…主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧、あなたを置いて誰のところへ行きましょう…
「シェイプ・オブ・ウォーター」を観た。(2023年12月あたり。このコラムはあらかた書いてそろわないパーツを洗いだしておいて、寝かせておいて、再度見直して公開する。)
この7年のあいだで視聴した映画のなかで一番良かった、かもしれない。というか、当コラムライターの人生におけるお気に入りフィクション作品5本の指に入ったかもしれない。(最近に感動したのはディズニーの「アラジン」実写版)
この映画の何がそんなに気に入ったのか考えてみたところ、個人的に自分が好きな物語構造について言語化することができたので、そういう意味でも縁の深い作品になったと思う。
このパラノーマル・ロマンス映画は、キリスト教的なものへのカウンター表現が各所にちりばめられている映画だった。
現代日本人キリスト教徒でありながら、パラノーマルロマンスの前身とも呼べるであろう『異類婚姻譚』に執着していて、かつこの「シェイプ・オブ・ウォーター」に感動するというのはどういうことなのか…
自分の中でも可能な限り言語化しておいたほうがいいと思ったので、このコラムを書く。
そして検索可能性を上げるために、そのほかの要素についても解説を加えていく(これはノベライズ版を読み、映画の解説本も読んだうえで妥当だと感じた部分をピックアップしていく所存である)。
前半はシンプルに映画の解説、後半に行くにつれて筆者の解釈の色が濃くなっていく。少々長くなるので、目的が明確な方は目次を活用していただきたい。
ネタバレを含みます。
目次
「シェイプ・オブ・ウォーター」にまつわる考察や解説
「シェイプ・オブ・ウォーター」の意味、最後の詩
「The Shape of Water」は『水の形』と訳すことができ、それ意味するところは『愛』であるとする人や(※1)、少々抽象度を高めて『形のないもの』と訳すことができる、と述べる人もいる(※2)。
(※1)町山智浩『映画には「動機」がある』p.29
(※2)岩松あきら『映画「シェイプ・オブ・ウォーター」を読む 【完全解説】』
この作品における『水』が指すものとは、最後の詩と照らし合わせることで、文脈をより鮮明に浮かび上がらせることができるもののようである。
あなたの形は見えていなくても、私の周りにあなたを感じる
あなたの存在が私の目を愛で満たす
私は何もほしくない あなたはどこにでもいるから
町山氏は、この「あなた」とは「水」であると解説する。
「イライザの正体は半魚人(人魚/異類/人外)」という見方
岩松あきら氏による『映画「シェイプ・オブ・ウォーター」を読む 【完全解説】』を読むと、興味深いことが書かれていた。
本作品では、人間社会に憧れてやって来たが、人間社会に失望した人魚と半魚人は海の世界へと戻ろうとする。半魚人はそのまま海へ戻ればいいが、人魚姫のイライザは、人間の姿から人魚へと戻らなければならない。
(中略)
つまり、本作品で童話「人魚姫」で脚をはやす魔法を使う魔女にあたる人物が半魚人である(半魚神と表記した方が適切だろう)。イライザが幼少期の外傷によって声帯を傷つけ話せなくして脚を与えたのは半魚神であり、老人画家の髪の毛のごとく、彼女に脚を生えさせる(エラを復活させる)のも彼であったのだろう。( https://note.com/cinemachi_photo/n/nb25bcb2c744b?sub_rt=share_sb )
なるほど…イライザがもともとは異類であり、最後にキメラ的形態(アナロジズム的形態?)に変態したのは「元にもどった」という見方らしい。
確かに、モチーフのひとつとされている「人魚姫」のことを考えると、その線もなくはないのか…と思った。
同じように映画版を見た、筆者の夫にもこの解釈について話してみたところ、「考えたことはなかったが、その解釈もできると思う」と返答がきた。
