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こんにちは、人気マンガやアニメから聖書を解説するWEBサイト、【いつかみ聖書解説】です。
「鬼滅の刃」は、炭治郎や柱たち、時には鬼たちから色んな気持ちを受けとりながら読むことができる、幅広い年齢層が楽しめるすごいマンガですね。
けれど、炭治郎…ひいては「鬼滅の刃」という物語そのものが発している
「失っても失っても 生きていくしかない」
(2巻 第13話「お前が」より)
というセリフに表れるような〈強くあれ〉というメッセージ性には、どこか置いてけぼりを食わされる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
炭治郎や煉獄さんの提示する強さや優しさというのをどう受け止めるのか、あるいは、とにかく「炭治郎みたいに、煉獄さんみたいになりたい」と思う方がいたとして、どうしていけばいいのか。
そんなのことを考えたとき、ふと、

『キリスト教』と出会ってみると、何か変わるかもしれません
と、思い当たるフシがあったので、今日はその話をしてみたいと思います。
※この記事は基本的にネタバレしています
目次
鬼滅の刃が肯定している「強さ」「優しさ」はどんなもの?いま一度

「鬼滅の刃」4巻では、善逸(耳の良い少年)のモノローグにて、炭治郎の持つ優しさというのは〈深い優しさ〉である、ということを汲み取ることができます。およそ女性にしか興味のないキャラクターである善逸の心の声として描かれることによって、読者は「炭治郎の優しさを、快いものとして提示したい」という作者の意志を少なかれ感じることができます。

そして、炎柱である煉獄杏寿郎さんは、鬼との戦いで民間人のみならず、炭治郎や善逸、猪之助も守ることに自らの命を賭けます。煉獄さんは、このあとも炭治郎の心に大きな影響を与えた人物として描写され続けます。


そして主人公炭治郎はゆくゆく、「弱さ」の肯定により勝利への活路を見出す、というメッセージを発します。


このような優しさと強さを持ったキャラクターが活躍する「鬼滅の刃」。
アニメ版は「強くなれる理由を知った 僕を連れて進め」というテーマソングと共に社会に流通してしまっているので、『強い事は良いこと、強くあろう』という主張をしているようにも感じますが、マンガ版や、あるいは受け手の受け取り方によっては、幅のある解釈ができる物語…と考えることもできます。
とはいえ、物語の正しい解釈…というのが存在するとも思えませんので、ここからは、

細かいことはあんまりわかんないんだけど、とにかく炭治郎や煉獄さんみたいな生き方に憧れる
という方に向けて、彼らのようになるのに『キリスト教』との出会いが効くかもしれない、というお話をしていきたいと思います。
強く優しくなるには?

いやさ、
煉獄さんはもともと強い人だと思うし…
炭治郎が優しいのは長男で守るべきものがあるってのも大きいと思うし
そういうのは生まれ持った性質とか幼少期の親の教育とかで決まると思うんだよね。つまり、自力じゃムリ

ってかさ、
強くなりたかったら自分で頑張るしかないと思うし、
優しくなることを狙って優しくなるのも、なんか違う気がするんだよな…
そう、その通りだと思います。
実は、世界人口3人に1人が信じていると言われている『キリスト教』の人間観でも、
人間は、自分の力でやさしさや強さを持てると思いがちだけど、実際には努力でそうあり続けることはできない
と語られており、
また、必ずしも「強くあることがこの世界で良いこと」という価値観すら提示しません。
これを書いているライターも、20歳くらいまでキリスト教に縁のなかった人間なので、ばくぜんと「厳しいことを頑張る宗教」というイメージをいだいていましたが、実はキリスト教は他宗教のなかでも珍しく「努力不要」の世界観を徹底的に提示するものなのです。
…さて、キリスト教的道徳を実践しようと本気で努力をしてみた結果、われわれが知る第一のことは、われわれの努力は失敗に終わった、ということである。
(引用:C.S.ルイス著/柳生直行訳「キリスト教の精髄」p .221)
プラトンやアリストテレスや孔子が言ったことをすべて実行したなら、われわれは今よりもずっと幸福に暮らすことができるはずである。ところがどうかわれわれは未だかつて偉大な教師たちの教えに従った事は一度もない。
(引用:C.S.ルイス著/柳生直行訳「キリスト教の精髄」p.241
あなたがたが救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
(口語訳/エペソ人への手紙 2章8節)
ここまでキリスト教が『人間としての強さ優しさを身に着けるのに努力は要らない』話し
(口語訳/エペソ人への手紙 2章8節)
ここまでキリスト教が『強いことは良い事』だとしない裏付け
また、ある有名な経営コンサルタントは「人の行動を変えるのに必要なのは①時間配分を変える②住む場所を変える③つきあう人を変えること」であり、
最も無意味なのが「決意を新たにすること」である
とも言っています。
え…じゃあなに?
聖書読んだりクリスチャンと交流したりして時間配分とか変えたら強く優しくなるってこと?
そんなうまい話があったらみんなキリスト教徒になってると思うけど…
そこにキリスト教いれこんでくるの、ちょっと強引すぎない?

