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【更新】名探偵コナン祭り開催中(6/13更新)

聖書からかっこいい名言引用したい人が最初に眺めるページ

こんにちは、人気マンガ・アニメから聖書を解説するWEBサイト「いつかみ聖書解説」です。このコラムは

たくみ
たくみ

なんかカッコイイ台詞を古典から引用したい

あおい
あおい

同人誌にもうちょっと厚みを増やしたい

と思われる創作家の方向けのページです。聖書は「世界一のベストセラー本」といわれており、西洋文学においては

ウィリアム・ブレイク
ウィリアム・ブレイク

旧約聖書と新約聖書は芸術の大いなる体系である

というくらい「もはや血肉、血脈」というレベルで影響を及ぼしている代物です。

(ノースロップ・)フライは、「聖書」と呼ばれているものは、もともと成立過程がお粗末な、さまざまな本文の矛盾混乱したごたまぜ(「聖訓、箴言、警句、格言、譬話、謎、抜粋短章句、定式的成句、民話、お告げ、顕現、類型、イエス聖言葉集、機械詩、欄外注、伝説、歴史文書からの断片、律法、書簡、説教、賛美歌、恍惚的幻視、儀式、寓話、家系一覧」)でしかないのかもしれないが、そんなことは一切問題にならないと言う。大事なことは「聖書」が伝統的に「統合体」として読まれてきたということ、そして西洋の想像力には「統合体」として影響を与えてきたということであると言う。

(ノースロップ・フライ著/伊藤誓訳「大いなる体系 聖書と文学」訳者あとがきよりp.407)
 

こう聞くと絶望的な気持ちになるかもしれませんが、このコラムでは

「とりあえず手早くなんか古典から引用したい」

という方にちょっとでもお役に立てばと思い、カテゴリにわけて色んな箇所を紹介してみました。自説に厚みを持たせるのに引用してもよいでしょうし、反論するための研究の入り口にしてもよいかと思います。

※当ページの聖書「基本データ」はとくに記載がない場合いのちのことば社「バイブルナビ」を参考にしております。

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▼こっちも参考になれば

【聖書】キリスト教のかっこいい単語あつめました 聖書からの名言引用は悪手?代わりにキリスト教世界観作家とか哲学者たちをまとめる~力尽きた、ここからたぐって~ キリスト教・聖書に影響を受けたとされる日本文学【35選】

※引用は著作権フリーのモノを使えば安心です。

では
Here we go★/

目次

聖書の全体像…の解説をやめた。ノースロップ・フライを読んでくれ

ここには聖書の全体像の解説コンテンツをいくつか紹介していたのですが、それをやめてノースロップ・フライの「大いなる体系」を読んでくれ、という話に変更します。もう説明するとキリがないんだもん…

聖書から何かを引用するために一冊持つならコレじゃない…?

ノースロップ・フライの本,絶対創作に役立つでしょ【批評の解剖/大いなる体系/力に満ちた言葉】

\スキルある人に監修依頼もいいぞ/

今度こそHere we go★/

壮大な概念ヤツ/畏怖を感じる系

創世記(天地創造の物語/アダムの物語あたり)

たとえば…

「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
(創世記1章)

書かれた目的:神が世界を創造し、1つの民を取り分けて自ら礼拝させたいと願ったことを記録する。
記者:モーセ
読者/宛先:イスラエルの民
執筆年代:紀元前1450~1410年
執筆場所:イスラエルが放浪した荒野の中、シナイ半島のどこか
舞台/背景:現在の中東地域
登場人物:アダム/エヴァ/ノア/アブラハム/サラ/イサク/ヤコブ/ヨセフ

あおい
あおい

「天地創造の物語」は1章1節~2章4節

たくみ
たくみ

「アダムの物語」は2章4節~5章32節

プロトエヴァンジェリウム/原福音 (壮大な伏線)

「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。 彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」(創世記3章15節)

『創世記』の一節ですが、聖書の数千年・何種類にもわたる伏線の最初のものでもあります。どう使うかは未知数です。

原福音(げんふくいん、ラテン語:Protoevangelium)は、伝統的な聖書解釈において聖書最初のメシア預言であるとされている創世記3章15節の聖書の一節である。神からアダムとエバを誘惑した蛇への宣告である。

歴史:ユスティノスが紀元160年頃やエイレナイオス180年ごろ原福音について最初に言及し、それ以来伝統的な解釈になっている。

内容:誘惑者である蛇と被誘惑者である女との間には、後の世まで戦いがあり、最終的には女の子孫が蛇に致命傷を与えると預言されている。女の子孫は単数形で集合名詞である。ダビデの子孫を指しており、最終的にはダビデの後裔キリストを指している。つまり、伝統的解釈によれば、キリストが蛇であるサタンに致命傷を与える十字架の出来事を預言しているとされている。

(引用:Wikipedia「原福音」項より)

ヨハネ福音書(初めにロゴスありき)

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」
(ヨハネによる福音書1章1節~5節)

書かれた目的:イエスが神の子であることと、イエスを信じるすべての人は永遠のいのちを得ることをはっきりと証明する。
記者:ゼペタイの子、ヤコブの兄弟、雷の子と呼ばれた使徒ヨハネ
読者/宛先:クリスチャンになったばかりの人、求道者
執筆年代:おそらく紀元85~90年頃
舞台/背景: 70年のエルサレム崩壊後、ヨハネがパトモス島に島流しされる前
おもな登場人物:イエス/バプテスマのヨハネ/弟子たち/マリヤ/マルタ/ラザロ/イエスの母/ピラト/マグダラのマリヤ
おもな舞台:ヨルダン地方/サマリヤ/ガリラヤ/ベタニア/エルサレム
特記事項:記録されている8つの奇蹟のうち、6つが(福音書のなかで)ヨハネにのみ記されている。「2階の広間での講話」も同様(14~17章)。ヨハネの福音書の90%以上がヨハネ独自のもの。系図やイエスの誕生、幼少期、誘惑、変貌、弟子の任命、イエスのたとえ話、昇天、第宣教命令については何も書かれていない。

