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【更新】天草四郎伝説の沼に足つっこみはじめた(2月更新)

「異類婚姻譚」という用語が抱える課題~「クィアの民俗学」収録,廣田龍平『異類/婚姻/境界/類縁』を補助線に

このコラムは、↓ の補足記事的な存在である。

異類婚姻譚雑語りとキリスト教disは近接しているが、一神教に帰依してない人たちが怒ってくれているので慰められてる

今から話すことは、おおむね「クィアの民俗学」に収録されている廣田龍平『異類/婚姻/境界/類縁』を参照している。

こんなどこの土の塵が書いたともしれないコラムを読むより、該当書籍をご自身で読まれた方が7の70倍良いことは添えておく。

前置き「異類婚姻譚」とは

「異類婚姻譚」とは、柳田国男(柳田國男)が創出した、民間説話の分析概念である。

柳田國男は「異類婚姻譚」という概念の前段階に「異類相婚譚」「異類求婚譚(ラベルエラベット)」という用語を使っている。「La bell et la bete ラベルエラベット」とは『美女と野獣』を指す。柳田は代表的な物語名が話型名として用いられていたヨーロッパの研究を抽象化してこの用語を創り出した。(石井正巳,廣田龍平)

柳田が定義した「異類婚姻譚」は、次のようなものである。

人間の美女又美男と、鳥獣草木などの人で無いものとが縁を結んだといふ昔話

「桃太郎の誕生」柳田國男,1933年

よくある「異類婚姻譚」という用語へのぼやき

「美女と野獣」タイプの話は、『もとは人間だったのが魔法で人間ではない姿に変えられていた』のであるから「〈異類〉婚姻譚」ではない

とぼやく人を、目の端に何度か確認したことがある。(引用元の提示はストレスがかかってしまうので申し訳ないができない。気になる方はXなどで検索すれば出てくると思うので確かめていただきたい…。)

今から紹介する「異類婚姻譚」という用語が抱える問題については、その視点の問題も包摂している部分もあるとは思うが、ややズレると思われる。

上記の発言は、日本で採集された民間説話に独自性を見出したい気持ちが先行して紡がれるコトバなのではないかと想像するが、そういう話でもない話になってしまうと思うので、めんどくさい方はブラウザバックしてほしい。

「異類婚姻譚」という分析概念がはらんでいる問題&課題

…それでは閑話休題…

異類婚姻譚の「異類」の部分における問題&課題

あおい
あおい

日本における「異類婚姻譚」として扱われてきたアニミズム的説話の多くが「当事者の片方は人間同士の婚姻だと思っているのに〈異類〉婚姻譚か?」ということ…らしい。

アニミズムにおける多くの異類婚姻譚において、最初から最後まで「婚姻」関係にあるが異なる種であることを知っているのは語り手と聞き手(表現者と視聴者)だけであって、当事者の人間のほうに異類婚姻をしている認識はない。他方で、非人間のほうにはその認識があるのだろう。だとすれば両者の関係を「異類」どうしと見ることがどの程度妥当なのか、再考の余地があることになる。

『異類/婚姻/境界/類縁』廣田龍平,2023年

日本の異類婚姻譚は大きく2種類に分類できるようで、

アニミズム的異類婚姻譚アナロジズム的異類婚姻譚
【例】蛇聟(苧環型),鶴女房,【例】猿聟,ゴリラ女房

と整理することができるようだ(たぶん…)。そして、もう少し詳細を書くと、

アニミズム的異類婚姻譚アナロジズム的異類婚姻譚
【例】蛇聟(苧環型),鶴女房,【例】猿聟,ゴリラ女房
非人間(異類)が人間の姿になって人間と縁を結ぼうとする昔話。非人間(異類)が非人間のまま人間と縁を結ぼうとする昔話。

ということらしい。

そうなってくると、冒頭のような「美女と野獣」型異類婚姻譚にも同じことが言える気もしてくるが、私の手には余るのでこのコラムでは保留にしておく。

ひとまず、日本の「異類婚姻譚」の〈異類〉の部分の課題については以下のようにまとめる。

まとめ

日本の説話に多くみられるアニミズム的な「異類婚姻譚」は、当事者の片方が婚姻相手を『異類』と思ってないため「〈異類〉婚姻譚」と呼べるのか、再考の余地アリ。

異類婚姻譚の「婚姻」の部分における問題&課題

たくみ
たくみ

一方では儀礼や制度の描写がないお話にも「婚姻」という用語を使っていたり、他方では生殖・性的関係がある状態のみのお話にも「婚姻」という用語でまとめいたりして、それを「異類〈婚姻〉譚」と総称していいのか問題…らしい。

民俗学において婚姻とは、出産や葬送などとならび、きわめて複雑に組織化された社会制度の一つであり、文化人類学や社会学といった隣接分野の成果とも連なりながら多くの研究が蓄積されている(八木 2017)。本章でそれらを検討する余裕はないが、広く共有されているのは婚姻の開始が出産や葬送などと同じように、人間社会における通過儀礼の一つだという前提であろう(ファン・へネップ 2012:第7章、八木 2001)(なお婚姻の定義については、儀礼などによって共同体が制度的に承認することを本質とする制度主義を採る[Nolan 2022,pp.25-26])
異類婚姻譚を読んですぐに気づくのは、そもそも儀礼としての婚姻が語られないことが多いという点である。

