~ある日~
…で、聖書の神話の〇〇が、〇〇で…
聖書は神話ではありませんッ!本当に起こった出来事が記されている書ですッ!
わっ!
どっから出てきたんだ…
目次
たとえば「神話」「伝説」「昔話」の定義
じゃあここで「神話」「伝説」「昔話」の定義を確認してみよう
神話 | 伝説 | 昔話 | |
---|---|---|---|
例 | 旧約聖書(創世記の天地創造,ノアの洪水伝承) | アーサー王伝説,ジークフリート伝説,弘法大師の植えた木や休んだ場所 | 桃太郎,赤ずきんなど |
信仰・ 伝承意識 | 事実・疑えない事実 | 事実・信ずべきコト | 虚構・あったかなかったか不確かな虚構 |
主題 | 国土・人類・文化の起源 | 聖なるコト・モノの由来 | 異常な幸福 |
時代・ 時制 | 遠い過去・神の世 | 近い過去・古へ世・中つ世 | いつでも・遠い昔 |
場所・ 固有性 | 異界・または今より古い世界・固有性アリ | 今日の世界・固有性アリ | どこでも・固有性ナシ |
態度 | 神聖 | 神聖または世俗 | 世俗 |
主要人物 | 非・人間 | 人間 | 人間、または非・人間 |
ええと…つまり…「聖書は神話ではありません」って主張は、たぶん『聖書はフィクションじゃありません』って言いたいんだと思うんだけど
「神話」の定義はその実、「(その信仰共同体における)事実」を含んでるから、…ん?どゆこと?
一般的なオーラルコミュニケーションだと「神話」が『フィクション(虚構)』の意味で使われることが多いっていう、現代日本の文化的な背景から生まれる主張なんじゃないかな。知らんけど
人間って悲しい生き物だねぇ(小松菜をモシャモシャ食べる)
キリスト教徒としての言い訳をすると…
「主観としての真実」じゃなくって、「客観的に疑えない事実」って言いたい気持ちはありそう
そうだね…あとは上記の定義を受け入れちゃうと、「聖書」が提示してない神話も『誰かにとっての真実』だって受け入れなくちゃいけなくなるから、それに抵抗を持つキリスト教徒も多いんじゃないかな(知らんけど)
そのへんにムキ―ッってなったとき、アウグスティヌス「神の国」とか読んだら面白くなったて石本さん言ってたような、言ってなかったような
「日本神話だろーが聖書だろーが、神話なんて全部作り話」
聖書だろーが古事記だろーが、「神話」なんて全部作り話なんだからどうでもいいよ
ぐぬぬ…言いたいことはわかるけどなんかムカつく…
まあでもそれは結局現代日本人としての世界観を相対化してないし、学術的な定義ともズレる用語の使いかたしてるから、「聖書は神話です」って言われて怒る人と同じ穴のムジナじゃない?
ムジナは苦手だな…
神話は我々が持つ最古の文書の分野の一つであり、全体への志向のあらわれである。我々が最初に持った最古の記述の分野の一つが神、世界の現出の記述であり、その目的は他の諸学と同様に、究極の根拠、究極の始原を問うものである。始原への最古の問いといえる神話を研究対象とする学は、現象学とは対照的な意味でアルケオロジーといえるだろう。
丸山顕徳「聖典と神話:現象学的研究」p.58(2022年,「神話研究の最先端」より)
※「アルケオロジー」についてはコチラ
「聖書は物語ではない」という主張は可能か
今、ちょっとインターネット検索してみたんだど…「聖書は物語ではない」みたいな主張を書いたウェブサイトもあったよ?
それは…「聖書はストーリーじゃない」って主張?う~ん?
