マンガから聖書がわかる不思議なWebサイト

【更新】天草四郎伝説の沼に足つっこみはじめた(2月更新)

【カインとアベル】神がカインの捧げものを受けなかった理由など創世記4章で抱かれがちな「3大なぜ」について膨大な解釈/考察の一部を紹介する

執事長の「じい」
執事長の「じい」

今日は、創世記4章「カインとアベル」にて抱かれがちなナゾ

についての、膨大な解釈&考察のほんの一部を紹介して参りますぞ。

あおい
あおい

こんな沼に手を出すんじゃなかったと後悔しています

そもそも『カイン』について

このようなタイトルのコラムに入ってこられる時点で創世記のカインとアベルの物語を「全く知らない・興味がない」という事はないと思うのですが、記憶が曖昧な方もいらっしゃると思います。

以下WEBコラムの前半にてまとめてあるので、復習されたい方はどうぞです。

【剣心のモデル?】るろうに剣心が旧約聖書カインのアレゴリー満載だと俺の中で話題 【考察】鬼滅の刃はカインコンプレックスの物語?

▼こんなんもあります

【旧約聖書考察】カインの捧げものはどこへ消えた?創世記4章 【創世記4章】カインに与えられた「刻印(しるし)」解釈や考察9選

前提:現存する『聖書』のテクストをそこまで信頼してエエんか、みたいな

現代日本人ならばそもそも『聖書』というシロモノ自体が疑わしい、という気持ちを抱かれる方も少なくないのでしょうか。このへんはみなさまがどこまで知識を持たれているのか、あるいはみなさまがどういう解像度で「現実」というものを解釈されているのか、という話になってくるかと思いますが、現状、こちらからはそれらを推しはかることができません。ので、とりあえず、宗教研究者の方のその辺に関する動画を紹介してみます。

参考

https://youtu.be/_5B5QCVghic

https://youtu.be/rSjV-AYpn-Y

(機材トラブルにより前半後半と別れています)

私たち人間は、物事を認識する際に何かしらの解釈に落とし込まなければそれを認識することができない…ということは了解していただけると思います。淡々と描かれたように見える歴史の年表ですら、「解釈」からは逃れられない、人間の認知の構造とはそういうものである、と。

あなたと私の物事の認識の方法を共有するには、それはもはや「アナタ、研究シテ論文書く」「ワタシ、ソレ読む」みたいな営みになってしまうのかもしれません(そしてそういうのは往々にして先行研究があるものとかないとか)。そしてそれすらもおそらく、「私とあなた」が見ている色を完全に共有できる事ではないのだと思います。

このコラムは、少なくとも「キリスト教徒が『聖書』と呼んでいるシロモノの、日本語で読める解釈テクスト」の紹介を行います。

ゆくゆくはヘブライ語聖書からのアプローチをしている方やクルアラーンからのアプローチをしている方などの解釈も追記していきたいなと思った2024年5月…。現時点ではキリスト教徒、それも西方教会、それもプロテスタント的な側面が強いコンテンツになっています。

解釈や考察をしている方々の読んでいる『聖書』はギリシャ語だったりラテン語だったりヘブライ語だったり日本語だったり英語だったりが混在していると思われます。

私自身は、「翻訳は解釈ぬきでは行えない」と考えており、そのうえで「キリスト教と翻訳」の関係性が、自身の信仰観に大きく関わっていると認識しています。なので日本語で読める聖書テクストにも、日本語で読めるその解釈テクストにも価値を見出しますが、SNSなどではあまりに玉石混交すぎると思うところであるので…できるだけ書籍などから引っ張ってきたいと思いながらこのコラムを構築します。

そして当ウェブサイトの特性と筆者の興味により「物語解釈/文学的解釈で聖書を読む」という方向性からの紹介が多くなる可能性があります。

そのうえで申し添えておきますと、『聖書』と呼ばれうるであろうシロモノそものものに価値を見出さない方々には、このコラムは意味のない営みでしかないと思います。このページを閉じて、あたたかいものでも飲んで、お風呂にでもゆっくり浸かって寝てください。可能であればご自身の身近にある御神仏さまとコミュニケーションをとる時間に宛ててください。(もうじゅうぶんされている方は馬の耳に念仏な話で申し訳ありません。)

みなさまの前途に祝福がありますように。では本題に参ります。

なぜ神はカインの捧げものを受け入れなかった?

