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ノースロップ・フライの本,絶対創作に役立つでしょ【批評の解剖/大いなる体系/力に満ちた言葉】

私がノースロップ・フライの書籍に出会ったのは、聖書に親しみ始めて読み始めて8年以上たったころ合いだったと思います(そのうち約3年はほぼ完全に離れていた時期があるので、実質5年くらいですが)。図書館で調べ物をする際にレファレンスに問い合わせたところ、参考書籍にこの「ノースロップ・フライ」の本が何冊か挙げられていた為、自分でも借りて読んでみたところ…

なんだこれは!私が好きなヤツが詰まっている!もっと早く知りたかったッ!

と思ったのでした。三十路手前にして年甲斐もなく、「ワクワクしながら、布団に寝っ転がりながら常夜灯の下読む」みたいなことをしてしまったのを覚えています。

「大いなる体系」読書メーター

※「力に満ちた言葉」の読書メーターに寄せられた感想は2022年6月時点でありませんでした。

ノースロップ・フライーいわゆる「構造主義」の前身

1957年プリンストン大学出版局から刊行された『批評の解剖』(Anatomy of Criticism) は各国語に翻訳され, ノースロップ・フライの名前は一躍文学批評・理論の分野で広く知られるようになり, 英語圏の文学研究においてそれまでややもすると軽視されていたロマン主義文学の復権の契機になった。フライは以後文学ばかりでなく, あらゆる文化現象を神話論によって解明し, 注目されるようになった。しかし生涯, カナダ・トロント大学の英文学教授として学研生活を続けるとともに, カナダ文学・文化の独自性を説き続けた。彼の文学理論はダンテなどの西欧文学全般を包含するものであり, 『批評の解剖』は百科事典的知識に基づく壮大な体系である。

https://cir.nii.ac.jp/crid/1050564289102586880

 文学研究者の必読書
もし文学研究者にもノーベル文学賞が与えられるなら、まずノースロップ・フライに与えられるべきであろう。フライは、文学作品の価値定めを行うのは研究ではない、逆に言えば、学問的手続きによって文学にせよ美術にせよ、価値を決めることはできないという立場にたつ。かつ、文学の理論化において、過度の抽象化を行わず、これまで世にあらわれた文学作品に基づいて、分類を行う。…

Amazon★★★★★レビュー

…ということで、フライの書籍のなかで一番有名なのは「批評の解剖」という本のようです。

最近マンガをよく読むので、マンガもフライの理論で分類できるのん?という軽い気持ちで手に取ったのだけど、えらいもん読んじまったな。文学のぜんぶをぼこっと視野に収めようという、強烈に挑戦的な本である。まさに文学ジャンルのフルコース、その気もないのに、満漢全席頼んじまった圧迫感である。

(引用:「批評の解剖/ノースロップ・フライ」もれなくついてくる何か 読書ブログ。興味のおもむくままですが基本は文学読みです。

しかしながら、「聖書 かっこいい台詞 引用」みたいなキーワードで検索する人の需要を考えると、やはりそれには聖書の物語構造や隠喩についての書籍である「大いなる体系」あるいは「力に満ちた言葉」が適切なのではないでしょうか。

マンガやらアニメ、あるいはラノベなどのコンテンツ独立した価値を見出す人は勇気づけられる、と思う…

一般的にノースロップ ・フライの批評 は,文学批評 における構造主義の先駆であると同時に,なおも審美主義的要素を残 したもの,つ まり,奇妙な表現ではあるが,審美主義的形式主義 とでも呼ぶべきものと見なされてお り,フ ライに対する批判 もそれぞれの側面に関して行われている。た とえば,構造主義的側面については,『批評の解剖」に おいてフライが提示する文学様式の分類が必然性 を欠いていること,形式化が不十分であるために完結した体系として機能し得ないことなどが批判 され,他方において,審美主義的側面については,文学の科学的,形式主義的分析と自律的体系の構築を志向するあまり,文学を取 り囲む歴史,社会などの外部を捨象 していること,文学 というものを,それ自体で生成し発展していく自律的言語構造 として扱っていることなどが批判される。

(引用:アイロニー・理論・確実性 :ノ ースロップ・フライのアイロニーの理論について
高 橋 哲 徳
たくみ
たくみ

「文学 というものを,それ自体で生成し発展していく自律的言語構造 として扱っていることなどが批判される。」って言われるらしいけど…

昨今の日本の状況って、「コンテンツの中だけで完結する考察」が盛り上がったり、それを発信することで収益化が可能になって生活を支えられている人たちもいて、「社会と接続しない享受の仕方を続けていても、人間生活を営める」的な状況になっているので

…それが良い事か悪い事かはさておき…

…宇野常寛氏も「母性のディストピア」で『今この国に真面目に語るべき現実などあるのだろうか。マンガやアニメ以外に語るべき事などない』的なこと言ってますし、それに共感する人も一定数いるワケですし…

