マンガから聖書がわかる不思議なWebサイト

【更新】「異類婚姻譚」をめぐるアレコレ(5月更新)

ガブリエル×マリア性交疑惑、ギリシャ語とヘブライ語聖書で追ってもらった~植月惠一郎『ラヴクラフトの〈反転〉する恐怖』一文より

「西洋文学にみる異類婚姻譚」(2020年,山内淳監修)という書籍があります。

この書籍自体は、「異類婚姻譚」の切り口でさまざまな西洋文学を読んでいく…という主旨の論文集です。

このうちのひとつ、植月惠一郎「ラヴクラフトの〈反転〉する恐怖」(同書8章,p.187~)が、

ラヴクラフトの「ダンウィッチの恐怖」は、聖書のモチーフを反転させていると読むことができるだろう…(意訳)

といった主旨で、その詳細について論じられていました。

つまり、生まれた子どもがダンウィッチの〈恐怖〉の中心であるとすると、婚姻を中心に据えた従来の異類婚姻譚からすれば異端ということになる。ラヴクラフトが描きたかったのは、人間と異類の間にできた「生存可能な夾雑物または特権的構造物」(donald R.Burleson,Lovercraft,p.132)であった。ほとんど暗示でしか終わっていないこの両親の交わりは、明らかにキリスト生誕にまつわる聖霊とマリアの交わりと関連し、それを〈陽〉とすれば、悪魔と人間の女性の交わりは〈陰〉に相当する。「要するにあれは神の反転であった」(丹生谷貴志「戸口にあらわれたもの」181頁)のだ。(植月惠一郎「ラヴクラフトの〈反転〉する恐怖」)

(引用:2020年,小鳥遊書房,山内淳監修「西洋文学にみる異類婚姻譚」p.188

本作品(ラヴクラフト「ダンウィッチの恐怖」)では、読み書きもできず男を知らないと思われるアルビノの農家の娘が、超人的な力を授かった奇怪な存在を産むという筋になっているわけだが、物語の最後でも、ダンウィッチを見下ろす山の頂上で犠牲となるこの存在が「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てられたのですか!」というイエスの言葉にそのまま響きあう「父よ、父よ、[中略]ヨグ=ソトース(悪魔)」、という絶望的な呼び声を発する、まさに受難物語のおぞましいパロディで終わっているのだ(ウエルベック『H・P・ラヴクラフト』187頁)。このゴシック小説はキリスト教の裏返しの受肉譚つまり悪魔の〈受難物語〉となっており、『ダンウィッチの恐怖』の主題は、その最初も最後も巧みな『聖書』の〈反転〉として描かれていることになる。(植月惠一郎「ラヴクラフトの〈反転〉する恐怖」)

(引用:2020年,小鳥遊書房,山内淳監修「西洋文学にみる異類婚姻譚」p.194

かねてより聖書のイエス(私にとってはキリストであるイエス)の誕生のくだりを異類婚姻譚に接続しながら読むと楽しいんじゃないか、その補助線が手に入るかもしれない…と思っていた私は心を躍らせながら読み進めました。

(ラヴクラフトの作風自体は一般的にキリスト教のカウンター的であると受容されていることは認識しています。)

しかし、次のくだりがどうしても気になってしまい、手が止まってしまいました。

マリアが血のように赤い糸を紡ぎ始めると、天使ガブリエルが「彼女に入ってきた」(came in unto her)(『欽定訳聖書 ルカによる福音書』第1章28節)点である。この糸は運命の綴れ織りに織り込まれると、「生命」を表す。女に「入ってきた」という語句は性交を表す聖書語法であり、ガブリエルという名は文字通りには「天の夫」を意味する。』(植月惠一郎「ラヴクラフトの〈反転〉する恐怖」より)

(引用:2020年,小鳥遊書房,山内淳監修「西洋文学にみる異類婚姻譚」pp.193-194

ナルホド…

神(聖霊)×マリア
とか言う話ですらなく
天使(精霊)×マリア

と読む事で、ダンウィッチの恐怖が聖書の反転と読める理由の一つを述べようとしている…ということか、と。

「マリアが血のように赤い糸を紡ぎ始めると」…というくだりは聖書外典『ヤコブ原福音書(ヤコブ第一福音書)』で有名になったモチーフのようです。

「聖書外典であるヤコブ第一福音書(150年以後)にしたがえば、マリアは天使到来時には、神殿のたれ幕に織り込もうという緋や深紅の糸をつむいでいた。これによって、天使の告知の瞬間に、キリストがマリアの内に住まうのは、神がたれ幕に覆われた神殿内に臨在するのに等しいのだということが暗示されている。」(クラウス・シュライナー著 内藤道雄訳「マリア 処女・母親・女主人」(法政大学出版局,2000年)p.127)

