マンガから聖書がわかる不思議なWebサイト

【更新】「異類婚姻譚」をめぐるアレコレ(5月更新)

「不可能な物を除外していって残った物が例えどんなに信じられなくても、それが真相なんだ」コナンの名言と『永遠の不在証明』

When you have eliminated the impossible, 
whatever remains,however improbable, 
must be the truth.


全ての不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実となる。

シャーロック・ホームズ
(Sir Arthur Ignatius Conan Doyleーアーサー・コナン・ドイル)
(画像:青山剛昌/小学館「名探偵コナン」28巻 282.FILE9「最後の一矢」)

【 名探偵コナン 】において、印象的なこの台詞は、コミックス28巻282話(アニメでは第222~224話)で使われ、2021年5月に放送されたアニメ1006話でも使われた。〈 服部平次 〉のモノローグでも繰り返されたことがある。

元ネタである「シャーロック・ホームズ」の物語群においても、幾度繰り返されている台詞であるようだ。


印象的な台詞なので、【名探偵コナン】について調べているとよく目にする。筆者がかつてこの台詞を目にしたとき、筆者はまだ幼く、

ああ、こういう風に先入観なく物事を判断できる人間であれたら、コナン(新一)のようにかっこよく在れるのか。であればそうありたいものだな

くらい呑気に考えていた。

時を経て、今一度この台詞を目にして思ったことはこれである。

「私が、イエス・キリストの死と復活を信じている理由と同じだ」

「ひいては、2000年前くらいに中東で処刑されたヨシュアという名のおっさん(※)が”神”であると信じている理由とも」

―――と。

(※)「ヨシュア」は「イエス」のヘブライ語読み

色々な可能性を潰していって、最後に残ったもの。

それがどんなに信じ難く、自分の知識や常識を上回っていても、
それは「真実」と呼ばれるに耐える――限りなく了解可能な事象である、と。

今から筆者がこのコラムで語ることは、【 名探偵コナン 】を面白く読む程度には普通の日本人の私が、およそ日本人の過半数は特に興味を抱かない(むしろ嫌悪感すら覚えるだろう)『キリスト教』という一神教にまつわる言説である。

嫌な予感を感じられた方は引き返すことをおすすめする。

ここから先は、あなたの世界観を揺らがせるかもしれない
…危険なエリアである。

キリスト教には「イエスの肉体的復活」を信じている教派がある(というか一応そっちの方が主流)

これを書いている筆者は、いわゆる『キリスト教徒』である。筆者のプロフィールが気になる方はこちらから読まれたら良いと思う。また、筆者と【名探偵コナン】の個人史についても興味があればコチラから読まれればよいと思う。

ここからする話は、筆者のことを知らなくてもおおむね問題ないのでこのコラムでは省略する。

筆者は身内にキリスト教徒はおらず、成人してから教会に通ったり聖書を読んだりしてキリスト教信仰を持った人間である。

一応、仏教寺院の子どもとして生まれてそこで育てられたので、「一般家庭」とは呼びたくない人もいるかもしれないが、親は僧職ながら特にその宗教に帰依しているというタイプではなく、私も女で末っ子という立場から宗教的教育などを受けることはあまりなかった。

筆者は、自分の感性がごくごく一般的な日本人的であると自認して生きていた(やや色んなことを気にしすぎるきらいはあることは自覚していた/生まれついての持病はあり、それは他の兄弟は持っていなかったことからそういった小さな差異はあるとは思うが)

なので、『キリスト教』という一神教の世界観(だと一般的な現代日本人が考えていること)が、「日本的な感性」とどれくらい合わないのか、というのもそれなりにわかるつもりである。

(一般化は危険だが、そのへんの解像度は本題ではないので流させて頂けると助かる)

ましてや、『イエス・キリストの(肉体ごとの)復活』など。

そんなもの信じているのは頭がおかしいか極度に愚かかのどちらかであって、そして、それが一体

イエスとかいう、2000年以上前に中東で処刑されたおっさんが復活したからって、私と何の関係があるんだ

という気持ちを呼び起こすことも、わかっているつもりだ。

ちなみに一応言っておくが、筆者は自身の「頭がおかしい」「極度におろか」である可能性を捨てきっていない。それらの基準は人によって違うだろうし、判断はあなた自身に任せる。

