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【更新】人魚姫とリトルマーメイドから聖書解説!(1/22更新)

「リトルマーメイド」と「アンデルセン人魚姫」教訓の違いを考察、キリスト教要素を解説

こんにちは、人気マンガやアニメから聖書を解説するWEBコラム「いつかみ聖書解説」です。今回は

ディズニーアニメの
『リトル・マーメイド』

アンデルセン童話の
『人魚姫』

から聖書解説をします。

ライター個人は、ディズニーアニメ『リトルマーメイド』も、その原作であるアンデルセン童話『人魚姫』も大好きです。ただ、この2つはメッセージ性が違いすぎて、今まで比べたことはありませんでした。

しかし最近、「キリスト教 / 聖書ファンタジー」のまとめ記事をきっかけにアンデルセン童話が気になり考えてみようと思ったのです。

参考 代表的キリスト教/聖書ファンタジー小説13選LampMate

それぞれの作者である「ウォルト・ディズニー」と「ハンス・クリスチャン・アンデルセン」がどのようなキリスト教信仰を持っていたのかということも含めて、カンタンにまとめてみました。

楽しんでくだされば幸いです。

ネタバレ注意

この記事はネタバレを含んでいます。

ネタバレが嫌な方は、原作を見てからまた遊びに来て下さい。

 

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▼人魚姫は「青空文庫」で読めます▼

 

『リトル・マーメイド』と『人魚姫』のあらすじ・結末・教訓

まずは『リトルマーメイド』と『人魚姫』のあらすじ、結末、教訓(メッセージ)の共通点や違いをまとめてみました。

ディズニーアニメ『リトル・マーメイド』


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◆あらすじ◆

 

平和な海の王国の人魚姫アリエルは、お年頃で好奇心いっぱい!鯛のフランダーやカニのセバスチャンら、愉快な海の仲間たちと暮らし、海の上の世界に憧れていました。

ある嵐の夜、彼女は人間の王子エリックと出会い、恋に落ちます。その想いをかなえようとアリエルは、人間になれる魔法と引き替えに、美しい声を海の魔女アースラに奪われてしまいます。

魔法の期限は3日間。はたしてアリエルは、王子と結ばれることが出来るのでしょうか?ディズニーならではの明るく楽しいファンタジーになったアンデルセン童話。

アカデミー賞(R)2部門に輝いたミュージカルアニメーションをご家族そろってお楽しみください。

(引用:YouTubeディズニースタジオムービーストア概要欄より)

▼「ディズニー リトルマーメイド」のみんなのツイート

声を失いつつも、エリックと結ばれそうになるアリエル。

しかし、アリエルの願いが叶いそうになることに危機感を覚えた魔女・アースラによって妨害されます。アースラは人間の美しい女性に化けてエリックを誘惑。

アースラ扮する美女と婚約しそうになるエリックでしたが、海の仲間の力を合わせてアースラを撃退。声を取り戻したアリエルは、人間になってエリック王子と結婚します。

 

リトルマーメイドの教訓とは?

言わずと知れたハッピーエンド。恋愛モノ・娯楽性の高い作品なので、教訓(メッセージ)の読み取り方は比較的自由な印象です。

あえて言うなら

・何かを得るためには何かを引き換えにしなくてはならないが、場合によっては全部得ることができる

・憧れを実現するには行動することが大事

・時にはルールを大胆に破る(参考はこちらのブログ

・変化をチャンスに変える等(参考はコチラのサイト

といった感じでしょうか。

 

アンデルセン童話『人魚姫』


アンデルセン童話 にんぎょ姫

◆あらすじ◆

 

遠い遠い海の底に、人魚のお城がありました。お城には王様と6人の人魚姫が住んでいました。この世界では、人魚姫は15歳になると海から出て人間の世界に行くことができるようになります。(中略)

 

ついに15歳を迎えた末の人魚姫が海の上に顔を出すと、そこにはたくさんの明かりをつけた船が浮かんでいました。船には王子様が乗っており、人魚姫は王子様をひと目見て恋をしました。

 
その時、突然嵐が船を襲い、王子様は海へ落ちてしまいました。人魚姫は海に落ちた王子様を助け、浜辺まで運びました。(中略)

 

するとそこへ、どこからか娘がやってきたので、人魚姫は驚いて海へ身を隠しました。(中略)

 

王子様が目を覚まし、王子様は目の前にいる娘に助けられたと勘違いしてしまいました。それを見た人魚姫は、自分も本当の人間になって王子様のそばにいたいと思うようになりました。

 

人魚姫は魔女のところへ行き、人間にしてほしいと頼みました。魔女は、人魚姫の美しい声と引替えに、人間にしてくれることを約束してくれました。

 

しかし、魔女が出した条件はそれだけではなく、王子様が他の女性と結婚すると2度と人魚姫には戻れず海の泡になって消えてしまうとも言われました。人魚姫は全ての条件を吞み、人間になることを決めました。

 

浜辺で人間になる薬を飲んだ人魚姫は(中略)しばらくして目が覚めると、傍に王子様が立っていました。(中略)

 

王子様は何も話さない人魚姫を自分のお城まで連れて行き、人魚姫を妹のように可愛がってくれました。

(引用:【童話】人魚姫【あらすじ・ネタバレ】 あらすじ君より)

