日本人にとってキリスト教はホラーかギャグとしてなら受け入れられる
→礼拝説教の場は、怪談の場、死者と生者が交流する場、牧師は怪談師(BY 遠升あきな)
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推理小説と怪談の差は謎の解決にあるといえる。ごく単純にいえば、作中で提示される謎を論理的に解決させれば推理小説、最後まで謎を継続させれば怪談である
原辰吉,「浪漫」としての怪異--横溝正史作品の人面瘡をめぐって』「怪異とミステリ」収録p.188
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最近の変格ミステリ」は怪異とミステリが融合している(例:「残穢」小野不由美,「Another」綾辻行人,「虚構推理」城平京 ETC…)
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キリスト教は「変格ミステリ」に接続可能
(「接続可能」の意味するところはもう少し解像度あげていく)
※これが「あたりまえ体操」な話なのかどうかすら判断できない。といっても、どういった属性の人間によっての「あたりまえ」なのかは明確にしておかなくてはならない、例えば少なくとも私の仕事先の同僚sさんとかにとってはあきらかにあたりまえではないし、そもそも「論じる価値のないトピック」であることは明白である。問題は「日本人にとってキリスト教はホラー」という意見に賛同できる人、あるいはそれについて考察したうえで否定する人たちにとってどれくらい納得感のあるはなしなのか、だろうか。)
めも
民話運動家と実話怪談師は、話の収集方法や話に向き合う態度、話の公開方法など類似点は多い。かつての民話運動との関係がそうだったように、口承文芸研究者は、実話怪談に目を向けなければいけない時期が来ているようだ。
伊藤龍平「怪談の仕掛け」p.242青弓社,2023年
飯倉義之「怪談と口承文芸学会編「口承文芸研究」第35号,白帝社,2021年にも指摘アリ
あらためて怪談を定義すると、「怖がらせたい語り手と、怖がりたい聞き手の二人以上の人間がいて、その内容がおおむね怪異現象にかかわる話」ということになる。
伊藤龍平「怪談の仕掛け」p.17 青弓社,2023年
実話怪談は未成であり、型をもたず、もう一歩で完成するというギリギリのところで型、物語への収斂を回避するのが実話怪談なのである。だから逆に、強烈に型や物語を意識させられる。実話怪談と破綻した怪談との相違はここにある。破綻した怪談の場合、足りないピースは一つや二つではない。完成状態を想像できるのが未成ということである。その際、欠けたピースがいくつまでなら実話怪談で、いくつ以上ならば破綻した怪談になるかは、個人差による。そして実話怪談に接した人は、型や物語を完成させるため、未成を完成に転じさせるため、語られていない部分を想像する。
伊藤龍平「怪談の仕掛け」p.234-235 青弓社,2023年
髑髏の丘で磔刑に処された男の声が聞きたくて、こんなところまで来てしまった~