【SPY×FAMILY(スパイファミリー)】を観て(読んで)、〈ヨル・フォージャー/ヨル・ブライア〉の性格的な特徴って何だろ?と考えていました。

…で、次のような特徴が思い浮かびました。
- 幼い頃からずっと弟の面倒をみる
- そのためにバイト(暗殺稼業)に手を染めており、それを続けている
- いきなり母になる
- 男性との交際経験ナシ(おとめ/処女)
- それらに特に不満を抱いていない
幼いころから「母親」であることを求められ、結婚生活においてもいきなり「母」であることを求められ、「女の子」である期間を経ずに人生の大半を過ごしていながらもそれをニコニコとこなす…〈ヨル・フォージャー/ブライア〉はそんな感じのキャラクターです。
物語によってはそのへんの苦悩をウェットに描いたり言及したりするタイプあるでしょうが、【 SPY×FAMILY 】のプロットに於いてはそこは主題ではなく(現時点では)、あくまでヨルはカラッと「よい妻であれるよう、よい母であれるよう」邁進します。しかも、「理不尽な犠牲をこれ以上生み出さないだめ、他者の平穏な生活を守るため」暗殺の仕事も続ける決心を行う回もあります。
目次
既視感…ああ、聖母マリアか

この母性的タフネスさ…何かと重なる…と思って気づいたのは、いわゆる『受胎告知』のモチーフとして西洋絵画で有名、西欧においてはそんな問題ではなく有名なイエスの母マリア(マリヤ)とのシンクロ感でした。
イエスの母マリア(マリヤ)、別称『聖母マリア(マリヤ)』。
イエスの母マリア(※)も、いきなり母になることを求められましたが、それを受け入れて未来に邁進したことが福音書の記述から読み取ることができます。
(※)新約聖書には『マリア・マリヤ』という名前の人物が2名~3名登場しますので、頭に『イエスの母』と付けました。
当時のイスラエル社会は現代日本と違って「交際期間を経て婚姻」というスタイルは一般的ではないのでカンタンに比べられませんが、それにしたってマリアは『処女懐胎』ですから「通常一般的な段階をすっ飛ばして、母」くらいに抽象化するとシンクロする、という話です。
『マリア崇敬』の文化がないプロテスタント福音派の流れに身を置いている私でも、アドベント(クリスマスを待ち望む期間のこと。待降節)では、マリアの信仰による決断を追体験するような牧師の話が多くなりますし、その信仰の在り方は各自心に留めておくお手本のひとつ、として語られます。
私自身は、聖書に親しみ始めて数年間はイエスの母マリアに個人的に心を寄せる…といったことがなかったのですが、福音書を何度か読んで思いを馳せている内に、また年齢を重ねるうちに、また当時の社会情勢がどんなものだったのかという知識が増えるうちに、
自分がマリアの立場なら、「あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)と言えるだろうか?
と考え―――その決意のデカさに胸打たれたことがあります。以来、マリアのこの台詞は、決断の時、黙想のとき、祈りのときよく反芻する言葉となりました。ということで、

もし、ヨルさんの思考パターンや行動様式に何かしらの好感を抱き、彼女のようになりたい…と思われた方がいたら、

この世界に実在したヨル・フォージャーのごとき女性、聖母マリア に想いを馳せてみるであるとか、正教会やカトリック教会のミサに行ってみる、というのはけっこう「アリ」かもしれません。