(▼「新約聖書」の構成についてはこちらの動画がわかりやすいです。自動翻訳で日本語翻訳OKです)

あおい
あおい

青の祓魔師なんかでも詠唱に使われてた記憶ある

ヨハネの黙示録全般

たとえば…

あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。
ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。

その声はこう言った、「あなたが見ていることを書きものにして、それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい」。

そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。

それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。

そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。

その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。

その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。

わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、

また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。

そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。(ヨハネの黙示録1章10~19節)

書かれた目的:キリストがどのような方かをすべて明らかにし、信者に警告と希望を与える
記者:使徒ヨハネ
読者/宛先:アジヤにある7つの教会と全地域にいる信者
執筆年代:紀元95頃に、パトモスから
舞台/背景:ほとんどの学者が、ヨハネの言うアジヤの7つの教会は、皇帝ドミティアヌス下に起きた迫害(90-95年)を経験していたと主張している。ローマの権力者は、ヨハネをパトモス(アジヤ沿岸)へ島流しにしたようである。受肉したキリストの目撃証人であるヨハネは、栄光を受けたキリストの幻を見た。神はヨハネに、未来に起こること――さばき、悪に対する最終的な神の勝利――を啓示した
主な登場人物:ヨハネ、イエス
特記事項:ヨハネの黙示録は「黙示啓示文学的」形式で書かれている。黙示文学とは、迫害のただ中にある者たちに(神の究極的勝利における)希望を伝えるため、象徴的イメージを使ったユダヤ文学の様式である。出来事は厳密な年代順ではなく、文学的様式に従って配列されている。

00:29:28~の本テーマらか再生されます
たくみ
たくみ

コヘレトの言葉(伝道の書/伝道者の書)

たとえば…

ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。 伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。(伝道の書1章1~2節)

天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、 泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、 捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。
(伝道の書3章1~8節)

書かれた目的:神から離れた人生には意味がないという、自分の苦い経験を通して学んだことを、次世代には味わわせないようにする
記者:ソロモン
読者/宛先:特にソロモンの臣民たち、また一般的なすべての人
執筆年代:おそらくソロモンの生涯の後の方、紀元前935
舞台/背景:ソロモンは自分の生涯、特に神から離れて生きていた時期を振り返っている

たくみ
たくみ

「今日は風が…騒がしいな…」みたいなシチュエーションで呟くと厚みがでる…か?

主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。(ジャイアント・キリング/後の者が先になる)

聖書には「一般的に弱い」とされている者が(神に頼ることのよって)勝利を得ていく、といったお話しが随所にあります。有名なのが「ダビデとゴリアテ」のエピソードで、これは『ジャイアント・キリング』と表現されます。また、こういった構造は聖書の各所に見つけることができます。

たとえば…

・ダビデのゴリアテ討伐
・聖書における「弟(圧倒的に恵まれない者)が信仰によって神に用いられる」(カインとアベル、エサウとヤコブ、マリアとマルタ)
・信仰義認のロジック「誇らねばならないのなら、私は自分の弱さを誇ろう」(パウロの言葉)

ダビデとゴリアテの戦いは「第一サムエル記」第17章に記されている。ペリシテ軍はエフェス・ダミムに陣を敷き、イスラエル軍はエルサレムの南西にあるエラの谷(英語版)に陣を敷き対峙した。ペリシテ陣営からゴリアテという巨漢の戦士が現れると「勇者を一人出して一騎討ちで決着をつけようではないか。もしお前たちが勝てばペリシテはお前たちの奴隷となる。ただし俺が勝てばお前たちはペリシテの奴隷となれ」と40日間、朝と夕の2回にわたってイスラエル兵たちを辱めた。しかしイスラエル兵はゴリアテに恐れをなし、戦いを挑もうとする者はいなかった。

羊飼いのダビデは、イスラエル軍に参加していた兄に食料を送り届けるために陣営を訪れていたが、この話を聞くと憤り、イスラエル軍を率いていたサウルにゴリアテの退治を申し出た。サウルは初めは難色を示したが、他に手段がなかったため、ダビデの出陣を許可した。サウルは自分の鎧と剣をダビデに与えたが、ダビデは「慣れていないので歩くこともできないから」とそれらを身に着けず、羊飼いの武器である杖と、投石器と、川で拾った滑らかな5個の石という軽装でゴリアテに挑んだ。

ゴリアテは「さあ来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」と嘲ったが、ダビデは「お前は剣と槍を頼りに戦うが、私はお前がなぶったイスラエルの戦列の神、万軍の主の名を頼りに戦う。戦いは剣と槍の力で決するものではないことを人々は知ることになるだろう。これはイスラエルの神の戦いである」と返答した。これを聞いたゴリアテはダビデに突進した。ダビデは袋の中から1個の石を取り出し勢いよく放つと、石はゴリアテの額に命中し、うつ伏せに倒れた。ダビデは剣を所持していなかったため、昏倒したゴリアテに近寄って剣を奪い、首をはねて止めを刺した。

ペリシテ軍はゴリアテの予想外の敗退により総崩れとなり、イスラエル軍はダビデの勝利に歓喜の声をあげた。イスラエル軍は敗走するペリシテ軍を追って、ガテやエクロンまで追撃して勝利を収めた。この戦いによりダビデの名声は広まり、サウルの側近として仕えるようになった。

(参考:Wikipedia「ゴリアテ」項)

