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【更新】文スト・文アル好き必見。キリスト教日本文学35選(1/06更新)

天才トールキンの語るファンタジーの核心を体験して(日本人の9割が未着手)、唯一無二のライトノベル創作家になろう

こんにちは、人気マンガ・アニメ・児童文学・ラノベなどから聖書を解説するWEBサイト【いつかみ聖書解説】です。

このようなタイトルの記事に入ってきてくださったということは、なにかしらの「創作」をされている方であるとお見受けいたします。

突然ですが、あなた様は『幸せな大詰め』をご存じでしょうか。

いえ、ご存じなくてもムリはないのです。

というのも、
『幸せな大詰め』(ユーカタストロフ)とは、
現代ファンタジーブームの祖父、『指輪物語』の作者J.R.R.トールキンが自身の創作論で
「ファンタジーの真の機能はコレ」
と述べているものであり、

(トールキン)先生が亡くなった時、「タイムズ」の追悼記事は、「幸せな大詰め」という先生の造語をキー・ワードとして掲げました。それは先生が論文のなかで、妖精物語の真の姿、その最高の機能はそれが「幸せな大詰め」をもっていることである、と主張しておられたからです。

(引用:猪熊葉子「児童文学最終講義 しあわせな大詰めを求めて」p.50)

また、『幸せな大詰め』の源である
『究極の幸せな大詰め』についてもハッキリ述べているのですが、

なぜか日本人のおよそ9割これをスルー、もしくは取り入れよう・反発しようとしてもあんまりうまくいっている感じになっていません。

では、なぜ日本人の9割は『究極の幸せな大詰め』をスルー、もしくは失敗してしまうのでしょうか。

『究極の幸せな大詰め』とはなにであるのか、
『究極の幸せな大詰め』を取り入れると作家はどうなるのか、
どうしたらそれをモノにできるのか。

気になる方は、しばしお付き合いください。

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※注意※
『究極の幸せな大詰め』体験は、あなたの価値観を崩壊させるおそれもあります。覚悟のある方だけ、お進みください。

『究極の幸せな大詰め』って…?

 しかし、「幸せな大詰め」について考えてみるなら、その答えより偉大なものになりうることが一瞬のうちにみてとれる―—それは、この現実世界にもたらされた「福音」のはるかな光、あるいは反映である。この「福音」という言葉を使うことが、このような結びを私に書かせる暗示となった。(中略)
 この方向からキリストの物語に近づくなら、神はほかの面においてと同様であるが、人間の奇妙な本性がもつこの準創造によって喜びを得ようとする性向に、ある意味でふさわしい方法で、堕落した被造物である人間をあがなわれたのだ、というのが、これまで私が長らく抱いてきた(よろこばしい)感じであった。
 福音書は妖精物語を、いや、あらゆる妖精物語の真髄を包含するような偉大な物語を含んでいる。福音書のなかには、多くの驚異がーーとくに芸術的なものが、美しく、感動的なものが含まれている。それは完全な、自己充足的意味における「神話的」なものである。そしてこれらの驚異のなかには、思いつくかぎりにおいて、最も偉大な、最も完全な、「幸せな大詰め」が見られるのである。しかし、この物語は、「歴史」のなかに、第一の世界に入った。「準創造」への願望や熱望は、「創造」の実現にまでたかめられたのである。
 「キリストの誕生」は、「人間」の歴史の「幸せな大詰め」だった。「復活」は「神のキリストにおける顕現」の物語の「幸せな大詰め」であった。この物語は喜びに始まり、喜びに終わるのである。その「真実らしく見えるような内部の首尾一貫性」は傑出している。この物語よりも真実である、と考えられる物語はほかにないし、かくも多くの懐疑主義者すらもが、その価値によって、真実の物語として受け入れたものもほかにない。

(引用:J.R.R.トールキン/猪熊葉子訳「妖精物語について ファンタジーの世界」pp.145₋146/評論社)

そう、トールキンの言う『究極の幸せな大詰め』とは
キリスト教徒が「福音」と呼んでいるモノのこと…つまり

「キリストの誕生&十字架での死と復活」という

キリスト教徒が信じてることそのものの事です。

トールキンは「ファンタジーで得る喜びの核となるもの」は
「キリストの誕生&十字架での死と復活」
の反映なのだと言っています。

これをモノにするというのは、ありていに言うなら

「有神論的世界観を体験し、キリスト教の核心である『イエスの十字架での死・葬り・復活』によって人間は魂の底からの喜びを得ることができるのだとういう予感を確信する」

ということです。

もーっとわかりやすく言うなら

なぜ2000年前の中東で革命起こそうとして処刑されたおっさんを《神》とするナゾ理論な宗教が迫害されたりしたりしながら今日まで至ってしまっているのか、なぜ世界人口の3人に一人がそれを《福音(よいしらせ)》とすら思えるのか、なぜ天才ファンタジー作家J.R.R.トールキンはそれをファンタジーの真髄としたのか、というギモンに自分なりのアンサーを持つ

 ことです。


さて、ここまで書けば『究極の幸せな大詰め』が日本でスルーされている理由をなんとなく感じていただけたのではないでしょうか。

そう、これは「宗教、しかも一神教に片足を突っ込む」ということにほかならない話であり、日本ではあまり活発ではない分野…ややもすれば忌避されていることだからです。

様々な物語があるなかでも特に「ファンタジー」は、人間のたましいへの言及を避けられない分野。そのようなジャンルに関わっている方であれば

宗教なんてものは無価値。考えるに値しない。

…と言う方はいらっしゃらないかと思いますが

いや、キリスト教みたいな禁欲的で人の想像力を縛る宗教が創作に直結するワケなくないか?あとそんなの日本でウケない。

知識としてシューキョーのこと知っておくことは大事と思うけど、それ以上は関わるべきじゃない。

特定の宗教を深く知りすぎると偏って自由な作品が創れなくなる。

一神教のドグマなんて取り入れたら日本人のよさが失われてしまう。あと古臭い。

このような逡巡をする方も少なくないのではないでしょうか。

これについては、私どもはこのように伝えたいと思います。

たしかに、あなたがご自身の引き出しに、すでに十分な素材を持っていて、それを自在に引き出してアレンジするヤル気も腕前もあり、じっさいにそれができているのであれば、この話しは不要です。

でも、もしあなたが

「自分の引き出しを増やしたい」
「いつか自分の創作意欲とかが“枯れる”んじゃないかと不安…」
「自分の持ち味がわからない。差別化したい…」
「読者から『うまく言えないんだけど、魂の底から喜びがあがってくる』と言われるような作品を創りたい」
「細かい設定が増える一方で、だいじな骨組みがうまく組み立てられていない気がする…」

と思われるのでしたら『究極の幸せな大詰め』を心の引き出しに入れておくことは損ではありません。

なぜなら、ファンタジーというジャンルはこの『究極の幸せの大詰め』が血肉となっている人たちで築かれてきたからであり

血肉となっているゆえに「わざわざ説明できる」人が少ないため、彼らの創作論を探っても出てきにくい部分であり

日本においては「ちょっと知っている風の書物」でも、ちょうどソコを飛ばしたり誤解して伝えられているということが奇跡的に合わさってうまく伝わってない部分であり

そもそも『究極の幸せな大詰め』とは「なにかを創る」というメンタリティの足しになってもマイナスになることはない世界観を常に含むものだから、

です。すなわち『究極の幸せな大詰め』とは

「正しく押さえることで引き出しが広がり
かつ、日本人のほとんどはやってないから確実に差がつくポイント」

になりうるのです。

 

えーと、じゃあ、ちゃんと押さえるにはどうしたらいいの?