ノースロップフライへの批判は、この時代かえって力になるのでは…?とすら思っています。

「大いなる体系」のココが好き~聖書を読むときに感じる「クソデカ感情」の正体が詰まっていた

これを書いている私はいわゆるキリスト教徒(クリスチャン)なのですが、現在の日本で普通にキリスト教徒として生活を送っていてはノースロップ・フライの書籍に出会っていなかったということは、わかります。

筆者は一応信仰がある―「信仰がある」というか、「私には信仰がない」のだが、信仰がないところに神は働かれると信じている、という認識をしていて、それは一般的に「信仰がある」と表現されるのでそういう形容をとることが多い。

その自己認識が己の救済(ここで言うと「神との関係の回復」)につながっているかどうかはわからないし、終わりの日には「お前やっぱ毒麦だったわ」と言われる可能性も全然あるとは思っているけど、「神さん、あんさんがそう判断するならそれでエエんですわ。ただしあなたは「私が読みにとこをもうけても、あなたはそこにおられます」という方ですし、そこにいてくれはるんですよね?ならそこは私にとって神の国ですよね、あんさんは神だから」というくらいにはアブラハム宗教の神に心を寄せており(そしてその神さまの位格のひとつがキリスト・イエスだと思っており、聖霊によりて神は私と共にいて下さっているとし言う事も信じており)、世間一般的にみるとそれは「キリスト教徒である」と表現するのが妥当であると思っている。

ちなみに誰が救われている・いないというのは他者にはわからない、という聖書の言葉に基づいて考えている。キリスト教信仰を持たない人がその基準でものごとを考える必要はないが、キリスト教信仰を持っていると自認されている方に関してはそのように考えることを求めたいとは思っている。そんな感じ。

私自身は、フライの書籍を読むことでかえって自分の信仰が深まった感を覚えていますが、それは現状の日本人キリスト教徒の多くは共感しない感覚だと思います(※)

(※)それは「日本」にキリスト教が入ってきた歴史的背景と大きく関わっていることなので、現状は仕方ないことだと思っていますが。

作者は、敬虔なキリスト教徒であり、牧師の資格も持つが、地上のキリスト教のあり方について、過去の悪行については、きちんと、時にユーモアを交えて批判もしている。 

https://bookmeter.com/reviews/101716234

フライは宗教的情熱と冷静さをはかりにかけつつ、狂信や妄想とはっきりした一線を画する隠喩と一義的な用法を語り尽くす。共産主義の嘘、資本主義の夢、事実と教訓。それら第二義的なものへの目の向け方を徹底して、しかも明瞭に語っている

https://bookmeter.com/reviews/65174167

…とまあ、という感じにキリスト教信仰の共同体からは距離があるので、そういう点でも「特にキリスト教を信仰しているワケでもしたいワケでもない」という方も安心して読めると思います。

(カトリックでもプロテスタントでもどちらの共同体も興味を示さない事がらだと思うので。)

私は、プロテスタンティズムが120%発動できる土壌になってからキリスト教徒になった日本人キリスト教徒なので、かなりの文化的制約から解放されていながらもキリスト教徒であるというアイデンティティを維持しています。また、性格的に、己のニッチな嗜好を共同体に承認してもらうことにあまり熱心になれない性質なので(それは私の信仰が形成している思考パターンなのですが)、

私は、フライがよく取り上げるダンテもウィリアム・ブレイクの詩もシェイクスピアにも深く触れていません。

でも、フライの本は楽しめます。どうしようもなく面白いです。

(聖書の知識は、聖書の各書簡がどういう内容のことが書かれているか、くらいには把握している…くらいなものです。一応全部読んだことがある、という程度です。それでも面白い)

というか、わからない事については日本語版には丁寧な脚注がついているため、そこから学んでいくことができるカンジです。かなり勉強になります。

(写真入れます)

紫式部とか鈴木大拙にも言及あるんよ…ヒェェ…

文学批評史における彼の立ち位置を知りたかったら

ノースロップ・フライの文学批評史における立ち位置をもう少し知りたい、と言う場合は、筒井康隆の「文学部唯野教授」、あるいはその前身と言われるテリー・イーグルトンの「文学という出来事」がいいのかな、と思います。

「キリスト教の精髄」と合わせ技だと序盤中盤終盤とスキがなくなると思うよ

「聖書から何かを引用したい」という場合の資料としては

構造・ギミックを使いたい

「大いなる体系」「力に満ちた言葉」

その原動力を咀嚼して扱えるようになりたい

「キリスト教の精髄」「悪魔の手紙」

で、とりあえずはエエんやないの…?と思います。

みなさまの想像力の仕事の上に、豊かな祝福がありますように。