がありません。

 

【理由①】
 「聖書に描き出されている神像は人間の創作」と考える場合、(聖書は「聖書の神」について書かれたものであり、聖書の神は『真実な方』であると自認している記述が多々ある故)「聖書のエピソードにホントのトコロもクソもない」となるため。
 また、唯物論的世界観(「神」「人間の魂」「死後の世界」といったものは存在しないという立場)で生きる場合には、聖書の記述などはもはや解明しようもない分野であり、結局知りようがなくなるため。というか、こういう形而上の話とかに興味がない方はそもそもこんなトピック気にならないです…よね…?

(例外)…「特性の解釈に依らず、『歴史』なるものを把握できる」場合。ただし、「歴史とは、すべての事象を何かのストーリーに落とし込んだもの』であり、その時点で何かひとつの解釈が乗せて把握せざるを得ない性質のものであるので、「特定の解釈に依らず歴史の把握」は人間である以上基本的にはできないと考えられる。

【理由②】
もし「聖書の神は『この世界の創造主』ではなく、人間の生前・死後の魂に関与できる神は他にもいる」「聖書に書かれている物語及びその神像は、一方の解釈によって切り出されたもの」という考えの場合、聖書の記載内容の信頼度が下がり、個別エピソードの正確さが保証できないため。
(聖書では、聖書の神が『この世界にあるものすべての創り主であり、全能』であるとか『わたしのほかに真の神はいない』と、そのへんに関してはかなりシビアな世界観なため)

 

キリスト教信仰を持てば、
聖書の神に「聖書のあのエピソードのホントのトコロ」
を聞くことができちゃうし、

(キリスト教の言う「天国(神の国)」というところではどういった人間の営みが行われるかは、聖書の記述から少々うかがい知れることはできるとされていますが、[そもそも人間の認知能力というのは限度があって、Aという事象を観た私と貴方がAという事象に対して同じ解釈をほどこすとは限らず、かつそれを共有する際にも何かしらの齟齬は起きるだろうなと思うので]たとえ「天国(神の国)」というのがどんな場所であっても、少なくとも聖書の神というのは私たちが望むものを一番いい形で与えてくれる存在であるとするのがキリスト教なので、そういう感じで認識していただけるといいのかもしれません。こう言うとキリスト教徒たちの中でも意見が分かれそうですけど)

キリスト教信仰を持たないならば、
聖書の神の述べていることを
(何かしらのカタチの)偽りであるという信条の採用につながらざるを得ないので、
「聖書のエピソードのホントのトコロ」という考え方そのものが
あいまいになってしまいます。

 

 

「聖書に書かれてることが嘘か本当かわかるなら知りたいし、本当ならあのエピソードのホントのトコロが知りたい」
というモヤモヤした気持ちで過ごすよりも、「時が来ればわかるんだ!」という希望を持ってみるのはどうでしょうか?

 

 


※ 黒歴史もあります

そもそも、信じたら「聖書の神」に会えるの?

会えたとして、その聖書の神さまってやつが、私に「聖書のエピソードのホントのトコロ」を教えてくれる保証はあるの?

ラビ―ちゃん
ラビ―ちゃん

ご安心ください!

キリスト教信仰には、人間は最終的に「神の国(神の支配が行き届いた時間や時空を超えたところ)に入る」という考え方があります。

(※自由主義神学を除く)

キリスト教信仰には、
この世界でのメリットもありますが
それらは「添えて与えられるもの」です。

その根幹は、あくまで「救済宗教」的なもの。
「神の国に入る」のも聖書の神を信じた結果
として与えられるとされています。

 

神の御国は福音書に頻繁に出てきます。(例えば、マルコ1:15;10:15;15:43;ルカ17:20)新約聖書のほかの箇所にも。(使徒伝28:31;ローマ14:17;1コリント15:50)神の御国は天の御国と類義語です。神の御国の考えには様々な聖書箇所で違った色合いの意味になります。

(引用:Got Questions「神の御国とは何?」より)

つまり現代日本の多くの方が持っているとされる
唯物論的価値観からは
とても信じられないようなことが起こると考えているのが
キリスト教であるわけです。

聖書

わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。

(口語訳/コリント人への第一の手紙 13章12節)