と、さっそく実践に移りたい方はコチラへどうぞ↓

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ただし、『究極の幸せな大詰め』体験は、あなたの価値観を崩壊させる恐れがあります。覚悟のある方だけお進みください。

いやその前に、ホントなのかな…?

と、まだ納得できない方は、順に解説していきますので引き続きお読みください。得心すれば取り入れてくださればと思いますし、得心しなければスルーしてくださってかまいません。

日本人ファンタジー創作家が『究極の幸せな大詰め』の体得によってパワーアップする6つの理由





理由①:聖書・キリスト教はその源流をたどればファンタジー「そのもの」だから

現代につながるファンタジーの祖といえば、『指輪物語』のトールキン、『ナルニア国ものがたり』のC.S.ルイスと言って差し支えないでしょう。

驚異的な売れ行きを見せる「ハリー・ポッター」シリーズを旗頭とする、現在のファンタジー作品群の隆盛は、さかのぼれば、ルイスとトールキンの功績に行きつくはずだ。第二次世界大戦の世界に、ファンタジーを趣味人の書物ではなく、一般の多くの人に愛される作品として提示できたのは、まずをもってこの二人なのだ。その後に書かれたファンタジーは、多かれ少なかれ彼らの作品の影響をこうむっている。

(引用:荻原規子著「ファンタジーのDNA」pp.208~209)

この2人の知名度は群を抜いています。現代の日本でも馴染み深い物語であることが、Twitterからもうかがえます。

▼「指輪物語」「ナルニア」にまつわるツイート

(一定期間ツイートがないと表示されません)

この2人がキリスト教信仰を持っていたこと

(そしてキリスト教信仰を持っていることとファンタジーを紡ぐことの緊密な関係を堂々と肯定したこと)

はご存じの方も多いかと思いますが、ファンタジーというジャンルを確かな地位にしたこの2人を中心に「ファンタジーの歴史」をひも解くと、その源流にいた人たちのほとんどがキリスト教の土台を持っていたことがわかります。

英国で最初の創作妖精物語となったのは、社会主義者で思想家だったジョン・ラスキン(1819~1900)の書いた『黄金の川の王様』であるというのが定説のようだ。

(引用:小谷真理著「ファンタジーの冒険」pp.41~42)

ジョン・ラスキンは、19世紀イギリス・ヴィクトリア時代を代表する評論家・美術評論家である。厳格な福音主義の家庭に生まれたラスキンは幼少から福音説教に親しんでいた。「聴衆の耳が慣れ親しんだ福音主義の牧師の口調で芸術の必要性を説いた」「イングランド国教会内外の福音主義者たちの間で特別な共感を得た」(『ラスキン 眼差しの哲学者』ジョージ・P・ランドウ著)という。

(参考:ウィキペディア/クリスチャン新聞

彼(ジョージ・マクドナルド)は人間というものを探求するための文学的手法としてファンタジーを利用した。この手法は上でも触れたC・S・ルイスやJ・R・R・トールキン、マデレイン・レングルらに大きな影響を与えた(ちなみにルイスは1945年の長編小説『天国と地獄の離婚』にマクドナルドを登場させている)。”Alec Forbes”など、マクドナルドのファンタジーではない小説も、スコットランドを写実的に描いた小説の草分けとして重要である。彼はスコットランド文学において「菜園派」の創始者とされている。

(出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia):ジョージ・マクドナルド項2020/12/17/12:23時点』

マクドナルドは、スコットランドの小説家、詩人、聖職者。会衆派教会とカルヴァン主義の影響下で育った。

(参考:同上)

チャールズ(・ドジソン=ルイス・キャロル)は、マクドナルドと同じくキリスト教の教えの中核は、神が愛の神であることだと信じた。

(引用:モートン・N・コーエン著「ルイス・キャロル伝 下」p.116)

さて、ダンセイニというと、トールキンやラヴクラフトや稲垣足穂などなどに影響を与えて、『夢見る人の物語 (河出文庫/Ama)』の文庫帯には、「『指輪物語』も『ゲド戦記』もここから生まれた」とあります(ちょっと大げさか)。

(引用:「魔法使いの弟子(ロード・ダンセイニ[著]・荒俣宏[訳]/ちくま文庫)~あらましと感想、軽いネタばれ」

ただ、彼自身の感受性もまた、キリスト教的世界と汎神論的世界との
間で揺れ動いている。

(引用:アマゾンカスタマーレビューより

ダンセイニ卿とかはキリスト教も自分の中にあるからこそ「パンの死」とか書けたんじゃないかな〜と思う

(引用:ツイッターより)

不思議の国のアリス』は、イギリスの数学者チャールズ・ラトウィッジ・ドドソンがルイス・キャロルの筆名で書いた児童小説。1865年刊行。『アリス』の本文には多数のナンセンスな言葉遊びが含まれており、作中に挿入される詩や童謡の多くは当時よく知られていた教訓詩や流行歌のパロディとなっている。イギリスの児童文学を支配していた教訓主義から児童書を解放したとして文学史上確固とした地位を築いているだけでなく、聖書やシェイクスピアに次ぐといわれるほど多数の言語に翻訳され、引用や言及の対象となっている作品である。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』不思議の国のアリス項2020/12/18日21:47時点

チャールズの信条について把握するのは難しくない。手紙や作品に明瞭な言及があるからだ。

(モートン・N・コーエン著「ルイス・キャロル伝 下」p.109)

チャールズは、神に訴える。もっと真面目な生活、「もっと思慮に満ちたキリスト教徒の生活」を営むことができるようお助けくださいますように、そして「神の御前でもっと瞑想に没頭する自覚的な生き方ができますように」と。

(モートン・N・コーエン著「ルイス・キャロル伝 上」p.346)