もちろん、キリスト教は限りなく一般的な理解としても2000年程度には歴史があり、信者数も3億人程度おり(それは世界人口の役1/3だと言われるが)、千姿万態である。

アメリカを開拓したピューリタンの流れと、日本のリベラルなキリスト教では目も当てられないほど違うだろう。

ので、イエスの肉体ごとの復活を信じない宗派もあるし、公には信じている宗派に属していても個人的には信じていないという信者もいる事と思う。

ただし、歴史的な原始キリスト教会では『イエスの死と肉体ごとの復活』は信じるに足ることだと提示されていたことは聖書そのものからも読み取ることはできるし、教会史や同時代の書物なども読めばわかるだろう。

(わかりやすいところでは「ドケティズム(仮現説)」などは1世紀のころには存在していたが、審議され、聖書と伝統における解釈として退けられてきた歴史があるわけだ)

印刷技術が発達し、交通が発達し、科学技術が発展した近代~現代においても、また、言語的・地理的にキリスト教の影響から引き離されている日本列島で人生を営む日本人キリスト教徒の中にも、イエスの肉体ごとの復活とその後の昇天を信じている人はいくらでもいる。

そう、今日の宗教は、「科学的〜」「合理的~」という名分のもと解体され霧散するかと思いきや、そうでもなく、依然として『魂』であるとか『霊』であるとか『神さま』であるとか、『目には見えねども、なにか大事なものへの念』的なものは根強く残っている(※)

(※)このへんに関する正確な調査が知りたければ、こんな馬の骨の戯言は日本人の宗教的意識や行動はどう変わったか(NHK)などを参考にされるのが誠実だろう。一応、調査結果としては日本人の「宗教」や「見えないものへの畏敬」的な年は減少傾向にあるということである。筆者は、「なくなっておらず、一定の価値観として存在している」ことに着目して話している。

そうした営みのなかで、「どこまでなら合理的に説明できるのか」という試みは常にあり、そうしてそれなりに検証に耐えているものはいくらでもある。

イエスの肉体ごとの復活というのも、その一例だと考えてよいだろう。

奇しくも、カトリックのる神父さまがウェブで無料公開している『カトリック公教要理(カテキズム/カトリック信仰にまつわる基礎的な知識)』には、キリストの『神の存在証明』の一部を「推理小説」に例えて展開している部分がある(※)

(※)これは「神の存在証明」の話なので、イエスの復活の話とはちょっとズレる話ではあるのだが、今日を生きる日本人にとってはどっちがどっちだろうと誤差の範疇だと思い例えとして用いることとする。

公教要理には「神が存在することは道理によっても、また神の啓示によってもわかります」とあります。つまり、神の存在は、たとえ教会の教えや聖書を知らなくても、分かるというのです。しかし、それはどのようにしてでしょうか。神の存在がはっきり分からないわけは、ひとえに神が見えないからですが、見えないものならそれがあることはどうやって証明できるのでしょうか。

見えるものから見えないものに導く頭の働きを推理といいます。頭のよい刑事や探偵が推理によって犯人を見つける推理小説というものがありますが、その犯人探索の手順は神の存在証明の仕方を理解するために参考になると思います。推理小説では主人公の探偵や刑事は犯罪の現場を直接見ることはありません。もし見るなら現行犯で逮捕して、それで終わってしまいますから。

それではどうやって犯人を捜すかと言えば、事件の現場に残った証拠や関係者のアリバイといった「見える事実」を拾い集め、それをもとに「見えない犯人」に迫っていくわけです。しかし、この当たり前のやり方の裏には、これらの「見える事実」には何かの「見えていない」原因があるという大前提があることに注意してください。つまり、刑事は死体を見つけたら、その死が他殺か自殺か自然死かとまず考える。他殺であると判定したら、次にでは誰が殺人犯かを考える。この行動の裏には、死ぬということの裏に必ず何らかの原因があるという確信があるのです。

尾崎明夫神父のカトリックの教え(公教要理詳説)第1版 ー神の存在ー2

尾崎明夫神父のカトリックの教え(公教要理詳説)