で、まあ、筆者自身は一応『物語は読み手・受け手のものではあるが、筆者自身は制作側の意図にできるだけ沿った解釈をした上で、その味について感想を述べたいタイプ』なので、製作者の意図を探るべく、アマゾンの奥地へ…は向かわずに、ノベライズ版「シェイプ・オブ・ウォーター」を求め、読んでみた。
そして、監督的にはこっちの線は考えてないんじゃないかな…と思った。
ノベライズ版は三人称で書かれており、それには地の文がある。最後にイライザが彼とともに海に沈んで変態した場面についても、映画版よりはもう少し詳細に、創り手の意図が読み取れる情報がある。
そこでは、あくまで海の上の人間界を「彼女の故郷」(ノベライズ版p.587)と表現されていたり、イライザが人間の肉体から半漁人へと変化する過程が「新しい可能性」(※ノベライズ版p589)と表現されていたりする。
なので、やはりイライザの正体はフツウに人間で、“彼の”力によって半魚神と同じ形態に変態した…という見方が、一応は公式にのっとった見方ではないだろうか。
ストリックランドは解放されていたらしい
これも解説書とノベライズ版を読んで初めて知ったことだが、物語の終盤で“彼”によって絶命した“手を洗わない男・ストリックランド”は、救済されていた…ということらしい。
救済というのは、「男らしさからの解放」と表現してもいいかと思う。
ストリックランドが解放されていたというのは、私は映画を見ただけでは特に感じておらず、私よりかは映像作品を数多く見ている夫にも尋ねてみたが、夫も「映画を見る限りではわからなかった」という。
この作品では、男らしさに取りつかれた存在として描かれるストリックランド。その原因を作り出しているのがキリスト教の世界観である…という演出で通底していると考えて問題ないと思う。
おそらくキリスト教を唯一神教であると認識しているストリックランドが、“彼”を神として認めるというのは感慨深いシーンではあったが、映画版では「解放」まではわからなかった。
以下、ノベライズ版での該当シーンを一部引用してみる。
ストリックランドは泣いた、大声でしゃくり上げた。息子のティミーには、絶対に許さない泣き方だった。彼は頭を垂れた。恥ずかしくてギル神の永久に輝き続ける目を見ることができない。
(中略)
ギル神は同じ爪で、今度はストリックランドの顎を持ち上げた。彼ははなみずをすすり、目を閉じていようかと思ったが、できなかった。ギル神の顔とは数センチしか離れていない。涙が頬を伝い、顎に触れていたギル神の爪から腕のきらめく鱗へと流れていく。
「——あなたが神だ。私ではなく」
ストリックランドはささやくように告げた。「申し訳ない」
ギル神は小首を傾げた。あたかも彼の言葉を熟考しているかに見えた。そして、何気なく爪をこちらの顎から首に滑らせ、一気に喉を切り裂いた。(引用:「シェイプ・オブ・ウォーター」ギレルモ・デル・トロ ダニエル・クラウス 著/阿部清美 訳 p.581)
ハゲを癒さない“聖書の神”とハゲを癒す“彼”——キリスト教のカウンター表象
この映画のキリスト教批判的な表象はいたるところにあるが、個人的に一番印象に残ったのは、「ハゲ」を癒す神・癒さない神という対比だった。(もちろんこれは私の解釈にすぎないので、この観方じたい的外れである可能性もあるが…)
たとえば、福音書のイエスは色んな人々の病気を癒していくが(盲目・足なえ・長血など…)、ハゲを癒したという記述はない。そして、旧約聖書の記述にさかのぼると、「ハゲならば清い」(レビ記13章40節)のであり、とくに癒しの対象にはならない。
もっと言うと、聖書におけるハゲエピソードで一番有名なのは、エリシャだろう。(列王記下2章23節~24節)
エリシャのハゲを笑った少年たちは死んだが、笑われる原因となったハゲそのものに神が手を施したようすはない。
民間伝承にいたっては、イエスはペテロをハゲにした張本人として語られることすらある。
▽ドナウ民話