※また、ルイス・キャロルは「聖書は芸術の大いなる体系である」と言ったウィリアムブレイクに大きく影響を受けています。

どういうふうに信じているかはおのおの別としても、みな多かれ少なかれ『究極の幸せな大詰め』の影響力のもとで物語をつむいできたのです。

そして、それを無視できない理由が次です。

理由②「聖書 西洋諸芸術 西洋文学 幻想文学・ファンタジー」だから

「西洋・欧米芸術や文学を理解するには聖書の知識が必要」というのはよく言われます。

これを書いている私は、「西洋・欧米文学には聖書の素材がたくさん使われてるから、すばやく理解するために知識が必要なんだろうな」くらいに考えていました。

しかし、自分がキリスト教会に通い始め、聖書を手に取って10年…この言い回しに違和感を覚えるようになりました。

そんな違和感を拭ってくれたのが、次のような話でした。

人間は動物のように自然の中に直接、もしくは裸のまま生きているのではなく、神話的宇宙、つまり生存上の関心から発展した前提や信念の集合体の中に生きているのである。これらのものをわれわれは無意識裡にいだいているのである。

(ノースロップ・フライ著/伊藤誓訳「大いなる体系 聖書と文学」序論XVII)

聖書はあきらかにわれわれ自身の想像力の伝統における大きな要素である。われわれが聖書に関して何を信じていると自分で考えようと、そうなのである。何ゆえにこの不様に広がる無骨で巨大な書物が、われわれの文化遺産の真ん中に『ペール・ギュント』の「偉大なボェイグ」あるいはスフィンクスのように謎として立ち塞がり、回りを歩こうとするわれわれの企てを」阻むのだろうか。

(ノースロップ・フライ著/伊藤誓訳「大いなる体系 聖書と文学」序論XVII)

…読者のなかには、キリスト教文学っていったい何だ、と思っている人も多かろうと思う。われわれがこの方面の研究をはじめたとき、すでに〈仏教文学〉ということばは一般に定着していたが、〈キリスト教文学〉ということばを用いるのには抵抗を感じた。たとえば欧米文学を考える場合、わざわざ〈キリスト教文学〉と断らなくても、キリスト教的なものがその根底にあるか、あるいは一九世紀末の文学者たちのように、キリスト教に反抗することによって、かえってキリストに甘えている文学が存在するなど、多かれ少なかれキリスト教にかかわっているから、敢えて〈キリスト教文学〉などということばを使わないのであるが、…

(引用:「キリスト教文学を学ぶ人のために」Ⅱキリスト教文学を解くー歴史・受容史・概論―小玉晃一p.18)

そう、キリスト教・聖書が西洋・欧米文学に与えている影響というのは、素材どころではなくもはや「体系」…つまりは『土台/礎/血管/血肉』の可能性があるのです。

ウィリアム・ブレイクの「聖書は芸術の大いなる体系である」という言葉から考えた、西洋文学の位置づけ。

現代、わたしたちが「ファンタジー」と呼んでいるものの源流は「西洋文学」に包括されます。その「ファンタジー」の源流に近い人たち(とくにJ.R.R.トールキンやC.S.ルイス)は、ファンタジーを『福音の反映』として紡いだのです。

『究極の幸せの大詰め』は、創り手たちが言語化していない部分にも影響があらわれているほどの巨大な土台であると言えます。

文筆家が言語化しきれない代物であるならば、況や、一神教になじみのないわれわれ日本人をや。日本でファンタジー創作に聖書が必要だと声高に言われていないのは「デカすぎで見えてない」部分に『聖書・キリスト教』が位置しているから、かもしれません。

…なんだか話が大きくなってきた。

と感じるかもしれませんが、大丈夫です。

創作家は、解剖に熱心になるよりも、一回取り込んでしまうことで体得できると私は思っています。

「すげえ壮大なハナシになってきて逆にヤル気なくした…」という方もご安心ください。たった一冊のある本を読むだけで、トールキンの語る『究極の幸せな大詰め』が体験できちゃいます。

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理由③:現実の解像度を上げるために役に立つから

現実に対する鋭敏な批評的洞察が、いったん作家の心に飲みこまれて内面化され、それが寓話的な方法論と結びついて作品に結実する。その時、ファンタジー作品に再構成された意匠は、その意匠自体のもつ歴史性を逆説的に表し、ゆらぎ、独特のきらめきを帯びる。

(小谷真理著「ファンタジーの冒険」p.13)

さらに、帰納的に言って、すべての偉大な詩は詩よりもはるかに何か別のものに価値を置く人たちによって作られたものであるということを主張することは、難しいことではない。たといその何か別のものが、家畜を略奪して敵をやっつけるとか、女の子をベッドに倒すとかいうことだけであってもである。真の軽薄さ、厳粛な愚鈍さはすべて、文学をそれ自体のために重要視される自己存在的なものにするような人たちのものである。

(C.S.ルイス「キリスト教と文学」pp.434₋435)

「ファンタジー」というのは「現実の反映」であってはじめてその意匠が輝く…という認識は、わりと肯定されるもののようです。

▼参考

小谷真理著「ファンタジーの冒険」

河合隼雄著「ファンタジーを読む」

脇明子著「魔法ファンタジーの世界」

ここで思い出していただきたいのが「キリスト教は世界の3割の人の想像力の源である」ということです。

「一神教」という括りまで広げれば、世界人口の半分以上となります。

これを書いている私たちはキリスト教徒であり、聖書を注意深く読むことで『人間の心に響くパターン』をつかむ近道の一つと信じています。もちろん、現段階ではナットクできない方のほうが多いと思いますので、『少なくともトールキンやルイスは、おそらくチャールズ・ドジスン(ルイス・キャロル)、ジョージ・マクドナルドはそう考えていただろうな』くらいに知っていただければ幸いです。

『究極の幸せな大詰め』を体験にするということは、多くの人類の視点を得るということです。

また、『究極の幸せな大詰め』を体験する過程では、「信じるとはなにか」ということを考える段階を経る方がほとんどかと思います。

「信じるとはなにか」「自分はいったいなにを信じていて何を信じていないのか」「どうなったら信じていることになってどうだったら信じていないことになるのか…」

こういったことを現実への洞察はさらに深まることと思われます。それは、必ずあなたの紡ぐ物語をより深いものにするハズです。

理由④:アブラハムの宗教は「日本論」を明確化するのに役に立つかもしれないから

われわれが生きているこの「日本」という風土は、汎神論、多神教、日本の古来の風習、仏教、儒教、資本主義、相対主義、スピリチュアル…とにかく色んなものがまざっています。