正教会やカトリックはマリア崇敬の震源地みたいなものですし、

それらはプロテスタントより身体性を大事にしがちなので、現実に影響をもらいたい場合には確実に「効く」だろうなという観点からそのように話しました。

…とこのコラムの筆者は言っています。
まあ、教会に行かなくても、それらにまつわる思索は信仰うんぬんを抜きにしてもあなたの人生を芳醇にしてくれると思うので、機会があれば…という感じです。
ロマンスにおける「処女」の意味や「いばら姫」のキスの文脈から妄想広がるロイヨルの今後
そう、最近読んでいた本で「ロマンスにおいて『処女』が意味するものは”男性経験の有無の説明ではなくて、ある信念の比喩なのだ」という話があって興味深いな…と思いました。
処女として象徴されているのは実は、表現のされ方こそ様々であるが、人間の1つの信念なのである。それは、極めてもろい己の存在の、芯のところに何かがある、そしてその何かは、それ自体が不滅であるばかりか、悲劇の主人公が掴み損なってしまう不死身の秘密を既に見つけてさえいるのだ、と言う信念である。
ノースロップ・フライ「世俗の聖典 ロマンスの構造」p.95ページ
【SPY×FAMILY】は「ロマンスと喜劇」を往ったり来たりする物語だと思うので、この「ロマンスにおける処女の比喩」がぴったり当てはまるのかというと現時点ではちょっとわかりませんが、まあ二次創作において喜劇を悲劇に再解釈してみたりロマンスに再解釈してみたりする営みは今日頻繁に行われていると思うので、書いてみました。

あなたの同人誌をアツくすることに何か貢献できたなら幸いです。
現時点でもヨルさんが信念のある女性であることは間違いありませんし、その信念は時に「ロイドよりも強いものである」と物語全体が主張するシーンが出てくるようなら、【SPY×FAMILY】はロマンスの王道を往っている作品と言えるのかもしれません。
あと、ヨルさんには「いばら姫」というコードネームがついていて、「いばら姫(眠れる森の美女)」と言えば「キス」がマクガフィン(キーとなるアイテムや出来事)(※)な民話ですので、ロイドとのキスは…あるのかな…どうなのかな…と気になるポイントだなと思いました。
(※)マクガフィンは通常「代替可能」なものとされていますが、「いばら姫」は民話なので「キス」という行為にも何か代替不可能の深層的な意味や寓喩が隠されているかもしれませんが…この辺はまた別件として探ってみたいです。
コメディとして終わるなら明確に描かれることはないかもしれませんが、途中からシリアス展開になった場合にはキッチリ描かれそうですよね。
以下、超絶余談
「処女懐胎」に関する想像力について、一応 釘をさしておくと…

「処女懐胎」なんてものは、何かの別の目的を持つ人たちのために捏造されて神格化された物語じゃないのか?
【 SPY×FAMILY 】だって、フォージャー家も表面的には家族だけど実際はそれぞれ思惑が違うワケだし…
…とまあ、【SPY×FAMILY】の物語のコードと聖書をシンクロさせながら考えると、こういった方面の想像力が生まれそうな気もするな…と思ったため、補足させていただきます。

「そういう人は一回落ち着いてほしい」って筆者が言ってます。
もちろんそういうことを考えることはいい事だと思いますし、興味があれば考え続けるべきでしょうし、それは自己探求にもつながるので無駄にはならない(※1)(※2)と思いますし、
ただ、こういったことを考えるためには「ある程度既存の知識を知る」「先人の知識を仕入れる」「興味の対象に関する知識そのものが『体験』を要する性質のものなら、自分でも体験してみる(※3)」などしなくてはならない、というのが私の持論であります。
(※1)自文化圏にはない価値観に触れることは、自分たちの価値観を知ることにつながるという考えから
(※2)一般的に必要とされている勉学とは違った分野になるので、もしかしたらあなたの家族は苦い顔をするかもしれませんが
(※3)そしてこのトピック(信仰に関する事柄)は「体験」を要する性質のものであります
「なぜマリア崇敬をするのか?」という質問を、ある宗教研究者にした人がいます。その宗教研究者の解答はこういったものでした。
本当に疑問に思っており、建徳的な批判を行いたいなら神や信仰に関する事柄は自分で調べるべき。「自分で調べる」の内訳は
・日本カトリック司教協議会教理委員会『カトリック教会のカテキズム』2002を熟読(最低10回通読)
・正教会に関する書籍(研究書)を10冊読む
である(※)。
処女懐胎の出来事はマリア崇敬と密接に関わっていますから、『処女懐胎は本当にあった出来事ではないのではないか?』という疑問への回答に流用できると思いました。
もちろん「信じる」というところに飛びこむ場合には、必ずしも知識は必要ではありませんので、この工程は不要です。また、この労力に対して興味が上回らないので保留にしておくとか(その場合はしたり顔で自説を話さないなどの態度が誠実かと思いますが)の場合も同じです。
私自身はマリア崇敬に批判的な立場ではないのでこういったプロセスは経ていませんが、個人的に気になるトピックではあるので時が整えばこれに関する学びを行っていきたいと願っています。
あなた自身の頭で考えるのはそこからでも遅くないと思います。処女懐胎にまつわる想像力の話については以上です。
ヨルさんは暗殺稼業で人を殺しているから聖母マリアと重ねるのは色々良くないのでは?

