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【更新】天草四郎伝説の沼に足つっこみはじめた(2月更新)

「日本人にとってキリスト教はホラー」…ならば『変格ミステリ』つなげられるんじゃ(メモ)

このページは基本的にすべてメモです。

「怪談キリスト教」

『日本人にとってキリスト教はホラーかギャグとしてなら受け入れられる』

→礼拝説教の場は、怪談の場、死者と生者が交流する場、牧師は怪談師(BY 遠升あきな

推理小説と怪談の差は謎の解決にあるといえる。ごく単純にいえば、作中で提示される謎を論理的に解決させれば推理小説、最後まで謎を継続させれば怪談である

原辰吉,「浪漫」としての怪異--横溝正史作品の人面瘡をめぐって』「怪異とミステリ」収録p.188

最近の「変格ミステリ」は怪異とミステリが融合している(例:「残穢」小野不由美,「Another」綾辻行人,「虚構推理」城平京 ETC…)

キリスト教は「変格ミステリ」に接続可能?(「接続可能」の意味するところはもう少し解像度あげていく)

※これが「あたりまえ体操」な話なのかどうかすら判断できない。といっても、どういった属性の人間によっての「あたりまえ」なのかは明確にしておかなくてはならない、とは思う。例えば少なくとも私の仕事先の同僚Sさんとかにとってはあきらかに当たり前ではないし、そもそも「論じる価値のないトピック」であることは明白である。問題は「日本人にとってキリスト教はホラーとしてなら受容可能」という意見に賛同できる人、あるいはそれについて考察したうえで否定する人たちにとってどれくらい納得感のあるはなしなのか、だろうか。

清涼院流水「神探偵イエス・キリストの冒険 The Adventures of God Detective」

っていうかそんなこと言ってるうちに「聖書ミステリー(?)」という作品が世に出たってばよ。

変格ミステリとキリスト教の融合の蓋然性が高いなら、清涼院流水氏の出したコチラのミステリは興味深い…のか?もしかして私は自分で生み出した幻影に囚われているだけかもしれない。

私自身はミステリ音痴を自覚しており、かつ聖書を読むタイプのプロテスタントキリスト教徒なので、読む動機がかなり薄くてまだ手にとってはいない。

(「どろどろの聖人伝」などは読んだ。勉強になった。)

感想を斜め読みすると、やっぱり聖書の入門書の系譜としてとらえる作品のようだ。

怪談の仕掛け、怪談とはなにか

民話運動家と実話怪談師は、話の収集方法や話に向き合う態度、話の公開方法など類似点は多い。かつての民話運動との関係がそうだったように、口承文芸研究者は、実話怪談に目を向けなければいけない時期が来ているようだ。

伊藤龍平「怪談の仕掛け」p.242青弓社,2023年

飯倉義之「怪談と口承文芸学会編「口承文芸研究」第35号,白帝社,2021年にも指摘アリ

あらためて怪談を定義すると、「怖がらせたい語り手と、怖がりたい聞き手の二人以上の人間がいて、その内容がおおむね怪異現象にかかわる話」ということになる。

伊藤龍平「怪談の仕掛け」p.17 青弓社,2023年

実話怪談は未成であり、型をもたず、もう一歩で完成するというギリギリのところで型、物語への収斂を回避するのが実話怪談なのである。だから逆に、強烈に型や物語を意識させられる。実話怪談と破綻した怪談との相違はここにある。破綻した怪談の場合、足りないピースは一つや二つではない。完成状態を想像できるのが未成ということである。その際、欠けたピースがいくつまでなら実話怪談で、いくつ以上ならば破綻した怪談になるかは、個人差による。そして実話怪談に接した人は、型や物語を完成させるため、未成を完成に転じさせるため、語られていない部分を想像する。

伊藤龍平「怪談の仕掛け」p.234-235 青弓社,2023年

日本民話愛好者からはトンチキ扱いの「日本民話をキリスト教的に再解釈する」栗林輝夫の営み

①日本民話(昔話)ー実話怪談 ←接続してる
②日本民話(昔話)ー変格ミステリーキリスト教 ←たぶん了解可能
③日本民話ーキリスト教 ←トンチキ

諸外国の民話集にある怪談とみなせそうな話を集めていくのは日本語圏においてウケるかも

怪談話系の伝承は、古代時代以来、キリスト教圏ではかなり少ない傾向にあります。現代でも、カトリックや正教では、エクソシストという形で霊は取り扱われていますが、プロテスタントでは、基本的には不謹慎系として見られることが殆どのように感じます。大石健一牧師

…というコメントをいただいたのだけれど、いわゆる「キリスト教圏」とみなされている世界の民話集を読んでいた身としては『キリスト教圏は怪談が少ない』という印象は持たなかったので、このへんの齟齬について考えてみた。

おそらくこれは「教義と実態」みたいな話なのではないかと思う。

私が「キリスト教圏の実話怪談」で最初に触れたのは、「魔法使いハウルと火の悪魔」で有名なダイアナ・ウィン・ジョーンズの『ファンタジーを書く ダイアナ・ウィン・ジョーンズの回想』で、DWジョーンズが幽霊屋敷で生活していた際の記述であったのではないかと思う。
この流れて「イギリスは冬に怪談をたしなむ文化がある」と知った。
そのあと『グリム伝説集』などにも怪談然とした説話が記録されているのを読んだり、『ブルターニュ幻想民話集』にもそういった話に触れたりしたし、アメリカの民話集とかでも幽霊譚として提示できそうな話がいくつもあるのも確認していて…

日本でも、浄土真宗(大谷派?)などは幽霊の存在を教義のうえでは認めないが、浄土真宗の門徒さんやその僧侶のすべてが「どんな文脈においても、幽霊の存在を認めないと言語化するか」というと、そうじゃないことくらいは想像がつく。

ってなワケで、ここまで書いてみて、まあ「怪談ならキリスト教の話も日本人に聞いてもらえる」という可能性はあるんだろうな…と思った。

『第〇日曜の説教は実話怪談風味にします」とかいう教会があったら、多くの日本人(といっても「怪談好きな日本人」という属性の横断ではあろうが)の目耳を集めるのではないかと想像する。三木大雲師の「怪談説法」と同じやり方、というだけの話であるが。

しかしながら、私の伴侶などは本当に怪談が苦手らしく、リアルの場でそれをされるとまいってしまう信徒もいるだろう。そのへんの配慮はしつつやったらエエだろう。

都会的な立地の仏教寺院の場が生成する怪談について

↑増上寺付近で撮影できた「心霊写真」に類するようなものへの言及(撮影されたものに対して、北野誠氏は「死神」なので、その辺の幽霊と呼ばれる存在よりも力の強い存在ではないかという区別と考察を述べているので注意)

最近、「ブッダという男」の著者でもある仏教研究者かつ僧侶(本業:投資家)である清水俊史氏の浄土宗(そして具体的な寺院名も含め)への痛烈な批判をされているのを観たので印象的に思えてしまった。

(そして私自身、2024年5月にここに来た。

「そういう語り(オカルト・ホラー・ネガティブ・陰的な属性の語り)を生成する場」として機能しているのだということを、自分以外の存在の発言から確認できたことが印象的だったので、メモ。

髑髏の丘で磔刑に処された男の声が聞きたくて、こんなところまで来てしまった~(結びの句)

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