たとえば「神道とは」というものの解説書をいくつか並べてみても、「わかったような…わからないような」という感覚になるかと思います。

( ↓ 「+」をタップすると詳細が読めます)

神道とは、日本民族の神観念にもとづいてわが国に発生し、主として日本人の間に転回した伝統的な宗教的実践と、これを支えている生活態度および理念をいう。神道は、ニ、三の教派を別にすれば、教祖を持たない自然発生的宗教であり、主として日本人の間で行われている民族宗教である。(略)

(出典:「国史大辞典」)

神道とは日本民族固有の宗教であり、日本の列島がもつ風土環境と、そこに住みなした原始~古代人たちの生活習慣が織り成した歴史のなかに芽生え、はぐくまれた独自の、素朴な宗教的情操や霊的価値観を基盤として、不断に渡来する外来的文化をも摂取融合し、次第に成長をとげたものである

(引用:「原神道の世界」『講座日本の古代信仰』第1巻)

日本の風土に生まれ、民族の歴史とともに盛衰してきた宗教文化であるから、当たり前の日本人であれば、おのずからその生活の一部をなしてきたものであり、その生活感覚にはじめからなじみきった営みである点で、まさしく伝統文化の一端でしかない。(略)神道は、日本の風土と民族文化を抜きにして営まれた宗教独自の歴史や性格をもったことがない。現実の風土と社会がそのまま宗教の世界だという神道の本来的なあり方は、近代の見方からすれば、いわば宗教以前の宗教ということになる

(出典:薗田稔「日本宗教辞典」第二部 神道頁 弘文堂版)

神道とひとことで呼ばれてはいるものの、神道はひとつの秩序ある信仰体系ではなくて、むしろ、心霊、魂、霊魂などをめぐっての原始的な信仰とその実践の集成されたものなのである

(引用:ハルミ・ベフ著/栗田靖之訳「日本――文化人類学的入門」)

こうなってくると、最後は「日本人の信仰を神道と呼ぶ」という定義を出すしかないように思えてくる。

(引用:瓜生中/渋谷申博著「日本神道のすべて[日本を日本たらしめるドグマなき宗教]を探求する!」p.22)

日本の風土とはかくも掴みづらいものであり、形容するのが非常に難しいモノです。それだけに、「かつての日本にはなかった世界観」というモノは非常に有効な補助線となりえます。

日本語におけるキリスト教の価値は日本学・日本論のため

「羊たちの夕べ」という、聖書について語るVtubeチャンネルがあります。ある日の放送にて、メンバー遠枡あきな」氏(遠枡あきな氏の中の人は複数名いるようですが、今回言及しているのは近代日本史とキリスト教についてアカデミックな素養のある遠枡あきなさんです)が

「日本語におけるキリスト教は、日本学や日本論論をやるためにすごく価値があるのが」的なことをおっしゃっていて、説得力があると思いました。よければご覧ください。(12分あたり)

羊たちの夕べゲリラライブ~あっきーなといっしょ2021年4月28日

もし「日本マーケットを見据えた作品づくりをしたい」という場合にも、『究極の幸せな大詰め体験』というのはじゅうぶん価値があると、私はそう思います。

「こんなの一朝一夕でできるワケないじゃん」という絶望に効く、あるキリスト教入門書を紹介。

\クリック/

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理由⑤:一神教的世界観は実は「創作」に有利だから

キリスト教を含む有神論(一神教)は

我は天地の創り主、全能の父なる神を信ず

(使徒信条)

からはじまり、

神は、あなたを愛しておられ、あなたの人生にすばらしい計画をお持ちです。

豊かな人生のための四つの法則

という考え方を土台としています。

これは、「人間の生に意味があると考えるというのは幻想」とする無神論はもちろん、「この世界も人間も自然と成った」とするような世界観とは決定的な違いを産み出します。

また、私たちは一般的に義務教育で進化論を教えられ、もう少しイマジネーション豊かに自分のルーツをさぐってみようとして「日本神話」をひも解いてみたとしても、そこで提示されている世界観は

天と地が初めて現れたときに、高天原(たかまのはら)に成った神の名は、天之御中主(あめのみなかぬし)の神、次に高御産巣日(たかみむすび)の神、次に神産巣日(かみむすび)の神。この三柱(みはしら)の神は、いずれも独神(ひとりがみ)として成り、すぐに姿を隠した。

(古事記)

とあり、

古事記においては、宇宙や世界は「誰かが造ったり生み出したりするもの」ではなく、「そこにあるもの、ひとりでに生まれ出るもの」ととらえられています。それが「成る」(実がなる、など)という言葉に端的に表されています。

(引用:天地初発之時、古事記の冒頭に見る古代日本人の世界観

というものです。

現状の自然科学をみずからのイマジネーションの源にしようが、日本神話をみずからのイマジネーションの源にしようが、どちらにせよ、日本というのは

「自分はなんとなく世界に産まれ、そこに意味を見出せるかどうかは自分次第」

という世界観を抱きやすい環境、と言えるのではないでしょうか。

しかし、これは「何かを創る」という志を持つ者には、シビアな弱肉強食の世界観を提示します。自分自身で情熱や使命感を見出せなければ終わるしかない、そういうメンタリティを醸成するだろうということは想像に難くないはずです。

それに対してキリスト教をはじめとする一神教の世界観は、「創作」、あるいは自分が情熱を感じられるものへの取り組みに、少し別の世界観を提示します。トールキンは、ファンタジー創作を「準創造」という表現で

人間が神の技に参与する独特な方法の一つ

(引用:J.R.R.トールキン/猪熊葉子訳「妖精物語について ファンタジーの世界」p.229/評論社)

としました。

それがもたらす想像力が「創作」という行為に及ぼす影響は、正直、計り知れないと思います。

個人的な話をさせていただくと、この「世界観のちがい」が創作に及ぼす影響というのは、このコラムを書いているライター自身の体験でもあります。当コラムライターは芸術大学を卒業しており、在学中の20歳前後で聖書とキリスト教に出会いました。実家は真言宗(仏教)の寺院で、それまでは一神教にはまったく馴染みがありませんでした。しかし、聖書・キリスト教と出会い、そこを境に作品への向き合い方が大きく変化しました。じっさい作品の評価も上がりました(「なんか一皮むけたよね」と評されるようになりました)。

これも想像にすぎませんが、トールキンが設定厨と呼ばれるほど変態的かつ孤独に「別の世界を創り上げる」ことができたのは、

『神がこの世界を創った』
『神は喜ばしい計画を持って自分を創った』
『神は「わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」(イザヤ書46章4節)と約束している』
『神は「わがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられる」(詩編139篇2節)としている』