▼「アンデルセン 人魚姫」のみんなのツイート

ある日人魚姫は、王子様から溺れた時に助けられた娘と結婚することを聞かされました。「本当は、助けたのは自分だ」と言いたくても、人魚姫には声がないので伝えることができません。

王子様の結婚式が近づいたある夜、海にお姉さんたちがナイフを持って現れました。お姉さんたちは、このナイフで王子様の胸を刺して殺せば、人魚姫は海の泡にならなくて済むと言いました。

人魚姫はナイフを受け取り、王子様が寝ている部屋へ忍び込み殺そうとしましたが、愛する王子様を殺すことができませんでした。人魚姫はナイフを海へ投げ捨て、自分も海へ飛び込み、海の泡になってしまいました。

(参考:【童話】人魚姫【あらすじ・ネタバレ】 あらすじ君より)

原作は「青空文庫」で読むことができます!

「人魚姫」の教訓とは?

こちらは「メリーバッドエンド」と呼ばれる、受け手の解釈によって幸福と不幸が入れ替わる結末です。(「Open ending」とも言われます)

『人魚姫』の教訓(メッセージ)は日本では省略されがちな部分にあると感じるので、詳細は後半でお話ししていきたいと思います。カンタンにまとめるならこのようなカンジです。

・「魂(心)」の問題を取り扱った寓話

・自己犠牲の尊さ

・想えば想うほど、頭から離れなくなる(参考サイト

改めて、それぞれの作品の違いをまとめてみます。読みたい方だけタップしてください。

『リトル・マーメイド』で割愛されている設定
・「人魚の魂は人間と違って天国に行かない」という設定。

・人魚姫が泡にならないために人魚の姉たちが魔女に交渉して「王子を殺したら人魚姫は元に戻れる」というナイフで人魚姫を説得しようとするくだり。

・人魚姫は泡になったあと、空気の精になり、天国へ行ける。(原作の結部)

目立つ変更点
・人魚姫(アリエル)の「人間の世界へのあこがれ」をたしなめるのは、『リトルマーメイド』ではカニのセバスチャン、『人魚姫』ではおばあちゃんの人魚。

・『リトルマーメイド』は魔女(アースラ)自ら人魚姫の願いの成就を妨害しに来る。

・『リトル・マーメイド』は、アリエルとエリックが結ばれてハッピーエンド。 『人魚姫』は王子と結ばれず、泡になる。(そのあと空気の精になる)


…と、このような感じで『リトル・マーメイド』と『人魚姫』を比較してみました。

では次に、作者ウォルト・ディズニーやハンス・クリスチャン・アンデルセンの「キリスト教との関係」を見ていきたいと思います。

 

ディズニーとアンデルセンの信仰の立場

ディズニーとアンデルセンは自他共にキリスト者だと言われています。それぞれの作者のキリスト教信仰の立場をまとめてみました。

ウォルト・ディズニーとキリスト教信仰

概要
会衆派(Congregational)の語源は、ラテン語の「congregationes(共に集まれるもの)」にある。(中略)
会衆派教会の特色は、イエス・キリストへの信仰に生きる会衆一同による会衆制と、各個教会こそが教会の基本的・本質的要素を担っているという確信による各個教会の独立自治とに体現される。(中略)
各個教会はいかなる信仰的・世俗的権威からも自由に、ただ神の感化によって信仰と生活との規範を定め、実践するものであるとされる。それこそが初代教会が実践し、新約聖書に証されている教会制度であるという会衆派教会の自己理解によるものである。
また、宗教改革の流れに属するものの、いかなる教会的・教理的信条にも拘束されない自由を尊重する。


アメリカにおける展開
ピルグリム・ファーザーズの人々が育てた、アメリカにおける会衆派教会は、ニューイングランドの支配的な教会となり、アメリカの政治、社会思想や制度組織に大きな影響を与えた。
会衆派の人々の政治・社会生活のスタイルはピューリタン神権政治とも呼ばれ、神学教育だけでなく一般教育にも関心が深く、ハーバード大学、イェール大学、スミス大学、アマースト大学(同志社の創立者、新島襄の学んだ大学)、オーバリン大学など多くの大学を設立した。
神学的には、スイスの宗教改革者であったカルヴァンの影響が強かったが、直接民主的な会衆制をとるためにリベラルな傾向を持ち、人道主義的な思想や運動と結びつきやすいものとなった。
いち早く奴隷制度に反対し、南北戦争の後、南部に黒人のための大学を設立し、現在でも、人権問題に積極的に取り組んでいる。外国伝道にも熱心で、北米最初の超教派的な外国伝道団体、アメリカン・ボードを設立している。
20世紀後半には、その主流派は他の教会と合同教会を作り、キリスト連合教会(United Church of Christ、略称:UCC)と呼ばれている。 (Wikipedia「会衆派教会」項より

 

(前略)1901年に生まれた彼(ウォルト・ディズニー)は、父親の友人でもあった所属教会の牧師ウォルター・パーにちなんで名づけられた。父親のイライアス・ディズニーは非常に厳格なクリスチャンで、安息日を破る程度でも、子どもたちを叩いて叱った。興味深いことだが、ウォルトとその妹は、教会で上映される映画を見るために家を抜け出したことがある。その映画はおそらく「飼い葉おけから十字架まで」(1912年)というイエスの十字架と復活を描いた初期の無声映画だろう。