そもそも「わからん」(聖書に記述ないし…)

神はアベルの供え物を受け入れたが、カインの供え物は受け入れなかった。この兄弟は神に対してどう反応したのだろうか。テクストは何も語っていない。神がえこひいきした理由すら書かれていない。カインは中傷を受けてきた。たとえば、カインの供え物はみすぼらしいものであったとか、神がアベルのほうを好んだのは、カインがエバのお気に入りだったからだといった具合に。しかし、書き手は何の説明もしていない。この事実を受け入れる必要がある。

トーマス・レーマー 白田浩一訳「ヤバい神 不都合な記事による旧約聖書入門」2022年 p.179)

聖書にはなぜ神がカインのささげものを認めなかったのかは書かれていない。おそらくカインの態度がふさわしくなかったか、ささげ物が神の基準に達していなかったからだろう。

(バイブルナビ)p.12 4:3-5の補足

「二人の捧げものに差異を見出す解釈」※反駁アリ

二人の捧げ物に差異を見出す解釈がしばしばなされるが、後の祭儀規定ではアベルが持ってきた動物供儀と共に、カインが持ってきた大地の実りもヤハウェへの重要な捧げ物である(レビ2・1以下、申命記26・2以下。そのため、この見解は難しいと思われる。

  岩嵜大悟『聖書は死の起源についての神話を語るのか?ーーヘブライ語聖書「原初史」を中心にして』p.92

カインの自信が的外れ()だった説

なぜか、その理由は聖書に記されていない。新約聖書には「信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである」(へブル11・4)と記されている。二人の違いは供え物をした時の彼らの心持である。彼らは両親から、人間が失ったエデンのこと、また神が最後に二人に皮の着物を与えられたことと、それにまつわる犠牲の意味について、きかされていたのだろう。アベルには自分の血の中を罪が流れているとの罪意識があり、自分の罪の身代わりに動物を殺してささげる必要を感じていた。

 ところがカインには罪意識がなかった。ルターによれば、カインは自分の供え物が弟のよりも神を必ず喜ばせるはずだと確信していた。というのは自分は長男だから神への祭司的つとめが与えられている、おまけに自分は最良の供え物をもってきたのだから、神は弟アベルのよりも自分の供え物を喜ばれると考えた。他方アベルは、自分は最小の人間で、カインは最善だ、カインは自分よりまさっている、そしてよりよい犠牲をもってきている。だから自分の供え物と、ただ恵みによって見ていただかなければなさないと感じていた。

「物語解釈で聖書を読む」柳生望(31~32)

献げ方になにか思うところあった説

この箇所は、神が好むささげ物とそうではないささげ物があるというふうにも読めてしまいそうですが、聖書全体を読むと、神はいつでも人がささげ物をするときの心の在り方を問題にしています。

悔い改めをすることなしに動物のささげ物を持ってくる民に向かっては、「わたしは、雄羊の全焼のささげ物や、肥えた家畜の脂肪に飽きた」(イザヤ1・11)と言っていますし、イエスは、貧しい未亡人が少額の献金をする姿を見て、「この貧しいやもめは、……だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを……投げ入れたのですから」(マルコ12・43〜44)と言っています。

この箇所でも、アベルのささげ物だけが受け入れられたのを見て怒るカインに、神は「あなたが良いことをしているのなら、受け入れられる」(創世記4・7)と諭しています。カインのささげ物のどこが具体的に悪かったのかはわかりませんが、ささげ方に問題があったことは明らかです。

神はさらに、逆恨みをしているカインに向かって「良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない」(同7節)と警告しました。この時点であれば、カインは逆恨みを引っ込め、自分のささげ物について反省をするチャンスがあったのですが、彼はそうすることができずに、その不当な怒りの矛先をアベルに向けました。

カインはアベルを野に誘い出し、殺してしまったのです。

(引用:「カインとアベル:人類最初の殺人 神への思いの差が生んだ悲劇 」より)