それは…さすがに無理じゃないかな…。「律法」とか「詩」とか「系図」の部分だけを指してるならそうかもだけど…「聖書」って括りなら無理じゃないかな…。
人間は、できごとを時間の流れのなかで把握する枠組を持っています。それが「ストーリー」と呼ばれるものです。
時間上の前後関係のなかでできごとを報告するだけで、いちおう「ストーリー」にはなります。歴史年表や、履歴書の学歴・職歴欄を思い出してください。1911年 辛亥革命。
1917年 ロシア革命。
1920年 国際連盟成立。
1928年 張作霖爆殺。
1929年 世界恐慌。
1931年 柳条湖事件、満州事変。
1932年 満州国建国。5.15事件。
1933年 日本、国際連盟脱退。
1936年 2.26事件。日独防共協定締結。平成XX年3月 XX高等学校卒業
4月 XX大学XX学部入学。
平成XX年3月 同大学卒業。
4月 XX株式会社入社。けれど、年表や履歴書は、ストーリーとしてはいまひとつ「滑らかさ」「生きている感じ」に欠けますね。
では、年表や履歴書は、小説や新聞記事といったもっと「ストーリーらしい」文章と、どう違うのでしょうか?年表や履歴書に因果関係を加えれば、新聞記事のように、もっと「ストーリー」らしく見えるでしょう。
「なぜ日本は国際連盟を脱退したのか」「なぜ私はXX大学に入学したのか」。こういったことは、年表や履歴書には書かれません。新聞記事では理由が問われ、小説や物語では理由が明かされます。
世界にたいする「なぜ」という問いと、それへの回答(原因や理由)とが、ストーリーのストーリーらしさを生むのです。いまここで「物語」という言葉を使いました。「物語」(ナラティヴ)とは、ストーリーを(口頭で、手話で、文字で)語る言葉の集まりです。
千野帽子ウェブちくま「人生につける薬 人間は物語る動物である」第二章より
(ほんとうは言葉だけではなく、いろんな要素がストーリーを伝えるのに使われるのですが、もっとも基本的で大事な役割を果たすのは、言葉だと考えます)
ニュースを読むアナウンサーの言葉、落語を話す落語家の言葉、新聞記事や小説の字面は、いずれもストーリーを伝えているという意味で、物語なのです。
「物語」というとフィクションだと考えられやすいのですが、必ずしもそう決めてかかる必要はありません。たとえば、ひとりの人の人生もまた「物語」と見なすことができるからです。聖書を物語として読む立場を代表するような『神の物語』(マイケル・ロダール著.大頭眞一訳,2017年ヨベル新書により上下巻)という本によると、物語とは「始まりがあり、主要な登場人物がおり、筋がある。各章ごとに、波乱と進展、どんでん返しがあり、そして全体に意味を与えることになる結末がある」書物ということになります。中でも聖書は「神の物語」です。
大頭眞一著「聖書は物語る-一年12回で聖書を読む本」(2013年,ヨベル出版)p.3
「物語」を問答無用で『フィクション(虚構)』と認識する人はけっこういそう
「物語」っていう表現だけじゃ『フィクション』『ノンフィクション』区別つかないから、相手がどの意味で使ってるかはその都度で判断しないといけないかもな
独り言ならテキトウな用語使ってもいいけど、他人と話すときはコトバの定義は大事だよねぇ…
例えば「物語神学」について『物語』という用語を使わない方がイイというキリスト教牧師側の提言も見つけた
少なくとも、日本語で「物語」というのは、フィクションという意味をほとんどの場合内包している。日本文学史の常識からいえば、「物語の祖」は「竹取物語」であり、作り物語の頂点は「源氏物語」であって、いずれもフィクションである。だから、「物語の神学」という表現があった場合、それを聞いた人が、聖書啓示の事実性を否定している神学ではないか?とか、かつてのように聖書を神話として見るリベラル神学と同類ではないのかと疑念を抱くのは必然のことである。それを「誤解だ」という非難はあたらない。自ら誤解をまねく用語を使っているのだから。
閲覧:2024年6月27日日本時間14時28分 「物語神学」の「物語」という用語の問題性 (苫小牧福音教会 水草牧師のメモ 2016年公開)
少なくとも普通に日本語をつかう日本人に対して、宣教の現場の牧師・伝道者は「物語」という用語をもちいないことが賢明である。
ストーリーも同じことである。「検察のストーリーにはめられた」とかいう表現も近年聞かされるが、これも作り話ということであろう。だからストーリーとか物語とか言われたら、一般の人は「ああ作り話か」と思うのは当然なのだ。
日本語圏では「物語=フィクション」だと思われちゃう可能性が高すぎるから、いっそ使わないことを提案してる牧師さんもいるんだね。
でも「物語」っていう語の定義をずっと曖昧なままにしてても、深い話ができなくなる気もするし、悩ましくない?