(引用:【CHRISTIANITY TODAY】ミッキーマウスを創った男──ウォルト・ディズニーの信仰と祈り(前編)

 

1949年、ディズニーは「ガイドポスト」誌にこう書いている。「私は、宗教の有益性や人の生き方に持つ強力な影響力を堅く信じています。人生の嵐やストレスに呑(の)み込まれそうなとき、それは計り知れないほどの助けを与え、神の思いに導いてくれます。神の思いなしには、私たちは滅びるでしょう。

(引用:【CHRISTIANITY TODAY】ミッキーマウスを創った男──ウォルト・ディズニーの信仰と祈り(前編)

 

著名な信仰者について書かれた本の中で、ディズニーはこう語っている。「私がまだ幼い頃から、神に信頼してインスピレーションが与えられることを祈るように、両親は教えてくれました。そのことに私は感謝しています。宗教が日常生活で果たすべき役割について、言葉ではなく行動で示すことを私は心がけています。(元が寓話であれ実話であれ)それぞれの作品において、最高の道徳観や価値観を表現することを常に意識してきました。……聖句についての学びから、そして私の子ども向けエンターテイメント業界でのキャリアを通して、私はその重要性を教えられたのです。私がこれまで、すべての年齢層の観客に対して、スクリーンで深みのあるエンターテイメントを提供することができた秘訣の大部分は、会衆派信徒としての生い立ち、そして祈る習慣を続けてきたことによります」

(引用:【CHRISTIANITY TODAY】ミッキーマウスを創った男──ウォルト・ディズニーの信仰と祈り(後編)

 と、ウォルト・ディズニーもかなり自覚的にキリスト教信仰を持っているタイプであることがうかがえます。

ただ、キリスト教徒のディズニー作品への評価は好意的なものとそうでないものとの2つに分かれています。

一時、キリスト教保守団体が、ディズニー映画には魔法と迷信が満ちている、として忌避すべきだと訴えたことがあった(同じような憂き目に遭ったのがハリーポッターシリーズ)。


(引用:Christian Today「美女と野獣」に見る啓蒙主義とキリスト教的な愛 より)

とはいえ、プロテスタントのキリスト教信仰は本人の自覚のもとの「信仰」を大事にするので、逆に言うと「この人はクリスチャンかどうかは他人からはわからない」という色が強いです。

ウォルト・ディズニー は自身をキリスト者だったと言っており、信仰と祈りを持って生きていたと自覚するウォルト・ディズニーの作品の忌避すべきかどうかは各個人の判断に委ねられているトコロです。

おなじ信仰であるはずのキリスト者からそのように言われるのは、彼が作品そのものは「あくまでエンターテイメント」として作ることにしたから、なのだと考えられます。

▼参考サイト

【CHRISTIANITY TODAY】ミッキーマウスを創った男──ウォルト・ディズニーの信仰と祈り(前編)
【CHRISTIANITY TODAY】ミッキーマウスを創った男──ウォルト・ディズニーの信仰と祈り(後編)

ハンス・クリスチャン・アンデルセンとキリスト教信仰

ルーテル教会(独: Lutherische Kirchen / Lutheraner, 英: Lutheran Church / Lutheranism)は、マルティン・ルターによりドイツに始まる、キリスト教の教派または教団。ルター派とも呼ばれる。
プロテスタントの一つであり、全世界に推定8260万人の信徒が存在する。発祥の地ドイツを始め、北欧諸国では国民の大半がルター派であり、そこから移民が渡った先のアメリカ合衆国、カナダ、ブラジル等の南アメリカ各国でも信徒数が多い。(引用:Wikipedia「ルーテル教会」項より)

デンマーク国教会(Danish National Church、Church of Denmark、Evangelical Lutheran Church of Denmark、デンマーク語:Den Danske Folkekirke、Folkekirken)はルター派に属するデンマークの国教会。同国で最大の規模を誇るキリスト教会でもある。(引用:Wikipedia「デンマーク国教会」項より)

 

ハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen, 1805〜1875)は、デンマーク第二の都市であるフュン島のオーデンセで生まれた。貧しい家庭環境から身を起こし、世界中の子どもたちを魅了するお話を書き続けた優れた作 家であると認識されている。

(引用:田島靖則 『アンデルセン童話の倫理観 〜「子ども目線」に立つキリスト教倫理〜』より)

 

アンデルセンが、学問としてキリスト教神学を学んだ形跡は見当たらない。しかし、彼の聖書への興味は、平均的なデンマーク人のそれを少し上回っていたようである。

彼が最初に入学した学校で体罰を受けたことをきっかけに、母親の判断により彼はユダヤ人学校に入学することとなった。彼はそこで6歳になるまで学んでいる。おそらくそこで彼は、旧約聖書に親しむきっかけを得ることとなったはずである。

そのユダヤ人学校が閉校となった後、彼はキリスト教会が経営する救貧学校に通うようになった。その校舎の壁面には宗教画が飾られており、アンデルセンは学校での宗教の授業を好んだ。