それについては、次の4つの理論から説明してみるので、
ナットクできなければそれでかまいませんし、
ナットクしたら採用してくれたら嬉しいです。
キリスト教は、神を信じた人が神の目に好ましいようなものに変えられていくとしたらそれは「神の力(聖霊のはたらき)によって変えられていく」
と信じています。しかし、そもそも「神」を信じていない方からすると『そういう人はもともと力がそなわってたんだろ』『偶然でしょ』
という気持ちになると思います。
ですので、主観的に、またデータ的に「キリスト教との接触が人間を強さと優しさに導く理由」を説明していきたいと思います。
強さや優しさとキリスト教が関係している4つの視点
①実践理性批判の観点
②キリスト教信仰の特徴からの観点
③共感力を鍛えるという観点
④セルフコンパッションからの観点
①道徳論証、近年の当事者研究とも接続可能な倫理観念からの観点
まず、「鬼滅の刃」の物語が肯定している価値観というのは、

悪いものは悪い

悪いことをしたのなら、その報いや償いはどこかのポイントでなされなくてはならない
とする、善悪をあいまいにしたものではありません。
「鬼滅」の世界において「悪」はその属人性から解放されている。それは、正義も属人的なものではなく、人から人へ継承される想いとして描かれるのと同じことである。それは「罪を憎んで人を憎まず」とは少し異なる。結論から先に言えば「人を慈しみつつ罪は裁く」ということだ。筆者の考えでは、これは近年の当事者研究の動向とも接続可能な、新しい倫理観である。
(引用:「鬼滅の刃」の謎 あるいは超越論的炭治郎ー斎藤環NOTEより)
精神科医の斎藤環氏は、「新しい倫理観」と言っていますが、実はこれは新しい倫理観ではなくてキリスト教がずっと提示しつづけていた観点であり、かつ、この世界観を持つには『神』という存在抜きで提示することへむずかしさ、もまた考えられる分野なのです。
人間は一握の塵から造られた。私は、否、私達は無に等しいゆえ、私達が存在するとしたら、その存在は、一切を根源的汝である他者(神)に負っている。「対話」は非常に良いことの様に、日本のメンタルヘルス界でもよく言われる。だが、無から成った、無に等しい者と、無に存在を与えた「在りて在るかた」との間の、切り離されれば自己の存在を喪失してしまうが故に、立ち返る必要のある関係、という対話の意義の存在論的裏付けを、日本の対話主義の場合欠いたまま、対話対話と騒がれてはいないだろうか。(中動態がどうたら言ってる研究者のスピノザの唯物主義的汎神論と、基本的に人格間の関係として成り立つ所の対話がどう折り合いがつくのかーという検討すら、十分になされていると言えるのだろうか?)
(引用:斎藤環先生の「鬼滅の刃」論とパウル・アルトハウスの神学、そして居なくなったパウル・ツェランーsagtmodNOTEより)
「鬼滅の刃」物語内では『なぜそれが悪いのか』ということには深く言及されません。にもかかわらず、私たちは炭治郎たちの言い分に徳があるように感じます。
そういったことの理解のヒントになることをつきつめて考えた有名人No.1はおそらく哲学者カントかと思います。
カントは「我々の世界には、つきつめていくと、一定の道徳法則のようなものがある」ということを『実践理性批判』というタイトルで提示しました。
そしてカントは
カントはここで、キリスト教の最高善の概念だけが実践理性の要求を完全に満たすことができるのであり、道徳法則は結局のところ宗教(つまりキリスト教)に至る、とさえ言っている。
(引用:「カント『実践理性批判』を解読する」Philosophy Guidesより)
とも言っています。
カントの影響力を含めて考えても、炭治郎に似た価値観のを身につけたいと思ったら一神教にふれるのが一番てっとりばやくて普遍性が高いという提案はそう的を外れたものではないはずです。
もしカントの言っていることに納得できなくて反論したかったり、もっと消化したかったりしたとしても「キリスト教とは何であるのか」ということを体感的に知ることが大きな力になると思うので、そういう面からも悪い道ではないと思います。
②キリスト教信仰の特徴からの観点
キリスト教の信仰のコアは
人間と神との関係の回復
です。一般的に誤解されがちな「より良い人間になること」というのは、キリスト教信仰の核心部分ではありません。しかし、聖書には
イエスを信じることで、イエスに似たより良い人間になる力も与えられていく
ということもいわれており、そもそも「優しい人間になりたい」という気持ちを否定する宗教でないのも事実です。
神は本気で言われたのである。神の御手に自己をゆだねた人びとは、神が完全――愛と知恵と歓喜と美と永遠性とにおいて完全であるように、完全なものとなるであろう。
(引用:C.S.ルイス著/柳生直行訳「キリスト教の精髄」p.310/新教出版)
仏教的な指針が「悟り」であるならば、炭次郎のようなわかりやすい優しさは、やがて脱していったほうがよい感覚になるのでしょうが、
キリスト教は「やさしさ」という人間的なものにとどまって大丈夫なドグマ(教義)を持っているのが特徴のひとつです。
そういった点からも、聖書を読むにしろキリスト教コミュニティに身を置くにしろ、「炭治郎や煉獄さん的やさしさ」を身に着けにはおススメです。
「善い人間になることも教義のひとつなら、現実のクリスチャンは全員善い人間じゃないとおかしいじゃん」
というギモンことについても、C.S.ルイスは『キリスト教の精髄』(p.310~)で論じています。興味があれば深堀りしてみてください。