もちろん、ペテロがハゲになった理由については、まったく別の伝承もある。
そんな“聖書の神”の無能さと表現すべきか、あるいは人間の願いを取り合わなさというか、そういう感じをさり気なく強調するかのように、“彼”は主人公の親友の男性を発毛させる。
…といった具合に、この映画にはアブラハム宗教およびキリスト教へのカウンターとも呼べる表象がいたるところにちりばめられている。
米国では公開後、保守的なキリスト教会から「悪魔崇拝と獣姦を推奨する映画だ」と批判の声が噴出したようだ。批判の正当性は別にして、本作がそのような反応を誘っていることは確かだ。劇中、旧約聖書・士師記から「サムソンとデリラ」が引用され、「神のかたち」を巡る会話劇がある。〝彼〟は、私たちの(そして神の)似姿なのか、それとも異形のものなのか。本作はあえて明示していない。
「シェイプ・オブ・ウォーター」はハッピーエンドか?~少なくともホラーへの読み替えは不適切派の私~
本作がホラーである可能性を忘れてはならない。〝彼〟の過剰なまでに不気味なデザインは、その読み替えを待っているかのようだ。(批評家 黒嵜想)
これはキリスト新聞社に寄せられた批評家:黒嵜想 氏によるコラムであるが、これを読んで私との印象の差に少々驚いた。
筆者自身は、この物語を最後まで見て、〝彼〟の過剰なまでに不気味なデザインがこの物語がホラーとして解釈されないための要素の一つだと認識した。だから、最初にこれを読んだときは「そうはならんやろーー!」とスマホを投げてしまった。
※大前提、筆者には「フィクションはできるだけ作り手の意図や解釈をくみ取りながら咀嚼するのが佳い」という思想的があり、そうでない楽しみ方をする人も無数にいることを認識していて、そのどちらが正しいかという議論を始めると終わらない戦いの始まりになると思っている人間である。
※例えば、筆者は泉鏡花の「海神別荘」のテキストはホラーとして解釈できる(その可能性を否定できない)と思うが、この作品はさまざまな演出によりそれが明確に退けられていると感じた。
とはいえ黒嵜氏は批評家であり、私なんかよりよほどたくさんの作品に触れていると思うので、私がこの物語を「ホラーではない」と解釈したのはそこまで妥当な咀嚼方法ではなかったのかもしれない…とも思った。
その証拠と言ってはなんだが、この物語をハッピーエンドの物語として受け取りかねる人々は、黒嵜氏以外にもいるようだ。(インターネット上で読んだ感想にそういうのがあったと記憶しており、再度探してみたがうまく見つけられなかった…もしかしたら幻だったのかもしれない……)
ただ、いちおう、町山智浩氏の『映画には「動機」がある』によると、ギレルモ監督自身はこの作品をハッピーエンドとして描いた、ということらしい。
(幼少期に『大アマゾンの半魚人』(1954年)を観た際のことを語るギレルモ監督のインタビューの引用)
「何も悪いことをしてないのに。七歳の私は非常に憤慨しました。だから、私なりのハッピーエンドを描いたのです。」
ギレルモ少年は、半魚人とジュリー・アダムズが楽しくデートする絵を描いた。二人で自転車に乗ったり、ピクニックしたり、アイスクリームを食べたり……そして、二人はいつまでも幸福に暮らしました……。
その落書きが五十年近くの歳月を経て『シェイプ・オブ・ウォーター』として実を結んだ。(引用:町山智浩「映画には「動機」がある」p.11,2020年,集英社)
同書のpp.19-20によると、この映画は監督がこだわりを演出するために自腹で製作費の一部を負担したことなどが言及されている。監督は、コストが嵩んでも、自身の意図を映像に沁みとおらせるような作品の作り方をするようだ。
ならば、監督自身が提示した物語の着地点に対して、描き出されていないところを想像して別方向の読み換えをするのは、この映画の鑑賞方法としては不適切なのではないかと思う。しかしこれもまた私の好みの話でしかないのかもしれない。
「シェイプ・オブ・ウォーター」異類婚姻譚としての類型
