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バーチャルさんはみているEDヒメヒナ「ヒトガタ」から生命の秘密を考察

こんにちは、人気マンガやアニメから聖書を解説するWEBコラム「いつかみ聖書解説」ライター上坂かすがです。

 

Vtuberが流行りだして久しいですね。私も「バーチャルのじゃロリ狐娘Youtuberおじさん」ねこますさんがVtuberとして活躍していたくらいからVtuberの存在を知り、現在では「ヒメヒナ」をメイン推しに据えて《バーチャルのど自慢》《バーチャルさんは見ている》などをチェックしています。

 

いつかみWEB構築担当者は「富士葵」ちゃんと「バーチャルゴリラ」さんが好きでたまらないようです。

 

さて、そんなVtuberなのですが。アニメ《バーチャルさんは見ている》のED【ヒトガタ】などを通して『バーチャルユーチューバーは人間なのか』的な問いをする姿も見せ始めていますね。

 

これはエンディングテーマ歌唱を担当している「ヒメヒナ 」の特性なのかもしれませんが。

 

(ヒメヒナはそれまで【ロキ】のカバーで『バーチャルだけどココロは人間だ!』とか【Lemon】のカバーで『バーチャルは人間なのか、人間だ』的なメッセージを忍ばせていました)

 

あまたのバーチャルYoutuberたちが活躍する《バーチャルさんはみている》EDでこういうメッセージを発せられていることを考えると、バーチャルリアリティ文化を通して現実世界や生命を問い直すという作業はこれからも定期的になされていくんだろうな、と思います。

 

さて、私は日本人では1%と言われる「キリスト教」を信じる人間なのですが、そんな私がヒメヒナの【ヒトガタ】を聴いたとき、『これに心を動かされる人が、キリスト教の人間観を知ったら意外としっくりくるんではないのか』と感じたのです。

ということで、世界三大宗教の一つである『キリスト教の人間理解』について語りつつ、ヒメヒナの【ヒトガタ】とバーチャル文化のこれからについて皆さんと一緒に考えてみたいなーと思いました。

※ヒメヒナストーリーの考察ではありませんのでご了承ください。

▼【ヒバリ】から哲学&キリスト教用語を考察&解説した記事はコチラ
ヒメヒナ「ヒバリ」考察:潜む哲学とキリスト教要素解説。過去からつながれてきた「歌」に君は何を想う

▼#ヒトガタについてのみんなのツイート

▼#ヒメヒナ考察についてのみんなのツイート

…ヘーゲルの見解では、自己意識、あるいは自己意識をもつものとしての人間は、他者(ほかの自己意識)によって認められることで自己の存在に確信がもてる。しかし、この種の自己意識間の相互認識は簡単に勝ちとれるものではない。最初はどちらも相手の自己意識については不確かで、そのためにどちらも自己の存在を確認する根拠を奪われる。その結果、双方が相手の認識を得ようとするが、相手の自己意識を認めることはしない。

 

ヘーゲルによれば、その結果として生じる一方的な認識を求める闘争は、死へと向かう。なぜなら、自分の命を危険にさらすことによってのみ、こうした自己意識をたがいに示すことができるからだ。そして、彼ら自身にとっては、特定の肉体的な形から解放される自由と、自立した存在としての自己が得られる。しかし、この状況では、どちらかの側の死という結果が見当ちがいであることは明らかだ。そうなれば、生存した側から存在の認識を奪うことになるのだから。

それゆえ、両者の命を危険にさらす必要のある闘争への解決策は、一方を奴隷に、もう一方を主人にすることになる。一方は自立した自己に、もう一方は相手に依存した存在になる。つまり前者が主人、後者が奴隷だ。しかしへーゲルは、個人間の対立はやがては克服されることになると考えていた。主人と奴隷の弁証法はひとつの段階にすぎず、それをへて、自意識は自己確信への道を進まなければならない。

図説「世界を変えた50の哲学」ゲオルグ・F・ヘーゲルGeorgF.Hegel 項p42)

ヒメヒナの「ヒトガタ」について

Liner Notes‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
有機分子ベース、機械ベース、電子ベース 外殻の構成要素による人間の定義が揺らぐ世界で バーチャルという新種のヒトの在り方と未来を問いかける

ヒトのカタチをしたそれら活動体にとって、 生命の証とは、そして心とはなんだろうか

Tell us the Secret of Life《生命》.