画像
あおい
あおい

「鬼滅の刃」でも、『弱いとされる者ほど用いられる』ということを想わせるくだりがあったね

たくみ
たくみ

それが読者にどれくらい響いたのかは未知数だけど、人間にはこういったものを尊いと感じる志向性があるってことの一つの証しでもあるね

主の祈り

マタイによる福音書6章6~13節」にある、イエス・キリストの「祈るときはこう祈りなさい」というススメをもとに構成されたお祈りの定型文です。 キリスト教会の礼拝でスタンダードに使われていますが、訳は正教会・カトリック・プロテスタントで違います。

口語訳(主にプロテスタントが使用)

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。
御国〔みくに〕を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

書かれた目的:キリスト教の最も代表的な祈祷文である。「主祷文」(しゅとうぶん)とも。日本ハリストス正教会では「天主經」(てんしゅけい、天主経)と呼ばれる。
概説: 祈祷文として用いられている文章は、おおよそ『マタイによる福音書』6章9-13に則っている。5章の「山上の説教」に続いて語られているもので、最初の3つの祈り(2 – 5行目)は神と天上に関する祈り、次の3つの祈り(6 – 10行目)は人間と地上に関する祈りである。また、最後の部分(11 – 13行目)は、一種の頌栄である。

(参考:「Wikipedia「主の祈り」項)

あおい
あおい

キリスト教徒のキャラとかがいたら、下手に聖書の引用させるよりこの「主の祈り」唱えさせる方が整合性高いですよ(信じてない人にはイマイチしっくり来ないかもですが)

使徒信条・使徒信経/ニカイア・二ケア信条

こちらも「お祈り定型文」みたいなもの。「キリスト教徒はこういうものを信じてますよー」という要素がギュッと詰まったものですが、やたらと厨二心をくすぐると評判です。

プロテスタントの「使徒信条」(新聖歌より)

我は天地の造り主(つくりぬし)、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子(ひとりご)、我らの主(しゅ)、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生(うま)れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架(じゅうじか)につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審(さば)きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン

我、信ず、一《ひとつ》の神・父《かみ・ちち》、全能者、 天と地、見ゆると見えざる万物を造りし主を。 又、信ず、一の主イイスス・ハリストス、 神の独生《どくせい》の子、 万世《よろずよ》の前《さき》に父より生まれ、 光よりの光、 真《まこと》の神よりの真《まこと》の神、 生まれし者にて造られしに非ず、 父と一体にして、 万物、彼に造られ 我等人々の為、又我等の救いの為《ため》に 天より降り 聖神゜《せいしん》及び 童貞女マリヤより身を取り人と為《な》り 我等の為《ため》にポンティイピラトの時、十字架に釘うたれ 苦しみを受け葬られ 第三日に聖書に叶《かな》うて復活し 天に升《のぼ》り 父の右に坐《ざ》し 光栄を顕《あら》わして 生ける者と死せし者を審判する為《ため》に還《ま》た来り その国、終りなからん、を 又、信ず、聖神゜《せいしん》、主、 生命《いのち》を施す者、 父より出で、 父及び子と共に拝まれ讃められ、 預言者を以《もっ》てかつて言いし、を 又、信ず、一の聖なる公《おおやけ》なる使徒の教会を 我、認む、一の洗礼、以て罪の赦《ゆるし》を得《う》る、を、 我、望む、死者の復活、 並びに来世《らいせい》の生命《いのち》を
アミン

使徒信条(信経):キリスト教のうち、西方教会(カトリック教会、聖公会、プロテスタント)における基本信条のひとつラテン語原文の冒頭の語をとってクレド(Credo) とも呼ばれる。
歴史:使徒信条は、ローマ教会の古来の洗礼式の信条である「ローマ信条」(2世紀後半)にもとづいてつくられたもので,早くから公同の信条として用いられてきた。使徒信条という名は、この信条が使徒たちの忠実な信仰のまとめとみなされていることによる

(参考:Wikipedia「使徒信条」項)

二ケア信条: 381年の公会議で定められたキリスト教の基本信条で、東方・西方両教会で広くもちいられている。
議論: 東方教会と西方教会は聖霊(聖神)が御父なる神のみから出るか、御子なるキリストからも出るかの解釈が異なる(フィリオクェ問題)ため、その一部分を除いては、すべての教派で同一のものである。また、教義上問題とされることはないが、ラテン語のもの、さらにこれに準拠して西方教会系の教派で使われる版には、ギリシア語の原文にはない句「神よりの神」が挿入されている。また、ほとんどの教会では現地語の翻訳を用いるため、翻訳に教派独自の解釈が反映される場合も多少ある。

(参考:Wikipedia「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」項)

あおい
あおい

確かにカッコイイけど、ガッチガチに「信者の信じていることを言い表したもの」って性質だから 、引用は覚悟を持ってお願いいたします

聖詠経

日本正教会で、典礼中に用いる聖書。(「聖詠経」は旧約聖書の内容をまとめたものとなり、「使徒経」「福音経」は新約聖書の内容にあたる)。

たとえば…

第八十五聖詠

ダワィドの祈祷。
主よ、爾の耳を傾けて我に聴き給え、我乏しくして貧しければなり。
我が霊を護れ、我爾の前に慎めばなり、我が神よ、爾を恃める爾の僕を救い給え。
主よ、我を憐れめ、我日々に爾に呼べばなり。
爾の僕の霊を楽しましめ給え、主よ、我が霊を爾に挙ぐればなり、
蓋主よ、爾は仁慈慈憐にして、凡そ爾を呼ぶ者に洪恩なり。
主よ、我が祷を聴き、我が願いの聲を聆き納れ給え。


聖詠経は聖詠150篇を20のカフィスマに配列し、光栄讃詞を挿入する位置を指示している。座って読むだけの書ではなく、祈祷に用いることを念頭においた書であるといえる。150篇の区切り方は、マソラ本文ではなく七十人訳に従う。また150篇とは別に、ダヴィド(ダビデ)の作といわれる1篇を巻末に収録する。これは七十人訳聖書に倣っている。