神がアダムの堕落後の大地を呪っていたから

 アダムとイヴの楽園からの追放のすぐあとに、農夫のカインと羊飼いのアベルの物語が続く。農夫と羊飼いの口論は数世紀前のシュメール文学に見出される。しかしそこでは農夫が羊飼いを負かす。灌漑と輪作に依存している国にあっては当然のことである。しかし、聖書の作者は、イスラエルの生活の、農耕的段階に対する牧歌的段階を理想化する傾向があった。農耕的段階では近隣のカナンの信仰による汚染が頻繁できわめて浸透力があった。それゆえ、アベルによる小羊の生贄という牧歌的な捧げ物は、「血を、必ず携えて行」く(「ヘブライ人への手紙」9:7)ので受け入れられたが、カインによる初物の血のない捧げものは受け入れられなかった。アベルの生贄はユダヤの過ぎ越祭の原初的な祝宴の予表であり、殺された羊飼いのアベルもまた、キリスト教においてはキリストの予表であった。キリストの受難は過越祭と一致し、人間の犠牲者は過越祭の「小羊」と同一視された。ちょうどアベルがその死により彼の生贄と同一視されるように。
 カインの捧げ物が受け入れられなかった理由のひとつは、明らかに神がアダムの堕落後の大地を呪ったからであった。(「創世記」3:17)。しかし、「大洪水」後、この呪いは解かれた。ノアがおびただしい数の動物を殺して、燔祭を捧げたので、神は宥めの香りをかいで機嫌がよかったからだとある(「創世記」8:21)

ノースロップ・フライ著/伊藤誓訳「大いなる体系 聖書と文学」p.204

「神の主権」の強調

最近、「不思議なキリスト教」という本を読みました。 その中で聖書のたとえ話についての解釈について 場面があるのですが・・・ カインとアベルの話は何を言わんとしているのですか? 著者は「神に愛される人と愛されない人がいる」という解釈をしていましたが・・・

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1488499999

「不思議なキリスト教」を確認したらまた追記します

2024年追記:時間が惜しいので確認しないかも…。この本についてどうでもいいという感情が勝りすぎています。それより「土偶を読むを読む」とかを読んでいきたい。

神は「弟」を偏愛する神だから

弟を偏愛する神だからという説もあり、ダビデは末っ子であり、親からも忘れられたに近い存在であるだろう。これは多少関係するかもしれない。

一キリスト者からのメッセージ

ロマン主義の時代では、悲劇的ヴィジョンは、関連するが異なったテーマに調整される。旧約聖書には、潜在的に悲劇的である一連の人物がいる。カイン、イシュマエル、エサウ、サウロなどで、彼らは神によって指名された継承権の最初に並ぶ人物であるように見えるが、しかしもっと若い継承者たちに先を越される。その理由は不可思議で、あるいは不可測である場合が多い。ロマン主義文学に、こういった人物に対する共感が再燃したのが見られる。その例はバイロンの『カイン』であり、『モービー・ディック』の語り手イシュマエルなどである。

(「力に満ちた言葉―隠喩としての文学と聖書」ノースロップ・フライ著 山形和美訳p.338)