③共感力を高めるという観点
「優しさには共通の法則がある」とはいえ、それを実践する・しないに個人で差が出てくるのも実際。ではどうしたらいいの?という部分でも、キリスト教とのふれあいは悪くない方法です。
優しい、というのは「共感力が高い」とも言えます。
そして、共感力を養うための方法はさまざまにあるのですが、個人的にまとまっていると思うのが以下の7つです。
- ヨガ
- 瞑想
- 祈り
- 自然に触れる(畏敬の念を抱く)
- 宇宙の壮大な写真を見る
- 自己犠牲をテーマにした作品に触れる
- 難解な純文学を読む
「聖書を読む・キリスト教にふれる」ことはこの7つのうち4つを自然と満たす可能性があるため、ひじょうに効率的です。
・祈り→福音書にはおススメの祈り方が載ってる。(マタイによる福音書6章6-13、ルカによる福音書11章2-4)
・自然に触れる(畏敬の念を抱く)→神の存在を信じる信じないは別として、信じようとした人たちのストーリーを自身で追う過程で「超越的存在」について考えるから。
・自己犠牲をテーマにした作品に触れる→イエスは無実だったけれど磔刑にかかった。福音書は自己犠牲の物語として読むこともできる。
・難解な純文学を読む→聖書は全体を通して意味がわからない「空白」「余白」のような部分も正直多い。
ちなみに、「共感力」は年収や意志力にむすびつく可能性があるので、現代日本における代表的強さ(経済力・筋力)を養うという観点から言っても理にかなった話だと思います。
「聖書とかキリスト教にむすびつけなくてもいいじゃん、自己犠牲の物語なら鬼滅で足りてるし」
と思われる方もいるかもしれませんし、ライターもそう思います。なので、そういう方は聖書に手をのばさなくてOKです。
いちおう、総合的な観点からみると聖書も悪くないと思うので、以下理由をあげます。
・キリスト教に触れる過程では、「共感力を高める方法」の過半数を同時に実行できる可能性が高いので効率的
・「炭治郎みたいになりたい」と口にするより「聖書読んでみたい/キリスト教について知りたい」と口にするほうが言いやすそう
・聖書の読者は鬼滅の読者の約4850倍(※)なので、長い目で見ると聖書を読んでおくほうがよさげかも
(※)「鬼滅の刃」発行部数2016年で累計8000万部/「聖書」の発行部数1815年~1998年の183年間で約3880億冊で計算
④セルフコンパッションからの観点
強くなるには「けっきょくはどこかで勉強とか筋トレとかを継続しなきゃいけない」と思われる方も多いと思います。
一般的にそういった訓練は「努力や根性で継続する」と思われがちですが、実は近年の社会心理学では「完璧主義者ほど継続ができない」とも言われています。
それを改善して「ものごとが継続できる人間になる」ために重要だといわれているのが「セルフコンパッション能力(自分をゆるす力)」と呼ばれるもの、だそうです。
この言葉は、最新の心理学研究に基づいた、あるエクササイズを実践した人たちから発せられたものです。
「先延ばし傾向が減り即実行の人になった」
「職場全体を生き生きさせる効果を実感した」
「営業成績が200%アップした」
このように、仕事にかかわる劇的な改善を体験する人が続出しているエクササイズの名は「セルフ・コンパッション」。
(引用:「ストレスを減らし、幸せに効率よく働くための「セルフ・コンパッション」実践法」)
「セルフ・コンパッション」(self-compassion)とは、自分に向ける「思いやり」「優しさ」「慈しみ」のことであり、自身の「強み」(長所)・「弱み」(短所)を認め、どんな状況下でも「あるがままの自分」を肯定的に受け入れられる心理状態
(引用:「セルフ・コンパッション(self-compassion)とは?」)
要するに次の3つのことが満たされていくことだそうです。