学校制度が整う以前の信者は、聖詠経を初等国語の教本にしており、全て暗記するほどに身に付けていたという(誦読箇所の指定は往々にして、数字を用いずに聖詠の冒頭の句だけで行なわれていた)。

(参考:Wikipedia「日本正教会訳聖書」項)

あおい
あおい

めちゃくちゃ中二心をくすぐられる。紹介したのはほんの一部だから、気になる人はぜひ深追いしてみて。

アウグスティヌス「告白」

聖書そのものではなく、後の世にキリスト教を信じたアウグスティヌスの著書からの引用もなかなかにエモいです。

たとえば…

あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになられました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。(アウグスティヌス/山田晶訳「告白Ⅰ」第1章)

まことに、主よ、私はただこれだけのことをいいたい。自分はどこからこの世にやってきたのか知らないのです。それは「死せる生に」というべきか、「生ける死に」というべきか、これも知りません。(アウグスティヌス/山田晶訳「告白Ⅰ」第6章 )

古くて新しき美よ、おそかりしかな、
御身を愛することのあまりにもおそかりし。
御身は内にありしわれ外にあり、
むなしく御身を外においもとめたいたり。
御身に造られし未明おきものにいざなわれ、
堕ちゆきつつわが姿醜くなれり。
御身はわれとともにいたまいし、
されどわれ、御身とともにいず。
御身によらざれば虚無なるものにとらえられ、
わが心御身をはなれたり。
御身は呼ばわりさらに声高くさけびたまいて、
わが聾せし耳をつらぬけり。
ほのかに光さらにまぶしく輝きて、
わが盲目の闇をはらいたり。
御身のよき香りをすいたれば、
わが心は御身をもとめてあえぐ。
御のよき味を味わいたれば、
わが心は御身をもとめて餓え渇く。
御身はわれにふれたまいければ、
御身の平和をもとめてわが心は燃ゆるなり。
(第10巻27章)

概要:アウグスティヌスの青年時代の罪深い生活からキリスト教へのめざめをたどっている。西欧において最初期に書かれていた自伝にはよく見られる内容であり、その後中世までおよそ1000年にわたってキリスト教徒の作家に強い影響を及ぼす雛形となった。
著者:ヒッポのアウグスティヌス
執筆年代:397年から翌年に至るまで
構成:全13巻から成る。内容的には、自伝的部分である第1巻-第9巻と、神学的部分である第10巻-第13巻の二部に分かれる。章の数も後者で大きく増加する。
内容:前半→罪に溺れた生活を送った後、キリスト教に接近する話や、盗みを働いたりギリシャ語の勉強に意欲が湧かないなど、彼は不都合な事実を隠さず正直に書いている。しかし彼は単なる遊び人ではなく、当初はマニ教に関心を寄せるが、ローマでネオプラトニズムに出会って決別、その後に哲学書を読み漁り、勉学に熱中し『神の国』や『三位一体論』といった大著を残した。友人の死に直面し自らの死を恐れ始める心境描写、といった事が中心。
後半→時間論、聖書の解釈についての議論、神が天地創造の前に何をしていたのか、について書かれている。この著作はカトリックやプロテスタントだけではなく、デカルト、カント、ニーチェ、20世紀ではハイデガー、ウィトゲンシュタイン等多数の哲学者に影響・考察を与えた。

(参考:Wikipedia「告白(アウグスティヌス項)

あおい
あおい

「告白」はイロイロ訳があるけど、主に紹介したのは『山田晶』氏の訳だよ。個人的に一番エモいと思った

当コラムのイラストは「イラストAC」の「あさひ あい」さんの作品をたくさん使わせていただきました。

恋愛系&幸せ系

雅歌

▼たとえば…

あなたのあとについて、行かせてください。わたしたちは急いでまいりましょう。王はわたしをそのへやに連れて行かれた。わたしたちは、あなたによって喜び楽しみ、ぶどう酒にまさって、あなたの愛をほめたたえます。おとめたちは真心をもってあなたを愛します。(雅歌1章4節口語訳)

書かれた目的:花婿(ソロモン王)と花嫁の愛について語り、結婚の神聖さを確認し、ご自身の民に対する神の愛を描く。
記者:ソロモン
執筆年代:おそらくソロモン治世の始め
舞台/背景:イスラエル――シュラムの女の庭とソロモンの宮殿
おもな登場人物:ソロモン王、シュラムの女、友人たち

(参考:いのちのことば社「バイブルナビ」雅歌項)

ママレードボーイ、甘くて苦い、黙示録第12話「ママレード・ボーイ」雅歌と驚きの共通点。甘くて苦い黙示録!? 【殺生丸二次創作民に捧ぐ】ペンを持って雅歌を開こう【同人誌をアツくする聖書入門】

あおい
あおい

雅歌読んでたら「鬼滅の刃」の甘露寺蜜璃ちゃんみたいな箇所見つけた

たくみ
たくみ

救えねぇオタクだな

未亡人の玉の輿ラブスト―リー&デカい伏線&ジャイアントキリングのトリプルミーニング(ルツ記)

たとえば…

『士師記』の時代、ユダのベツレヘム出身者であるエリメレクは、妻であるナオミと二人の息子を伴ってモアブの地に移り住んだ。二人の息子はその地の娘達と結婚するが、やがてエリメレクはその妻ナオミを、二人の息子達もそれぞれの妻オルパとルツを残したまま死んでしまう。そこでナオミは夫の故郷ユダに帰ることを決意し、息子達の寡婦となった二人に対し、それぞれの故郷に帰るようすすめる。しかし、ルツだけはナオミのそばにいることを望み、こうして二人はエリメレクの故郷、ベツレヘムへと帰郷した。
ルツは畑で麦の落穂を拾った(古代パレスチナでは貧しい人が刈り入れ時の落穂を拾うことは一種の権利として認められていた)。その畑の所有者は、エリメレクの遠縁の親戚にあたる、ボアズという人物だった。ボアズは姑に尽くすルツに感心して、彼女のために便宜を図る。