 

神の国は(肉体の死後も)、聖書では
「神の支配が行き届いたところ」と考えられます。

神の支配が行き届いているのですから、
「聖書のあのエピソードのリアル」
を知れない道理はないはずです。

また、キリスト教では現在の
「ふしぎなできごと」も否定されていません。

ファティマの聖母は、ポルトガルの小さな町ファティマで起きた、カトリック教会が公認している、聖母の出現の一つ。ローマ教皇庁は奇跡として公に認めたが、第三の予言は長年にわたり秘匿した。何万もの群衆を前に太陽が狂ったように回転して見えたり、水源のないところから水が湧き、飲む者に奇跡的な治癒があったりしたことから、1930年10月13日現地管区レイリア司教によってこの出現は公認され、同年教皇ピオ12世は同地に巡礼する者への贖宥(免償)を宣言した。1967年には教皇庁により最初の聖母の出現のあった5月13日がファティマの記念日に制定され、歴代ローマ教皇が巡礼に訪れたり、この出現のメッセージに基づき世界の奉献を行った。

(出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)『ファティマの聖母』項

世界には、イエス・キリストの夢を見て信仰を持つ人が多くいる。エジプトでは、キリスト教を憎むあまり、キリスト教に改宗したいとこを殺す計画を立てていた、あるイスラム教徒の男性が、イエスの夢を見たことで、自身もキリストを信じる者に変えられた。

キリスト教迫害監視団体「米国オープン・ドアーズ」(英語)によると、元イスラム教徒のモスタファさんは、キリスト教に改宗したいとこのモハンマドさんを殺すつもりで、首都カイロに向かった。

(引用:クリスチャントゥデイ「イエスの夢を見て救われる人々」 親戚の殺害考えていたイスラム教徒、中国のシャーマン、IS戦闘員)

 

望むならば、私たちが生きている間に
「聖書のあのエピソードのホントのトコロ」が
啓示される可能性もあるワケです。

ただ、「唯物論的価値観からは想像できないことが起こると考えている」
ということに関して言えば
他の宗教にも同じことが言えますので、
そのほかのキリスト教の特徴について
追って述べてみます。

 

聖書

わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

(口語訳/ローマ人への手紙 8章38節)

 


食事制限とか、厳しい戒律とか守らなきゃいけないイメージだし、そういうの家の宗教が違うから心配。

ラビ―ちゃん
ラビ―ちゃん

ご安心ください!

①キリスト教(主にプロテスタント)は「信仰義認」と考えられています。
②日本は「日本国憲法第20条」で信教の自由を規定している国です。

 

キリスト教の特徴のひとつが
「人は信仰によってのみ救われる」
という教義です。(※)

(※)当ページ中の指す「キリスト教」はプロテスタント福音派の特色を反映してします。

 

聖書

あなたがたが救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。

(口語訳/エペソ人への手紙 2章8節)

聖書

そこでイエスは言われた、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」

(口語訳/ルカによる福音書 18章42節)

聖書

わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。(中略)御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。(中略)すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。

(口語訳/ガラテヤ人への手紙 3章2節〜5節)

 「クリスチャンになるというのは、何かの信条に従うことではありません。聖句を暗記することでもありませんし、時折、教会に行くことでもありません。クリスチャンになるとは、あなたの内にキリストを住まわせることです」

(ハーベスト・クリスチャン・フェローシップ/米カリフォルニア州の牧師レッグ・ローリー氏)

そこでイエスは言われた。「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。(マルコによる福音書 10章52節)

しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心していきなさい」。(ルカによる福音書 7章50節)

イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心していきなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。(マルコによる福音書 5章34節)

あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。(ガラテヤ人への手紙 3章26節)

いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら「信仰による義人は生きる」からである。律法は信仰に基づいているものではない。(ガラテヤ人への手紙 3章10節〜12節)

わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。(ガラテヤ人への手紙 5章5〜6節)