教師が聖書の物語について説明するとき、宗教画にはまるで命が吹き込まれるようだったと、述懐している(ヴォルシュレガー 2000, p.20)。

アンデルセンの宗教性は、デンマーク人の一般的な宗教性と大きく変わるところはなかった。つまり国教会であるルーテル教会(ルター派教会)への自然な帰属意識を持っていたと考えられる。

(引用:田島靖則 『アンデルセン童話の倫理観 〜「子ども目線」に立つキリスト教倫理〜』より

 そして、アンデルセンは存命時から童話作家として有名だったのですが、当時作品がもてはやされると同時にアンデルセン本人への批評(容姿や文法などをあげつらう)批評もたくさん受けていたそうです。

それに対するアンデルセンの態度(自伝)からも彼の信仰観がうかがえます。

誤解の事実、または、誤解と思えるものへの、このような怒りは、その極限において、成功に対する、ことに名誉に対する、燃えるような感謝の念に合致している。それは、アンデルセンの宗教観の根底をなすものである。つまり、彼は、(中略)

感謝することを義務、信仰として要求されるものと考え、その表現は、再三再四繰り返されて、周囲の目をさまさなねばならないと考えたのである。成功と名声、彼が久しく追い求め、そして、かなり早く到達した名誉の中で、彼は、ある摂理を認識していた。(中略)

たゆみなく彼を見守り、その歩みを導き、善意の人たち、親切な人たち、援助者、後援者のもとへはこび、また、貧困と荒廃の、暗い背景によって、彼の偉大さがよりまばゆくひきたつために、彼を、卑賤のうちに誕生させた摂理である。要言すれば、彼に、復帰と評価と、究極には、栄誉の冠を備えた摂理である。

――「私の生涯の物語は、『すべてを最善に導く、愛なる神がいまし給う』と私に語りかけている世界と言えよう』と、自伝の第一行にうたわれているように。

(引用:「日本児童文学学会編集 アンデルセン研究 『人間として、童話詩人としてのH・C・アンデルセン』」ゲオルグ・ブランデス/鈴木徹郎訳pp.299~300)

 

▼参考図書


アンデルセン研究 (1969年)

と、ここまで作者2人ともキリスト者だったことを確認しました。

 

『リトルマーメイド』と『人魚姫』のキリスト教要素を考察

が、その前に「そもそもキリスト教的とは何ぞや」がピンとこない方いらっしゃると思いますので、それについてかるーくお話ししてみます。

そもそも「キリスト教的」とは

キリスト教の中心的な信仰は、キリストの死が、どういうわけか、われわれを神との正しい関係に置き、また我々を新しい出発点に立たせてくれた、ということであって、

(C.S.ルイス『キリスト教の精髄』pp.97-98)

とC.S.ルイス(『ナルニア国物語』などの作者で、信徒伝道者)が言っているように、キリスト教とは

「イエスが十字架に架かって死んだ後に復活して、
それをもってして自分と『神』との断絶が修復されたと信じることで回復が起き、
肉体が死んだあと魂は滅びることなく神さまと永遠に過ごすようになる」

ということを信じている宗教、です。前提として「『神』が世界を創って、人間も神に似せて創られた」「人間には原罪なるものがある」というフレームで世界を見ています。

もし「そのフレームのこと、もうちょっとくわしく知りたい」と思ったら使徒信条やニカイア信条がソレを不足なく表していると言われています。

全部紹介すると長くなるので折り込みました。読みたい方だけタップしてください。

われ天地てんちつくぬし全能ぜんのうちちなるかみしんず。
われはそのひとわれらのしゅ、イエス・キリストをしんず。
しゅ聖霊せいれいによりてやどり、処女おとめマリヤよりまれ、
ポンテオ・ピラトのもとにくるしみをけ、
十字架じゅうじかにつけられ、にてほうむられ、陰府よみにくだり、
三日目みっかめ死人しにんのうちよりよみがえり、てんのぼり、
全能ぜんのうちちなるかみみぎしたまえり。
かしこよりきたりてけるものにたるものとをさばきたまわん。
われ聖霊せいれいしんず。せいなる公同こうどう教会きょうかい聖徒せいとまじわり、
つみゆるしし、身体からだのよみがえり、永遠とこしえ生命いのちしんず。
アーメン

我らは、見えるものと見えざるものすべての創造者にして、すべての主権を持ち給う御父なる、唯一の神を信ず。我らは、唯一の主を送ります。イエス・キリストを信ず。

主は、御父より生れたまいし神の独り子にして、御父の本質より生れ、(神からの神)、光からの光、まことの神からのまことの神、造られずして生れ、御父と本質を同一にして、地万物は総べて彼によりて創造されたり。

主は、我ら人類の為、また我らの救いの為に下り、しかして肉体を受け人となり、苦しみを受け、三日目に甦り、天に昇り、生ける者と死ぬる者とを審く為に来り給う。また我らは聖霊を信ず。主の存在したまわざりし時あり、生れざりし前には存在したまわず、また存在し得ぬものより生れ、神の子は、異なる本質或は異なる実体より成るもの、造られしもの、変わり得るもの、変え得るもの、と宣べる者らを、公同なる使徒的教会は、呪うべし。

派の違いもありますが、それらも基本的に聖典としている「聖書」は同じもので、信じている神さまも同じです。

派の違いというのは「フレームの素材の違い」「比率の違い」くらいに考えてくださればOKです。

 