ナオミはボアズが請戻しの権利を有する人物であることに気づき、ルツを自分自身の代わりに請戻させるため、彼女にボアズの床に入るよう勧め、ルツはその言葉に従う。全ての事情を察したボアズは、自分よりも請戻しの権利が高いもう一人の人物がいることをルツに明かし、彼女には一切触れず、ナオミへの贈り物をルツに持たせて彼女を家に帰らせる。その日、ボアズは請戻しの権利を持つもう一人の親族に掛け合い、親族としての責任の履行権を譲り受ける。これによってボアズはルツを正式な妻として迎え入れることとなった(兄が子供を残さず、死んだ場合に弟が兄の妻をめとることで家系を存続させるこの仕組みを、レビラト婚という)。
ボアズの妻となったルツは息子オベデを生む。オベデはダビデの祖父にあたる人物である。
この『ルツ記』のポイントは、モアブ人であるルツがイスラエル人の慣習に従い、その律法に従ってイスラエルの子孫存続をなした、という事柄にある。神は人類を創り出したとき「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と宣言しており、レビラト婚の習慣はまさに、それを実現するための手段なのである。ルツ自身は既に寡婦であり、姑から再婚の承認も得ていながら、それを謝絶してイスラエル人として生きることを選択した。これが、彼女が聖書中の一篇に名を冠することのできた理由である。聖書的な解釈では更に、その子孫がイスラエルの世襲の王となり、ひいては救世主を出す恩寵につながるとされる。

書かれた目的:社会の状況が非常に悪い中でも、いかに3人の人物が自分らしく、神に対して真実でい続けたのかを示す。
記者:不明。サムエルだと考えるが、内的証拠はサムエルの死後に書かれたことを示唆している。
執筆年代:士師の時代の後(紀元前1375~1015年)
舞台/背景:人々がそれぞれ、神ではなく自分を喜ばせるために生きていた、イスラエルの暗黒時代(士師記17章6節)
登場人物:ルツ、ナオミ、ボアズ

たくみ
たくみ

3重(もしかしたらそれ以上)の伏線からなる物語のお手本か…

遊女ラハブ(小説の章またぎで急に語り手の視点が変わって「え?違う話なの?」と戸惑いつつ読み進めたら、小さなピースが寄せ集まって物語の本筋に集約される)

https://twitter.com/manomiya37/status/1304759984316493824?s=20

…という現象は旧約聖書に随所にあると思うんですが、筆者が特に好きなのが「ラハブ(ヨシュア記」→(「士師記」)→「ルツ記」にかけておこるコレです。

ヨシュア記2章で、ヘブライ人勢力がエリコ攻略に向けて斥候(スパイ)を送った時に力を貸したのが、エリコに住む遊女ラハブでした。

七日間にわたるヘブライ人たちの角笛と行進によってエリコの城壁が崩れ、住民たちが老若男女問わず虐殺された時(ヨシュア6:17-25)、ラハブとその家族は斥候たちの約束通り助けられ、ヘブライ人たちの一員に加えられます。

参考

「マタイの福音書」を記したマタイはユダヤ人でした。ユダヤ人である彼がイエス・キリストの系図の中に4人の女性の名前を入れているのは不思議なことです(ユダヤ民族のならわしでは系図は男性側のみしるされる)。系図の中に女性が入っていること自体不思議なのですが、その4人の女性たちはみないわくつきで、普通ではありません。ラハブもそのひとりです。

・ 遊女ラハブはカナン人(異邦人)でしたが、悔い改めて、イスラエルの神こそ本当の神と信じて救われます。やがて不思議なことに彼女は一人のイスラエル人と結婚しますが、その結婚相手というのがなんとサルモンだったのです。しかも、サルモンとラハブの間にできた子どもが、ルツ記の主人公、つまりモアブ人であるルツの夫となるボアズなのです。

・ そしてボアズとルツが正式に結婚した後に生まれたのがオベデでした。オペデからエッサイが生まれ、エッサイからダビデが生まれした。

・ さらに、このダビデとウリヤの妻バテ・シェバの間にできたのがソロモンです。これも不義の子です。そして、その系図はイエス・キリストへとつながっていきます。マタイの福音書の系図に記されている女性は、不義、遊女、婚前交渉、姦淫を犯したと語り継がれる存在であり、しかも、カナン人、モアブ人といった異邦人でもあります。そんな彼女たちがイエス・キリストの系図の中に入ってきているのです。本来ならば、そうしたことは隠しておきたいところでしょうが、聖書ははっきりと記しています。

(参考:牧師の書斎『第19日 「命を賭けた遊女ラハブ」 』より)

アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、アラムはアミナダブの父、アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、エッサイはダビデ王の父であった。ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、ソロモンはレハベアムの父、レハベアムはアビヤの父、アビヤはアサの父、アサはヨサパテの父、ヨサパテはヨラムの父、ヨラムはウジヤの父、ウジヤはヨタムの父、ヨタムはアハズの父、アハズはヒゼキヤの父、ヒゼキヤはマナセの父、マナセはアモンの父、アモンはヨシヤの父、ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父となった。バビロンへ移されたのち、エコニヤはサラテルの父となった。サラテルはゾロバベルの父、ゾロバベルはアビウデの父、アビウデはエリヤキムの父、エリヤキムはアゾルの父、アゾルはサドクの父、サドクはアキムの父、アキムはエリウデの父、エリウデはエレアザルの父、エレアザルはマタンの父、マタンはヤコブの父、ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。だから、アブラハムからダビデまでの代は合わせて十四代、ダビデからバビロンへ移されるまでは十四代、そして、バビロンへ移されてからキリストまでは十四代である。

(マタイによる福音書1章1~17節)