という有神論的世界観のなかでトールキンが生きていたから、
ではないでしょうか。

理由⑥:一神教的世界観は実は「ファンタジー創作」に有利だから

つまりファンタジーとは、目には見えない、つまり現実的ではない何かを、文字や音楽などの表象を通して顕在化させようとする試みにほかならないと示唆しているのではないだろうか。

(引用:「ファンタジーの冒険」小谷真理著pp.9-10)

たましいそのものをわれわれは知ることができない。たましいは何かにつけて明確にきめつけることに抵抗する。これかまたましいだと決めつけた途端に、それは消え去ってしまうだろう。たましいそのものは把えられないが、たましいのはたらきそのものは、常にわれわれの周囲におこっており、それをある程度把握して他人に伝えるには、ファンタジーというのが極めて適切な手段となるのである。あるいは、人間のたましいは常にファンタジーを人間の心のなかに送り込んできているというべきであろう。

(引用:「ファンタジーを読む」河合隼雄著pp.25-26)

これに対して宗教学者の中村圭志氏は「宗教で読み解くファンタジーの秘密Ⅱ」でこのように表現しています。

たとえば、超有名ファンタジー『ハリー・ポッター』シリーズでは、ハリーの両親の墓碑銘は「最後の敵なる死もまた亡ぼされん」(コリント信徒への手紙1、15章26節)とあります。

そして、いずれも「恐れることはない」「死の心配をするより、善く生きよ」というメッセージを発しているとのことです。

(引用:【空色勾玉考察】古事記から見えた勾玉三部作のメッセージと、少しの聖書解説

「ファンタジー」というのは日本でさまざまな方向に進化を見せていますが、
それでもそれなりの読者がファンタジーというジャンルに求めるものというのはおおよそ

「目に見えない何かを反映させる」
「たましいのありかをさぐる」
「死の恐怖を緩和するための提言」
「常識にとらわれない自由な発想をうながす力を会得させる」

…こういったことのようです。

▼参考

小谷真理著「ファンタジーの冒険」

河合隼雄著「ファンタジーを読む」

脇明子著「魔法ファンタジーの世界」

「(人間にとって大切な)目に見えない何か」「たましいのありか」「死」への言及…

こういったものの基本かつ専門は、日本人が嫌ってやまない「宗教」なのです。

人類を動かすほどの文学は、先ず神に対する告白があって、天地の主を動かし奉るものでなければなりません。日本文学にアウグスティヌス・トルストイの告白に比すべきものがないわけは、その告白を聞き給う神の存在を信じないからであります。稀に日本文学の中に告白があっても、それは空しい独り言に過ぎず、宇宙のヌシにまします神の生前に立つと、身震いしつつ何もかも告白するという霊魂の記録がありません。

(引用:「キリスト教読本」比屋根安定の言葉――「キリスト教文学を学ぶ人のために」pp.42₋43)

私自身、「既存の伝統宗教の言ってることなんて取るに足らない」と思っていました。しかし、キリスト教のことを学び始めたときに、その壮大さや深さ、現代にも通じる世界観に驚き、たんに自分の知識がないだけであったことを深く恥じ入りました。

このような馬の骨が言うことには説得力がないと思われますので、ここは天才・トールキン自身もそう言っていたということを改めて思い出していただいて

創造的「空想」は、白日のもとにあるがままの物をはっきりと認識することを基礎としている。換言すれば、それは事実の認識、といってもよく、事実に隷属することではない。ルイス・キャロルの物語と詩は、論理に基づきながら、非論理(ノンセンス)となってあらわれた。本当に人間がカエルと人間を区別することができなかったら、カエルの王様に関する妖精物語は生まれえなかっただろう。

 「空想」が過度になることは、もちろんありうることだ。不出来ということもありえる。よこしまな目的のために用いられ、それを創り出した精神さえもだますことすらもあるだろう。しかし、この堕落した世界のうちにあって、人間がかかわりあいをもつものはみな、そういうものなのではないだろうか。そうでないものが果たしてあるだろうか?人間は妖精を創り出したのみならず、神々をも想像した。そして、その神々を礼拝した。創りて自身の悪によって、はなはだしくゆがめられた神々ですら、礼拝したのである。しかし人間は、ほかの素材からも、にせの神々を創り出した。もろもろの観念、主張、富などからも、科学や社会学、経済学などの学説さえもが、人間の犠牲を要求してきたのだ。

 「濫用は使用を排斥せず」という。「空想」は依然人間の権利のひとつである。我々はその能力に応じて、周囲の世界から観念をうる方法に従って創造行為をなす。それは私たち自身が創られたものだからである。そして、創られたばかりでなく、創造主の姿に似せて創られているから、なのである。

(J.R.R.トールキン/猪熊葉子訳「妖精物語について ファンタジーの世界」pp.113~114/評論社)

また、現代でも確かな存在感を放ってい日本ファンタジー『銀河鉄道の夜』のことも少し思い返していただきたいと思います。

宮沢賢治は仏教は法華宗信仰を持っており、「銀河鉄道の夜」はキリスト教・聖書的なモチーフを使いながら、自らが帰依した宗教のドグマが中心の(という見方が十分にできる)作品です。

もうここまで言うと、「宗教」というものがいかにファンタジーの軸になりえるのか、それが放つ異彩とたしかな存在感がいかにつながりうるのか…

なんとなく感じていただけるのではないでしょうか。


…こういったもろもろの理由から、『究極の幸せな大詰め』がファンタジー創作にプラスになる部分があるということをお分かりいただけたかと思います。

現在の日本で紡がれるファンタジーは、実に多岐にわたっています。けれど、そこにある種の閉塞感があるのもまた事実。

現状打破の方法として、あたらしい世界観の投入ーーそれも、多くのファンタジー作家たちが土台とした、しかし現代の日本人にはおおよそ手つかずのこの領域に足を踏み入れて――みるのは悪い事ではないのではないでしょうか。

たった一冊のある本を読むだけで、トールキンの語る『究極の幸せな大詰め』が体験できます。

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※注意※
ただし、『究極の幸せな大詰め』体験は、あなたの価値観を崩壊させる恐れがあります。覚悟のある方だけお進みください。

こういうのまだ気になるよねQ&A



私たち人間のうちには、本当の意味の創造性はひとかけらもないのです。……人間の手になる作品が……他の人々にとって、作者が本来意図したものを意味することがまれなのはまさにそれだからです。つまり、私たちは神の創造なさった要素、したがって神みずから意味されたことを含んでいる要素を組み合わせ直しているだけです。(C.Sルイス/中村妙子訳『ピネラピ修道女に』〔この手紙は邦訳の「別世界にて」に所収されている〕p.247)



トールキンのいたイギリスはキリスト教国だったからでは?