異類婚姻譚:異類婿・嫁入り・幸福と呼べそう
この物語は、最後に“イライザ(演:サリー・ホーキンス)”は、一度死に、“不思議な生きものの彼(演:ダグ・ジョーンズ)”と共に海に入り、彼の力で蘇生し、キメラ的形態(アナロジズム的な形態?)へ変態し、「彼と共に海の中で幸せに暮らした」とされる。
異類婿とともに異界へ入り、自身も異類に近い姿に変身するというラストなので、
日本の異類婚姻譚でいうと、小松和彦が定義するところの、日本昔話「幸福・水辺出現型」、あるいは「幸福型」と共鳴する物語だと認識した。
小松和彦は、日本昔話における異類婚姻譚のうち「人間の女が、異類婿に嫁入りしていく」型について、次のような整理・分類をした。
| (A)殺害型 | 嫁入りの途中で異類を殺害する。厳しい排除、異類婚姻の否定の思想が現われている。 |
| (B)殺害・ 里帰り型 | 短期間の夫婦生活があるが、里帰りの途中で異類の夫を殺害する、やや排除の姿勢がゆるんでいるといえる。 |
| (C)子ども誕生・ 逃亡型 | 長期間夫婦生活を続け、子どもまでもうけるが、救出者が現われて人間界に戻る。さらに排除の思想が緩んでいる。子どもは「片側人間」。 |
| (D)幸福・ 里帰り型 | 約束に従って嫁入りし、ときどき里帰りするが、異類の身になっているところを見られて去る。ほとんど排除の思想が見られない。 |
| (E)幸福・ 里帰り・ 子ども誕生型 | 嫁入りし、子どもまでもうける。ときどき里帰りするが、母子ともに異類の見になっているところを覗かれて、子どもとともに立ち去る。 |
| (F)幸福・ 水辺出現型 | 嫁入りしたのち里帰りもしない。水辺にときどき出現するだけである。蛇の子を伴っていることもある。出現する嫁は「片側人間」。 |
| (G)幸福型 | 嫁入りしたあと、二度と人間界に姿を現すことがない。嫁に入ったのち完全に人間界との関係を断ち切っているので、異類婚姻をもっとも肯定しているといえる。嫁入り後やがて完全な異類になり、子どもをもうけたと推測されるのだが、もちろん昔話には記されていない。 |
今回「シェイプ・オブ・ウォーター」と構造を共にすると思ったのが、(F)「幸福・水辺出現」型か、(G)「幸福」型 だと思っている。
イライザは人間界に姿を現した描写は劇中にはないが、「完全な異類になり、幸福になった」と映像とストーリーテラーにより明確に提示されているので、(F)~(G)の間の物語だと認識している。
近代の作品でいうと「海神別荘」(泉鏡花)とかがこれにあたる…と思っている。(おそらくもっと他に例はあるんだろうが、筆者は知識が浅いので他のフィクションが思いつかない…。)
昔話に関して言うと、コレ系の話は小松が整理しているくらいだからたくさん記録されており、筆者自身も目の端で確認してはいるが、聞き手に2人の幸福を認識させる語りまで記録されている話というとマチマチなので、最近読んだ説話研究の本で紹介されていたひとつを引用しておく。↓
山形県東置賜郡宮内町(現在の南陽市)の手打つ沼のヌシ(大蛇)に嫁いだ娘は、父親の前に、水中から美しい花嫁姿で現れ、にっこり笑ったのち、ふたたび水底に消えていったという。その手は立派な花婿(ヌシ)に取られていた。父親は「沼の中にも、きっと龍宮城があるなだべ……そうに違えねえ……」とつぶやいたという。
伊藤龍平「ヌシ」p.109
かといって、筆者は日本昔話の(F)「幸福・水辺出現」型や、(G)「幸福」型 を、必ずしもハッピーエンドとしては認識しない。けれどこの「シェイプ・オブ・ウォーター」はハッピーエンド物語であると認識する。
それがやはり、伝承とフィクション作品の性質の違いから生まれるものなのではないかと思う。
私が「シェイプ・オブ・ウォーター」を気に入った理由
現代日本人としての「私」の好み