あおい
あおい

ヨシュア記、士師記、ルツ記と編纂されてる順番に読んでると、『あ~新しい話始まったのか…。』とちょっとがっかりする人も少なくないと思うんだけど、ところがどっこい

たくみ
たくみ

読み進めてると登場人物が物語の本筋に集約されていくんだな。華麗なんだなコレが。

マリアの受胎告知

「幸せ系」「恋愛系」とは少し外れるかもしれませんが、「アニメの第一話感」がすごいと話題になったので挙げてみます。

嘆き系(メリーバッドエンド・クソデカ感情含む)

アベルとカイン(兄弟殺し/人類最初の殺人)

【考察】鬼滅の刃はカインコンプレックスの物語? 【剣心のモデル?】るろうに剣心が旧約聖書カインのアレゴリー満載だと俺の中で話題 【旧約聖書4章】カインに与えられた「刻印(しるし)」解釈や考察9選 【旧約聖書考察】カインの捧げものはどこへ消えた?創世記4章
あおい
あおい

キリスト教系新興宗教だと「カインは悪、アベルは善、アベルのようにふるまえるようになりましょう」みたいな話に持っていくところもあるらしいんだけど、

たくみ
たくみ

現代のクリスチャン的には、カインの姿に自分を重ねるのが不可避だよな。「俺たちはみんな、カインの末裔」って心の中でつぶやく人も多いんじゃないか?

ラビ―ちゃん
ラビ―ちゃん

「カイン」をはじめとする『正統的な継承権を持つかのように思われる人物が”不可思議あるいは不可測な理由によってもっと若い継承者たちに先を越される”人物』への共感ムーヴメントは19世紀ロマン派を中心として起こったことがあるそうです。(そのほか注目された登場人物はイシュマエル、エサウ、サウロなど)

詩編(の半分)

たとえば…

主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、み心をとめてください。わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください。わたしはあなたに祈っています。
(詩編第5篇1~2節)

主よ、わたしはあなたにむかって呼ばわります。わが岩よ、わたしにむかって耳しいとならないでください。もしあなたが黙っておられるならば、おそらく、わたしは墓に下る者と等しくなるでしょう。
(詩編第28篇1節)

わたしはあなたのものです。わたしをお救いください。(詩編第119篇94節)

主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。わたしの舌に一言もないのに、主よ、あなたはことごとくそれを知られます。 あなたは後から、前からわたしを囲み、わたしの上にみ手をおかれます。このような知識はあまりに不思議で、わたしには思いも及びません。これは高くて達することはできません。わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。
(詩編第139篇1節~8節)

詩篇には、苦悩する心の叫びや怒り、悲嘆や失望が表わされています。決してきれいごとが綴られているわけではありません。人間の醜さもそのまま綴られているのです。だからこそ、詩篇がいつも身近に感じられるのかもしれません。

(引用:「詩篇瞑想のための手引き(30) カタルシスとしての嘆き」より)

書かれた目的:神への賛美。礼拝、信仰告白の表現として詩を提供する。
記者:ダビデは73篇、アサフは12篇、コラの子たとは9篇、ソロモンは2篇、へマン(コラの子たちとともに)、エタン、モーセはそれぞれ1篇ずつ書き、51の詩編は作者不明。新約聖書は、作者のわからない詩のうち2つ(2篇と95篇)をダビデが書いたものとしている(使徒4;25、へブル4:7参照)
読者/宛先:イスラエルの民
執筆年代:モーセの時代(紀元前1440年頃)とバビロン捕囚(紀元前586年)の間。
舞台/背景:ほとんどの場合、詩編は歴史的な出来事を述べようとしていない。しかし、ダビデのサウルからの逃走、バテ・シェバとの罪のように、歴史的事柄と並行しているものもよくある
おもな登場人物:ダビデ
おもな舞台:神のきよい神殿

あおい
あおい

全部で150篇あるから膨大だけど、その半分は「嘆き」で構成されてるといわれてるよ

たくみ
たくみ

「主をほめたたえよ」ってノリの箇所も多いけどな、まあ用途に応じてくれよ

ヨブ記

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キャラの性質や立ち回りの構造

オリキャラ創作の名前をの参考に

聖書が元ネタじゃないものもありますが、おおむね聖書ネタだったので埋め込んでみました。

▼「#聖書に登場する名前」

(様々な教派に詳しい神学生さんがメインで動かしてるタグです)

永遠を想う

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「永遠を求める」なんて使い古された設定が悪役ないし魅力的なキャラクターの動機になるのか?という疑問への、ひとつのアンサーが聖書にあるのかな、と思います。

「英雄の怪物退治」の類型(スサノヲ神話等)

荒野の誘惑」はキリスト教の聖書正典である新約聖書に書かれているエピソードの1つ。キリスト教教理において重要な役割を果たしており、キリスト教文化圏の芸術作品の中で繰り返し用いられるモチーフでもある。洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、イエスは霊によって荒れ野に送り出され、そこに40日間留まり、悪魔(サタン)の誘惑を受けた。
記述のある書簡: マルコによる福音書1章12~13節、マタイによる福音書4章1~11節、ルカによる福音書4章1~13節

(参考:Wikipedia「荒野の誘惑」項)

さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。

そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。

イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。

それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。

イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」
それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。

イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。

悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。それからイエスは御霊の力に満ちあふれてガリラヤへ帰られると、そのうわさがその地方全体にひろまった。
(ルカによる福音書4章1~13節 )

あおい
あおい

「40」って数にひっかける創作もあるよね

たくみ
たくみ

聖書中では他にもノアの洪水が40日間だったこと、モーセ率いるイスラエルの民は荒野で40年さまよったこと等から「40」も特別な数字ではないかと思わせる描写がたくさんあるんだ

SAVE THE CAT/ヒーローズジャーニーのクライマックス(死と復活)