私、キリスト教の人間観を知ってやがてクリスチャンになって自分に起きた変化を考えると、この「セルフコンパッションの高まり」が自然と起きていたことに気付いたのです。
キリスト教の人間観というのは
人間は神の似姿に創られたが、罪が入り込んでしまって、以来人間は神との関係が断たれて、他者に責任転嫁したり額に汗をたらして働かなくてはならなくなった
が、それでも神は人間を尊いものとして愛し続けているので、自分との関係回復の手段としてイエスをキリストとしてこの世界に送ってきた
というものです。
人間に悪いところがあることをふまえつつ、究極的には原罪のせいとも考えることもできるし、なにより「神に赦してもらう」という考えをベースに生活することで知らず知らずのうちに『自分を許す力』を手に入れている…
これは、「キリスト教には、『自分を許す』ということが知らず知らずのうちに実践できるシステムが組み込まれている」ということでもあります。
もちろん、セルフコンパッションを鍛えるにはもっと別のノウハウもあるので、そちらを実践してくださるのでも大丈夫です。
→結果を残せるプロスポーツ選手は、どんなメンタルコントロール法を使っているのか?(パレオな男)
→セルフ・コンパッション(self-compassion)とは?(EARTHSHIP COUSLUTING)
ここまでお伝えしてきたことと総合に考えて、あなたにとって一番良い選択をしてくださればと思います。
一気に変えると大変ですから、少しずつやってみて、うまくいっていたら続けて、違うと思ったら少し変えて別のことをしてみませんか。
福音書のススメ
言いたいことはなんとなくわかったけど、
じゃあまずなにすればいいの?聖書を読むの?教会に行くの?

それが一番現実的ですが、実は聖書を読むとひとくちに言っても、聖書は膨大ですし読み方もさまざまです。
そこでおススメしたいのが
イエスはどんな人間なのか、確かめるような読み方
です。聖書は、プロテスタントが正典としている巻だけでも66巻あり、聖書は旧約が929章、新約が260章、合わせて1189章あります。

一日1章ずつ読んでも、1189日(3年3か月強)かかるのです。
しかし、ここでおすすめしている「イエスがどんな音がしている人間なのかたしかめる」という点においてであれば、イエスの公生涯を記した「福音書」を読めばOK!とだいぶ絞れてきます。
福音書にも種類がありますが、あえて言うなら「ヨハネによる福音書」がおススメかもしれません。
※4福音書のうち、ユダヤ教の文脈にいない人を想定して書かれているのは「マタイによる福音書」ですが、ここではより細かな描写が多くストーリーとしてつかみやすいといった理由から「ヨハネによる福音書」を勧めています。
また、お手元に聖書がない方も、現在は無料で読める手段がいくつもあるのでご安心ください。