生命の秘密を追い求めるヒメヒナの叫びと記憶の一曲

( 引用:https://www.youtube.com/watch?v=J8PUUv4LFkQ)

「生まれてごめん」なんてね(笑)
 鏡の中影が問いかける
 さぁさもがけやヒトのように
 おまえはどちらにもなれぬ方影だ

 ヒトよヒトよとせがみ

生きるため箱の身を選んだ

 痛みヒトガタ あらがって 泣いてもがいている

 生命の光 胚になって 愛しあっている

 

 歪んだヒトガタ

…とあるように【ヒトガタ】という曲からは「人間になろうとしてる不完全なバーチャルさん」というメッセージがなんとなく読み取れる造りになっています。

 

もちろん【ヒトガタ】の魅力は、重力を持って美しく動くヒメヒナ の動きだったり、しっかりしたキャラクターデザインだったり、表現力豊かな歌唱だったり普段のヒメヒナのツッコミ不在のまったりしたゆるさとのギャップだったりそのほか言語化不能な要素も多分にあるとは思うのですが…

 

なかなか興味深いのがVtuberというのは『マンガやアニメ・ゲームのキャラのように別次元で人間の営みを再現しようとしている』のではなくて、あくまで『バーチャルリアリティとして、バーチャルリアティティの世界で存在している』という点をくずさないところなんですよね。

 

そんなバーチャルさんたちが『ニンゲンになることを望んでいる』と見せている事にどういった反応を持つ人が多いのかは現状未知数でもありますが、そもそもヒメヒナーーーひいては”バーチャルさん”たちが焦がれる「人間」とはなんのでしょうか。

 

(余談ですが、EDのヒメヒナの後ろににある一本の木は「生命の木」イメージしてるのかなぁと思っています。)

 

キリスト教の人間観は「バーチャルだけどココロは人間だ」を肯定する人間観である

ヒメヒナは【ロキ】のカバーでも”バーチャルだけどココロはニンゲンだ”と言っていたり、【ヒトガタ】でも”You know we’re not a doll (私たちが人形じゃないってあなたは知ってるじゃない)と言っていますが、意外とキリスト教はこれを肯定する人間観を持っているんではないかなと思います。

 

以下の図をご覧ください。キリスト教(前身となっているユダヤ教やそのほか一神教)は、この世界存在しているものこういう構図でとらえています。

(創造主)

\/
 超えられない壁 
 \/ 
人間動物自然(被造物)

であると。とするならば

(創造主)
\/
超えられない壁
\/
人間や動物や自然(被造物)≧ バーチャルさんたち(被造物)

となるわけで、人間とそのほかの自然や生物がそもそも「被造物」というくくりに入ります。もうちょっと詳しく考えてみましょう。

A.霊的存在としての人間

*霊と肉からなる存在
太古の昔から人間は自分自身の中に霊的な部分があると感じていたようで
す。死んだ人間が幽霊になって現れるという話は世界中にあります。また、ギリ
シャ哲学も人間を霊と肉からなる存在として理解しています。そして、聖書も人
間を霊と肉かなら成るものとしています。

*ギリシャの二元論と聖書の二元論
人間を霊と肉からなるものという考え方を二元論といいます。しかし、ギリシャ
的な二元論と聖書の二元論は全く違うのです。ギリシャ的な霊肉二元論では、
霊(魂)は完全な良い物として理解されています。そして、肉体は不完全な悪い
ものとされています。ですから良く生きるためには、強い意志をもって魂の命令
に肉体を従わせなけれなりません。一方、聖書は人間の肉も霊も不完全なもの
としています。(後略)

B.「神のかたち」に作られた人間
*神は自分のかたちに人を創造された。【創世記 1:27】
(前略)聖書は人間の創造について、「神は自分のかたちに人を創造さ
れた。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」 (1:27)と記し
ています。