「面白い物語の構造化」というのは、ここまで色んな方がまとめてきたものであります。「千の顔を持つ英雄」「ヒーローズジャーニー」「SAVE THE CAT」などは非常に有名どころです。

これらに共通するのが、クライマックスに「死と復活(再生)」の要素を入れる、ということ。じつはこれ、キリスト教の核心部分と切っても切れない関係なのです。

フライは『批評の解剖』の中で、キリスト教は悲劇を神の喜劇、より大きな贖罪と再生の図式の中のひとつの挿話として見ていると述べている。喜劇への序曲としての悲劇という感じ方はキリスト教的なものとは切り離せないとフライは考える。

(ノースロップ・フライ著/伊藤誓訳「大いなる体系 聖書と文学」訳者あとがきp.413より)

1.オープニング・イメージ
2.テーマの提示
3.セットアップ
4.きっかけ
5.悩みのとき
6.第一ターニング・ポイント
7.サブプロット
8.お楽しみ
9.ミッド・ポイント
10.迫り来る悪い奴ら
11.すべてを失って
12.心の暗闇
13.第二ターニング・ポイント
14.フィナーレ
15.ファイナル・イメージ

11.すべてを失って(どん底)→12.心の暗闇→13.第二ターニング・ポイントのあたりです。

(参考:SAVE THE CATの法則・本当に売れる脚本術)

①日常世界
②冒険への誘い
③冒険の拒否
④賢者との出会い
⑤戸口の通過
⑥試練、仲間、敵
⑦最も危険な場所への接近
⑧最大の試練
⑨報酬
⑩帰路
⑪復活
⑫宝を持っての帰還

⑧最大の試練で、ヒーローは「死、もしくは最大の恐怖に直面」します。そこから簡単な回復が描かれますが、⑪でまた再び厳しい試練に直面します。

もう一度犠牲を払うことで再び死と再生の瞬間を迎え、それによって身を清めたヒーローは、今度はさらに高い次元の人間として完成される。

(p.77)
あおい
あおい

「旧約聖書と新約聖書は西洋芸術の大いなる体系である」(ウィリアム・ブレイク)と言われているだけあって、

たくみ
たくみ

聖書の構成がこうだから、こういう物語展開が人の心を打つのか、それとも、人の心はこういうのに打たれるから聖書の核心がこうなったのか、とかはもはやわからないけど

ラビ―ちゃん
ラビ―ちゃん

どっちにせよ、「死と復活」にあらわされているような『喜劇への序曲としての悲劇』という構造の物語が多くの人間の心をつかむことには変わりないので、覚えておくとどこかで役立つかも

(途中)悪魔も聖書を引用する

序盤で敵→味方になって最終的に一番頼れる存在になるヤツ(光堕ち)

使徒「パウロ」

パウロ:(希: Παῦλος、? – 65年?)は、初期キリスト教の使徒であり、新約聖書の著者の一人。はじめはイエスの信徒を迫害していたが、回心してキリスト教徒となり、キリスト教発展の基礎を作った。
概要:「サウロ」はユダヤ名(ヘブライ語)であり、ギリシア語名では「パウロス」となる(現代ギリシャ語ではパヴロス)。彼は「使徒として召された」(ローマ1:1)と述べており、日本正教会では教会スラヴ語を反映してパウェルと呼ばれる。正教会ではパウロを首座使徒との呼称を以て崇敬する。正教会やカトリック教会はパウロを使徒と呼んで崇敬するが、イエス死後に信仰の道に入ってきたためイエスの直弟子ではなく、「最後の晩餐」に連なった十二使徒の中には数えられない。
ユダヤ教徒時代:職業はテント職人で生まれつきのローマ市民権保持者でもあった。ベニヤミン族のユダヤ人でもともとファリサイ派に属し、エルサレムにて高名なラビであるガマリエル1世(ファリサイ派の著名な学者ヒレルの孫)のもとで学んだ。パウロはそこでキリスト教徒たちと出会う。熱心なユダヤ教徒の立場から、初めはキリスト教徒を迫害する側についていた。ステファノを殺すことにも賛成していた。
回心:ダマスコへの途上において、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と、天からの光とともにイエス・キリストの声を聞いた、その後、目が見えなくなった。アナニアというキリスト教徒が神のお告げによってサウロのために祈るとサウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった。こうしてパウロ(サウロ)はキリスト教徒となった。この経験は「サウロの回心」といわれ、紀元34年頃のこととされる。一般的な絵画表現では、イエスの幻を見て馬から落ちるパウロの姿が描かれることが多い。
回心後の伝道活動: その後、かつてさんざん迫害していた使徒たちに受け入れられるまでに、ユダヤ人たちから何度も激しく拒絶され命を狙われたが、やがてアンティオキアを拠点として小アジア、マケドニアなどローマ帝国領内へ赴き、会堂(シナゴーグ)を拠点にしながらバルナバやテモテ、マルコといった弟子や協力者と共に布教活動を行った。復活の奇跡を行った事もある。特に異邦人に伝道したことが重要である。『使徒行伝』によれば3回の伝道旅行を行ったのち、エルサレムで捕縛され、裁判のためローマに送られた。伝承によれば皇帝ネロのとき60年代後半にローマで殉教したとされる。またローマからスペインにまで伝道旅行をしたとの伝承もある。

(Wikipedia:「パウロ」項より

パウロの書いた聖書中の書簡:パウロ書簡には新約聖書中『ローマの信徒への手紙』『コリントの信徒への手紙一』『コリントの信徒への手紙二』『ガラテヤの信徒への手紙』『フィリピの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙一』『フィレモンへの手紙』がある。なお伝統的にパウロ書簡とされる『ヘブライ人への手紙』は近代までパウロの手によるとされていたが、そもそも匿名の手紙であり、今日では後代の筆者によるものとする見方が支持されている。