これはネットでぱぱっと読みたい方はそちらを読んでくださればと思う。筆者はプロテスタントの信仰に身を置くものなので、この論に同調できない部分もあるが、そもそも現代日本人にとっては誤差のようなものだとも思うので問題ない。

ただ、もし、もう少し「推理小説っぽく読みたい」場合には、今から説明する「ナザレのイエスは神の子か」という本もなかなか読ませる本だよ…という話をしていく。

推理ミステリー小説としての「ナザレのイエスは神の子か」リー・ストロベル著

ナザレのイエスは神の子か? /単行本【古本・中古本通販のネットオフ】

あおい
あおい

こちらはジャーナリストの記したノンフィクションものの書籍ですが、ストーリー仕立てに時系列で話が進んでいくので、読後感は小説っぽいんです。

たくみ
たくみ

それも、推理小説っぽいよな。

「本を読んでくれ」…という話で終わっても面白くないと思うので、少々文体やトピックを紹介しておく。

序論
検察官用語を借りて言えば、ジェームズ・ディクソンの殺人未遂事件は”明々白々”だった。事件の証拠を通り一遍に調べただけでも、シカゴ市南部で、ディクソンが巡査部長のリチャード・スキャンロンの腹部を撃ったことは明らかだった。


 証拠が出されるたび、証人が証言台に立つたびに、ディクソンの首が徐々に締まっていく。凶器には、彼の指紋。事件の目撃者もいれば、動機もしっかりしている。腹を撃たれた巡査部長もいる。そして彼には発砲事件の前科があった。裁判は進み、あとはディクソンの罪の重さに応じて判決が言い渡されるばかり――

(引用:リー・ストロベル著/峯岸麻子訳「ナザレのイエスは神の子か?「信仰」を調べたジャーナリストの記録」p.13)

しかし、この「ディクソン殺人未遂事件」は思わぬ展開を見せる。

情報屋のささやき
記者室の電話を採った私は、すぐにその声に気がついた。刑事事件で協力してくれていた情報屋である。この男は、情報ネタが大きければ大きいほど、柔らかな声で早口にしゃべる癖があった。
そして今、ものすごいスピードで受話器に向かってささやいている彼の声が、私の耳に届いた。

「リー。ディクソンがらみの事件を知ってるか。」

「もちろん。二日前に書いたばかりだ。どうってことない事件じゃないか。」

「ホントにそうなのかねぇ。…


(中略)

「いいか。ディクソンはスキャンロンを撃たなかった。スキャンロンのシャツのポケットに入っていたペン型拳銃が暴発して、それで奴はけがをしたんだ。違法拳銃所持で捕まりたくないから、ディクソンに撃たれたと言っているんだ。わかるだろう。ディクソンは無実だ。」

「そんなばかな!」私は叫んだ。

(同上pp.15-16)

…いかがだろうか。まるで推理ミステリー小説の冒頭のようではないだろうか。ここからリー・ストロベルというジャーナリストが思わぬ事件と壮大な陰謀に巻き込まれていくのではないだろうか…と思わせる入りである。

ジャーナリストが、聖書は正しい歴史書なのか、イエスが実在したのか、イエスは死んで生き返ったのか、など専門家に質問して証拠を集める。それでイエスが神の子だったのかどうか、読者に判断してもらうって感じの本。…(中略)…法学部卒らしく、証拠を固めていくところが刑事(弁護士、検察)ドラマぽくて面白い。

読書メーターの感想

実際にはこの「ディクソン殺人未遂事件」についての話は冒頭で終わり、このドキュメンタリーの主題は「ナザレのイエスは神の子か」というものに移っていくが、話の運ばれ方はこのような感じで描かれていくのである。

 この珍しい事件をお話したのは、私の精神探究の旅がこのジェームズ・ディクソン事件の成り行きと酷似していたからである。
 私は、自分を疑り深い無神論者であると考えていた。神という概念は、単なる希望的観測の産物であり、古代神話や大昔の迷信である。神が愛だというならば、なぜ神を信じないという理由だけで、人間が地獄に送られるのであろうか。自然の法則を軌跡が破ることなどありうるだろうか。生物の起源は、進化論で証明されたではないか。科学における論理的思考によって、超自然が存在しないことは証明されたではないか。