西洋人は子どもの頃からそういう文化で慣れ親しんでたから信じてただけでしょ?トールキンとかルイスは自文化アゲしてるだけじゃない?

じい
じい

そうでもないのではないでしょうか。当時イギリスではカトリックはかなり厳しい状況に置かれていましたし、ルイスも攻撃的な無神論者でした。

 こんにちのわれわれは宗教的な転向をそれほどおおきなこととは考えず、カトリックの信者になることにも、さほど周囲の抵抗はない。しかしプロテスタント信仰の強固な一九〇〇年の英国では、事情はまるで違っていた。カトリシズムは異国の奇習であり、反英国的とすらみなされていた。個々のカトリック教徒の教皇への忠誠心や、二百年ほど前のカトリック・プロテスタント間の政争などのために、カトリック信者はうさんくだいものとされ、法的にも社会的にも差別を受けていた。
 この時代には英国でもアメリカでも、反カトリックの群集の暴動が起きており、アメリカのいくつかの都市では、カトリック教徒が殺されることすらあった。(中略)プロテスタントは十六世紀にカトリック教会から分かれ、さまざまの派をかたちづくった。信仰の基盤であることがらーー処女懐胎、キリストの死と復活、イエスを救世主とみとめることーーに関しては、カトリックもプロテスタントも一致している。だがプロテスタントが聖書のみを知恵のよりどころにするのに対し、カトリックは教皇や教会の伝統的教えをも聖書と同等のものとみなす。ちがいはそれだけではないが、こんにちでは、プロテスタントとカトリックは、相違点よりも共通点のほうがはるかに多いことがわかっている。
 かなしいことに、当時はそうではなかった。メイベル(J.R.R.トールキンの母)はすぐに改宗の結果に直面させられた。両方の実家からは、財政的援助をうちきられ、その行為を露骨に非難された。しかしこの批判や金銭的援助のうちきりも、彼女のあたらしい信仰をゆるがすことはなかった。

(「トールキン『指輪物語』を創った男」マイケル・コーレン著/井辻朱美訳pp.29~31)

 

また、C.S.ルイスは、家庭こそアイルランド国教会に基づくキリスト教でしたが、幼い頃母親を亡くした経験と、また第一次世界大戦の体験から攻撃的な無神論者に転じます。

その間、北欧神話に惹かれたことがあるようですが、あくまで寓話という意味で好んでおり、自身は無神論者でした。

しかし、彼はやがてキリスト教信仰を持つようになります。

(もっと詳しく知りたい方はルイスの自伝「喜びのおとずれ」をどうぞ)

アイルランド国教会の神父の娘であった母を9歳ぐらいのときに癌で失い、思春期は寄宿学校の上級生たちから同性愛とイジメが交錯する環境で悩まされ、ついにその学校を辞めてついた教師は厳しい無神論者にして徹底した合理主義者――そんな生活史による影響は、非常に大きかったと推察できます。
しかし、それをキリスト教へ回帰させる上で大きく影響したのは、敬虔なカトリック教徒であったトールキンでありました。

(引用:トールキンを支えたCSルイスのフェアリーテイル(ナルニア国ものがたり

トールキンやルイスのファンタジー論や信仰観の著作からは、この時代が科学の発達により、多くの人が「信仰など不要」だと考え始める時流であったことが伺えます。

そんななかで、慣れ親しむどころか「激しく憎む」まで至ったC.S.ルイスのような人間が、やがて『それを反映させるために人生をかけて物語を紡ぐようになる』存在とは、いったい何なのでしょうか。

いかがでしょう、ちょっと深堀してみる価値ありそうではないでしょうか。


喜びのおとずれ―C.S.ルイス自叙伝 (ちくま文庫)

俺は知った上で採用してないだけなんだが?

俺はキリスト教系学校だったから聖書のことは知ってる。知った上で採用してないだけ。

じい
じい

もちろん、そういう自負をお持ちの方にわれわれが『究極の幸せな大詰め』体験を強制する力はなにも持っておりませんので、どうぞご自身の確信にしたがって頂けたらと思います。

あえて一つだけ確認させていただきたいのは

聖書の知識があることと『究極の幸せな大詰め』がなにかを知っているということは似ているようで違うということをどれほど体感していらっしゃいますか

ということです。

冒頭から申しておりますように、キリスト教というのはこと日本においては取り扱われる機会があまりにも少なく、かつ、ちゃんと興味を持って手ごろそうな「解説本」「入門書」を開いてみたとしても、なんとも多くの入門書・解説本が『究極の幸せな大詰め』の部分をどーーーんと削除しています。

ご自身が、その状況を奇跡的にかいくぐっているのかどうかをいま一度確かめるためにも、当コラムがおススメしている『究極の幸せな大詰め体験方法』をおためしください。

「取り入れよう・反発しようとしても失敗してる」証拠は?

作品は面白ければそれでいいと思うし、好みも人によって違う。何をもって失敗してるっていうの?

じい
じい

くわしい作品名をここで挙げることはいたしませんが、

たとえば、作中・作者のコメントなどに「キリスト教を批判します」という表明をみせる作品などにも、次のような現象が見られることが散見されている印象が私めにはございます。

「われわれは、獣も人間も、トルコ人もキリスト者も、同じように死んだり生きたりしているのを見るではないか。彼らもわれわれと同じように、彼らの儀式、彼らの預言者、彼らの博士、彼らの聖者、彼らの修道士を持っている。」これは聖書に反するのであろうか。聖書はこれらすべてのことを言っているのではないか。

(パスカル「パンセⅠ」二二六/ラ150/前田陽一・由木康訳/中央公論新社p.168)

批評に対する今日のさまざまな取り組みは、聖書批評から生まれた「神は死せり」症候群により隠然と動機づけられている。批評理論の公式の多くは、他の何よりも聖書に適用した場合に、より擁護しうるものになると私には思われる。

(ノースロップ・フライ著/伊藤誓訳「大いなる体系 聖書と文学」序論XIX)

ブレーズ・パスカルや、ノースロップ・フライの周辺でもこういう現象があったというのは、示唆に富んでいるように感じます。

取り入れるにしても反発するにしても、「聖書・キリスト教がなにを主張しているか、なにを肯定してなにを批判しているか」を見極めなくては、このように空振りしてしまいます。

先にも述べたように、日本の「聖書・キリスト教入門書」にはそういったものが抜けていることが多いので、かくもパスカルやフライが言っているような現象がより起こりやすくなるのではないかと思われます。