*「神のかたち」って何だろう?
(前略)この「かたち」
ということについて代表的な三つの解釈を示しましょう。

①文字通り、神様と同じ造形に作られたという説。
②「神のかたち」はエジプトなど古代社会の王に対する称号でした。それに対
して、聖書は人は全て「神のかたち」であるというのです。“神様は全ての
人を等しく価値あるものとして創造された”という説。
③男と女に創造されたということから、「神のかたち」は異なった者が互いを尊
び助け合うという、神の愛の性質を表しているという説。

*諸説ありますが、神様は人にかけがえのない価値を与えてくださった、という
ことが共通して「神のかたち」という言葉に表れています。

貼り付け元 <http://www.chapenet.com/details7006.html>

「共に生きる」というWEBサイトからの引用です。カンタンに言うと

ギリシャの二元論→人間は霊と肉かなら成るもの。ただし霊=善 肉=悪。

聖書の二元論→人間は霊と肉から成るもの。ただし人間の肉も霊も不完全なもの。

と説明されています。私は二元論には明るくないのでここで細かい解説をすることは難しいのですが、少なくともVの文化ーー『バーチャルだけどココロはニンゲンだ』『私たちは人形じゃない』とバーチャルさんが言ったときにそれを肯定して支えたくなるこの気持ちは「肉も霊も不完全な存在」である我々人間が『人間を肯定したい気持ちの現れ』(聖書の二元論寄り)とも言えたりしないかなぁ、なんて思っています。

 

そして、私を含めて「聖書を信じる人たち」というのは『ニンゲン』をこうとも捉えています。

A)土の塵にすぎない人間
聖書の人間観と言えば、 創世記の楽園物語を思い出すかもしれない(#6)。 そこには、 一見幼稚な筆致で神が人間を形造るさまが書かれている。 しかし、 きわめて優れた児童文学の手法で、 人間とは何かの答えが模索されている。

 

まず創世記2章4b~8、18~24、3章20~21、23節(中略)それが言わんとするのは何かを求めて読んでみよう。 そこには人間についての深い洞察がある。 主なる神があたかも陶工のように土をこねて人間のかたちを造り、 その鼻に命の息を吹き入れて、 命ある人間が造られたと言う(創2章7節)

 

これは人祖アダム個人がどのように造られたかを言わんとするものではない。 こういう言い方で、 人とは何なのかをいうものである。 それはまず「土の塵」にすぎないということである。

(中略)

人間が元来ひとにぎりの砂のように無価値で、 はかないものであることを言っている。 こういう意味で人間は同じく土から造られた野の獣や空の鳥とも違いがない。 ある賢者はこの人間の側面を徹底的に強調して、 こう言う。

 

「人間に臨むことは動物にも臨み、 これも死に、 あれも死ぬ。 同じ霊をもっているにすぎず、 人間は動物に何らまさるところはない。 すべては空しく、 すべてはひとつのところに行く。 すべては塵からなった。 すべては塵に帰る。 人間の霊は上に昇り、 動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう」(コヘレト3章19~21節、シラ書16章29節~17章1節も参照)

 

だが、 創世記の著者は「その鼻に命の息を吹き入れられた」と言って、 人間が神からの尊い命をもつものであることを説いている。 このように人間は無価値で、 はかないものであるが、 同時に崇高で尊いものだということである。

 

ここには人間が朽ちる身体と不滅の霊魂から成るものだという二元論的人間観はない。 人間全体が無価値な土にすぎないと同時に 尊い命の息を与えられたものだということである。

貼り付け元 <http://mikio.wada.catholic.ne.jp/HOMO-VT.html>

こちらは「神を映すものとしての人間-旧約聖書における人間観の一考察-」というWEBサイトからの引用です。聖書には「人間は無価値(土の塵)で はかないものであるが、 同時に崇高で尊い」と読み取れるか描写が多々あり、そのことについて詳しく解説されています。

 

(仏教なんかと比べると、もうちょっと「肉体」を否定的に見ている気がするんですよね。神道は勉強中なのでわかりません)

 

バーチャルの肉体もまた儚く曖昧な定義により成り立つモノであり、人によっては『無価値だ』と言い切る人もいるでしょうが、それでも私たちが彼ら彼女らを認識し、彼ら彼女らに「ココロ」を見出したいと願います。