(引用:リー・ストロベル著/峯岸麻子訳「ナザレのイエスは神の子か?「信仰」を調べたジャーナリストの記録」p.20)

 この本は、先入観や思い込みを取り除いたあなたが見つけると思われる事実について書いたものであり、私が十三人の研究者や専門家へのインタビューを通して行ってきた、およそ二年間にわたる精神探究を振り返ったものである。インタビューに応じてくださった方々は、みな申し分のない知識や肩書をそろえた研究者ばかりである。

 (中略)

 この旅のなかで、私は事件記者としての目をもって、提出された数々の証拠を吟味した。目撃証言、書類、裏づけ、反証、科学的証拠、心理学的証拠、そして指紋照合までも行ったのだ。指紋照合と聞いて、興味がわいた方もおられるのではないだろうか。

 こうした証拠は、あなたが法廷で目にするのとまったく同じものである。そして。あなたもこうした証拠を、そのまま陪審員になったつもりで調査していただきたい。

(同上p.23)

感想に触れているメディア

ナザレのイエスは神の子か? /単行本【古本・中古本通販のネットオフ】

「墓は空だった」ことを、私は『永遠の不在証明』と呼びたい

さて、詳細な内容については各自本を読まれた方にお任せたいと思う。

ここでは、冒頭【 名探偵コナン 】(源流をたどればシャーロック・ホームズだが)を引き合いに出した手前、もう少し【 名探偵コナン 】とこの『イエスの復活』の共鳴について話してみたい。

結論から言うと、この書籍の中でストロベル氏は「イエスの肉体ごとの復活は、歴史的に起こったこととして”事実”と呼ぶに問題ない」というところに着地した。

一応言っておくと、「イエスの復活」というものは――

「若いとき、C・S・ルイスの本を読んでいたら『新約聖書がイエスの復活について一言も言及していない』と書いてある箇所に当たりましてね。それを読んだ私は、ページの余白に『嘘だ!』と大きく書きましたよ。でもルイスの言っていた意味は普通の意味とはちょっと違うのです。

つまり、墓の中で遺体が揺れ動いて、ついには立ち上がり、身体を包んでいた布を剥ぎ取って、それをきちんとたたみ、墓の前にあった石を動かして番兵を驚かせてから墓を後にする――ルイスが言いたかったのは、この一連の様子を見ていた人物が一人もいないということなのですね」

(引用:リー・ストロベル著/峯岸麻子訳「ナザレのイエスは神の子か?「キリスト」を調べたジャーナリストの
記録」pp.373⁻374)

――という感じで、そういう意味の『イエスの復活』に関する直接目撃証言や証拠は残っていない(※)

しかし、間接的証拠の提示やらなんやらかんやらの疑問点はストロベル氏的には解消され、氏はイエスの肉体ごとの復活を歴史的に起こったこととして受け入れた。

(※)復活した「後」のイエスの行動やそれに対する証言は、普通に聖書の福音書やら使徒言行録やらに記述されているので、そのへんは一応誤解がないように願いたい。『聖書』はインターネット上で無料で読めるので、気になる方はご自身で読まれたら良いと思う。また、『福音書』の信憑性への弁証も、こちらのコラムでもちょっとだけ紹介している。

結論ー墓は空だった


 クレイグ博士の話には説得力があった。イエスの墓は空だったのである。証拠を前にすると、この信じがたい奇蹟もその現実性をはっきりと帯びてくる。

(中略)

 事実を前に考えてみると、イエスの復活に反論を唱える人々も、結局はその身体を墓の中に押し戻すことはできなかった。その事実や証拠について反論を唱えるとき、彼らは口ごもり、苦しみ、必死の思いで編み出した理論の中でさらに矛盾を生み出し、とんでもない理論を次々と編み出していく。しかし、どんなに努力をしてみても、イエスの墓はもぬけの殻になったままなのである。