ヨルさんって人殺ししてるキャラだから、聖母マリアと重ねるのは不適切なんじゃ?
…的なお気遣い(?)をして下さる方もいるかな…と思ったのでそのへんについても軽く触れます。
このコラムはキリスト教の信仰を持たない方、あるいは聖書に親しみ出して日が浅いと自認されている方が読まれることを想定して書いています。
まず第一に、そういう事を言ってくるキリスト教徒がいたら、その人はコンテンツを読む力がないか、または読む気がないか、人間と言う存在への理解が極端であるか、聖母マリアがその人の中ではいかなる例えも寄せ付けない存在として在り他人にもそう考えてほしいと思っているか、あるいは聖書を読めないか、もしかしたら読む気がないか、はたまた「表面的にはわからない何か別の目的」があって発話しているか(例えば【SPY×FAMILY】や聖書/キリスト教に物申すことで自説を強化したい・それらに好感を持たないコミュニティの連帯を強めたい、等…)、そのいずれかの組み合わせか、あるいはすべての組み合わせか…である可能性が高いです。
なので、少なかれこういうトピックに関心を持ってここまで読まれているあなたとは、もう少し距離が必要なのではないかなと思います。
もしあなた自身が「ヨルさんと聖母マリアを重ねて考えるのは不敬では?」といったお気遣いをしてくださる場合には、少なくとも現代日本人キリスト教徒のひとり(※)として、私はそうは思わないと考える理由を少しだけ述べます。
(※)プロテスタントは、各個人がおのおとで聖書と(神のことば、ひいては『神』と)向き合うことが推奨される前提があります。その文脈についての詳細な解説はここでは行いませんが、「聖書を読んでいて、私がメシアだとわかりました」というインスピレーションですら、それはプロテスタントとしてはありうべきこと(それを他人が認めるかどうかは別として)だという思想が前提となっていることはご了承ください。
ヨルさんの暗殺は「罪なき人は対象ではない」とされ、「では罪がないとはいったい?」といった部分を考える要請は物語から発せられません。ヨルさん自身は「理不尽な悲しみを防ぐ」ためにそれらを行うと物語全体を通して主張されていると認識します。なので、ヨルさんの行為の是非について考えるのはコンテンツの読み方としては筋違いではないかと思います。
もちろん、それをきっかけに二次創作をしたいであるとか、自分自身がヨルさんのような立場になったらどのような選択をすべきか?などの、「ヨルさんを起点に想像力を働かせる試みをしたい」場合には、ヨルさんのような行為の善悪を考えてみるのはいい事だと思う、という立場です。
私は個人的に「その人にとって必要な想像力の全てを、神は祝福される」と思っているフシがあります。
▽参考
【名探偵コナン】キリストの救いの先には「新コ」あるいは「安室の女」への祝福がある – 聖霊論的二次元キャラ実在説【同人誌をアツくする聖書入門】
聖書は、時に「世界最初の殺人の記録」とされる『カインとアベル』の話が早々に(創世記4章)入ります。そこで殺人を行ったカインがどのように扱われているか(聖書からどのような世界観が読み取れるか)、というのは一つの指標だと思います。
私は、神のカインに対する数回の呼びかけの方法、またはカインを保護したことに神のカインに対する情を感じます。そこから、「神は、たとえ人間が誰かの悲しみを生み出してしまう行為を行ったとしても、罪を赦したいと願っているし、その贖いの道を準備されている」と読みます。(「贖いの道を準備されている」事に関しては、聖書全体を読むことでその輪郭が見えてくる事柄だと認識します)
