…主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧、あなたを置いて、誰のところへ行きましょう…

あっ!向こうから群れを離れて狂暴化したはぐれ猿が!

あおい、隠れろ!おい猿てめぇ!!山に帰れ!!
~格闘の末、撃退~

拓海くん!葵さん!だいじょうぶですかー!?

私はだいじょうぶですッ…でも拓海が…

いいってコトよ…

勇者ヒンメルならそうしただろうしな

えっと…葵さん、どういう意味かわかりますか?

このあいだ【葬送のフリーレン】一気見したって言ってたけど…それかな…?
※この寸劇はフィクションです。
目次
現実に影響を及ぼした「ヒンメル理論」~「葬送のフリーレン」受容の一端
「ヒンメル理論」とは、漫画『葬送のフリーレン』の登場人物、勇者ヒンメルの行動規範のもと、自分も行動すればきっとうまくいく、困難を乗り越えられるという理論である。
「ヒンメル理論」ピクシブ百科辞典(2024年6月12日時点)
これは、【葬送のフリーレン】の作中キャラクターたちに適応されていたミームだが、2024年6月、この「ヒンメル理論」に鼓舞されて現実に事件を抑止に貢献したと語る人物がニュースに取り上げられた。
台湾・台中の地下鉄で起きた刃物による攻撃を阻止した男性が、自身の行動の動機として『葬送のフリーレン』を挙げ、勇者ヒンメルなら同じことをしただろうと語り、話題となっている。 China Timesが報じたように(Siliconeraが翻訳)、許瑞顯氏は、2024年5月21日に台中の地下鉄車内でナイフを使って3人を負傷させた男を止めるために駆けつけた、17人の市民のうちの1人だった。 勇気ある行動で表彰された許氏は自身を「オタク」と称し、『葬送のフリーレン』にインスパイアされたと語った。 「勇者ヒンメルならそうしたでしょう」と許氏はコメント。加えて彼は、自身の行動とオタクとしての誇りが、オタクを自認する人々に対する世間の認識を改善するために役立つことを期待しているとも述べた。
台湾の電車内で刃物による攻撃を阻止した男性、『葬送のフリーレン』の「勇者ヒンメルならそうした」とコメントし話題に(YAHOO!ニュース)
そして、この「ヒンメル理論」、キリスト教徒(おそらくプロテスタントの文脈だけれど)では、とあるものと酷似している。それが「W.W.J.D」である。
W.W.J.D(What Would Jesus Do?)「イエスならどうすると思う?」
What Would Himmel Do?
— 足袋田クミ🐏聖書系Vtuber@羊たちの夕べ (@tabitha_kumi) March 29, 2024
「What would Jesus do?:WWJD?(イエス様ならどうする?)」というキリスト教では良く知られる英語の慣用表現があります。様々な判断や決断をする場面で自問自答するのです。
平田 理「WWJD?:私淑」東京三育小学校
アメリカの若いクリスチャンの中で、腕にWWJDという文字の入った腕輪などのグッズを付けている人がいると聞いたことがあります。WWJD、これはWhat Would Jesus Do?を略したものです。日本語では「イエス様ならどうすると思う?」という意味です。このWWJDの文字の入ったグッズはキリスト教の書店のグッズ売り場にも置いてあるようですが、…
イエス様ならどうすると思う?(ヘブライ2章1〜9節)赤塚バプテスト教会
▽たとえばこんなグッズ
「神ならどうする?」的な思考、アブラハム宗教の中でもキリスト教の特徴カモ
…で、まあ「神が何を考えてどういう選択をすると思うか、お前わかんのかよ」とギモンが浮かぶ方は実に健全だと思われる。それに関連しそうな面白い話があるので以下、紹介してみる。
↑ こちらで話されている「遠升あきな」氏は、宗教学で博士号持っている研究者である(2023年・2024年と某京都にある某キリスト教系学でキリスト教の授業を受け持っているという背景もあるので、「宗教学について教える側」の人である。)
なので、私のような神学校に入ろうと思ったことも出たこともない人間からすると段違いのキリスト教ほかアブラハム宗教における知識をの持ち主なので、こんなコラムを読むことに可処分時間を使わずに、単純作業でもしながら上記で紹介した動画を観る方が有意義であることは断っておいて、
彼女の話をちょっと紹介してみたい。
(15分前後)神の計画にこだわって神のことを知ったかぶってしゃべろうというのがキリスト教なんで
(15分前後)キリスト教だけがそこでごちゃごちゃ言いたがる(意訳)
彼女に言わせれば「神の立場にたってどうこう言おうとするのはキリスト教独特で、ユダヤ教やイスラム教はもっとカラッとしてると思う」とのことである。