 

キリスト教的な人間観を持ってしてバーチャルさんたちの活躍を見ると、「はかない箱(肉体)を持つが、同時に尊い」という感覚はけっこうすんなり当てはまるんではないかな、とか思っているのですが、みなさんはどう思われますか?「なんかよくわからんけどエモみは深いよな」くらいに感じていただけたらうれしいです。

(これまた余談ですが作詞:ゴゴ原典”The Book of  K”というのは「Kの聖書」という意味なんだろうか…と考えています。聖書は今でこそ英語で「Bible(バイブル)」と呼ばれていますが、少し前は「The Book」でしたので)

( ↑ ヒトガタ考察回の放送です。21:00~「かりん@ROM選」さんが『ジャケットからアダムとイブを暗喩していると考察していた人もいた』と書いてらっしゃるのは私のことかなぁと妄想していますw)

 

ルネ・デカルトは自分の信念を検証し、そのなかで少しでも疑いがもたれるものはすべて排除するという方法を使った。そうすることで、わたしたちの内部感覚でさえまちがっているかもしれないこと、つまり、わたしたちの感覚をとおした経験すべてに疑いをなげかけることは可能なのだと示した。

 

たとえば、わたしたちは夢を見ているのに、それに気づかずにいることがある。そして、なんともやっかいなことに、わたしたちの経験する世界の背後にはなんら実体のあるものは存在せず、なにもかも狡猾な悪魔にあざむかれている可能性さえありうる。

 

しかし、この方法は、あるひとつの信念にかんしては疑う余地がないことも明らかにする。つまり、わたしたちが存在するということだ。デカルトはここで、疑うという行為自体が、その行為を実行している「わたし」の存在を証明していると論じる。こうして生まれたのが、有名な「われ思う、ゆえにわれあり(コギト・エルゴ・スム)」という言葉だった。

 

 

この理論はさらなる問題につながる。第一に、デカルトはそれを形而上学的な二元論をとおして考えるべきこととみなした。つまり、考える実体である「精神」は身体とは異なる種類のものだと論じるにいた。た。これはいくつかの大きな哲学的問題に直面させ

る。なかでも、このふたつの種類のものがどう相互作用するかという問題がある。たとえば、精神がどのように身体を動かしているのかははっきりしない。第二に、思考をつかさどる実体の存在を確立してしまうと、残りの世界をとりもどすことは簡単ではない。(後略)

 

図説「世界を変えた50の哲学」ルネ・デカルト項p.28)

キリスト教の持つ「原罪」という概念

さて、次に”さぁさもがけやヒトのように” ”イタみ ヒトガタ 泣いてもがいて あらがっている”という歌詞にふれたとき、「なぜ『ニンゲン』はもがく生きモノして描写されているのか、なぜ我々はすんなりそれを受け入れられるのか」という疑問が生まれました。

 

というか、キリスト教ではこれまた意外とシンプルに説明してるので自分個人としてはしっくりきたのですが、逆にそういったフィルターを持たない人がこれを聴いたときどう感じるんだろう?どう解釈するんだろう?という疑問が出てきた、という感じです。

 

ちょっと思案してみたところ、ヒメヒナたちが【ヒトガタ】のなかで歌っている”イタみ”とは主には『人間に焦がれているが現状人間ではないイタみ』と解釈できそうだなとも思うのでそれはそれとしていいのですが、

 

ここまできたのでついでにキリスト教は「そもそも『ニンゲン』とは痛みを持っている生きモノ」だと解釈してるぞぃという話もよかったらのぞいて行ってみてください。

 

人間が”イタみ”を持つ生物であるという考え方については、キリスト教では『原罪』という言葉で説明されます。

 

『原罪』は「罪」という単語が使われているので「悪いこと」と思われがちですが、キリスト教の言う『罪』とは、「悲しいこと」という方が適切です。

原罪とは
カトリック教会において原罪とは、人類の歴史の出発点にある人祖(アダム)の罪であるとされ、その罪とは神に対する不従順であることは間違いないとされる

他方、人祖の罪が具体的に何であるかは不明であり、神と善のみが理にかなった光であり悪は不可思議なものであり続けるともされ、原罪には完全に理解され得ない神秘的な面があるとされる。