また、聖書において、ほかにも殺人行為を行った人たちがどのように描かれているか、というのと統合して考えるのもポイントとして考えています。
他に、殺人で印象的な登場人物と言えば、モーセやヤエルやユディト…でしょうか。ヤエルやユディトなどは「女性、暗殺」という要素からヨルさんの話の補助線には適役な気もします。
→旧約聖書のヤエルの絵画14点。金槌で頭に釘を打って将軍を倒した、勇敢な女性(メメントモリ・アート 西洋美術の謎と闇)
→
『キリスト教の精髄』でも、第一世界大戦に出兵していたC・S・ルイスが戦争における兵士たちの殺人行為をどう考えるのかという問題について言及していますが、こういったものを考えるとき、時代の要請でその場に立たされた人間に対して、外野はどのようにに認識するのが誠実か、と思います。私は誠実であれずとも出来得る限りそうでありたいと願う者です。
▽「キリスト教の精髄」についてはコチラ
あとは、【SPY×FAMILY】はドイツがモデルとい考えることができるようなので、ドイツつながりで有名どころの話しをしてみると…
ナチスドイツの指導者であったアルフレッド・ヒトラーを暗殺しようとして刑死したディートリッヒ・ボンヘッファーという牧師・神学者のことはご存知でしょうか?私は、「時代に要請された殺人」というトピックについて考える際、ボンフェッファーのことが頭をよぎります。
ディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoefferドイツ語: [ˈdiːtʁɪç ˈboːnhœfɐ], 1906年2月4日 – 1945年4月9日)は、ドイツの古プロイセン合同福音主義教会(ルター派)の牧師。20世紀を代表するキリスト教神学者の一人。ボーンヘッファー、ボンヘーファーとも表記。
第二次世界大戦中にヒトラー暗殺計画に加担し、別件で逮捕された後、極めて限定された条件の中で著述を続けた。その後、暗殺計画は挫折。ドイツ降伏直前の1945年4月9日、処刑を急ぐ国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)により、フロッセンビュルク強制収容所で刑死。ベルリン州立図書館の一階には、絞首台のロープが首にかけられたボンヘッファーを描いた大理石の胸像が展示されている。
ボンヘッファーについて私が何か語る言葉を持っているとは思わないので、この存在を提示だけしてこの話は切り上げたいと思います。
私個人の考え…
別段、殺人のみが罪というわけではなく、我々人間は神の御前に等しく罪人である。しかしそれが救いと慰めの根拠となる、それがキリスト教の提示する価値観だと思っている。
また、人を罪に定めることができるとしたらそれは神だけであり(そして神は人を罪に定めることに興味はなく、自身と共に歩むことを恋願う存在であるとと考えている)、少なくとも「私」という人間に他人の罪の是非を定める資格はない。
「フィクション上のキャラクター」においては若干扱いが変わってくることがらだと思うが、私個人は『原作設定解釈可能延長線上』の想像力を好むゆえ、原作の「ヨル・フォージャーの暗殺という行為の扱い」に準ずる。原作の扱いは上記で伝えた通りであり、そこからは「彼女の行為の是非を考えろ」という要請は感じられない。
ゆえに私は「ヨル・フォージャーが暗殺稼業に手を染めているから、聖母マリアと比べるのは不適切」とは思わない。「たとえとして不適切、もっとふさわしくて比べる必然性がある人物がいる」という場合には、ぜひ検討したいのでご連絡いただければと思う。