筆者はキリスト教徒なワケであるが、それと同時に「現代日本人」でもある(平成元年生まれ)。洗礼を受けたのも20代になってからで、ごく一般的な表現をするとキリスト教にほぼ縁のない環境で育った、と言って遜色ない身の上である。
で、この作品は、現代日本人である私のパーソナリティーから出る私の好みに合致していた作品だった。
とりあえず書き出してみると、以下の2点による。
・私は「異類婚姻譚」と呼ばれる説話群に執着する人間である。(←これに関しての理由はまだ言語化してない。)
・私は、恋愛物語が好きで、とくに『二人の別れを確信した後に、やはり二人が結ばれた』という構成が死ぬほどツボ。(「離れ離れになったけれど2人の心は共にある」みたいなのよりもどうしてもこういうのが好き)
筆者が「異類婚姻譚」に執着している、というのは、理由の言語化はまだできていないのだが、執着具合ならこれまでここに綴ってきたコラムを見ていただければ、それなりに判断していただける事案だと思う。
次に、筆者の好きな構造についてだが、
それは、視聴者である私自身が「主要な人物両者の別れを確信」し、心の底から完全にあきらめたところで、そのあと2人がフィジカルごと寄り添って生きることが提示される…という展開が好きだ、ということだ。
身近な例として一つ作品を上げるが、私が一番好きな作家さんは荻原規子氏であり、とりわけ『薄紅天女』という作品が好きである。この物語では、最終的には主人公は皇女であるヒロインをさらって故郷に連れて帰る。「更級日記」で菅原孝標の娘が記した物語からインスパイアされた物語なのだが、私がこれを初めて読んだときは小学生でそんな古典のことは知らないので、『この二人は離ればなれになって、共に旅した記憶を胸に秘めておのおの生きて死んでいくんだろうな』…と思っていた。そしたらめちゃくちゃ終盤でサラっと主人公がヒロインをさらいに来た。そしてふたりは末永く幸せに暮らした、と読める語りで閉じられる。
おそらくこれは、メタ的な要素を含まなくてはならないので(私自身が「別れを確信」しなくてはならないので)、どのジャンルで起こるかわからない。視聴時の私の体調などにも左右されうる話である。
今回の「シェイプ・オブ・ウォーター」は、ジャンルを定義しがたい立ち位置だったことや
(『ラブロマンスなの?それともホラー的な展開になっていくの?』というのが掴みにくいジャンルだったと思う。この「迷い」にどれくらい製作陣の意図の影響があるのかはわかっていないが、そこを突き詰めることにあまり興味もない。色んなものを雰囲気で見る人間なので…)、
私自身が日本人であることが起因していると思われる。
(非キリスト教圏たる日本における異類婚姻譚の展開は「別れから得られるクソデカ感情を味わう(しかない)」といった展開が多い…という予備知識があった。ましてやこの作品はアンデルセンの「人魚姫」もモチーフとしてちりばめられている。クソデカ感情味わうしかない系異類婚姻譚の大御所である。)
ということで、私は途中まで“彼”とイライザの別れを本気で確信していた。
劇中の“彼”の純粋で残虐な様子(人間とは価値観が違うさま)から、“彼”が悪意なくイライザを海に連れて入ってしまう的なメリーバッドエンドと呼びうる結末になる可能性なども考えていた。(こういう展開も嫌いではないが、私の中では「フィジカルごとよりそって生きる」範疇には入らない)
いずれにせよ、私は「フィジカルごと寄り添って生きる」という展開の想像をしていなかった。
結局イライザは、一度死に、“彼”と共に海に入り、彼の力で蘇生し、キメラ的形態へ変態し、「“彼”と共に海の中で幸せに暮らした」―――とされ、物語の幕は下りた。
私は気づいたら号泣していた。
慰め…のような感情で心が満たされて、涙がとめどなくあふれてきた。
ああ、私はこういうのが好きなんだ――――と思ったので、その理由を言語化できるところまでしてみたいと思い、このコラムを綴ろうと思った。
監督の幼少期の感覚、私が異類婚姻譚を読むときに感じていたものと似ているのかも