また、次のような印象を持たれているラノベ創作家さんもいらっしゃるようす。

ライトノベル界隈で『一神教(キリスト教)』の取り扱いが「最近では少し変わってきたが、少し前は~」と語られているというのは興味深い話です。

もしかしたらこの読みに反論する方もいらっしゃるのかもしれませんが、こちらの

『ライトノベル創作教室』を含め5つのラノベ関連書籍を刊行。クリエーター専門学校AMGのノベルス学科で特別講師を何度か担当。(うっぴー/ライトノベル作法研究所Twitterプロフィール2020年12月25日時点より)

こちらの「うっぴー/ライトノベル作法研究所」氏は自身の創作論ツイートで

とおっしゃっており、ツリーを読んでみても「異世界ファンタジーに聖書が必要な理由」にピンときたカンジではありませんでしたので、やはりその点を重要視している作家はまだ少ない可能性があります。

こういったことなどから、当コラムライターは「日本のファンタジー創作家のなかで、聖書の本質的な部分を踏まえて創作している方は稀」という仮説を持っています。

もちろん、日本ではキリスト教がほぼなじんでいないので「聖書はコレを主張している」という架空の主張を立てて批判する、というようなことをやってもそんなに大きなツッコミは起きないかもしれません。(ただ、この手法はやや裸の王様的かもしれません)

(※)日本のキリスト教系信者数は平成30年12月の統計調査によると1,921,484人だそうです。これには「ものみの塔」や「モルモン教」も入っていると思われるのでじっさいにはもっと少ないと思われます。この信者数と日本の人口1億2644万3千人から計算すると1.5%以下、ということになります。


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じい
じい

これに関しては

・キリスト教/聖書の主張は基本的に「社会的弱者」に都合のよいものになっている
・聖書が現在存在している解釈で世界に流通している事実は変えられない

という点を中心に考えていただければと思います。

当コラムライターが聖書を読んだときに、抱いていたイメージとちがってイエスが「社会的弱者に徹底的に共いた」こと、イエス自身も(預言された救世主であるということを除けば)ややも社会的弱者的な傾向を持っていたことに驚きました。そういった印象を持つ私としては、上記のクエスチョンのような解釈にたどり着くのは性急ではないでしょうか…と言いたいところですが、しかしながらたしかにキリスト教会の歴史を見るとそういう風に見られることにも一理あるような感じもします。

この辺は、逆説的ではありますが「あれほど深みのある物語を紡いだトールキンが、自身の信仰をカトリックに置きながらキリスト教信仰の核心のことを『究極の幸せな大詰め』と表現した」という事を踏まえて、ご自身で判断していただけたらいいのかなと思います。

また、一応お伝えさせていただきますと、聖書の解釈というのは、キリスト教の共同体がローマ帝国に迫害されている時から、弁証を用いて共同体の共通認識として残ったものが現在の主要なドグマとなっている、という見方もじゅうぶん可能なものです。

今なお、多くの人々はーー良質の教育を受けたキリスト教徒たちですらーー、キリスト教の教説の発展を非歴史的な現象とみなしている。すなわち彼らは自動的に、キリスト教の教義は歴史上一度きり、不変なものとしてイエスの説教によって啓示されたのだ、という考えから出発している。女神アテナがゼウスの頭から生まれたように、それは、ちゃんと装備を身に帯びた形で一時に生まれたというわけである。これと全く対立する、同様に非歴史的な見方によれば、キリスト教の教説は、司教冠を戴き、自分たちの考えを専制的な手段でこの世に押しつけた、そのような権力亡者たちがでっち上げたものなのだ、となる。実際には、キリスト教の教説は、しばしば非常に高いレベルで行われた、何世紀にも及ぶ論争の結果であり、三二五年のニカイア信条の確定をその暫定的な終点とするところのものである。

(J.ファン・デル・フリート著/戸田聡訳「解読 ユダの福音書」p.271)

キリスト教は単に、聖書から導き出された信心や観念の問題ではなく、使徒的な信仰は、人々の証言や、過去にさかのぼる共同体の教えや実践を通じて理解された。エイレナイオスは、信仰を世代から世代へ伝えた教師たちの公式に記録された系譜は、無視してはならないと述べている。そして、使徒の教えが代々の司教らを通じて受け入れられた、ローマやスミュルナ、エフェソスといった重要ないくつかの教会の名を挙げている。イグナティオスの時代に初めて登場した司教職は、二世紀の末までには教会の生活と自己理解により深く根を下ろしていた。

(ロバート・ルイス・ウィルケン著/大谷哲・小坂俊介・津田拓郎・青柳寛俊訳/白水社「キリスト教一千年史 地域とテーマで読む 上」p.78)

最近では聖書学(高等批評)研究も進んでいるようなので、気になるようなら調べて、その過程の人の営みに想像力をふくらませてみてもよいかもしれません。それもまた作品への肥しとなると思います。また、C.S.ルイスは

イギリス人の大部分はクリスチャンではなく、したがって、キリスト教的な生き方を彼らに期待することはできない、ということを教会は率直に認めるべきである――

(C.S.ルイス著./柳生直行訳「キリスト教の精髄」p.178)

とも言っており、トールキンやルイスが物語の源とした「キリスト教の核心」部分に触れるというのは、ただそれっぽい環境に身を置く以上の“注意深さ”が必要かもしれません。

しかし、それでも現在の聖書が統合体として読まれてきた事実は覆りませんし、信仰の根幹部分にすら解釈は死ぬほどありますので、車輪の再発明を防ぐためにも、なんにせよ一度、伝統的な共同体を通した方がよいかと思われます。

じい
じい

トールキン自身がカトリックだったことを思うと、まずはカトリックからでよいのではないかと思いますが…

日本ではユダヤ教やイスラム教よりも、キリスト教になじむほうがカンタンだと思います。

カトリック→プロテスタント

を経ても、「想像力の洗礼」(※)が起こらなければ、他宗教にあたってもよいのではないでしょうか。

(※)…C.S.ルイスがジョージ・マクドナルド作品を読んだときに起こった心境の変化表現した言葉。

じい
じい

あまり大きな声では言えませんが、

・カテドラル効果
・祈りの効能

などの、かなり直接的なメリットも見込めると私めは思っております。

天井の高い部屋は、抽象的思考や創造性を活性化するようで、商品性能評価をさせれば、評価者は総合的な特色に注目する。研究開発などの用途にも良さそうだ。商品を販売するのであれば、顧客の想像力を働かせる必要のある住宅リフォーム店などが適している。滞在時間が長くなる効果があるのでカジノの天井も高い。

事務所の天井は高い方がいい(カテドラル効果)(株式会社フロウシンクHPより)

人間の脳は、自分の行動をつねにモニタリングして「その行動がよいのか悪いのか?」を判断している。そのため、他人の幸せを願うポジティブな「祈り」は、ベータエンドルフィン・ドーパミン・オキシトシンといった快楽物質をドバドバと出してくれる。…(中略)…