 私は。法曹界でも孤高の賢者として知られるノーマン・アンダーソン卿のことを思い出していた。ケンブリッジ大学で学び、プリンストン大学で教鞭をとり、ロンドン大学で法学部長として勤務した卿は、ハーバード大学から生涯教授の地位も提供されている。

 そのアンダーソン卿が一生をかけて、イエスの復活を法学的見地から研究した後、その研究結果を次のような一文にまとめている。「空になったイエスの墓は、紛れもない事実であり、よってその事実を否定する説明はすべて虚しい」

(引用:リー・ストロベル著/峯岸麻子訳「ナザレのイエスは神の子か?「キリスト」を調べたジャーナリストの
記録pp.367-368)

もちろん、キリスト教徒にとっては大事なのは『復活』であり、「イエスの墓が空だった」ことを信じることキリスト教なのではないのだが、イエスの復活を信じるにあたって「イエスの墓は空だったかどうか」というひとつの着地点は大きなポイントとして扱われることは多いのでこういう切り口にした。

(「ナザレのイエスは神の子か」もその一つであり、「イエスの墓は空だった」というトピックにつついての議論が何十ページとあるわけだが)

その文脈を踏まえると、【劇場版名探偵コナン 緋色の弾丸】テーマソングとなった「永遠の不在証明」が、【名探偵コナン】というコンテンツ内で完結する考察を超えて迫ってくるように思える―――

―――「不在」という、それ単体ではネガティブな印象を持つ言葉が、文脈をたがえれば自身を肯定するものに反転するという―――

そのエモさに筆者は震えたい。

筆者の脳内では今後とも、「永遠の不在証明」と聞くたび『永遠の不在証明』ナザレのイエスの空の墓と変換されつづけると思う。

※余談だが、「椎名林檎」及び「東京事変」は筆者の好きな歌手TOP3位に入る。ついでに言うと今通っている教会の先輩にも椎名林檎好きで意気投合した人がおり、私にとっては「椎名林檎/東京事変」を愛でる心にはつねに「徹底的にご自身を謙下されるがゆえにその姿を隠されている聖霊のはたらき」を感じている。

「真実はいつもひとつ」〜しかしその事象に対する解釈も対応も多様である。

工藤新一と江戸川コナンイメージ(LampMate画)

もちろん、イエスという男が復活したからと言って、それをユダヤ教における預言のメシアだと信じることや、あるいは自分の神だと考えることとには隔たりがある。

まあ、今日のアメリカ的なキリスト教や、あるいは「イエスとかいう中東のおっさんの肉体ごとの復活を信じる」という人間たちの脳内でどういったことが行われているかという知識の引き出しを増やす、といったことの興味が向けば手に取ってみてほしい。

あらかじめ断りを入れさせていただくと、キリスト教とは「そもそも奇妙な宗教」である。

古代キリスト教が成立した時代は、「昔の話だから整合性のない神話でも何でも人々は簡単に信じた」などと思ってはならない。キリスト教が成文化されて広がったのは、ギリシャのストア哲学が隆盛を極めていたヘレニズム世界である。ユダヤ教の聖典もキリスト教の福音書の物語も、理性的合理的な哲学者たちからは嘲笑の目で見られることが珍しくなかった。ストア派の知性的な批判に耐え、それをかわすことによってキリスト教はその後の世界史に大きな影響を与える独特の宗教として発展したと言える。 知的で合理的なヘレニズム系哲学者からキリスト教がどのように揶揄され批判されていたかを知るには、エピクロス派ケルソスの『真実叙説』(178年頃)を見れば明らかだろう。

(竹下節子「ユダ 烙印された不の符号の心性史」p.24~25/中央公論新社)

キリスト教においては、イエス・キリストが中心的な存在になるのですが、キリストとは単なる人間ではなく、「神が人となったもの」と考えるのですね。神が人になったものであるにもかかわらず、神であるはずの存在が十字架にかけられ、とても悲惨な最期を遂げてしまった。それだけでも十分におかしな話であるのに、さらにキリストが復活したというのだから、非常に奇妙な話なわけですね。じっさい、こんな奇妙なところのある教えがこれだけ世界中に広がっているというのは、とても不思議なことと言えると思います

(若松英輔+山本芳久「キリスト教講義」pp.17~18/山本芳久の言葉)