しかしながら、ふつうに聖書を読むタイプの現代日本人として「そもそもその読み方にどれくらい蓋然性があるのだろうか???あと、そういう文脈があるなら知りたい!」と気になってしまいました。

なので、その一歩としてまず、原語で読むとどれくらい可能性あるのかを知るため、聖書を原語で読む(ヘブライ語/ギリシャ語で読む)事を愛好している聖書系Vtuberさんにそのへんの塩梅を聞いてみることにしました。

結論:ヘブライ語&ギリシャ語で「入る」が性交の暗喩に使われることはある…けどそうじゃない「入る」もフツウにある…→多様な読みisこのくだりの豊かさの現われでもあるよNE

▽質問動画

(この回そのものは雑段回で、そのほかさまざまな話題が配信されています。このコラムの論旨に直接関係するくだりは32:21~46:00あたりです。)


…「羊たちの夕べ」メンバーについてカンタンな説明…

足袋田クミ(ワンピースの美少女)→神はいないとしか思えないが聖書を読むのはやめられないVtuber
五旬節子(パーカーの美少女)→ペンテコステの文脈に身を置いている聖霊力30万キリスト教徒Vtuber
チャット欄の「羊たちの夕べ」→おそらくメンバーの「遠升あきな」氏が操作→発狂メイド全裸中年17歳n回目宗教研究者Vtuber

ということで、主に足袋田クミさんに教えていただいたのですが、

足袋田クミ氏
足袋田クミ氏

~のところに「入った」がヘブライ語で性交を暗喩するのはヘブライ語でよくある、それはそう。

五旬節子氏
五旬節子氏

聖書しぐさってことですね

足袋田クミ氏
足袋田クミ氏

でも普通に「入って来た」という意味の場合も使われているし、この箇所に関してもガブリエルとマリアはその後普通に会話してるので…

…ということで、足袋田クミさん自身はこの箇所での「ガブ×マリ」の読み方はあまりしっくりこない様子でした。

一応、日本語と欽定訳聖書の該当箇所を掲載しておきます。(他の訳を掲載しないのは著作権の問題なので、気になる方は他の訳も読み比べてみてください)

1:28御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」。そこでマリヤは御使に言った、「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。神には、なんでもできないことはありません」。そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。そして御使は彼女から離れて行った。

And the angel came in unto her, and said, Hail, thou that art highly favoured, the Lord is with thee: blessed art thou among women.29 And when she saw him, she was troubled at his saying, and cast in her mind what manner of salutation this should be.30 And the angel said unto her, Fear not, Mary: for thou hast found favour with God.31 And, behold, thou shalt conceive in thy womb, and bring forth a son, and shalt call his name Jesus.32 He shall be great, and shall be called the Son of the Highest: and the Lord God shall give unto him the throne of his father David:33 And he shall reign over the house of Jacob for ever; and of his kingdom there shall be no end.
34Then said Mary unto the angel, How shall this be, seeing I know not a man?35 And the angel answered and said unto her, The Holy Ghost shall come upon thee, and the power of the Highest shall overshadow thee: therefore also that holy thing which shall be born of thee shall be called the Son of God.36 And, behold, thy cousin Elisabeth, she hath also conceived a son in her old age: and this is the sixth month with her, who was called barren.37 For with God nothing shall be impossible.38 And Mary said, Behold the handmaid of the Lord; be it unto me according to thy word. And the angel departed from her.