もう1つの「祈り」の大きな効果が、人間の幸福度をあげてくれるところ。

「祈り」は脳の最良の特効薬である | 「脳科学から見た祈り」(パレオな男より)

「祈りの効果」などはインスピレーションに直結しているわけではありませんが、めぐりめぐってインスピレーションに影響を及ぼすというのはいかにもありそうです。

C.S.ルイスを一躍有名にした「悪魔の手紙」などは、はある日の礼拝中に思いついたそうです。こう言ってはなんですが、これを書いているライターも、コラムのアイデアやそういうアイデアが思いつくのは礼拝中とかだったりします。そういう面でも、伝統宗教に足を突っ込んでみるというのはよいと思われます。

じい
じい

こういう感覚を抱かれる方もいらっしゃるかと存じます。しかし、これに関しては思うところございます。

ここまでJ.R.R.トールキンの「妖精物語について ファンタジーの世界」の文面をいくつか引用してきましたので、それにしっかり目を通してくださった方には感じていただけていると思うのですが、トールキンは『福音を愛して』いました。

(キリスト教徒的に言うと、『神に愛されている事を自覚していた』という表現のほうがより適切なのでしょうが)

もちろん想像にすぎませんが、もし現状の日本の状況をトールキンが見たら

「指輪物語はライトノベル扱いしないのに聖書はライトノベル扱いする」

という風潮には渋い顔をしたのではないかと思います。(「妖精物語について ファンタジーの世界」の引用個所を読んでいただけると感じていただけるかと…)

キリスト教の福音に目を向けようとするかぎり、私たちは「『究極の幸せな大詰め』『準創造』を横目でスルーする大半の日本人」よりも、トールキンやルイスの近しい友人…もしかすると兄弟となることができるのではないでしょうか。

たった一冊のある本を読むだけで、トールキンの語る『究極の幸せな大詰め』が体験できます。

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※注意※
ただし、『究極の幸せな大詰め』体験は、あなたの価値観を崩壊させる恐れがあります。覚悟のある方だけお進みください。

キリスト教を土台に持つ先人作家たち

J.R.R.トールキン

英国の文献学者・作家・詩人・イギリス陸軍軍人
代表作:「指輪物語」「ホビットの冒険」

「キリストの誕生」は、「人間」の歴史の「幸せな大詰め」でした。

「復活」は「神のキリストにおける顕現」の物語の「幸せな大詰め」でした。

この物語は喜びに始まり、喜びに終わります。

その「真実(リアリティ)の内部の調和」は傑出しています。

この物語よりも真実である、と人に考えられる物語はほかにありませんし、かくも多くの懐疑主義者が、その物語の価値によって、真実のものとして受け入れた物語もほかにありません。

(出典:「ファンタジーの世界ー妖精物語とは何かー」p.142)

C.S.ルイス

アイルランド系のイギリスの学者、小説家、中世文化研究者、キリスト教擁護者、信徒伝道者。
代表作:「ナルニア国ものがたり」シリーズ,「悪魔の手紙」その他

われわれは神から来た。だから誤謬は免れえないにしても、われわれの紡いだ神話は、真実の光の、唯一の神と共なる永遠の真理の、ばらばらに砕けたかけらを映すことにもなる。実際に神話を創ることによってのみ、“人間”は、“堕罪”以前に彼が知っていた、まったき状態を望むことができる。

(出典:Carpenter,J.R.R.Tolkien A Biography,p.170)

ウォルト・ディズニー

 アメリカ合衆国生アニメーター、プロデューサー、映画監督、脚本家、漫画家、声優、実業家、エンターテイナー。

私がまだ幼い頃から、神に信頼してインスピレーションが与えられることを祈るように、両親は教えてくれました。そのことに私は感謝しています。宗教が日常生活で果たすべき役割について、言葉ではなく行動で示すことを私は心がけています。(元が寓話であれ実話であれ)それぞれの作品において、最高の道徳観や価値観を表現することを常に意識してきました。……聖句についての学びから、そして私の子ども向けエンターテイメント業界でのキャリアを通して、私はその重要性を教えられたのです。私がこれまで、すべての年齢層の観客に対して、スクリーンで深みのあるエンターテイメントを提供することができた秘訣の大部分は、会衆派信徒としての生い立ち、そして祈る習慣を続けてきたことによります

(出典:【米クリスチャニティ・トゥデイ】ミッキーマウスを創った男──ウォルト・ディズニーの信仰と祈り(後編)

ハンス・クリスチャン・アンデルセン

デンマークの代表的な童話作家、詩人。
代表作「人魚姫」「みにくいアヒルの子」「マッチ売りの少女」「雪の女王」など。

私の生涯の物語は、『すべてを最善に導く、愛なる神がいまし給う』と私に語りかけている世界と言えよう

(出典:日本児童文学学会編集 アンデルセン研究『人間として、童話詩人としてのH・C・アンデルセン』ゲオルグ・ブランデス/鈴木徹郎訳 p.300)
 

チャールズ・ラトウィッジ・ドドソン(ルイス・キャロル)

イギリスの数学者、論理学者、写真家、作家、詩人。代表作「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」「スナーク狩り」など。

歳月がすぎゆくとともに私にいっそう明らかになったのは、神の目的は、私たちのすばらしく複雑な生において、あらゆる人の相互作用にあるのだという真実です。どの人生も…他の人の人生に作用し、また作用すべきなのです

(出典:姪のイーディズ・ドジソンに充てた1891年3月8日の手紙より)

デメリットを少しだけ

『究極な幸せの大詰め』体験というのは、じつは危険な道でもあります。なぜなら、それを通るとき、ほとんどの人が既存の価値観の崩壊に出会うからです。

しかし

放浪する者すべてが迷える者ではない。

The Riddle of Strider

ということも、私たちは心のどこかで知っている者であるはずです。

この冒険に、少しだけ足を延ばしてみませんか。







おまけ:参考文献紹介


妖精物語について―ファンタジーの世界


喜びのおとずれ―C.S.ルイス自叙伝 (ちくま文庫)


ルイス・キャロル伝〈上〉


ルイス・キャロル伝〈下〉


トールキンとC・Sルイス: 新装版


児童文学最終講義―しあわせな大詰めを求めて


大いなる体系―聖書と文学 (叢書・ウニベルシタス)


キリスト教文学を学ぶ人のために


ファンタジーの冒険 (ちくま新書)


魔法ファンタジーの世界 (岩波新書)


C.S.ルイス 歓びの扉――信仰と想像力の文学世界


宗教で読み解く ファンタジーの秘密 II


トールキン―『指輪物語』を創った男