あおい
あおい

パウロは、プロテスタントではよくフューチャーされる人物だよ。(正教会・カトリックではプロテスタントほど取り沙汰されない)

蛙化現象(アムノンとタマル/好きだったのに振り向かれると嫌いになる)

(途中)裏切りは僕の名前を知ってるヤツ(泣いたペテロ)

マタイ26:33~35/69~75

マル14:66~72

ルカ22:54^65

ヨハネ18:25-27

ぺてろが泣くとこめっちゃエモいやんーー

なんか裏切りかましてしまったキャラのところにオーバーレイさせたらええかもしれんやんけー(ちからつきた)

(途中)「3回化」

→『物語における「三回化」の諸相

自己犠牲(途中)

じこぎせいものがたりって鉄板じゃないですかぁ(ちからつきた)

▼「不信の停止」に成功してる聖書ファンタジー(自己犠牲要素アリ)

【イスルイン物語】日本発の硬派ハイファンタジー小説でコミュ力UP&仕事を安定させませんか~読書で共感力UP~

※不信の停止(積極的な不信の停止)とは… (英語 willing suspension of disbelief)とは人が作り話を鑑賞するとき、懐疑心を抑制し、それが現実ではないことを忘れ、創作された世界に入り込む様子を指す。サミュエル・テイラー・コールリッジが確立した概念とされる 。(引用:Wikipedia「不信の停止」項)


さいごに:創作に役立ちそうな本とかアイテム

▼聖書アプリや紙の訳

上でもいったとおり、おススメ打線を紹介しております。

【聖書おすすめ論に終止符】無料で最新聖書が読めるアプリ紹介!【僕の考えた最強の聖書入手法】

▼声に出して読みたいシリーズ


声に出して読みたい新約聖書<文語訳>

↑ こちらは「文語訳」(古い日本語、オタクが愛してやまない訳)とありますが、口語訳も添えられており、解説もあって聖書入門書としてもイイ線行ってる本です。宗教っぽさが強くないのもGOOD。旧約聖書バージョンもあります。


声に出して読みたい旧約聖書<文語訳>

▼アウグスティヌス「告白」(詩的な訳)

▼創作論の本「ストーリーメーカー」

「多重人格探偵サイコ」「アンラッキーヤングメン」などの原作者:大塚英志の書いた『創作する人のための創作論』の本。「伝えたいことがある、そのためにソフトウェアに委ねられるところは委ねる」ということを受け入れられる方は、創作論の本に手をつけてもよいと思うのです。(もちろんこういったものがなくても面白い物語が作れるひとは作れますが)


ストーリーメーカー 創作のための物語論 (星海社新書)

理論アリハウツーあり(巻末にはキャラクターメイキングに役立つチャートも)で、文庫本サイズだし一冊備えておけば安心感がでると思います。

▼いわゆる「女性向け世界」といった表現に折り合いを付けられる人は

こちらは「映画の脚本家(それもハリウッドでの)」を想定して作られた本なので、マンガ家さんはちょっと違う感触を受けるかもしれません。

ただ、「男性の求める物語と女性の求める物語って本当に同じ構造で考えていいの?」という疑問に一つの解決の道を与えてくれる本です。

「女主人公を描きたいけど、正直どうして良いかわからない」という方は一度手にとってみるとスッキリするのでは、と思います。


新しい主人公の作り方 ─アーキタイプとシンボルで生み出す脚本術

▼自分の「作りたい」より「需要に対する供給」を割り切って考えられる人に

こちらも「ハリウッド映画の脚本」について赤裸々に書いた本。脚本術だけでなく「どうやって仕事を得るか」まで言及しているので、求めている人は求めていると思う。

ただ、めちゃめちゃ「商業的に成功すること」に割り切れる人でないと難しいかも。自分の「好き」を優先したい人は向かないかも…。


SAVE THE CATの法則 本当に売れる脚本術

▼文筆家さんにおすすめ

「物語論」で聖書を読みといた貴重な本。創作に役立つかもと思ってここで紹介してみたんですが、訳に携わった兄貴(カトリックWEBマガジンAMOR :中の人)曰く「ゴメン、創作には役立たないと思う」だそうです。ジーザス!


聖書の物語論的読み方―新たな解釈へのアプローチ

貴重な本であることは間違いないので興味があれば…。ちなみに内容は「聖書の予備知識」と「物語論の予備知識」がないと厳しいのかもしれない。

あ、訳にたずさわった兄貴が作った無料ゲームもよろしくです。「聖書の物語論的読み方」もゲーム中で触れてます。

【攻略法】ミゼレーレ~四旬節が終わらない~無料ダウンロード不要PC脱出ゲーム

▼「物語論」の本

日本人の本なので、例としてマンガなども挙げられていてよかったです。これを読んでたから『聖書の物語論的読み方』もとりあえず読めた…気がします…


ナラトロジー入門―プロップからジュネットまでの物語論 (水声文庫)

▼あったら便利「ブックスタンド」

文書く人は絶対あったほうがいいと思う。まぁ聖書からの引用ならコピペでいいんだけど…私はほしい(持ってない)


actto BST-02 ブックスタンド

▼これがなかったら「いつかみ」は成り立ってない本

当コラムの「基本データ」はこれから引用。いわゆるガチクリがどうやって聖書を受け止めてるのかがわかるので、どこまでならOKなのかどこからが炎上案件なのかがつかめるはず。辞書的に使うと便利なため購入がおすすめだけれど、高めなので気になる方だけ。


BIBLEnaviディボーショナル聖書注解

▼当コラムの挿絵に使わせていただいたのは「イラストAC」

当コラムはとくに「あさひ あい」さんのイラストにお世話になりました。

▼これもよろしく

天才トールキンの語るファンタジーの核心を体験して唯一無二のライトノベル創作家になろう
https://lampmate.jp/christianity-fantasy/