 聖書は悲劇的なテーマにあまり好意的ではない。「受難」そのものはその例外だが、犠牲者の扱い方は皮肉なものになる傾向がある。ヨブは特殊な例であるが、ヨブといえども、ギリシャ的意味ではとても悲劇的人物とは呼べない。聖書はギリシャ的英雄概念を受け入れない。ギリシャ的英雄とは、常人以上の人間的スケール、力、血統、弁舌をもち、天与の運命もほとんど掌握しているように思われることの多い人物である。しかし、共感する力をもった読者には、悲劇の核は、聖書の中の無視された人物の何人かに存在している。たとえば、カインの(その時までは)無血の犠牲が受け入れられない事に対する狼狽、砂漠で母親とともに餓死寸前になるイシュマエルと、彼の父親の「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように」(「創世記17:18)という悲嘆、エサウが、自分が無情な詐欺にあったことに気付いて苦々しげに叫ぶ「わたしのお父さん。わたしも、このわたしも祝福してください」(「創世記」27:34)という叫びに悲劇の核が存在する。
 サウルは聖書の中にひとりいる偉大な悲劇的英雄である。彼は、身体的に、臣下の誰よりも背が高い(「サムエル記上」9:2)ばかりでなく、有能な統率者であり、彼本人の基準では公正な精神の持ち主である。しかし、彼は正しいことはなにもしてないように思われる。彼は人間的礼節から敵のアガグ王の命を奪うのをやめるが、彼を殺さなかったことで、サムエルの残忍な神から生贄をだまし取ったと言われ、許されることはないだろうと言われる。もちろんこの挿話にかぎらず、どの挿話にも合理的な説明を加えることはできる。語り手は、神と悪魔を同一視するという、よくあるが根本的な誤りを犯したばかりでなく、神がかり的なしくじりにより、サウルの物語を真に悲劇的なものにする一要素を加えてしまったのである。(中略)この恐ろしく、そして不可避の堕落は、現代の読者に、シェイクスピアは『マクベス』を書く前に、相当入念にサウルの話を調べたに違いないと思わせるだろう。
 ロマン派の運動とともに、このような、拒絶されはしたが、少なくともほとんど悲劇的と言える聖書の人物――流浪の旅に出されたが、別の文脈では正当な相続人になれる人物――に対する共感の大規模な復活が起こる。カイン、イシュマエル、エサウ、サウル、そしてルシフェルでさえも、すべてロマン派的な英雄である。このことのもつ重要性は、西洋文化が聖書を受容する際に生じた神話的宇宙の外形の変化と一部関係するのだが、これはこの研究のあとの方でわれわれの主要な関心事となる。拒絶された正当な相続人というテーマは、貴族制に対するノスタルジア、それも、貴族制そのものに対するというよりは、人間の生活から消滅した魔力(グラマー)もしくは光輝に対するノスタルジアと結びついているということもまたありうることである。その人気を帰属という階級と憂鬱というポーズの組み合わせに多く負っているバイロンは『審判の幻』の中で氷のように冷たく、洗練された貴族であるルシフェルをたしかに描いている。弟のキリストは当然のことながら現れないが、ジョージ三世のような入院患者がくつろげるような明らかにもっとブルジョワ的な施設を運営している。
 無視された長子というテーマは、長子相続という習慣の根底にある持続性に対する人間的欲望の不十分さと少し関わりがある。すべての人間社会は明確で安定した継承の系列を切に求めている。この願望がいかに切なるものかは、シェイクスピア史劇の全作品に読み取れる。たとえシェイクスピア独自のかたちをもつこの切望が、もはやわれわれとなじまないとしても、接本そのものはわれわれにもなじみのあるものである。使徒の継承の教義のようなものに、われわれは、教会においても同様に、不断の連続性という意識がいかに必要とされているかを見る。それゆえ、わざわざ弟の方を選択するということは、人事に対する神の介入を表している。この連続性に対する垂直的下降は、パターンを破壊するが、そうすることによって人間の生命に新しい次元を与える。それに密接に関連するテーマは、それがひとつの奇跡とよべるほどの、あるいは少なくとも、特別な恩寵の行為と呼べるほどの、母親の高齢時の男子出産というテーマである。このテーマは、年老いたサラのイサクの出産に現れている。(「創世記」21)。ハンナのサムエル出産にも暗示されている。後者の物語で興味深いのは、息子が生まれたハンナの歓喜の歌が、その誕生を、連続的な人間社会の通常の基準をぐらつかせ転覆させる神の革命的な活動の象徴としていることである。

(ノースロップ・フライ著/伊藤誓訳「大いなる体系」p.261~264)