使徒言行録は復活の教えがギリシア文化圏の人にどのような反応をひき起こしたかも伝えています。パウロが、ギリシア文化の中心地アテネの広場でキリスト教の教えを説明したとき、聴衆は最初は好奇心から耳を傾けていたのですが、「死者の復活という言葉を聞いたとき、ある者はあざ笑い、ある者は『それについてはまたいつか聞こう』と言った」(17章、32)。復活はギリシア人にとって「馬鹿げたこと」だったのです。イエスの復活は21世紀に生きる我々は言うに及ばず、紀元1世紀の文化人にも、非常に宗教心の篤かったユダヤ人にも、信じられない出来事だったのです。では、どうして、このような信仰が生まれた、しかも広がって行ったのでしょうか。聖書の語ることをそのまま受け取れば、問題は造作なく解決するのですが・・。

尾崎明夫神父のカトリックの教え(公教要理詳説)第1

なので、あなたが推理ミステリをシンプルにエンタテイメントとして楽しむことを第一に考えるタイプの方なら、『宗教』への思索はあなたの脳内で不協和音を奏で出すかもしれない。

あなたの前に差し出される『この世界の謎』は、あまりに不可解で、あいまいで、かと思えば稲妻に撃たれたように明確に“わかって”しまうこともあったり、そう思ったらまた霧散してしまったり…

どこに着地するにせよ、あなたは「あなた自身の物語」のプロットを紡がなくてはならなくなるのだ。

それは、今日の日本で提供されている推理ミステリをエンタテイメントとして楽しむ心と必ず一致するとは限らない。

しかし、希望を持ってよいことがあるとすれば、おおむね『宗教』というシロモノにつながりながらそれを行うとすれば、それは哲学と違って、実存を揺らがせて終わり…ということはない。実存を揺らがせたり、時にあたりまえとされている価値観を反転させたとしても、慰めや逃れの道を何かしらのカタチで提示する。

それは、少なくとも「推理ミステリ」というジャンルが成り立つ理由(このジャンルが志向する大きなコード)とシンクロする、と筆者は見立てている。

(ゆえにそれは「宗教」と呼ばれる営みになるのだろうし、キリスト教に於いては「愛の宗教」という、人によっては陳腐に感じられてしかなたい形容がまかり通っていることからもご了承いただけると幸いである)

(※このへんよくわからない方もいるかもしれないが、おいおい別コラムでまとめてみたい)

あなたの人生が、より豊かに祝福されますように。

ちなみに…

こちらの「それでも神は実在するのか?」という本が、「ナザレのイエスは神の子か?」の続編として存在する。こちらは、タイトルの通り「ナザレのイエスは、ユダヤ教の伝承における預言のメシアなのか?」という以前の、「聖書の神は〈神〉なのか」みたいな話についての、ストロベル氏のリサーチをまとめた書籍の日本語版である。

あおい
あおい

『神さま』なる存在がいて、この世界を創ったっていう世界観は100歩譲って仮定くらいはしてやってもいいけど、じゃあ『イエス』っていう人が神だとかなんとかかんとか言われると途端にうさんくさく感じて白ける

という方も少なくないと思うので

筆者自身がそのタイプであるので、日本人に勧めるとしたらどっちかっていうとこっちだろ、とは常々思っている。

「神がいるならなぜ悪が存在するのか」「教会が歴史的に行ってきた悪行は」などに焦点がおかれている。

こっちは「ナザレのイエスは神の子か」でストロベル氏が行った調査の簡易的な報告などもまとめられているので、内容は充実している。

同じく推理ミステリストーリー仕立ての構成は変わらないが、緊張感で言うと「ナザレのイエスは神の子か」のほうがピりっとしていて良い…気はする。

とはいえ、文体うんぬんではなく内容で決められたい場合はこっちが日本人にはおすすめじゃないか?と思っている。うーん、悩ましい。

ネットオフ なら2冊でちょうど送料無料になるくらいで買えるので両方買ってもいいかもしれない。

新一/コナン(時々 蘭&平次の母)の名言から「キリスト教の精髄」第1章が抽出できた件【名探偵コナンの世界観にみる有神論的側面】