この神様の驚くべき目的とご計画の中で、神の永遠の御国の中に入れられるために神様が罪人たちに良い行いをお求めになる様子がどこにあるでしょうか。罪人がその罪の代価を支払うために教会で奉仕をしたり、教会にお金を支払ったりする様子がどこにあるでしょうか。そしてさらに、罪人が自らの力で、神の御前に自分の地位を高めるような姿があるでしょうか。もし皆さんが、あなたの救い主であるイエス・キリストの血によって贖われた神の子どもであるなら、これらの答えを既に知っているはずです。皆さんは、かつては罪の中に死んでいた者たちですが、ただ神の恵みによってのみ、神のものとなったのです。神の御国に入るために、皆さんが何かを支払ったのではなく、神様がその代価をあなたのために支払ってくださったのです。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのだ」からです。

(引用:「恵みによってのみ救われる」説教者: チャールズ・W・リーチ牧師)

 

「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」とあります。「ユダヤ人にもギリシア人にも」ということですが、これはユダヤ人は旧約以来の神の民ですが、ギリシャ人は聖書の言葉で言えば「異邦人」です。旧約においては決して救われることのない人々です。しかし、福音はユダヤ人もギリシャ人も区別しない。その人が信じるなら、信じる者すべてを救う神の力なのです。福音は神の力です。思想や哲学や教えといったものではない。神の力なのです。
 神の力とは、実際にそのようにすることが出来るし、そうするということです。ユダヤ人もギリシャ人も関係ない。律法を知っているかどうか、律法を守っているかどうか、そんなことも関係ない。つまり、良い行いを為しているかどうかは、自分が救われるということには何の関係もないのだ。ただ信じることによって、ただ信仰によって救われるのだ。ルターは、自分が神様の力によって、天と地のすべてを造られた全能の神様の力によって、救われることになっている。救われている。そのことを歓喜をもって受け取ることが出来たのです。罪人さえも救う神の力。それこそが、愛する独り子を十字架に架けてまで罪人を救おうとされた絶対的救いの力、絶対の愛なのです。この神様の、絶対的救いの力、絶対の救いの意志、絶対的な愛の前には、その人間がどんな者であるかなどということは五十歩百歩の違いであって、全く意味がないのです。大切なのは、神様の愛を、力を、受け取る信仰だけです。

(引用:「ただ信仰によって救われる」日本キリスト教団富山鹿島町教会礼拝説教小堀 康彦牧師 要旨)

厳密に言うとカトリックも正教会もちょっと違う神学を持っているのでここで説明しきるのは難しいですが…これを書いている人間はプロテスタントのこういうところが好きでプロテスタントを推しているので、ここではあくまで「信仰義認」をキリスト教のアイデンティティとして扱わせて頂きます。

ここまで「キリスト教は信仰義認である」ハナシ

つまり、キリスト教信仰を持つことは
「なにか具体的な行為」と必ずしも結びつかないので、
文化的な摩擦も少なくてすむことが期待できます。

日本の歴史を見ると、
キリスト教徒が信仰のゆえに仏壇の破壊など行った例もありますが、
現代の多くのキリスト教徒は少なくとも他人の所有物への破壊行為などは
行っていないのが実際
ですので、
そんなに激しい文化的な摩擦はないと考えてくださってよいのではないかと思います。

仮に、初めて足を踏み入れたキリスト教の共同体が
他人の所有物を損壊することを推すような共同体なのであれば、
それはちょっと珍しいケースだという事をご理解いただいた上で
そこで聖書・キリスト教信仰について知見を深めるかどうか
判断して頂くとよいのかなと思います。

ちなみに、他宗教の特徴

誰にでもわかるエルサレム問題ユダヤ教1(NPO法人 大本イスラエル・パレスチナ平和研究所)

イスラム教の基本、「六信五行」とは?(一般社団法人・ムスリム・プロフェッショナル・ジャパン協会)

 

日本国憲法には「第二十条信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」と書かれてあります。

第二十条信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

(引用:「日本国憲法第20条」電子政府の総合窓口得e-gov

解釈
「信教の自由」には、以下の点が挙げられる。
内心における宗教上の信仰の自由 – 特定の宗教を信じる自由、信仰を変える自由、宗教を信じない自由。
宗教的行為の自由 – 礼拝、祈祷、その他の宗教上の行為、祝典、儀式または行事を行い、参加し、もしくはこうした行為を行わない自由、布教の自由。
宗教上の結社の自由 – 宗教団体を設立し、加入する自由、活動する自由、または加入せず活動しない自由[1][2]