神が不完全だから説

「カインに落ち度はなくて、神の審美眼に欠陥があった」という話も当然ながらあります、

旧約聖書の神の不完全さを厭うた古代グノーシス派とかがそれのはずです。

見つけたら追記します。

フロイトだったかユングだったかがそういうの書いてなかったかな…

とはいってもそうだったらカインのアベルへの殺人とつじつまがあわない、あるいは、八つ当たりで殺人したということになるしその後のカインの行動と整合性がとれなくなるし…となるとこのへんは「どこまでを誤読とするか」という話になってくるかもしれません。まあそういう解釈を重ねて「この読み方が一番妥当じゃろがい」「いやそうは読めへんやろ」とやんややんやしてきた歴史が神学の歴史でもあると思います。そもそも統合体として読まれてきたブツの一部についてあーだこーだ言う試みがどこまで有効なのか、それも近代の読み方を意識せずに適応することがどこまで意味があることなんやっちゅうのは正直わかりません…(沼)そもそも「タナッハだろうがセプトゥアギンタだろうがビブリアヘブライカだろうが『聖書』とみなせうるものは時代の権力が残したもの!」的なお考えの場合は文献学とか高等批評とかの方が楽しいと思うのでそちらへどうぞです。知らんけど~…。

なぜカインはアベルを殺したのか?

…についても見つけ次第追記していきます…

「憤っていた」ことだけは聖書に記述アリ

カインの思う「公正さ」に基づいた結果

神への捧げものが受け入れられないことは、神から祭司失格、家長失格と言われたと等しいのだろう。そして、アベルに祭司(家長)の権利が移ったことを意味する(まるで、エソウとヤコブの話見たいとミーちゃんはーちゃんは思ったのだった)。

 カインの怒りは、本来自分のものであるはずのもの、長子の役割を資格のない弟が持っていることにあったのではないか、当時の方法論としては、奪われたと感じたなら、奪い返すのが「正義」であった。そして、それが怒りへとつながっていったのだろう。
 ところで、殺人=完全な支配、奴隷化の方法ではないだろうか。

一キリスト者からのメッセージ

世界観の説明やねん

カインとアベルの物語は「たとえ話」ではなく、旧約聖書の創世記に登場する人類最初の殺人についての記録です。キリスト教の中でも聖書に書かれていることを文字通り信じる根本主義や福音派の中には、これを歴史的に実際に起きたことだと考えるようですが、実際は世界の成り立ちについて説明する神話的な物語だと考えられます。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1488499999

死ぬと思ってなかったのでは?(「人類最初の殺人」だけあって)※反駁アリ

いわゆる「過失致死」ってヤツです。

(※)ヘブライ語聖書的には、過失致死説は妥当ではない…みたいです。以下「死の神話学」(晶文社,2024)収録の岩嵜大悟氏の論文を紹介します。

また、殺害方法について明確にされていない。ただ、その後の描写(10節)から流血を伴うなものであったことが示唆される。また八節の「立ち向かった」という表現と共に、「殺す(ハーラグ)」という動詞が使用される。この語はヘブライ語聖書でヘブライ語聖書ではしばしば敵対する者を意図的に殺害する際に使用される。このことから、カインが濃いに殺意をもって、アベルを殺害したことがわかる。

  岩嵜大悟『聖書は死の起源についての神話を語るのか?ーーヘブライ語聖書「原初史」を中心にして』p.92

なぜ神はカインを保護したのか?