(僕もう知ーらないっ)
※当コラムライター自身の現在の思想としては、プロテスタントはコトバを大事にする宗教なのだから、大事にしていく方に傾いたほうが一貫性があって好ましいと思っています。(この場合、当コラムライターが考える「コトバを大事にする」という詳細は、『言葉の定義をその都度明確にさせながら用いていく』という営みのことを指します。既存の日本語にない語彙を創り出すことも時には必要かとは思いますが、「物語神学」における『物語』に関しては、『物語』という語を用いながらその都度定義を明確にしながら用いていくのが好ましいのではないかと考えます。※「日本語にない言葉が必要とされている場面」はもっと別にあるはずだと思うので………)
※「物語」という用語は、アブラハム宗教に関連しない思考でも(当然)用いられる言葉なワケなので、『とあるキリスト教の解釈の流れが、とある日本語の定義のあいまいさを増長させてしまった』という歴史が形作られてしまったとしたら、私はそれを恥だと思わざるをえないと思います。少なくとも、当コラムライターは現状そう考えています。「キリスト教の神学解釈の一派にそんな影響力ないから大丈夫だよ」というご意見がありましたら、はい、すみません、デカく見積もりすぎて申し訳ありません。この杞憂が杞憂ではないと言えるくらいに(?)がんばっていきたいと思います(???)。
(これからの課題)「神話」と「神話風フィクション物語」の違いは?
これまでの議論をまとめれば、次のようになる。神話は祭祀を可能にし、神経験の真偽を判断する。他方で、神話は祭祀によって現前され、個的神経験によって真理であると判断される。祭祀は神話に書かれた次第を現在させ、神経験によって祭られる神を公共化する。他方で、神話によって祭祀は可能となり、個的神経験によって、祭祀の対象となった神が真に存在することを教える。個的神経験は神話の内容、祭祀される神が真であることを教えるとともに、神話によってその経験の真偽が判断され、祭祀によって公共化されるのである。それと同時に、これらの行為をはじめとする様々な経験を通して人は神の同一性を増大させる。また、これらの行為によって宗教的-神話的世界は構成されるのである。
丸山顕徳「聖典と神話:現象学的研究」p.56-57(2022年,「神話研究の最先端」より)
おまけ
揺れる「ナラティブ」の定義とこれからできるかもしれない日本語訳
本稿がナラティブの射程をどこまで拡げるかを明確にしておく。筆者が専門とするディスコース研究で扱われるナラティブは,基本的に語り手自らの個人的な経験や過去の出来事が語られたものを指す。しかし最近では,語りのトピックによっては,過去の経験や出来事に限定せず,語り手が現在抱えている問題や将来の計画などに対する意見や考察なども,それらがある一定の長さとプロットと一貫性を持つ場合,ナラティブとして捉えられている(De Fina & Georgakopoulou, 2015)。
「日本語教育・教師教育において「語ること」の意味と意義
対話にナラティブの可能性を求めて」
嶋津 百代p.56
なお,ナラティブという語には現時点において定訳となる日本語が存在しない。荒井(2014)は「Narrative」という語が,物語,語り,声というように訳されると指摘し,(1)物語と訳される時には,複数の出来事が(単なる羅列ではなく)何らかの筋にそった話としてまとめられているということを強調しており,(2)語りと訳される時には,個人がその経験を発言しているということを強調しており,(3) 声と訳される時には,支配的な意見や主張に(押しつぶされそうであるものの)抵抗しようとする意見や主張だということを強調している,とまとめている。こうした整理(荒井,2014)は有用であり,これら 3 つの含意に留意することは有益だが,一方で学術用語を母語に翻訳することは日本の人文社会科学諸分野の研究者にとって重要な使命であり,カタカナ語が定着しているということに甘んじることなく,訳語の創案と定着に尽力する必要がある。
ナラティブの意義と可能性
サトウ タツヤ pp.2-3*