町山智浩『映画には「動機」がある」によると、この映画は『大アマゾンの半魚人』の続編である『半魚人の逆襲』に影響を受けているのだそうだ。
『逆襲』では、前作で死んだはずの半魚人が生き延びていて、結局捕獲され、フロリダの海洋研究所でタンクに閉じ込められ、見世物にされる。首に鎖を付けられて、クリートという科学者(ジョン・エイガ―)に電撃棒で虐待される。
驚くのは、クリートが悪役ではなく、ヒーローとして描かれていること。それが、冷戦時代のアメリカが理想とした男らしさだったのだ。
『半魚人の逆襲』のクリートには、ヘレンという恋人がいて、水槽に囚われた半魚人を見て、こう言う。「彼はこの世界でたった一人の生き残りなのよ。みなし子みたいなものなの。本当に孤独なのよ。」ヘレンの言葉が伝わったかのように、半魚人はタンクを脱出して彼女に会いに行き、クリートたちに殺されてしまう。この哀れな半魚人は、『シェイプ・オブ・ウォーター』で逆襲する。
(引用:町山智浩「映画には「動機」がある」pp.12-13,2020年,集英社)
私自身はこの『半魚人の逆襲』を視聴したことはないが、このあらすじを読んだ際に受ける印象は、日本の昔話における異類婿譚と似ていると思った(私の主観の話である、念のため)。
採録されている日本の異類婚姻譚の多くは、異類と人間の婚姻を拒否するのが主流である、と認識している。
異類婿に関しては、明確な殺意を持って排除される。
例えば猿婿入なんかで、猿は娘自身の計画によって川に落とされたというのに、娘(あるいは娘と子ども)の安否を気遣う歌を詠みながら流されていく…という型の話を読むたびに胸の奥がきゅっとなる言いようのない感覚、これを味わいそうであり味わわなくてよかった物語だったから、だから琴線に触れたのかもしれない。
だから、私と同じように日本昔話の異類婚姻譚に満足できなかった人というのは、この作品が好みにあてはまるんじゃないだろうか。
“彼”が神でもとくに問題にならない…拝一神教としてのキリスト教
ストリックランドが“彼”に向かって発砲したものの、銃弾は効かず、「(お前は)神なのか…」とつぶやくシーンがあったが(このあとストリックランドは彼の一撃で絶命)
これもキリスト教のカウンターとして提示されてるっぽい気がするけどどうなんだろう?と思った。
個人的には、カウンターならないはずだと思った。なぜなら筆者はキリスト教は拝一神教だと思っているからである。
一般にキリスト教は排他的な一神教だといわれるが、実態として多神教的な要素も多い。たとえば、聖母マリア、天使と聖人、また宗祖と呼ぶべきルターやカルヴァン、ローカルな有名神父・司祭への篤い信頼は、ほとんど信仰にちかい。ただし学問的には一神教と多神教という枠組みは古く、現在では「拝一神教」と呼ぶ。実際には信者が数多の神の中から一柱を選んで拝んでいるからだ。
なので「神」と呼ばれる存在がどれだけいても、キリスト教徒たる筆者の世界観ともぶつからない。
この映画の製作陣が、このあたりの一連の流れをキリスト教へのカウンターとして演出したのか、そしてキリスト教にとって「問題になる」と思ったのかは解釈の問題だと思うので、ここでその解釈の妥当性について語りはしないが………
キリスト教徒へのカウンター映画にキリスト教徒が感動できるのは福音の構造
…とまあ、ここまでイロイロ書いてみたが、私がこの映画を愛でることができる理由というのは、たぶん「現代日本人である私が、キリスト教信者であれる理由」と共鳴しているのだと思う。
キリスト教徒がキリスト教のカウンター映画に感動できることはそれ即ち福音の構造と共鳴していることであり、キリスト教における慰めの根拠そのものを適応できる案件である。
だから私はこの映画を愛でることができる。
…もしかして、これ意味のわからないことを書いている?コレに関してはもう少し丁寧に言語化したいと思っているが、現状はちょっとむりかもしれない。
これについて一番詳細に書いているのはコチラ記事になる…と思う。