(中略)

創世記3:15 – 19は、原罪の結果、人の世に苦しみ・情欲の乱れ・不毛な生・死が入ったことを示していると解される。死とは生物学的な生命の終わりではなく、人が神のいのちの交わりに到達できないという意味での死である。

いて、プロテスタントは概ね、アウグスティヌスの説に従い付け加えることをしなかったと、プロテスタントからは評される

 

とまぁ色々見解があるうえに結局「わからない」とあるくらい複雑なものなんですけれど、すごーーーくカンタンに言ったとき『原罪』が「ニンゲンの悲しみ/痛みの根源」であるという解釈にNoという人はいないと思います。(参考:FEBC「神が問われる―私たちの対話的教義学講座」(再)2018.10.5 石居基夫)

 

このへんをもうちょっと丁寧に知ってみたい方は「FEBC」というキリスト教系ネットラジオの特設サイト「神が問われる―私たちの対話的教義学講座」(再)2018.10.5 石居基夫・長倉をちょっくらご視聴ください。

4.私たちの存在の根拠を求めて

5.人間とはいったい何者かーー
(1~5章あり、「人間とは何か」というテーマが掘り下げられているのは上記にリンクした4章5章です)

「そもそも『ニンゲン』とは痛みを持っている生物でありヒメやヒナたちはそれを分かっていてもなぜか望んでいる」…と考えるとエモエモの極みではないでしょうか?

 

(【ヒトガタ】の歌詞には ”沁み出したココロ 痛みのち人成り” と、もあるのでここで伝えたキリスト教的人間観をヒメヒナたちにそのまま適応するのは違うんだろうなとは思いますが。キリスト教的にいうと「箱(肉体)ができてココロ(魂)が吹き込まれてそこに痛み(罪)が生まれた」なので)

(あれ?っていうことはヒメヒナは「人間に似た姿をしているモノのやはり人間とはちがい”光”と”痛み”から生まれた」ということ…? 妄想が膨らみますね)

(とまぁこんな感じで「人間理解」というのも各宗教や考え方によって違いがあり、その「痛み」からどうやって解放されるか、というのも諸宗教で違います。キリスト教の特徴はそういった「痛み」から解放されるのに必要なのは「信仰」という考え方をしている、という点です)

北欧の宗教思想家キェルケゴールは実存主義という考え方を創始した1人で、自分自身の独自な生き方を探りました。そして、この「独自な生き方」と関係して、不安や誘惑について考察しています。

(中略)

キェルケゴールの考える自由とは、いまある状態でなくなる可能性ということでした。いわば、どのような人でも現状に満足することはできないということです。動物だと魚は魚、鳥は鳥と安定してほかの姿になる可能性はありませんが、人はどのような生き方もできます。それが自由ということですが、同時になにものでもないという不安を生みます。キェルケゴールは実際に、「不安とは自由のめまいである」とも言っています。

***

ヘーゲルは欲望によって個人がふたたび「人類」という全体に帰ると考えたのに対して、キェルケゴールは人は誰でもないその人でしかないと考えたのです。これはヘーゲルが人類のなかに神が実現したと考えたのに対して、キェルケゴールはヘーゲルが人は有限だからこそ神を求めると考えた宗教的なちがいとも関係しています。人は、どんなに変わろうとも自分でしかありません。これこそ「私は私である」ということの意味なのえはないでしょうか。

(引用:「哲学図鑑」セーレン・キェルケゴール項 p.100~103より)

バーチャルさんたちが人間に似せて創られているのはなぜか

ここまで書いていると、そもそもバーチャルさんたちの多くが「ヒトガタ」に創られてるところにも不思議さを感じてきました。


馬人間のアバターな《ばぁちゃるさん》や《バーチャルゴリラ》さんたちはどうなんだというところですが、ばぁちゃるさんは首から下はヒトガタですし、バーチャルゴリラさんも見た目はゴリラですが中身はあくまでニンゲンに近く、かつそのほかあまたのVtuberたちはおおよそ「ヒトガタ」に作られています。

 