(ちなみに、信じていない人たちからしてみると「なんでこんな意味不明なことを信じているのか理解できない」と思います。なぜクリスチャンはこんな意味不明なことを信じているのか、というところは、それこそ100人いれば100通りの答えがある部分なので、気になる方はこういうネットラジオとか聴いてみると面白いかもしれません。)

 

ということで「キリスト教のコア」について先にお伝えしました。

また、この「コア」というのは、C.S.ルイスの言葉を引用した通り、とても限定的なものを指すこともお分かりいただけたかと思います。

とりあえず「キリスト教はこんなナゾなことを信じてる」ということがわかっていただけましたら、ここからは各作品にみえる「キリスト教要素」を見つける作業に入っていきたいと思います。

『リトルマーメイド』のキリスト教エッセンスは「幸せな大詰め」

現代のファンタジー文学の源流を作った一人といわれている作家J.R.R.トールキン(『指輪物語』作者)は、自身のファンタジー論にて「幸せな大詰め」という表現を用い、ハッピーエンドの大切さを説きました。

 

なぜ「幸せな大詰め」が大事だと説いたかというと、「福音(キリストは死んだけれども復活して、それを信じることで後の世に生きる人間も神との関係の回復にあずかれること)」そのものの性質がハッピーエンド、だからです。

――しかし、「幸せな大詰め」について考えてみるなら、その答えはより偉大なものになりうることが一瞬のうちにみてとれます――それはこの世における「福音」のはるかな光、反映であります。(中略)

福音書は妖精物語を、いや、あらゆる妖精物語の真髄を包括するような偉大な物語を含んでおります。福音書のなかには、多くの驚異が――とくに芸術的なものが、美しく、感動的なものが含まれています。(中略)

そしてこれらの驚異のなかには、思いつくかぎりにおいて、最も偉大な、最も完全な「幸せな大詰め」がみられるのです。(中略)

「キリストの誕生」は、「人間」の歴史の「幸せな大詰め」でした。「復活」は「神のキリストにおける顕現」の物語の「幸せな大詰め」でした。この物語は喜びに始まり、喜びに終わります。その「真実(リアリティ)の内部の調和」は傑出しています。この物語よりも真実である、と人に考えられる物語はほかにありませんし、かくも多くの懐疑主義者が、その物語の価値によって、真実のものとして受け入れた物語もほかにありません。(中略)

――物語や空想は依然続きますし、続かなくてはなりません。福音は伝説を排除してきませんでした。むしろそれを、とくに「幸せな大詰め」を大切にしてきたのです。

(引用 : J.R.Rトールキン著/猪熊葉子訳「ファンタジーの世界ー妖精物語とは何かー」pp.140-143)

 

私にとって物語が与えてくれるものの中で一番大事だったのは、それが幸福の約束をしてくれること、でした。研究者の方はフレッド・イングリスの『幸福の約束』という児童文学論のあることをもちろんご存じだと思いますが、この幸福の約束を様々な形で具体的に物語から与えられること、ハッピー・エンディングへの強烈な欲求を物語が充足してくれることが私にとってその存在意義だったと言えましょう。

ハッピー・エンディングなどと言うと、近・現代の深刻な大人の小説を読みなれた人には馬鹿くさい、甘ったるいことだと思われがちですけれど、そうではない、そう考えることは大変な誤解であると私は思います。それは人生を肯定する助けとなるものだからです。

先ほどその名をあげたスザンヌ・ランガ―は、芸術的なものの価値は生命感のリズムのあるなしである、と言っています。それを実現するには、成長と自己保存という本質的に喜劇的な感情が必要なのであると言うのです。

(引用:猪熊葉子「児童文学最終講義 しあわせな大詰めを求めて」pp.30-31)

 

(トールキン)先生が亡くなった時、「タイムズ」の追悼記事は、「幸せな大詰め」という先生の造語をキー・ワードとして掲げました。それは先生が論文のなかで、妖精物語の真の姿、その最高の機能はそれが「幸せな大詰め」をもっていることである、と主張しておられたからです。なぜなら、妖精物語の「幸せな大詰め」は、「最終的な敗北が蔓延することを否定し」「この世界を取り囲む壁のむこうに存在するあの『喜び』、悲しみと同様に鋭く人をつきさす『喜び』を感じさせるもの」であるからです。先生は、空想の国の建設を通じて、悲劇や不条理を人生の本質であると考える近・現代の悲観主義に真っ向から反対しておられたのでした。

(引用:猪熊葉子「児童文学最終講義 しあわせな大詰めを求めて」p.50)

(トールキンと猪熊葉子氏はカトリックのキリスト教信仰を持っています)

そして、そのフレームで見れば、ディズニー作品およびリトルマーメイドは紛れもなく「幸せな大詰め」を大事にしている作品です。

アンデルセンの時代は子どもの死亡率がまだまだ高いことから、アンデルセン童話は子どもの死に救いを見い出すものが多くあるとも言われますが、

後の世に生きるウォルト・ディズニーが思い切ってそれをハッピーエンドに変えることができたのは、キリスト教なるものがそもそも「イエスの復活」という、一種トンデモなハッピーエンドの性質を持っているから、とも言えるのではないでしょうか。