神は人間を赦したいと思っているから説

カインが自分の行いを「罪」と認め、神に助けを求めたから説

 聖書は悲劇的なテーマにあまり好意的ではない。「受難」そのものはその例外だが、犠牲者の扱い方は皮肉なものになる傾向がある。ヨブは特殊な例であるが、ヨブといえども、ギリシャ的意味ではとても悲劇的人物とは呼べない。聖書はギリシャ的英雄概念を受け入れない。ギリシャ的英雄とは、常人以上の人間的スケール、力、血統、弁舌をもち、天与の運命もほとんど掌握しているように思われることの多い人物である。しかし、共感する力をもった読者には、悲劇の核は、聖書の中の無視された人物の何人かに存在している。たとえば、カインの(その時までは)無血の犠牲が受け入れられない事に対する狼狽、砂漠で母親とともに餓死寸前になるイシュマエルと、彼の父親の「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように」(「創世記17:18)という悲嘆、エサウが、自分が無情な詐欺にあったことに気付いて苦々しげに叫ぶ「わたしのお父さん。わたしも、このわたしも祝福してください」(「創世記」27:34)という叫びに悲劇の核が存在する。
 サウルは聖書の中にひとりいる偉大な悲劇的英雄である。彼は、身体的に、臣下の誰よりも背が高い(「サムエル記上」9:2)ばかりでなく、有能な統率者であり、彼本人の基準では公正な精神の持ち主である。しかし、彼は正しいことはなにもしてないように思われる。彼は人間的礼節から敵のアガグ王の命を奪うのをやめるが、彼を殺さなかったことで、サムエルの残忍な神から生贄をだまし取ったと言われ、許されることはないだろうと言われる。もちろんこの挿話にかぎらず、どの挿話にも合理的な説明を加えることはできる。語り手は、神と悪魔を同一視するという、よくあるが根本的な誤りを犯したばかりでなく、神がかり的なしくじりにより、サウルの物語を真に悲劇的なものにする一要素を加えてしまったのである。(中略)この恐ろしく、そして不可避の堕落は、現代の読者に、シェイクスピアは『マクベス』を書く前に、相当入念にサウルの話を調べたに違いないと思わせるだろう。
 ロマン派の運動とともに、このような、拒絶されはしたが、少なくともほとんど悲劇的と言える聖書の人物――流浪の旅に出されたが、別の文脈では正当な相続人になれる人物――に対する共感の大規模な復活が起こる。カイン、イシュマエル、エサウ、サウル、そしてルシフェルでさえも、すべてロマン派的な英雄である。このことのもつ重要性は、西洋文化が聖書を受容する際に生じた神話的宇宙の外形の変化と一部関係するのだが、これはこの研究のあとの方でわれわれの主要な関心事となる。拒絶された正当な相続人というテーマは、貴族制に対するノスタルジア、それも、貴族制そのものに対するというよりは、人間の生活から消滅した魔力(グラマー)もしくは光輝に対するノスタルジアと結びついているということもまたありうることである。その人気を帰属という階級と憂鬱というポーズの組み合わせに多く負っているバイロンは『審判の幻』の中で氷のように冷たく、洗練された貴族であるルシフェルをたしかに描いている。弟のキリストは当然のことながら現れないが、ジョージ三世のような入院患者がくつろげるような明らかにもっとブルジョワ的な施設を運営している。
 無視された長子というテーマは、長子相続という習慣の根底にある持続性に対する人間的欲望の不十分さと少し関わりがある。すべての人間社会は明確で安定した継承の系列を切に求めている。この願望がいかに切なるものかは、シェイクスピア史劇の全作品に読み取れる。たとえシェイクスピア独自のかたちをもつこの切望が、もはやわれわれとなじまないとしても、接本そのものはわれわれにもなじみのあるものである。使徒の継承の教義のようなものに、われわれは、教会においても同様に、不断の連続性という意識がいかに必要とされているかを見る。それゆえ、わざわざ弟の方を選択するということは、人事に対する神の介入を表している。この連続性に対する垂直的下降は、パターンを破壊するが、そうすることによって人間の生命に新しい次元を与える。それに密接に関連するテーマは、それがひとつの奇跡とよべるほどの、あるいは少なくとも、特別な恩寵の行為と呼べるほどの、母親の高齢時の男子出産というテーマである。このテーマは、年老いたサラのイサクの出産に現れている。(「創世記」21)。ハンナのサムエル出産にも暗示されている。後者の物語で興味深いのは、息子が生まれたハンナの歓喜の歌が、その誕生を、連続的な人間社会の通常の基準をぐらつかせ転覆させる神の革命的な活動の象徴としていることである。

(ノースロップ・フライ著/伊藤誓訳「大いなる体系」p.261~264)

引用した書籍紹介

順不同

【聖書おすすめ論に終止符】無料で最新聖書が読めるアプリ紹介!【僕の考えた最強の聖書入手法】

【剣心のモデル?】るろうに剣心が旧約聖書カインのアレゴリー満載だと俺の中で話題

【旧約聖書考察】カインの捧げものはどこへ消えた?創世記4章

【考察】鬼滅の刃はカインコンプレックスの物語?

【泣きたくなるような優しい音】〜炭治郎や煉獄さんのようになるには

イエス・キリストの奇跡一覧&福音書の信頼性への議論と弁証も紹介

「夢小説は黒歴史」という風潮を覆す【実は聖書も夢小説】

▼いつかみ聖書解説~石本伝道師編~