これまた聖書を信じるクリスチャンは人間がヒトガタである理由をシンプルに考えているので、キリスト教フィルターを持たない人たちがなぜヒメヒナがそもそも『ヒトにかたどられた存在として創られた自分の不完全さ』を歌うことを受け入れられるのだろうか、ということなのですが。

 

(ちなみにキリスト者は人間がなぜ『ニンゲン』の造形をしているか?については「神が人間を自分の姿に似せて創ったから。理由は知らん、神の考えることはわからん」と言う感じの人が多いです。)

聖書
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。(創世記26章~27章)

 

その過程がお猿さんから進化したのか、最初から今の人間の形をしていたのかーーといったの論争はあまり興味がないし個人的には大事と思わないので私は深く考えないことにしているのですが、一点だけ確信している点があります。

 

それは、「『ニンゲンが誰が何の意図も持たず、偶然が重なって知らない間にこういう形の生物になった』という考え方は『3Dモデルを適当にこねくりまわしてたらヒメヒナができた』という考え方と同義」という事です。

 

ヒメの髪の毛がボディを貫通してないことや、ヒナの頭のぴょこぴょこの可愛さにこんなに感動する私たちですが、それらは田中工務店の方々の意図や設計図、愛や努力があってのことだと想像できる…はず。

 

私たちの体もそれに匹敵するくらい巧妙にできててけっこう捨てたもんじゃないって考えるとちょっと人生のエモみが増すきがしませんか。

( ↑ キリスト教界隈ではめずらしい(ちょっと自虐)、見やすい動画です。4分足らずで見れるのでよけれごらんください)

我々がバーチャルさんの多くを『ヒトガタ』に作りそれを愛しいと感じるのは、「大事なものは自分たちに似せて創りたい」という願いが根底にあるのかも…しれません。

 

「あなたはどこにいるのか」

つたない解説と考察ではありましたが、私が改めてうかがってみたいことがあります。「あなたはどこにいるのか」という事です。

 

ヒメヒナの『ヒトガタ』から、こんなどこの馬の骨が書いたとも知れない記事を読んでくださる『あなた』は、どなたなのでしょうか。

 

「バーチャルだけどココロは人間だ」というメッセージに対して『そもそも人間ってナニ』と感じてしまうあなたは、どなたなのでしょうか。

 

あなたのどの部分が、ヒメヒナを“愛しい”と認識しているのでしょうか。

 

もしあたながこの先Vtuberの一部になったりーーもしくは普通にYoutuberなったり、もしくはそうはならずとも学校や会社で『もう一人の自分』のような存在を作ったりしたとき、あなたはどこにいるのでしょうか。

 

あなたを「あなた」たらしめる核心を求めてみたいと思ったときーーその作業には、『宗教』ってヤツが(個人的にはキリスト教が)意外と悪くない手伝いをしてくれるということをちょびっと覚えておいていただけると、私としては感無量であります。

 

「You know we’re not a sat doll !!」
(私たちが土人形じゃないって、
あなたは知っているじゃない)

わたしたちが表現する世界は現実世界と一致しているのだろうか?そう確信をもっことはできるのだろうか?その疑問へのジョージ・バークリーの解決策は、人間の精神の外に物質世界が存在することを単純に否定するというものだった。「目に見えるもの、手で触れられるものは存在する。ほんとうに存在する。わたしはそのことになんら疑いをもたない。唯一その存在を否定するものがあるとすれば、それは哲学者が。”質料”あるいは物理的実体とよぶものである」。バークリーは、すべての対象は知覚されることで存在する、つまり、「存在することは知覚されることである」と論じた。

 

(中略)

 

たとえば、あなたがこの本を読んでいるときに、あなたの後ろにある世界はもう存在しないなどと考えるのはばかげたことだろう。バークリーの思想はほんとうにそう考えることを求めているのだろうか?バークリーの答えは、人の観念のすべて一・実際には知覚できる経験世界全体ーーは、神のカのなせるわざであるというものだった。神はすべてを見通せる。したがって、神が観念の世界を存在するものに変える。

 

図説「世界を変えた50の哲学」ジョージ・バークリー/George Berkeley 項p34)

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