(もちろん商業的な都合・作品の完成度などの兼ね合いもあったとは思いますが。)

 

また、主人公・アリエル(Ariel)の名前は、シェイクスピア「あらし」に登場する「空気の精」のからとっていると考えられます。これは、後述する「日本では省かれがちなシーン」に関係しています。

ディズニーは、アンデルセンとは違う結末を描きながらも、アンデルセンと同じ方向を見ていたのではないか、と思うと得も言われぬ気持ちがめばえます。

※ ちなみに ※
「イエスの復活」について、キリスト者はそれを『肉体ごと復活した』と信じている、というのがあります。

この復活が『魂的なことを言ってて、肉体の復活とは比喩なのでは?』とか『弟子たちが切望するあまり幻想を見たのでは?』といった議論はずっとずっと昔から行われていることなので、その辺が気になる方はご自身で調べてみてください。

イエスの復活が肉体をともなっていなかったと主張したので有名なのは「グノーシス主義」、キリスト教をできるだけ説明しようとしている試みを「キリスト教弁証論」と言ったりします。

 

※ ところで ※
「しあわせな大詰め」という表現を生んだJ.R.R.トールキン自身はディズニー作品を嫌っていると言われています。

しかしながら、作家個人と他者作品との関係が悪かったとしても、メッセージ性の面で通じるものがあるということはよくあること。
後世の、まったく違う文脈に生きる私から見て共通点を見いだしてしまうことはしかたないと思います。

▼参考図書


妖精物語について―ファンタジーの世界


児童文学最終講義―しあわせな大詰めを求めて

『人魚姫』のキリスト教エッセンスは「自己犠牲/本当の幸せ(魂のよろこび)」

『人魚姫』が考察されるとき、人魚姫が人間になるのは「子どもから大人になるということ」の暗喩であると言われることが多いです。

それもあると思いますが、原作を読むと日本でよく省略されている部分にアンデルセンの真骨頂があると考えると、やはりキリスト教的な魂観を反映している作品なのだな、と思わされます。

もはや王子の心の中に入り込む余地がないことを悟った人魚姫は、自分の命よりも王子の命を優先したのである。よく知られているのはこの海の泡になったところまでであり、確かに人間の不死の魂への希求が削られている場合には、悲恋物語として完結しているようにもみえる。しかしこの後の展開こそがアンデルセン童話の真骨頂なのである。

( 大澤千恵子著「見えない世界の物語 超越性とファンタジー」pp.156-157)

以下、省略されがちなくだりを2ヶ所添付しました。気になる方は読んでみてください。

「ねえ、おばあさま、人間は、水におぼれさえしなければね、」と、ひいさまはたずねました。「それはいつまででも生きられるのでしょう。あたしたち海のそこのもののようには死なないのでしょう。」

「どうしてさ。」と、おばあさまは、おっしゃいました。「人間だって、やはり死ぬのですよ。わたしたちよりも、かえって寿命はみじかいくらいです。わたしたちは三百年まで生きられます。ただ、いったん、それがおわると、それなり、水の上のあわになって、おたがいむつまじくして来たひとたちのなかに、お墓ひとつのこしては行けません。わたしたちには、死なないたましいというものがないのだよ。またの世にうまれかわるということがないのだよ。いわば、あのみどり色したあしのようなもので、いちど刈りとられると、もう二どと青くなることがない。そこへいくと、人間にはたましいというものがあって、それがいつまででも生きている、からだが土にかえってしまったあとでも、たましいは生きている。それが、澄んだ大空の上にのぼって、あのきらきら光るお星さまの所へまでものぼって行くのです。ちょうど、わたしたちが、海の上にうき上がって、人間の国をながめるように、人間のたましいは、わたしたちにとても見られない、知らない神さまのお国へうかび上がっていくのです。」

「なぜ、あたしたち、死なないたましいをさずからなかったの。」と、人魚のひいさまは、かなしそうにいいました。「あたし、なん百年の寿命なんてみんなやってしまってもいいわ。そのかわり、たった一日でも人間になれて、死んだあとで、その天国とやらの世界へのぼるしあわせをわけてもらえるならね。」

「まあ、そんなことをおもうものではないよ。」と、おばあさまはおっしゃいました。「わたしたちは、あの上の世界の人間なんかより、ずっとしあわせだし、ずっといいものなのだからね。」

「でも、あたし、やはり死んであわになって、海の上にういて、もう波の音楽もきかれないし、もうきれいな花もみられないし、赤いお日さまもみられなくなるのですもの。どうにかして、ながいいのちのたましいを、さずかるくふうってないものかしら。」

「それはあるまいよ。」と、おばあさまはいいました。「だがね、こういうことはあるそうだよ。ここにひとり人間があってね、あなたひとりが好きになる。そう、その人間にとっては、あなたというものが、おとうさまやおかあさまよりもいいものになるのだね。そうして、それこそありったけのまごころとなさけで、あなたひとりのことをおもってくれる。そこで、お坊さまが来て、その人間の右の手をあなたの右の手にのせて、この世も、ながいながいのちの世もかわらない、かたい約束を立てさせる。そうなると、その人間のたましいがあなたのからだのなかにながれこんで、その人間のしあわせを分けてもらえることになる。しかも、その人間はあなたにたましいを分けても、じぶんのたましいはやはりなくさずにもっているというのさ。だが、そんなことはけっしてありっこないよ。だって、この海のそこの世界でなによりうつくしいものにしているおさかなのしっぽを、地の上ではみにくいものにしているというのだもの。それだけのよしあしすら、むこうはわからないものだから、むりに二本、ぶきような、つっかい棒みたいなものを、かわりにつかって、それに足という名をつけて、それでいいつもりでいるのだよ。」