(引用:Wikipedia「日本国憲法第20条」頁より)

もし、これを読まれているあなたが「憲法20条改憲こそ日本の是だ」と考えている方でしたら申し訳ありません。現状の話しをしていることをご了承ください。

確かに、日本のキリスト教は
「明治に禁教令が説かれたと思ったら、
第二次世界大戦中また弾圧された」
という不遇の歴史を持っています。

日本は「公的な決まり事うんぬんよりも”空気”を大事にする」といった国民性が強い(とよく言われている気がする)ため、

ほんのつい最近まで弾圧対象だったキリスト教が、
”空気”を大事にする日本で盛況でないのは
別段おかしなことではない…という見方もあります。

とはいえ、近代日本では、
いわゆる「家の伝統宗教」よりも
新宗教を信じるようになった方々の数も
けっこう多いのが実際です。

キリスト教が新宗教に含まれるかどうかは、
(学問的な括りでは多くの場合含まれないとされていますが)
人によって見方が違うのですが、
「新宗教」の多くが
『(いわゆる)自然宗教ではなく救済宗教的な教義の宗教である』
ようなので、では救済宗教の中では伝統的な
キリスト教をその選択肢に入れるのは
別段おかしなことでもないと思われます。

(参考)「新宗教を問うー近代日本人と救いの信仰」島薗進/ちくま新書/2020年11月)

少なくとも、今の日本において、
自己の属していた共同体に縁のない宗教に己が帰依することに、法律的な制限はありません。

余談ですが、この記事のライターの実家はお寺で、父親と兄は僧侶です。

無宗教だった俺がクリスチャンになるまで(wattleとひろびろの交換日記)

無宗教からキリスト教へ(北本福音キリスト教会 遠藤 浩範)

ここまでゆかいな仲間たちの紹介

もちろん、現在の日本人の多くが
「公的な決まり事よりも空気を大事にする」
以上、あなたの身内の方が
「公的な決まり事よりも空気を大事にする」
可能性もあります。

そういった場合には、
あなたがキリスト教信仰を持つことで
精神的に責められたりすることもあるかもしれません。

当初の目的を思い出して、あなたの中にある「聖書のエピソードのホントのところを知りたい」という願いとの天秤にかけて考えてくださればと思います。

 


なんか壮大なハナシになってきたぞ?

ラビ―ちゃん
ラビ―ちゃん

ご安心ください!

「すぐ信じた」人もけっこういます。信じる信じないはあなたの意志ひとつ(※)なので、今すぐ信じることも不可能ではありません。

(※)このページは「神人協同説」に立つ信仰の人間が書いています。

 

聖書

すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。

(口語訳/ローマ人への手紙10:9)

 

「神は存在するか、しないか。きみはどちらに賭ける?
― いや、どちらかを選べということがまちがっている。正しいのは賭けないことだ。
― そう。だが、賭けなければならない。君は船に乗り込んでいるのだから。」

(「パスカルの賭け」)

これを書いている人間は、
確かに「教会に足を踏み入れて5年くらい」
信じることができませんでした。
これを編集している人間は、
およそ27年信じることができませんでした。

しかし、日本人クリスチャンのなかには、
イエスの福音を聞いてすぐに信じた人も少なくありません。
時間は問題ではなさそうです。

また、いま紹介した「パスカルの賭け」では
神を信じることは『生きている限りおりることはできないが、損のない賭け』だと言われています。

パスカルの賭け

パスカルの賭けは、フランスの哲学者ブレーズ・パスカルが提案したもので、理性によって神の実在を決定できないとしても、神が実在することに賭けても失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増す、という考え方である。

(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

私には、キリスト教をほんとうだと信じることによってまちがうよりも、まちがった上で、キリスト教がほんとうであることを発見するほうが、ずっと恐ろしいだろう。

(引用:パスカル「パンセⅠ」二四一/ラ387/前田陽一・由木康訳/中央公論新社p.185)


