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【更新】天草四郎伝説の沼に足つっこみはじめた(2月更新)

イエスは十字架上で腰布を着けていたか?全裸だったか?論争~中世で白熱して決着がつかなかった受難史の問題~

カトリックのミサにあずからせていただく機会が増えました。

(当コラムライターは、プロテスタント・福音派の流れにあるキリスト教共同体に属しています。カトリックの御ミサには自発的に参加しているだけなので、キリスト教に縁のない方からすれば「身内が身内に丁寧語を使っている」ように見える言い回しかもしれません。スミマセン…。)

カトリック教会堂の最奥には、十字架に磔刑にされたイエス像がかかっています。

(イエス像がないカトリック教会もあるのかな?プロテスタントはシンプルな十字架だけの教会がほとんどですが…)

(↑こちらは、Youtubeで「カトリック教会」で調べて出てきたものです。)

そのイエス像を見て、こんなことを考えた日がありました。

十字架上のイエス像って腰布を着けてるけど、あれって公共性フィルターでそういう造詣が採用されているだけで、実は全裸だったとか…ありそうな話だよね…

…と。

まぁ、でもキリスト教のことだからどうせこういうことにも議論が交わされた歴史もあるだろうと思って、一回寝かせておきました。

しばらくして、ある書籍を読んでいたら、とりあえずのアンサーになりそうなくだりとめぐりあうことができました。インターネットの海にはそれらしい情報がなかったので、ここに投げておくこととします。

▽参考書籍

INRI餅作った

本題の前に:これは受難史の問題なのでほとんどの人にはどうでもいいトピック

イエスはいつ、なぜ、どのように衣服を脱がされたかは、明快な説明を要する受難史の問題であった。

クラウス・シュライナー著 内藤道雄訳「マリア 処女・母親・女主人」(法政大学出版局,2000年)p.96)

ということで、現代日本語圏を生きる方のほとんどが、既存のキリスト教徒およびアブラハム宗教の世界観を採用する必要のない方たちだと思うので、

どちらの意見も基本的にはみなさまには関係のない話だとは思いますことを、一応お断りしてから本題に入りたいと思います。

ほんで、2020年に公開されていた以下のようなブログを見てしまいました。

うーんん、日本語訳している書籍にこういう議論が掲載されている時点で「事実を隠匿」していたわけではないだろう…と思うのですが。

古本屋で普通に買えましたからね。なんならいろんな図書館にも蔵書されています(この本の主題がこの話はないということから、このトピックがこの本でのみ取り扱われているわけでもないのは明白ですしおすし)

もちろん「俺は神学的に全裸を支持する」という立場であれば、腰布着衣型の美術品や造形物に物申したくなるのはわかるのですが、文章の書き方からして腰布着衣主張派にも神学的な主張があることをご存じないまま言葉を紡がれてます…よ…ね…?

しかし、動画中にも言いましたが、誤植と先行研究は得てして公表してから出てくるもの、かと思いますので、この度はお疲れ様でした(合掌)。

論争が活発になったのは中世後期らしい。そして決着はついてない。

この話題に火の手があがる中世後期以前は、イエスの裸身は神学的メタファーであったそうで、「目指すべき姿」として考えられていたらしく、ある派の修道士たちは自分たちも裸になってイエスに従うという姿勢を見せていたそうです。(p.96)

エアフルトの隠修士ヨハネス・パルツ(1511年没)は、この話題についての賛否両論を紹介している(37)というので、以下、その両論を併記した意見を少しだけ整理して書いてみたいと思います。

イエス「全裸」支持の意見

イエス全裸支持派の主張

キリストが第二のアダムとして、最初のアダムの壊したものを元に回復したのなら、救済行為を支配する類似原則からいって、十字架上の全裸を支持するのは正しい。

酔って全裸で天幕のなかに横たわっていたノア(創世記9,21~23)もキリストの類型というなら、これまた十字架上のキリストが腰布をつけていなかったことの証拠になる。

(中略)

ただし、十字架上のイエスは両足を交差させ恥部を隠していた、というのが支配的な意見だ、…。

ツァンケンリート
ツァンケンリート

キリストは全裸にされ、陰部も丸見えとなる恰好で十字架にかけられた。奴隷が全裸で十字架にかけられる習慣であり、自発的に辱めを受けるキリストの姿は、このようにして極限にまで高められたのだッ!

参考:クラウス・シュライナー著 内藤道雄訳「マリア 処女・母親・女主人」(法政大学出版局,2000年)p.97-98

イエス「腰布」支持派の意見

イエス腰布着用支持派の主張

・敬虔な者たちは「腰に帯をしめている」(ルカ12・35)

・「祭壇に近づくものは裾着をつけよ」(出エジプト28・42)

・カンタベリーのアンセルムが見た幻覚の中で、イエスの母マリアが「イエスは腰の衣服をはぎ取られたが、マリアがスカーフでイエスの腰に巻いた」と語った。

などなど…

ヴィムプフェリング
ヴィムプフェリング

同情と愛とを喚起するのに、マリア他女性たちにキリストの裸身や陰部をさらす必要がどこにあろうか。(歴史上の救済的類似を通して証明しようとした)。そもそもこんな話題を説教で口にするのは不穏当だ。ラテン語なら聞き苦しくない言葉でもドイツ語なら品性の限度を超えてしまうッ!(…そしてその実例をいくつか挙げる…)

参考:クラウス・シュライナー著 内藤道雄訳「マリア 処女・母親・女主人」(法政大学出版局,2000年)p.97-99


このツァンケンリートとヴィムプフェリングという人たちは、1499年に直接対決しているらしいですが、この論争がその後学部総会で議決されることもなかったそうです。

…ということでした。いかがでしたか?

どっちからもアツい気持ちを感じますね。餅が焼けそう。

私は…「全裸」支持派かもしれない

当コラムライターは、「かつてネガティブに働いていた要素が、あとあとになって効いてきて、そこから大きな回復と慰めがもたらされる」という構成が好きで、キリスト教の世界観は常にそれを提示してくれているというのが私がキリスト教解釈です。

したがって、イエスの十字架上の苦しみや恥が大きいほど、私的にはエモみが増すので、そこから考えると「イエス全裸支持派」の意見の方が好み…ではあります。

たくみ
たくみ

ヴィムプフェリングに激オコされるヤツやん

そう、私は「イエスは完全に人間でもあり、だからこそ彼の苦しみは〈超越者の想定の範囲内〉では決してなかった」という解釈も持っているので、そう思うと『やっぱり腰布着けていてくれ…!尊厳…ッ尊厳守られていてくれ…ッ‼』と願う気持ちもあります。

ラビ―ちゃん
ラビ―ちゃん

めんどくさいオタクのめんどくさい部分刺激しちゃったな…

力尽きたのでこのコラムを終わります。

髑髏の丘で磔刑に処された男の声が聴きたくて、こんなところまで来てしまった………。(結びの句)