『異類/婚姻/境界/類縁』廣田龍平,2023年,p.121

柳田は「縁をむすぶ」という行為を「婚姻」として名詞化した。彼は『婚姻の話』(1948)でも、人間の話をするのに先立って、さまざまな鳥類のつがいやその「家庭生活」についての観察結果をいろいろと述べていた。柳田にとって、動物の繁殖行動と人間の婚姻は連続てきなものだった。(柳田1999:491~496頁)。動物の行動や特徴に「婚姻」という言葉を割り当てるやり方は現在でもしばしばみられるものだが(Nolan 2022:p.22)、柳田もまた、人間であれ非人間であれ、あるいは人間と非人間との関係であれ、かなり広い意味で「婚姻」の概念を適用していたわけである。明らかに、民俗誌的記述において可能とされる用語法から逸脱している。

『異類/婚姻/境界/類縁』廣田龍平,2023年,p.125

と批判する。研究者ではない現代日本人一般人からすると、「ややこしな~」と思わざるをえない話が展開されているようにしか見えないが、研究の分析用語が大衆の中でひとり歩きするということが現実にあるので(例:「付喪神」をめぐるアレコレ、見直されなければならない案件なのだろう。

ということで、「異類婚姻譚」の「婚姻」部分の問題を以下のようにまとめる。

まとめ

儀礼や制度抜きのパートナーシップを結ぶ状況を「婚姻」とするのは学術的に問題アリ、
一方で生殖や性的関係を「婚姻」とするものも混在していて分析概念としてよろしくない。再考の余地アリ。

むすび:素人はどうしたらいいのか…

今後「異類婚姻譚」という用語とどう接するか、という問題であるが、もうこれは素人的には既存の研究書を読みながらこの点についての研究が進むのを待つしかないのだろうと思う。

その間「異類婚姻譚」という用語を利用せざるを得ない場面はあるだろうが、あくまで『課題アリの用語』と認識しながら注釈付きで用いたいと思う。

「人間と非人間が縁を結ぼうとする説話≒異類婚姻譚」

くらいの解像度で。このへんの研究の進展を待つために、書籍を読みつつ、宣伝などもしていきたいと思う。

おまけ:「異類婚姻譚」はそもそもクィアなシロモノではない説

潜在的に、あるいは片方にとってすでにクィアだったものが双方にとって明確にクィアなもの(お互いが異類である)になることにより――より正確には、なりかけることにより――、物語は悲劇的な結末を迎える。この点は、むしろ異類婚姻譚の全体傾向がクィア化への運動を阻止しているとも言える。

『異類/婚姻/境界/類縁』廣田龍平,2023年,p.127

「異類婚姻譚」とされる説話群の、日本で採集されているものについてもそもそもがクィアなシロモノではないという言葉を研究者の書籍で読めてよかった。

私自身は「異類婚姻譚」と称される説話群に興味を持っているが、それは私自身はシスヘテロ(シスジェンダーかつヘテロセクシャル)であることが関係していたのかもしれない、と思った。

個人的なサブカルチャーの趣味嗜好を思い起こせば、私はフィクション作品におけるBL(ボーイズラブ)表象などを激しく浴びる十代を過ごし「こういうものを好きでいないとアニメカルチャー好きとは呼べないのだ」と思っていた。

しかし、依然として主体的な興味は持てない自分にも気づいており、それらのコンテンツを心から楽しむことができないことをどこか恥じていた。

だから、シスヘテロがほとんど前提となっている「異類婚姻譚」という分析概念に整理される説話群に興味を持ったのかもしれない。

異類婚姻譚雑語りとキリスト教disは近接しているが、一神教に帰依してない人たちが怒ってくれているので慰められてる

おまけ:アブラハム宗教はキリスト教徒(プロテスタント)の発狂日記

逆説的に、私自身はアブラハム宗教の徒(筆者はキリスト教徒。「婚姻」というものをサクラメントとして捉える西方キリスト教会の流れに身を置いている)であるので、「婚姻」というものの意味と認識が多くの現代日本人の方々と違っていると思う。

だから「婚姻」が非アブラハム教徒を多く有する社会において『よくわかんねーけどあらゆるパートナーシップを〈婚姻〉で括るの問題ないんじゃん?』みたいな現状は都合がイイ気もする。

なので…アブラハム宗教が嫌いな方々は、このへん踏ん張っていただくのも手段のひとつかもしれない、と申し添えておく(小声)

▼踏ん張りたい方はご購入を

おまけ:「狐の嫁入り」という用語が見直される日を見てみたい気もする

当コラムライターは「狐の嫁入り」という用語が好きだが、これまでの廣田先生の話と昨今の社会状況から考えると、この用語が見直される日も来るのではないか…と思った。

当コラムライター自身は、上記にも書いたようにジェンダーにおいてはマジョリティ側の人間であり、この用語が見直されることは特段望まない。が、それはシスヘテロがあぐらをかいているだけの感覚として扱われても仕方ないことではあると思う。

見直される日が来たら、それはどんな景色なんだろう。見てみたい気もする。

おまけ:フランス民話集「白い牡牛」、性別変化してる?

「フランス民話集」(新倉朗子編訳,岩波)に集録されていた『白い牡牛』という話が(タイトルうろ覚え)、かつて人間の「母」で現在「牡牛(雄牛)」であるという描写があったように聞くしている。もしかしたらロキ的な性別変化・種族変化を行っている説話として読めるのかもしれない。

また機会をみて読み直してみたい。

異類婚姻譚雑語りとキリスト教disは近接しているが、一神教に帰依してない人たちが怒ってくれているので慰められてる

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