くり返しになりますが、

聖書の神の存在も、その神が人間の魂に影響を及ぼすこともとくに信じない

ということは

聖書は虚構である


という信念の採用と結びついてしまうのがキリスト教の性質であります。
(聖書に描かれる神が自身が「全地の創り主」だとか「全能」だとか言い現わしているので…)

聖書が虚構であれば、
神だけでなく『アダムとイブ』『カインとアベル』『ソドムとゴモラ』
の存在うんぬんを気に掛ける必要はなくなりますし、
私たちの多くは死者と交信できる力も持っていませんので、
今は亡き人であるイスカリオテのユダのことなど、
知ることはできません。

けれど、聖書の神を信じるならば、
聖書の神は私たち人間にこれらを知る方法を与えると約束しているので、
ホントのトコロを知る確率が「信じない」よりも高くなります。


キリスト教は信仰義認でコストが低いし

信じておけば、ひと安心

そんな話がしてみたかったのです。

もっと詳しく/

ごもっともです。というのも、この話しは心理療法のブリーフセラピーの方法論「ソリューションフォーカス」の哲学にもとづいて構成してるから、という説があります。

ソリューション・フォーカスト・アプローチ(SFA)(Solution Focused Approach;解決志向アプローチ;解決志向短期療法)とは、 BFTC(Brief Family Therapy Center)で研究され、スティーブ・ド・シェイザー、インスー・キム・バーグを中心に開発された心理療法。ソリューション・フォーカスト・ブリーフ・セラピー(Solution Focused Brief Therapy)とも言う。解決志向アプローチなどと訳されている。短期療法(ブリーフセラピー)のひとつ。

従来の心理療法諸派とは異なり、原因の追究をせず、未来の解決像を構築していく点に特徴があり、結果的に短期間で望ましい変化が得られるとされている。

(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

ソリューションフォーカスというのは、名前の通り「解決型、未来志向のアプローチ」であり、今まで心理療法をけん引してきた哲学とは少し違う信念のアプローチです。とはいえ、ここでお話ししてきた事柄のような「そういうことじゃないんだ感」を与えるのがソリューションフォーカスアプローチだと思われるとソリューションフォーカスアプローチの採用者の方に迷惑をかけてしまいそうなのでちょっとだけ言い訳させていただくと…

質の高いソリューションフォーカスアプローチは「課題の再設定」という『悩みだと思っていたことが、本当はそれが問題なのではなかった』というところの洗い出しまで行い、そこで洗い出された真の課題解決を目指すもの…だと認識しています。「聖書の神って理不尽だよね」と思われる方の多くの場合、「聖書の神が理不尽かどうか本当に知りたいのではないのだろうな」と、いうのは、私も一応わかってはいるつもりです。

楽天のページみたいなノリでキリスト教の話をしてみたかった…という願望が先行したコンテンツでしたので、いろいろと突っ込みどころはあるかと思います。ここまでお付き合いくださった方には本当に感謝です。

「われわれは、獣も人間も、トルコ人もキリスト者も、同じように死んだり生きたりしているのを見るではないか。彼らもわれわれと同じように、彼らの儀式、彼らの預言者、彼らの博士、彼らの聖者、彼らの修道士を持っている。」

 これは聖書に反するのであろうか。聖書はこれらすべてのことを言っているのではないか。

(引用:パスカル「パンセⅠ」二二六/ラ150/前田陽一・由木康訳/中央公論新社p.168)

キリスト教に損がないならみんな信じてるじゃん。みんな信じてないってことは、ウラがあるんでしょ

キリスト教(聖書)には、『人間は正しい判断を下せなくなっている(原罪)』、また『終わりのときまで反キリストも存在する(ヨハネの黙示録)』旨が書かれているので、信じない存在がいなくなった方が聖書の記述が矛盾してることになる…という考え方もあります。

というように、ガバガバなように思えて意外とスキがないのが聖書とかキリスト教の信仰体系だったりします。色々言ってしまっていますが、信じる信じないは別として、もし興味が出たらちょっとのぞいてくださるとうれしみ深しです。