 そういわれて、人魚のひいさまも、いまさらため息しながら、じぶんのおさかなの尾にいじらしくながめ入りました。

「さあ、陽気になりましょう。」と、おばあさまはいいました。「せっかくさずかることになっている三百年の寿命です。そのあいだは、好きにおどってはねてくらすことさ。それだけでもずいぶんながい一生ですよ。それだけに、あとはきれいさっぱり、安心して休めるというものだ。今夜は宮中舞踏会ぶとうかいをやりましょう。」

(引用:人魚のひいさまDEN LILLE HAVFRUEハンス・クリスティアン・アンデルセン Hans Christian Andersen楠山正雄訳)

…短刀は、人魚のひいさまの手のなかでふるえました。――でも、そのとき、ひいさまは短刀を波間なみまとおく投げ入れました。投げた所に赤い光がして、そこから血のしずくがふきだしたようにおもわれました。

もういちど、ひいさまは、もう半分うつろな目で、王子をみました、そのせつな、身をおどらせて、海のなかへとび込みました。そうしてみるみる、からだがあわになってとけていくようにおもいました。

 いま、お日さまは、海の上にのぼりました。その光は、やわらかに、あたたかに、死のようにつめたいあわの上にさしました。人魚のひいさまは、まるで死んで行くような気がしませんでした。あかるいお日さまの方を仰ぎました。すると、空の上に、なん百となく、すきとおるような神神こうごうしいもののかたちがみえました。

そのすきとおるもののむこうに、船の白い帆や、空のあかい雲をみました。空のその声はそのままに歌のふしでしたが、でもそれはたましいの声で、人間の耳にはきこえません。そのすがたもやはり人間の目ではみえません。

それは、つばさがなくても、しぜんとかるいからだで、ふうわり空をただよいながら上がって行くのです。人魚のひいさまも、やはりそれとおなじものになって目にはみえないながら、ただよう気息いきのようなものが、あわのなかから出て、だんだん空の上へあがって行くのがわかりました。

「どこへ、あたし、いくのでしょうね。」と、人魚のひいさまは、そのときたずねました。その声は、もうそこらにうきただよう気息いきのなかまらしく、人間の音楽にうつしようのない、たましいのひびきのようになっていました。

すると、「大空のむすめたちのところへね。」と、ほかのただよう気息いきのなかまがいいました、「人魚のむすめに死なないたましいはありません。人間の愛情をうけないかぎり、それをじぶんのものにすることはできません。

かぎりないいのちをうけるには、ほかの力にたよるほかありません。大空のむすめたちもながく生きるたましいをもたないかわり、よい行いによって、じぶんでそれをもつこともできるのです。

(あたしたちは、あつい国へいきますが、そこは人間なら、むんむとする熱病の毒気で死ぬような所です。そこへすずしい風をあたしたちはもっていきます。空のなかに花のにおいをふりまいて、ものをさわやかにまたすこやかにする力をはこびます。こうして、三百年のあいだつとめて、あたしたちの力のおよぶかぎりのいい行いをしつくしたあと、死なないたましいをさずかり、人間のながい幸福をわけてもらうことになるのです。お気のどくな人魚のひいさま、あなたもやはりあたしたち同様まごころこめて、おなじ道におつとめになったのね。よくも苦みをおこらえなさったのね。それで、いま、大空の気息いきの世界へ、ごじぶんを引き上げるまでになったのですよ。あと三百年、よい行いのちからで、やがて死ぬことのないたましいがさずかることになるでしょう。)

そのとき、人魚のひいさまは、神さまのお日さまにむかって、光る手をさしのべて、生まれてはじめての涙を目にかんじました。

――そのとき、船の上は、またもがやがやしはじめました。王子と花よめがじぶんをさがしているのを、ひいさまはみました。ふたりは、かなしそうに、わき立つ海のあわをながめました。ひいさまが海にはいってそれがあわになったことを知っているもののようでした。

目にはみえないながら、ひいさまは、花よめのひたいにせっぷんをおくって、王子にほほえみかけました。さて、ほかの大空のむすめたちとともども、そらのなかにながれてくるばら色の雲にまぎれて、たかくのぼって行きました。

「すると、三百年たてば、あたしたち、こうしてただよいながら、やがて神さまのお国までものぼって行けるのね。」

「いいえ、そう待たないでも、いけるかもしれませんの。」と、大空のむすめのひとりがささやいてくれました。「目にはみえないけれど、あたしたちは、こどもたちのいるところなら、どの人間の家にもただよっています。そこで毎日、その親たちをよろこばせ、その愛いつくしみをうけているいい子をみつけるたんびに、そのためしのときがみじかくなります。こどもは、いつ、あたしたちがへやのなかへはとんで行くかしらないのです。でも、あたしたちが、いいこどもをみて、ついよろこんでほほえみかけるとき、三百年が一年へります。けれど、そのかわり、いたずらな、またはいけないこどもをみて、かなしみの涙をながさせられると、そのひとしずくのために、あたしたちのためしのときも、一日だけのびることになるのですよ。」