キリスト教系ラジオ「FEBC」の聖書通信講座TeaRoomでは
「ヨハネ」→「ルカ」→「マタイ」
の順番をすすめていますので、参考になるかと思います。また、TeaRoomでは「一人じゃ読めない」という方向けのサービスも行っています。
→聖書通信講座TeaRoom(FEBC)
よくある疑問~そもそも聖書もイエスとかいうヤツも信用できない~
いや、そんな読み方したら洗脳されそう
そもそも聖書はイエス信者が創ったラノベ。良いように描かれてるのは当然じゃん
宗教なんてないほうが世界平和になる

わかります!言いたいことめっちゃわかります!
これも(い)(ろ)(は)(に)の観点から説明してみるので、考えてみてください
(い)クリスチャンじゃない人も意外と評価している「イエス」という人

クリスチャンがキリストと呼んでるイエスという人物は、キリスト教徒以外の人からも意外と評価されてるんです

レザー・アスラン
(写真:ラリー・D・ムーア提供)
あまり熱心でないムスリムと威勢のいい無神論者の入り混じる過程で育ち、15歳のとき初めてイエス・キリストのことを知り、キリスト教徒になったが、その後イスラム教に改宗。「私は間違いなくイスラム教徒であり、スーフィズムはイスラム教の中で私が最も忠実に守っている伝統です。」「それはイスラム教は正しく、キリスト教は正しくないと思います。すべての宗教は、個人が信仰を説明するのを助けるシンボルと隠喩からなる言語にすぎません。」(Wikipedia)
キリスト教の起源について二十年にわたる厳密な学問的研究の結果、私は今、かつて「イエス・キリスト」に対してそうであったよりもずっと純粋に、心から「ナザレのイエス」の信奉者になっていると自信をもって言うことができる。かくも多くの懐疑主義者が、その物語の価値によって、真実のものとして受け入れた物語もほかにありません。
(引用:引用:レザー・アスラン著/白須英子訳/文春文庫「イエス・キリストは実在したか?」」17
なぜなら、歴史上の人物としてのイエスの包括的な研究で、できれば明らかにしたいのは、「ナザレのイエス」――「人間」としてのイエスで、それは「救世主(キリスト)」イエスに負けず劣らずカリスマ的で、人を動かさずにはいられない魅力に溢れる、賞讃に値する人だからだ。ひとことで言えば、彼は信じるに値する人物だ。
(引用:レザー・アスラン著/白須英子訳/文春文庫「イエス・キリストは実在したか?」pp.330~331

チャールズ・テンプルトン
ビリー・グラハム(アメリカの有名な伝道師)のパートナーだったが、のちに不可知論者に転向した男性。次に紹介するのは、ジャーナリスト:リー・ストロベルのテンプルトンへのインタビュー。神に対して懐疑的な言葉をひとしきり語ったあとのテンプルトンの言葉。
「イエスは、歴史上最も素晴らしい人間だっただろう。道徳観は天才の域に達していたし、独特の倫理観も持っていた。私がこれまで直接会ったり、本で読んだりした人物の中で、本質的に一番頭のいい人だと思う。自分に課せられた使命を全うしたイエスの死は、この世界にとって大きな損失だった。イエスについて言えるのは、とにかくすごい人物だったということだ」
(中略)
突然、テンプルトンの思考が止まったのがわかった。この先話を続けるべきかどうか悩んでいるような、短い間。そしてゆっくりと、
「あの……。イエスは一番……」と言って黙り、それから「私にとって、イエスはこの世界の中で一番大切な存在なんだ」と宣言した。
そして、私が絶対に想像できなかった言葉がこぼれた。
「もし、こういう言い方ができればだが……」テンプルトンの声が震える。「私は……あ、イエスのことが……、恋しい」
テンプルトンの目から涙が溢れた。顔をそむけ、下を向き、左手の顔の前にかざして泣き顔を見られないようにしていた。肩が震えている。
(一体何なんだ。何が起きているんだ……)
(引用:リー・ストロベル著/峯岸麻子訳「それでも神は実在するのか?―「信仰」を調べたジャーナリストの記録」pp.26~28)
…と、いうように、「イエス」という人間はキリスト教信者でなくてもなにかの魅力を持っている人間なのです。
イエスがどんな人物であったか、もはや正確なところはわからない。しかし、それにもかかわらず、約二千年ものあいだ、一生を賭けて彼の言葉を伝えようとする人が、毎年、かなりの数、世界中で、生まれ続けているのである。これは素直に、驚くべき現実ではなかろうか。現代のいわゆる「組長」たちも、そこまでの影響力はあるまい。
(引用:WEBちくま キリスト教の戦慄すべき現実
架神恭介『仁義なきキリスト教史』解説より 石川界人)
(ろ)聖書は信者のラノベ。偏ってて信頼できない