わかります。不安ですよね。

ただ、現代の日本においては、宗教的じゃない風をよそおって私たちの心に忍び込んで縛ってくるモノは、けっこうたくさんあるといわれています。(わかりやすい例としては、少数の霊能力者に判断を依り頼むスピリチュアリズム、マルチビジネス、広義にはルッキズムや人間性を顧みない資本主義など…でしょうか)

それらの違和感に気づくきっかけは「比較対象を持つこと」だと思います。比較対象として伝統宗教はおススメですし、そのなかでもキリスト教は『信仰義認』でコストが低いこと・世界的に有名なので知識として知っておくことが損にはならないこと・ユーザー数が多いため「これってどうなの?」と思ったことを聞ける人が多いこと(←これにはSNSの活用など、独自の判断が必要ではありますが)・教義が「教祖の霊感」などによらず「聖書」によるため「自分の目で確かめることができる」こと…などの点からも、初手におススメというのがこのコラムライターの個人的な意見です。

※「異端・カルト110番」といった取り組みもあります。ご活用ください。

※「エホバの証人(ものみの塔)」「末日聖徒イエス・キリスト(モルモン教)」「統一教会(全国家庭統一連合)」「キリスト教福音宣教会(摂理)」などは『キリスト教を装ってはいるものの、キリスト教がキリスト教たる核心部分を共有しているワケではない宗教』ですので、あらかじめ知っておいていただくといいのかな…とは思います。

そんなことを考えてしまうあなたは、なかなかストイックな性格であるとお見受けします。これを書いている私のような生ぬるい人間の提案ではヤキモキしてしまうかもしれませんが、いくつか提案があります。

①当初の目的を思い出してみる→あくまで「聖書エピソードのホントのトコロを知りたい」が目的であるという点において話をすすめます。これが、あなたの真の課題ではない場合には読み飛ばしてください。

上述しましたが、『聖書の神を信じない』ならば、『聖書のエピソードはそもそも信頼できない』ので、「聖書エピソードのホントのトコロ」という考え方そのものが怪しくなります。「聖書エピソードは、そもそも意味のない虚構」という考え方をする場合にも同じことが言えます。

②一番ハードルが低いものからチャレンジしていく→キリスト教は「信じるのみでOKかつ信じる損もない宗教」なので、まず最初にトライしてみるものとして悪くないチョイスだと思います。

神の国では「後のものが先になる」そうです。つまり、「もう遅い」と感じているあなたほど優遇されてしまうのです。これを書いている私は、おそらく神の国ではあなたよりも後の者になります。正直うらやましいです。


 

J.R.R.トールキン

英国の文献学者・作家・詩人・イギリス陸軍軍人
代表作:「指輪物語」「ホビットの冒険」

「キリストの誕生」は、「人間」の歴史の「幸せな大詰め」でした。

「復活」は「神のキリストにおける顕現」の物語の「幸せな大詰め」でした。

この物語は喜びに始まり、喜びに終わります。

その「真実(リアリティ)の内部の調和」は傑出しています。

この物語よりも真実である、と人に考えられる物語はほかにありませんし、かくも多くの懐疑主義者が、その物語の価値によって、真実のものとして受け入れた物語もほかにありません。

(出典:「ファンタジーの世界ー妖精物語とは何かー」p.142)

 

C.S.ルイス

作家・キリスト教弁証論者・大学教授
代表作:「悪魔の手紙」「ナルニア国ものがたりシリーズ」

あなたが自分自身を求めるなら、あなたは結局、憎悪と孤独と絶望と怒りと破滅と腐朽とを見出すだけであろう。

しかし、あなたがキリストを求めるなら、あなたはキリストを見出し、そのおまけとして、万物をも見出すのである。

(出典:新教出版社/柳生直行訳/キリスト教の精髄pp.399~340)

 

H.C.アンデルセン

デンマークの代表的な童話作家・詩人
代表作:「人魚姫」「みにくいアヒルの子」「マッチ売りの少女」「雪の女王」他多数

私の生涯の物語は、『すべてを最善に導く、愛なる神がいまし給う』と私に語りかけている世界と言えよう

引用:「日本児童文学学会編集 アンデルセン研究 『人間として、童話詩人としてのH・C・アンデルセン』」ゲオルグ・ブランデス/鈴木徹郎訳 pp.299~300)

 