(引用:人魚のひいさまDEN LILLE HAVFRUEハンス・クリスティアン・アンデルセン Hans Christian Andersen楠山正雄訳)

「じゃあコレがどういう風にキリスト教的な価値観を反映しているのか」というと、考察記事があったので引用してみます。

しかし、人魚姫は「人間」になることだけにあこがれたのではなく、「天国」にあこがれたのだという見方もできます。人魚のほうが長生きできるのに、どうして人間となって天国に行きたかったのでしょうか。そこには、神による「救い」があるからです。神によって救われた魂は永遠の生を獲得することができるからです。まさに、「救い」こそは「幸福」を超越した恵みであり、キリスト教の根幹となる思想でもあります。

おばあさまの説明から、人間とはキリスト教徒であり、人魚とは異教徒であることがわかります。いくら長生きして海の底で楽しく遊んで暮らしていても、そんな「幸福」など、神による永遠の「救い」に比べれば刹那の「快楽」にすぎないのです。

本当の「幸福」とは「救い」によって初めて訪れるというのがキリスト教的幸福感です。人魚姫は「人魚のほうが人間よりも恵まれている」というおばあさまの言葉を理解してはいましたが、それでも「救い」のない「快楽」の虚しさを感じてしまったのです。

だから、最後に救われて天国に行くために人間になりたかったのではないでしょうか。

(引用:一条真也オフィシャル・レクチャーサイト 童話篇第一講「人魚姫 」より)

ごくごくカンタンに言うと「目に見える幸せよりも大事なことがある」みたいな話しですね。

※補足※
これだけだと二元論(肉体を悪とし、魂を善とする、といった考え方)みたいにとられそうなので補足しておきます。
聖書は肉体も肯定しているし地上での生活(お酒や食べ物を楽しんだりすることや、男女の恋愛等)も肯定してます。上記の記事では「救い」こそ「幸福を超越した恵み」とありますが、この「救い」という言葉は宗教によって解釈が分かれるものであり、キリスト教の「救い」は「神との関係の回復」を指します。
なんじゃそりゃなんのうまみもない宗教やんけ、と思われる方がいても仕方ないことだと思います。でも信じてる人間はなぜかそこを「救い」だと感じているのです。

…ということで『人魚姫』がどうキリスト教的価値観を反映しているのか、という考察の1つを紹介してみました。

▼参考図書


見えない世界の物語 超越性とファンタジー (講談社選書メチエ)


子どもの本を読みなおす―世界の名作ベストセレクト28

また、人魚姫の選択が「自己犠牲」的だったことも、キリスト教的要素として語られることが多い印象です。

塩狩峠、実話、自己犠牲、永野、三浦綾子第11話「マンガ塩狩峠」自己犠牲は本当にクリスチャンの美徳?椎名林檎も愛した文学

 


 

ということで、『リトルマーメイド』と『人魚姫』の比較と作者の信仰観、そこからの聖書解説でした!

改めて考えると、どちらも好きだなぁと思わされます。実写映画も楽しみですね。

 

 


 

アニメ&原作紹介

【リトルマーメイド】を観たい方は


リトル・マーメイド MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー+MovieNEXワールド] [Blu-ray]

ディズニーアニメはDVDで置いておくのもおすすめです。私が幼いころは(まだビデオだった時代)、勝手に流して大人しくしていたものです。ちなみに2(アリエルとエリックの子どもが活躍する続編)も意外と好きでした。

(「いつかみ」は基本的にオタク向けなので月額アニメサービスには d-アニメストア を推しているのですが、ディズニー作品は取り扱いがありませんでした…。)

 

【人魚姫】を観てみたい・読んでみたい方は

また、原作の『アンデルセン童話』は青空文庫でも無料で読めますが、お子さんがいらっしゃるおウチなどはぜひ一冊は置いておきたいところ。


アンデルセン童話 にんぎょ姫


完訳版 アンデルセン童話集 全7冊セット (岩波文庫)

 

『人魚姫』はたくさんの絵本にもなっています。いわさきちひろさんの絵本はとくに有名ですね。


にんぎょひめ (いわさきちひろの絵本)

 

また、少女挿絵で有名な藤井千秋さんの『人魚姫』も復刻されるかもしれないそうです。

楽しみですね。

▼参考図書


見えない世界の物語 超越性とファンタジー (講談社選書メチエ)


アンデルセン研究 (1969年)


子どもの本を読みなおす―世界の名作ベストセレクト28


妖精物語について―ファンタジーの世界


児童文学最終講義―しあわせな大詰めを求めて


ディズニー アリエルの法則 Rule of Ariel 憧れのプリンセスになれる秘訣32

 

聖書紹介

聖書を読んでみたい方のために、できるだけ無料で読める方法の紹介と、紙で買う場合のおススメ訳を紹介しています。参考になれば幸いです。

【聖書おすすめ論に終止符】無料で最新聖書が読めるアプリ紹介!【僕の考えた最強の聖書入手法】