聖書はラノベじゃなくてアンソロジーです!

イヤイヤ、そういう事を言ってるんじゃないと思いますよ…(※)
そうですね、「聖書はイエスの取り巻きが書いたファンブック」と考えている方は少なくない印象ですが、そうとも言えない成り立ちをしていることも知っておいていただけると嬉しいです
(※)…「聖書はラノベというよりアンソロジー」というのは、聖書が複数の作者から成っている・長期間にわたって書かれている、という面を顧みての表現です。聖書は約40名のさまざまな立場の人によって約1600年にわたって書かれたけれども不思議な調和性がある書物です。
「聖書」は信者が都合のいいところだけよりすぐったと思われている方もいらっしゃるかもしれませんが、数々の迫害や審議を経ながら歴史的検証に耐えてきた書物なのです。
また、イエスを預言されたキリストだと考える人間からしてみれば、紀元前の記述はイエスの弟子たちにはいじりようがありません。
▼こちらにも詳しく


もっとくわしく知りたい方はそういった方面の研究をさぐっていけばよろしいかと思いますが、ココで深堀りしていくと、「炭治郎や煉獄さんのようになるには」という本論からはずれてしまうので、本題に戻ります。
(は)洗脳されるのでは?

じつは洗脳されるにも才能が必要でして…
当コラム監修牧師は、キリスト教を信じる前に統一教会(現:世界平和統一家庭連合)に集っていたという歴史を持つのですが、彼曰く
「人間ってべつにそんなにカンタンに洗脳されない」
「聖書読むだけで洗脳されるとかは、ない」
だそうで、洗脳というのはもっと別の技術と受け手の要素が必要なもののようです。ご自身の特性にあわせてお考え下さい。
(に)宗教なんてないほうが世界平和になる

…私の中の冨岡義勇さんが荒ぶってしまい申し訳ありません。このまま義勇さんの科白をお借りするなら
笑止千万
と言えるかもしれません。申し訳ありませんが、こういった意見は
「あなたが、あなたの物語を生きるためにほんとうに必要なことでしょうか?」
ということを確認してから進めなくてはならないこと、だと私は考えます。
その真偽を確かめることは、とても壮大でいばらの道です。
こういった反論は一神教のみならず諸宗教に向けてよく発せられているものではありますが、そうそうカンタンに片づけられる問題でないからこそ、宗教というものが語り継がれて今日に至っているというの現実があります。
勿論、それを研究する道もあります。そこに使命感を感じるならば、その道に進むことを止めません。
ただ、進む前にうかがいたいのは
「その選択は、あなたの生殺与奪の権を他人に握らせていませんか」
ということ、です。
その物語の評判を人づてに聞いてたけど、
いざ読んでみたら印象がちがった…
ということは珍しくありません。私自身、「鬼滅の刃」がそうでした。イエスはどんな音がする人間なのかあなた自身が確かめてみること。どんな判断を下したとしても、それは、けっしてムダな時間とはならないと私は思います。
あなたの人生がよりよいものとなることを、
できるならば、「キリスト教」とされるものが
そのお役に立ちますことを願いつつ。






キリスト教の精髄 (C.S.ルイス宗教著作集4)

イエス・キリストは実在したのか? (文春文庫)

それでも神は実在するのか?―「信仰」を調べたジャーナリストの記録 (Big Box, Little Box)
▼いつかみ聖書解説~石本伝道師編~