※動画を観ればわかることではあるが一応断っておくと、彼女自身はキリスト教徒である。ただし相対化の鬼で、アブラハム宗教に心を寄せる必要のない方にもしっくりくる表現で物事を抽象化する技術に長けているという存在である(と私は認識している)。
※もうひとつ断っておくと、これは2023年の動画である。遠升あきな氏は、「人間の不完全さ」について頻繁に述べられており(これも動画を観ればわかることではあるが…)、『人間は神ではない、ゆえに変化する』ことも彼女の人間理解の範疇である(と私は認識している)。なので、もしかしたら現在と未来の彼女の考えは変わっているかもしれないし、変わっていないかもしれないし、いずれにせよそれを知るのは『神ただ御ひとり』ではないかと思う。知らんけ~ど~…。
ということは「神ならどうすると思う?」というスローガンがアクセサリになるような文脈というのは、アブラハム宗教の中でもキリスト教の特徴なのかもしれない…と思った。
もちろん、「W.W.J.D(イエスならどうすると思う?)」というのは、イエスに心を寄せる人が己を鼓舞する際、強力な威力を発する。
【葬送のフリーレン】も、これは特定の作者による作品であって、「ヒンメルならどうするだろう?」という解釈はそれなりに統一され、肯定的なものとして読者・視聴者に提示される。
しかし、現実では「(俺の思う)イエスはこうする」と「(私の考える)イエスならこうする」は時として拮抗することもある。
もう少し悪い例を出すと、「(私の考える)イエスならどうすると思う?(私が考える最良の選択を当ててみて?)」というハラスメント的な文脈で使われることもある…と認識している。
(そう、「ヨブ記」なんかでは『俺の考える最強の神の御心解釈』バトルが行われていたワケだけれども…)
この話からぬるっと「現代日本人キリスト教徒が民間説話を漁りはじめた理由語り(隙自語)」しだす
私自身は、2021年末くらいから「民間説話」を漁りはじめた。その過程で『人々が語ったイエス像』みたいなものの一端に触れて、それが実に多岐にわたることを思い知らされた。
とある地方では誠実で威厳に満ち溢れているイエス像、とある地方では皮肉なパーソナリティーを彷彿とさせるイエス像、とある地方では「ひwどwすwぎwるww」と思わず言ってしまいそうになるイエス像…
「キリスト教信仰」を持つ人々のなかでもこれほど多岐にわたるイメージの幅があるのだから、ここ10年のあいだにようやく聖書を読み始めたレべルの現代日本人キリスト教徒が抱くイメージの正当性が保証されないことを感じるようになった。
※これは筆者の性格によるものであることは一応断っておきたい。ここまで人々が培ってきたキリスト教信仰の伝統があるのだから、私たち自身が今更考えなくてよいことはいくらでもあると思うし、そういったものの上にのっかって今の己があることもそれなりにわかってはいるつもりだ。そこを考えて動けなくなるくらいなら、考えるのをやめて行動すべきという事案はいくらでもあると認識する。スマホの仕組みを理解しなければスマホを使う資格がない、というワケではないし、スマホの仕組みを理解したらスマホをネガティブに用いる(たとえば詐欺とか)存在を抑止できるかというと、そうでもないし…。ただ、やっぱり、性格的に、「ここまでは確認してみたいのだ」という範囲があるし、それは神が私に与えたもうたパーソナリティなのだと思っている。
時折、それが底知れない恐怖として自身を覆うこともあるほどに。
一方で、聖書の解釈は真面目に取り組めば日本語でわかることもけっこうある、という遠升あきな氏の言葉に励まされる(上記紹介動画のどこか)。
そう思うと「(ぼくのかんがえたさいきょうの)イエスならこうする!」という思考と行動は、まったくありうべきことであるとも思う。
私にとって民間伝承を漁る営為は、世界中にちらばったイエスの面影を拾い集めるという側面を往々にして持っている。さながら、フリーレンがヒンメルとの想い出をたどっていく旅をするように。
ヒンメルの名前が「天国」の意味に該当することを思い出すとき、私はアブラハム宗教の信仰のキリスト教信仰、現代日本人的な簡素な天国観を持っていてよかったな、と思う。
ヒンメルとフリーレンが天国で再会するときのことを想像できるからである。
その、言葉にしえなさそうなユーカタストロフィの風景を思い浮かべながら、私はしばらく、イエスの面影を拾い集めようと思っている。いつか「キリスト・イエスならこうしただろう」と言いながら自分を鼓舞することができるようになる日を願って。
…髑髏の丘で磔刑に処された男の声が聴きたくて、こんなところまで来てしまった。…