また、「そういう文脈があるなら知りたい!」の方についての現時点の報告を一応。

一説によると『イスラム教の文脈ではガブリエル×マリアの話がある』…みたいな話をインターネット上の個人ブログでちらっと見た気がしたのでイスラム教の信仰解説ウェブサイトも見たりクルアラーン(日本語訳)も読んだりしたのですが…

キリスト教徒が聖書としている福音書の記述に比べると「ガブリエルがマリアに魂を吹き込んだ」という表現は強い気がしましたが、それでもマリアが処女懐胎したという点はイスラム信仰においても大事な部分らしく、読めば読むほどガブ×マリはイスラムの文脈でもないようです(このへん課題として持っておきたい)。

俺はまだマリア崇敬について何も知らない

…この配信の着地点…

遠升あきな氏
遠升あきな氏

結局、外典・偽典・聖伝が膨大にあり、さらにその上に民話とキリスト教文学があり、その中からの題材だと思うゾ。

足袋田クミ氏
足袋田クミ氏

この話(マリアの処女懐胎のくだり)が豊かさを持って受容されている証左でもありますよね(意訳)

ということで、個人的にはマリア崇敬の背景や受容史をもっと知りたい、という気持ちがより強くなりました。「ダンウィッチの恐怖」を楽しむにしても、このあたりの土台がないと恐怖が恐怖だと感じられないのではないだろうかと思うところでもありますので…。

「羊たちの夕べ」の過去の配信で『なぜマリア崇敬をするのか?』という質問を遠升あきなさんに(宗教研究者/羊たちの夕べの飛び道具担当)に寄せられているのを見たことがありますが、その時の遠升あきなさんの解答はこういったものでしたので…

本当に疑問に思っており、建徳的な批判を行いたいなら神や信仰に関する事柄は自分で調べるべき。「自分で調べる」の内訳は

・日本カトリック司教協議会教理委員会『カトリック教会のカテキズム』2002を熟読(最低10回通読)
・正教会に関する書籍(研究書)を10冊読む

である()。

…ので、このガイドラインを参考にやってみたいと思います(血涙)。

ちなみに「羊たちの夕べ」チャンネルにはヘブライ語講座もあるので、そっちが気になる方がいらしたら、お知らせまで…。

↓キリスト教の極北「羊たちの夕べ」でルカ福音書のマリアのくだりについてアレコレした回

「西洋文学にみる異類婚姻譚」は他にもさまざまな論旨のお話が読めます。取り扱っている各説話のあらすじもありますので、まだ見ぬ異類婚姻譚と出会いたい方におススメです。

また、テーマとなった「ダンウィッチの怪」にはコミック版もあるようです。

タルムード(日本語訳)にヘブライ語の方の「入る」の詳細があったので

タルムードはヘブライ語アラム語ですが…「入る」あたりのアレコレがあったので紹介まで…

ケトゥボート篇(結婚契約)の内容は、性生活をオブラートに包んで話す日本の文化とはかなり異質の、ありのままの、剥き出しの話が多い。今回の翻訳では編集方針にも関連して、「性交」という初刷りは、すべて「交わり」等という曲法に置き換えられた。ラビたちにとって、この婉曲表現での「交わり」は、女性性器に男性性器が入ること以外の何ものでもない。プラトニック・ラヴなどという「交わり」は彼らにとって交わりでも何でもないし、社交も友情もここでいう「交わり」ではない。

 ここで正確を期するため、原語の説明をしておこう。ケトゥボート本文中、「交わり」と翻訳された語の言語には二つある。それは「ビーアー」と「ブィーラー」である。「ビーアー」は元来ヘブライ語の動詞「ボー」が示すように「入る」というごく普通に使用される語であるが、それが男女関係について用いられた場合、タルムードでは常に男女の肉体的結合を意味する。即ち、男が女に入ることである。これは、女が男の性を求めて女側からの積極的交際にも稀には用いられるようだが、これに対して「ブィーラー」は、ヘブライ語の動詞と名詞「場ある」が示すように、元来は男が女を自分の所有にして女の主人になることである。フェニキアの豊穣神信仰におけるバアルという神の名は、預言者エリヤの物語を介して現代の欧米人の子供たちにもよく知られている。タルムードでは稀に物に対する所有主を表す場合にも用いるが、男女についての話題では排他的に男の女に対する性行為の完了を指す。したがって、女が男を入れる場合には、この動詞のニファル形(受身系)を用いる、「ニブアラー」と。しがたって、ビーアーにせよ、ブィーラーにせよ、結婚以外の男女の肉体結合にも常に用いられる語である。もちろん結婚に関しては、この両方の語が頻出するのは当然である。

「タルムード」 日本語訳1997年 ナシームの巻ケトゥボート篇 弘前大学人文学部長 三好迪によるあとがき より

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

eleven + 15 =