そもそも論、私がこの結末に感動できるのはキリスト教徒になったからだと思う
キリスト教徒になる=キリスト教の世界観で世界を見る というふうにも言えると思うが、これをさらに抽象化していくと、
有神論的世界観を持つ→人生に意味を見出す思考の構造ができる
みたいな感じになっていく…のはかなり了解可能だと思われる。(少なくとも現代日本で接することができる「有神論的世界観」についてはこれと不可分だと感じる。C・S・ルイスとかも「キリスト教の精髄」とかでそういうのの言及から始めてる。)
そして、またあとにも触れるが、筆者は「美女と野獣」という作品についても(ディズニー版,クリストフ・ガンズ版問わず)、『この結末では感動しようがない』と思っていた時代があり、それは非キリスト教徒時代であったし、非キリスト教徒のままだったら、今でも『心が打ち震える』という感覚までは持てなかったと思う。
筆者がその時代に「シェイプ・オブ・ウォーター」を見ていたら、この作品もまた『感動しようがない作品』群のひとつだったと思われる。
これについてはもう少し詳細に言語化したいと思っている。
これからの課題、そして結び
「美女と野獣」のアンチテーゼ、ということの是非
この物語は「美女と野獣」へのアンチテーゼ作品でもあるらしい(町山p.14)。そしてそれは、ディズニー版やクリストフ・ガンズ監督作品のことを指しているのであろう。
これについては、ヴィルヌーヴ版とボーモン夫人版の「美女と野獣(La Bell et La Bete)」でも実はそれぞれ物語の主題(?)が違っていると読むことができるようで、
現在人口に膾炙した「美女と野獣」の作品をそもそもどのように解釈しているか…というのが問題になってくる案件だと思う。
たとえば藤原真実氏は「ヴィルヌーヴ版のヒロインは(中略)結局は目に見えるものの圧倒的な支配力に打ち克つことができない。」
として、ヴィルヌーヴ版が近代小説的な様相を呈していることを述べる。対してボーモン版のベルは、「美女と野獣」の奥にある『アモルとプシュケ』の神話の転生として、理想化された神話的な展開になっていることを述べる。(参考:藤原真実「怪物と阿呆ー「美女と野獣」の生成に関する一考察」p.87)
「美女と野獣」という物語を、藤原氏の「ヴィルヌーヴ版美女と野獣」的解釈みたいに考えているのであれば、デルトロ監督の批判ももっともだとは思うが、
「ボーモン版美女と野獣」的解釈のように物語性(?)について着目すべき物語だと考える道もあるワケで…
後者でも「美女と野獣」のアンチテーゼという考えが成り立つならば、その批判はデルトロ監督自身の作品にもそのまま返ってきてしまうだろうとは思う。
まあ私は、この作品がこうやって完成された形で公表されている以上、制作者の『別作品の解釈』に異議をとなえることなどはまた別問題であると思う…そういうのは「美女と野獣」の解釈という場でやるべきなんだよな。
「マレビト」としての“彼”、そして“イエス”
町山氏はこの作品の解説書に
人間は古来、異質なものを神として崇めていた。身体の形が人と違うマイノリティは稀人(マレビト)と呼ばれ、尊敬され、大事にされた。子どもが怪獣を愛するのも、人間の原始的欲求に由来するのだろう。
(p.27)
という文を入れているが、このマレビト理解はたぶん違うんだよな…と思う。
ちょっとこの辺に関しては私も勉強不足なので勉強したい。
なお、“彼”がマレビトであるという解釈が可能だとして、“ヤハウェ”も“イエス・キリスト”もマレビトであるという解釈は可能であるようだ(亀井俊博『「まれびとイエスの神」講話』pp。27-32,2018年)。
むすび
…という感じだ。一応「個人の感想」以上の情報は入れたつもりではあるけれど、いずれもド素人の戯言であるし、インターネットに無数の塵のひとつを増やしてしまっただけかもしれない。
私からは以上です。
―――髑髏の丘で磔刑に処された男の声が聴きたくて、こんなところまで来てしまった(結びの句)―――