ウォルト・ディズニー

アニメーター・プロデューサー・映画監督・脚本家・漫画家・声優・実業家エンターテイナー

私は、宗教の有益性や人の生き方に持つ強力な影響力を堅く信じています。

人生の嵐やストレスに呑(の)み込まれそうなとき、それは計り知れないほどの助けを与え、神の思いに導いてくれます。神の思いなしには、私たちは滅びるでしょう。

(引用:CHRISTIANITY TODAY ミッキーマウスを創った男 ウォルト・ディズニーの信仰と祈り前編)

 

 

ブレーズ・パスカル

フランスの哲学者、自然哲学者、物理学者、思想家、数学者、キリスト教神学者、発明家、実業家
代表作:
「パスカルの定理」「パスカルの三角形」「確率論」の創始 サイクロイドの求積問題
「パスカルの原理」など

われわれは、ただイエス・キリストによってのみ神を知るばかりでなく、またイエス・キリストによってのみわれわれ自身を知る。われわれはイエス・キリストによってのみ生と死とを知る。イエス・キリストを離れて、われわれは、われわれの生、われわれの死、われわれの神、われわれ自身が何であるかを知らない。

 ゆえに、イエス・キリストのみを主題とする聖書がなければ、われわれは何も知らず、神の性質についてもわれわれ自身の本性についても、曖昧と混乱とを見るだけである。

(出典:パスカル「パンセⅠ」五四八/ラ417/前田陽一・由木康訳/中央公論新社p.377)

 

内村鑑三

日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者

私たちは神から万を受けて一を返上することもできない。

神は与えるもので、私は受けるものである。

神は恵むもので、私は恵まれるものである。

神は愛するもので、私は愛されるものである。

(引用:内村鑑三ボット

 

加藤一二三

将棋棋士

…「世の中の人の役に立つ人間にしてください」という祈りでした。神さまはすべてご存じだから、「名人にならせてください」とか「ずっと勝たせてください」とかではなく、そういうお願いをしました。

今改めて思ったんですが、お願いしていてよかったと思いますよ。

そのお願いが今実現しつつあると思っていますから。

(出典:【イースター特別対談】 加藤一二三九段×片柳弘史神父 棋士として信仰者として 2018年4月1日

 

結城浩

プログラマ・数学者
代表作「数学ガール」

私たちがこの世での命を失うとき…それはきっと孤独なときかもしれません。

自分がこの世で築いた家庭、財産、地位、知識、経験、…をいったんすべて 手から離さなければならないからです。

つまり、自分の死に際し、この世のものは何一つ、 自分を助けてはくれないのです。 その孤独の一瞬。

強い御手であなたを死から命へ引き上げてくださるのは、誰ですか。

そのようなことができるのは、神さまだけなのです。

(引用:「イエスさまを信じたいが、どうしたらいいかわからない人のために」)

 

山本芳久

哲学者倫理学者・東京大学大学院総合文化研究科准教授

「死者の復活」といういかにもありえそうにないことが基盤になっているところに、キリスト教のキリスト教らしさがあります。

旧約聖書以来、「神」は、常に、いかにも希望がありえそうにないところに、ぎりぎりのところで希望をもたらす、計り知れない力を持った存在として描き続けられてきたからです。

(引用:山本芳久Twitterより

 

横田早紀江

北朝鮮による拉致被害者の家族

私は裸で母の胎からでた。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。(旧約聖書 ヨブ記1章21節)

人の生も死も、必然的に訪れるものである奇しさを日ごろから考えていましたが、この言葉は何と深いのでしょう。

私は、真面目に育てられたことを良しとしていましたが、そこには神の、それも八百万の神ではなく見えない真実の神の存在が、関わっていることを知ったのでした。

始めて深呼吸ができ、久しぶりに空気がおいしく思えました。

(出典:「20年にわたる主の試みと恵み」中野島キリスト教会ホームページ)

 


人の心のよろこびや幸せ、といったことが
おいてけぼりにされがちなこの現代日本で、
「聖書」というマイノリティな書物を読み、
それに「何か」を感じ取っている時点で、
あなたは神さまから選ばれている存在であるのだと、
私はそう思います。

この「損のない賭け」に賭けてみませんか。